『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(マルコ12・31)
これは『あなた自身』を隣人に押し売りするのではない。自己のいいと思うことを隣人に強いるのではない。如何なる親切も好意も押し売りしてはいけない。他人の心に踏み込むのは失礼である。精神的家宅侵入罪を犯しては誰にも喜ばれない。
これは心の持ち方を言うのである。自分と隣人を同じように見ようと言うのである。隣人の立場に立ち、隣人の心になって考えようと言うのである。パウロのいわゆる『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣く』心である。
隣人も自分と同じく、然り全く同じく神の前に立つ者であることを、全く同じく神に愛されていることを、記憶することが大切であろう。自分を中心にしてその角度から隣人を計ることをやめて、自分が隣人の角度に立って、そこから人を見ようと言うのである。
祈祷
神様、私はどうも自分中心の立場から人を見てなりません。自分に対して快く感ずる人だけが善人であるように見えて困ります。どうか隣人の立場に立ち、隣人自身の心になって見るだけの愛と同情とを与えて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著295頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、以下は、昨日に引き続き、ロイドジョンズの『山上の説教』下巻19 黄金律 からの引用で、引用文の最終頁の部分である。〈同書332頁から335頁まで〉
こうして私たちは神から出発するようになる。いっさいのけんか、争論、問題から目を転じて、神の御顔を拝する。ご自身の安全な神聖さと全能の中にいる神、創造者としてのご自身のすべての力の中にいる神を見始める。こうして私たちは御前に自らへりくだる。神こそ、そして神のみが、ほめたたえられるのにふさわしい方である。神の目には諸国家もいなごのようであり〈イザヤ40・22〉「はかりの上のごみ」〈イザヤ40・15〉のようである。このことを知るとすぐ私たちは、どんなはなやかさも栄誉も、真に神を見る者にとっては無になってしまうことを悟り始める。そればかりではない。私たちは自分自身を罪人として見始める。自分がかつて権利をもったことを全く忘れさせられるほどに、自分を邪悪な罪人として見る。神の御前には全く権利をもたないことを確かに知る。私たちはみじめで、汚れ、醜い。これは、単に聖書の教えであるばかりではない。このことは、少しでも真の意味で神を知るに至ったすべての人々の経験によって、十分に確証されている。これは、すべての聖徒の経験である。もしあなたが自分自身を無価値な被造物として見ていないのであれば、あなたがキリスト者であるかどうかはきわめて疑わしいのである。神の御前に来て、「私はけがれている」と叫ばずにいることのできる者はだれもいない。私たちすべてはけがれている。神を知ることは私たちをちりにヘリくだらせる。そしてそこに立つとき、あなたは自分の権利、自分の威儀のことを少しも思わない。もはや自分自身を守る必要はなくなる。なぜなら、自分は何ものにも値しない者だと思うからである。
さらにまた、神から出発することは、私たちが他の人を当然見るべきように正しく見る助けとなる。いまや私たちは人々を、私たちの権利を盗もうとし、金銭、地位、名声などを競い合って私たちを負かそうとねらっている憎いものとしては見ない。私たちは彼らを、自分自身を見るような見方で、すなわち罪と悪魔の犠牲者として、「この世の神」〈2コリント4・4〉にだまされやすい人として、神の怒りのもとにあり、よみに縛られた仲間として見る。全く新しい見方で彼らを見る。私たちは彼らを自分を見ると全く同じ見方で見るのである。私たちはともにひどい状態にある。そして私たちは、自分では何もできないのであり、こうしてともども、キリストのみもとに走り寄って、そのすばらしい恵みにあずからなければならないのである。私たちはともどもにその恵みを喜び始める。そして、それを互いに分かち合いたいと思う。このようにして黄金律は力を発揮する。私たちがどんなことでも、人々からしてほしいと望むことを人々にもすることができるのは、ただこのようにしてのみである。自己というものの束縛から解放されたことによって、自分を愛するのと同じように真に隣人を愛するようになるとき、私たちは「神の子どもたちの栄光の自由」〈ローマ8・21〉を楽しみ始めるのである。
最後に、黄金律はもちろん次のようにも働く。私たちが神を見つめて、神ご自身についての幾分かの真理と、神との交わりに入れていただいた自分自身とを自覚するに至るとき、一つの事実に気づかずにはいられない。というのは、神は決して私たちを私たちの価値にしたがって取り扱わないという事実である。そういうことは神の方法ではない。主イエスは前の数節でそのことを語っている。「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」これが、その論証である。神は私たちの価値に応じたものをくださるんではない。神は私たちがこのような者であるにもかかわらず、ご自身のよいものを下さるのである。神は単に私たちのありのままの姿をご覧になるだけではない。もしそうだったら、私たちすべては罪を宣告されるだけである。もし神が単に私たちのありのままの姿をご覧になるだけなら、私たちはひとり残らず永久に徹底的に罪とされるばかりであろう。しかし神は、こうした私たちの外観にもかかわらず、私たちに関心をもっていて下さる。神は私たちを愛に満ちた父の目で見て下さる。神は私たちを恵みとあわれみをもって見て下さる。それゆえ神は、私たちを単にありのままの姿に応じて取り扱うのではない。恵みによって取り扱って下さるのである。
主がこの12節の論証を今までしまっておいて、今ここで初めて、あのすばらしい祈りの教えのあとで口にしたのは、このためである。これが、私たちを取り扱う神の方法である。主は要するにこう語る。「だから、あなたも仲間に対して同様にせよ。単にいやな人、気むずかしい人、ひどい人としてのみ見てはならない。それらすべての背後にあるものを見よ」。そこで、人間を見るのに、彼らと神との関係において、永遠の存在という面から見ようではないか。このような新しい見方で、神と同じ見方で人を見ることを学ぼうではないか。要するにキリストは、「わたしがあなたを見た見方で人を見よ。そして、わたしを天からあなたのもとに来させ、あなたのためにいのちを与えるに至らせた、あのものの光に照らして見よ」と言う。そのような見方で人を見よう。そのようにした瞬間、黄金律の実行は困難ではないことに気づくであろう。なぜなら、そのときすでに、あなたは自己中心とそのすさまじい暴圧から解放され、人々を新しい目、違った見方で見ているからである。あなたはパウロとともにこう言うことができる。「私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません」〈2コリント5・16〉。すべての人を霊的な見方で見る。神の御顔を拝することから出発して、やがて罪、自己、他者へと至る。こうしてここまで到達したときにのみ、私たちは律法と預言者の要約であるこの驚くべき聖句を現実に実行できるようになる。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」。私たちはキリスト・イエスにあって、この黄金律へと召し出されている。私たちは当然これを実行し、実践すべきである。そしてこれを実行するとき、私たちはこの世に対して、その諸問題の唯一の解決の道を提示しているのである。同様に、私たちはキリストのための宣教師となり、使者となっているのである。
※以上がロイドジョンズの『山上の説教』の中の19「黄金律」と題する論考である。ほぼ50年前、この書に基づく講解説教を出席していた教会で私とそんなに年端も違わない兄とも称すべき敬愛する牧師から聞いた。今回、様々なことを回想しながら〈井戸垣氏を教会に招き、「信教の自由」についてのお話などの講義をしていただいたことなど〉この井戸垣氏による邦訳をせっせと転記した。そして、後年その井戸垣氏が大変な苦闘の中で訳業を完成されたことを知るに至った。しかも彼の愛用した聖書を私は不思議な導きで今手にしている。ちなみに、彼のこの聖書には7・11の最後の部分「求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」に赤線が引かれ、8節の欄外にはギリシヤ語が几帳面な字でやはり朱書されている。あだやこの『山上の説教』をいい加減に読むまいと決心している今日この頃である。)
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