次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(マルコ12・31)
神を愛するの愛は絶対の愛でなければならない。絶対服従の精神をもって、すべてを献げる心をもって、もし自己と神との間に矛盾を見出したならば、いつでも自己を捨てる心をもって神を愛さなければならない。神を愛する心は自分を神の祭壇の上に燔祭として献げ、これを焼き尽くす心となって現れなければならない。
しかし、隣人を愛するの愛はこれと違う。『自身のように』これを愛するのである。隣人には過失もあり、考え違いもある。これに絶対服従することは、神に反対するようになる場合も生ずる。盲目的な恋愛に欺かれた人が度々この誤謬に陥る。而して一切を献げて一人を愛することは最も神聖なことだと誤信する。これは非常な危険なことである。
隣人を愛するのは『自身のように』の程度でよい。それすら実行がむづかしいが、理想とする所が『自身のように』であるべきものであると言うのです。私と彼は神の前に並立する。神は同じように私と彼とを愛している。だから、私も私自身と彼とを同じように愛する。
祈祷
神よ、あなたは彼を愛し、また私を愛されます。あなたが私の敵を愛されるのは、あなたが私を愛されるのと同じです。私も私の敵も等しくあなたの子であるからです。願わくは、あなたの心をもって自分を見、また隣人を見ることができるようにして下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著293頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、以下は、昨日に引き続き、ロイドジョンズの『山上の説教』下巻19 黄金律 からの引用である。〈同書324頁から327頁まで〉
イエス・キリストの福音は、たった今私たちが発表したばかりのその事実を基礎として、そこから始まる。すなわち、単に人々に正しい道を告げるだけでは不十分だという事実である。問題はそこにあるのではない。もっと深いところにある。主がそのことを表現している跡をたどっていこう。黄金律についての主の注釈をみよう。「これが律法であり預言者である」と主は言う。言い替えると、これが律法と預言者の要約である。これが、その全目的であり意図である。主はこのことによって何を言おうとしているのか。主はこの山上の説教において、神の律法がどんなに悲劇的に誤解されているかということに、何回も私たちの注意を喚起しようとしているが、ここもその一例なのである。おそらく主は、依然として律法の教師、民の指導者であるパリサイ人、律法学者らに目を留めている。5章で主が、「昔の人々に・・・と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います」と言いうる多くの実際例を引きつつ詳しく語って下さったことを覚えておられるだろう。そこでの主のおもな関心事は、人々に正しい律法観を与えることであった。主はここで、もう一度そのことに戻っている。私たちの問題の半分は、私たちが神の律法の意味、その真の性格、意図を理解していないという事実からきている。私たちは律法を、当然守るべき数々の規則であり規定集にほかならないと考えがちである。いつでもその精神を忘れる。律法を、機械的に守るべきもの、ばらばらで非人格的なものと考え、機械からはじき出された一連の規定であるかのように強く思っている。機械を買う。そこから規則や規定が出てくる。それを実行すればそれでいいというわけである。私たちには、いのちにかかわる神の律法を、何かそういったものとして考える傾向が多分にある。言い替えると、律法をそれ自体で存在意義をもったものと思い、こうして、私たちの義務はそれらの規定を守ることだけだと考えて、それらを守ってはずれず、行きすぎず、また足りないことがなければ、いっさいそれでいいとしてしまう危険性が絶えずある。だが、こうした考え方はことごとく全面的に誤った律法観である。
さらにもう一歩進んで、次のように言うことが許されよう。すなわち、私たちには、律法を否定的なもの、禁止的なものと考える危険性がある。もちろん律法には否定的な面がある。だが、ここで主が強調しているのはーー5章で詳細に語られたようにーー次の事実である。すなわち、神が天使とモーセを仲介としてイスラエルの子らに与えられた律法は、きわめて積極的で霊的なものである。それは本来、決して機械的なものとして与えられたのではなかった。パリサイ人や律法学者とその追随者の全面的な誤謬は、本来霊的でいのちのあるものを機械的なものの領域に、それ自体を目的としたものに変形させてしまったところにある。現実にだれかを殺していなければ、殺人に関する律法を守っているし、肉体的に姦淫していなければ道徳面でもだいじょうぶだと彼らは思った。彼らは律法の霊的意図と性格とを、とりわけ律法が与えられた大目的や大目標を、全く見そこなうという誤りを犯していた。
ここで主は、それらのことの全部を、この完璧な要約の中に表明している。なぜ律法は、隣人の財産、所有物、妻、その他何ものをもむさぼってはならないと命じるのか。なぜ律法は、「あなたは殺してはならない」、「あなたは盗んではならない」、「あなたは姦淫してはならない」と命じるのか。これらの戒めが言おうとしていることはなんであろうか。単にあなたや私がこれらを規則や規定として、あるいは、私たちを支配し、統制し、私たちの行動にわくを設定する国会制定法の中の小項目として支持するようにという意図であろうか。決してそういうことが目的なのではない。これらのすべての戒めの背後にある真の目的、真の精神は、私たちが自分自身のように隣人を愛すること、私たちが互いに愛し合うことなのである。
しかし、私たちのような被造物にとっては、単に互いに愛するようにと言われただけでは不十分である。かみ砕いてもらわなければならない。堕落の結果、私たちは罪深い者である。だから、単に「互いに愛せよ」と言われただけでは不十分である。そこで主は、かみ砕いて次のように言う。すなわち、あなたが自分の生命を重んじるように、人もまた自分の生命を重んじることを忘れてはならない。そこで、もしあなたがその人に対して正しい態度をとっているなら、その人を殺すことはない。なぜなら、あなたがそうであるように、その人も自分の生命を重んじていることをあなたは知っているからである。結局いちばんたいせつなのは、その人を愛することであり、その人を理解し、自分の幸福を求めるように隣人の幸福を求めることである。これが律法であり預言者である。すべてはここに帰着する。旧約の律法にある詳細な規定すべてーーたとえば、隣人の牛が迷っているのを見つけたときに持ち主のもとに連れていく仕方、また、彼の畑でまずいことが起こりそうだと気づいたとき、すぐ彼に知らせ、できるかぎり手伝うこと、などについて言われていることーーは、単に次のように言わせるための規定ではない。「律法は、隣人の牛が迷っているのを見たらそれを返せと言っている。だから、そうしなければならない」。それは全然違う。むしろあなたが次のように自分自身に語りかけることを期待している。「この人も私と同じだ。牛を失うようなことになれば悲しいし、大きな損となる。そうだ。この人も私と同じ人間なのだ。私だったら、だれかが私の牛を返してくれたらどんなにうれしいだろうか。それなら彼にもそうしてあげよう」。つまり、あなたは隣人のことを心にかけるべきである。彼を愛し、彼を助けることを願い、彼の幸福を心にかけるべきである。律法の目的は、私たちをここに導くことにある。そして、こうした細かい規定は、その中心的大原則の具体的な例示にほかならない。それが律法の精神であり目的であるという自覚を失ったら、その瞬間から私たちは絶望的に迷い出てしまったことになる。
このように、これが主ご自身の律法解釈である。これは、主イエスの時代に非常にたいせつであった。また、今でも非常にたいせつである。私たちは律法の精神を、神がこのように生きよと言って与えて下さった精神を、絶えず忘れるのである。
ここで、このことを現代世界に、また私たち自身に当てはめて考えてみなければならない。人々はこの黄金律を耳にすると、驚くべきすばらしい教えだと言い、また、一つの重要で複雑な主題を完璧に要約しているとして賞賛する。だが悲劇的にも、彼らはこれを賞賛はしても実行はしない。ところが、結局律法は、本来賞賛するためにではなく、実践するために与えられたのである。主イエスが山上の説教を語ったのは、あなたや私がこれについて注釈するためではなく、これを実行するためであった。主が、これらの言葉を聞いて行なう者は岩の上に家を建てる者のようであり、「聞いてそれを行わない者」は砂の上に家を建てる者のようであると語っているのを読むとき〈7・24〜27〉、そのことが強く心に刻まれる。現代世界がまさにそれである。つまり、こうしたキリストのすばらしい言葉に感心するが、それを実践に移そうとはしない。ここから次の重大な質問が起こってくる。なぜ人々はこの黄金律を捨てるのか。なぜこれを守らないのか。なぜこれに従って生活しないのか。なぜごたごたや争いが国家間だけでなく、国内の諸階層間にもあるのか。家庭内にさえ、いや、わずかふたりの間にさえあるのか。いったいなぜ、争い、けんか、不幸などがあるのか。なぜふたりの人が互いに口もきかず、顔を合わせるのも避けるといったことを耳にするのか。なぜねたみや陰口、その他人生の真相として知られている数々のことがあるのか。続く)
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