2022年10月19日水曜日

隣人愛(起)

次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(マルコ12・31)

 然り、これは第二である。第二は第二であって第一ではない。腹の減った者に宗教を説いても聞こえない、先ずパンを与えよと説く人もある。宗教は社会運動として進出しなければ時勢に遅れると考える人もある。そうかも知れない。しかし神を愛することから生じない社会運動や社会事業は根のない草である。

 神の姿の一点か一画でもよいから、これを愛する心が無いときに、隣人に対する愛の行動は純情ではあり得ない。必ず何処かに報酬を求める。それは単なる優越感の満足に止まるかも知れないが、ただそれに止まらず、多くの場合はそれ以上に不純である。隣人からの感謝を、傍人からの称賛を期待する。

 だから行動としては先づパンを与えるにしても、心の持ち方は先づ神を愛するところから始めねばならない。

祈祷
神よ、第一のものを第一とし、第二のものを第二とする思慮と分別とを私にお与えください。而して純にして清く、全く自己を忘れた愛を先づああなたに献げ、次に己のように隣人に献げることを学ばせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著292頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。ロイドジョンズの名著『山上の説教』下巻に19 黄金律 と言う記述がある。同書320頁から335頁までの部分を四日間に分けて以下引用したい。

 マタイ7・12の重要な聖句「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」は、普通、「人生と人の生き方の黄金律」と呼ばれている。これを学ぼうとするにあたり、まず注意を払わなければならないことがある。それは、構成の問題と呼べるもの、つまり、この聖句と山上の説教の他の部分との関連性についてである。この12節の冒頭で「それで」という言葉に出会う。なぜ「それで」なのか。明らかにこれは、この節が孤立した聖句ではなく、前の部分と明確な関連性があることを物語っている。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」。言い替えると、主イエスは、ここでもやはり人をさばくという主題を取り扱っているのである。ここでもまだ、その主題は終わっていない。もし7・11節を挿入句と見るなら、次のことを注意深く心に留めなければならない。つまり、それがそこに挿入されたのは、このさばきの問題のゆえに、私たちに天の父の恵みの供給が必要であることを思い起こさせるためである。このようにして主は、祝福を受ける道、互いに助け合えるようになる道、こうしてキリスト者生活を十分に実践できるようになる道を明示したのである。そしてそののちもう一度、もとの主題に戻って、「それで」と言う。「それで」、このさばきという事柄において、人間関係という問題全体において、このことを規則とせよと言っているのである。私たちは依然として、人をさばくという包括的主題を前にしている。それゆえ、この7章には明確な内的統一性があるという私たちの主張が正当となる。さらにこのことから、7・11節の祈りに関する教えについてさきにとった見方が正当化される。このように12節は、孤立した教えではなく、このさばきの問題に関して、私たちを正しい立場に導く意図をもってなされた一連の重要な論証の一部なのである。

 だが、次のように言う人があるかもしれない。「もしあなたの言うように、この節が人をさばくという主題の継続であるなら、なぜ主はこの節を6節の直後に置かなかったのか。なぜ主は祈りやその他の主題をもち出したのか。なぜむしろこう言わなかったのか。『聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい』」。

 これに対する答えは、この場合もそう困難ではない。さばきの問題全体の要約であるこの12節の聖句は、祈りに関する7・11節の簡潔な教えの光に照らして見ると、より強烈な力をもって迫ってくる。私たちは、7・11節の主の言葉によって、私たちの罪にもかかわらず神が私たちに何をしてくださったかを、また、神が私たちにどういう態度をとり、私たちをどう扱って下さっているかを思い起こさせられる。そして、そのときはじめて、この12節の勧告のすばらしい論証が、真にぴったりとくるのである。この点については、この勧告の言葉自体を詳しく学ぶ際にもう少し考えてみたい。

 したがって、私たちはここで、人をさばくという問題、私たちの人々との関係という問題全体に関する主の最後の金言を前にしているわけである。「黄金律」という呼び方が、意味をよく表わしている。これは、なんと特異な注目すべき聖句であろう。主は聖書の要所要所で、神の数々の戒めを、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」〈マタイ19・19、22・39、ローマ13・9、ガラテヤ5・14、ヤコブ2・8〉という言い方で要約しているが、この黄金律も当然、それらの神の数々の戒めの摘要なのである。もし人に対してどういう態度をとるべきか、どういう行動をとればいいかについて、少しでも困っているなら、あなたはこうすべきである。それが、主が実際にここで言っていることである。相手から始めてはならない。自分に次のように問いかけることから始めるべきである。「私は何をしてほしいか。どうされたら私はうれしいか。どうされたら助かり、励まされるか」。次にこう尋ねよう。「私は何をしてほしくないか。どうされたら私は困るか。最悪の事態になるか。どうされたら私はいやでがっかりするか」。よしあし両方の一覧表を作ってみよう。それに自分の生活や行動の全面にわたってーー行ないの面だけでなく、思いや会話の面でもーー詳しく記入して仕上げよう。「自分のことをどう思ってもらいたいか。自分は何によって傷つけられることが多いか」。

 主は率直に細かいところまで触れている。そこで私たちも、このような事柄について細かく取り組むことがどうしても必要になる。こういう聖句を読んだり、その説明を聞いたり、その説明を本で読んだり、これを描いたりっぱな絵を見て、「そう、りっぱだ、すばらしい」と言うことがどんなに容易か、だれでも知っている。しかし、実際の生活や生き方にそれを実行する段になると、全くできない。道徳と倫理の比類ない教師である主は、そのことを知っている。そこで、私たちがまず、しなければならないのは、こうした事柄に関する規則を、自分で自分のために設定することであると教えているのである。その規則の設定の仕方は次のとおりである。まず、自分が好むことと好まないこととの一覧表を作成する。次に、人に接するとき、自分に向かって単純に、「この人もこうしたことにおいては私と全く同じなのだ」と言いさえすればよい。常に自分を相手の立場においてみなければならない。相手に対する自分の行動や態度を決める際には、すでに自分自身がわかっている好き、きらいに注意を払って行動するように努めなければならない。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」。主は、このようにしさえすれば誤ることはありえないと言う。あなたは自分のことを不親切に言いふらしてもらいたくないか。それなら、人についてもそうしてはならない。あなたは、気むずかしい人、ついこちらまで気むずかしくさせられてしまうような人、やっかいをかける人、絶えず不愉快にさせられるような人がきらいか。それなら、全く同様に、あなたの態度も相手に対してそのようにならないようにしよう。主によれば、ことはこんなにも単純なのである。倫理、社会的関係、道徳、その他現代社会における人間関係の諸問題にかかわるいっさいの主題を取り扱ったすべてのりっぱな教科書は、実際、この一語に要約できるのである。

 これこそ今日、切迫した重要性をもった問題である。20世紀の重要問題は、結局、さまざまな関係の問題であることに、すべての思想家の意見は一致している。私たちは愚かにもしばしば、国際間やその他の諸問題が経済的、社会的、政治的問題であると思い違いしやすい。しかし現実に、それらのすべては、底を探ればこのこと、つまり人間関係の問題に到達するのである。それは金銭ではない。金銭が関与することもある。しかし、金銭はそこで使われる計算道具の一種にすぎない。そうではない。私自身は何をしてほしいかの問題なのである。人生のあらゆる不和、騒ぎ、不幸も結局はここからきている。こうして主は、この精密で簡潔な言葉の中に、その問題に関するすべての真理を表明している。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」。これは、さばきの主題に関する最終の結論である。もし私たちが対人関係においてこのような接し方をしさえすれば、自分から出発してそれを相手に当てはめさえすれば、すべての問題は解決するのだが。

 残念ながら、この聖句の学びをここで終えることはできない。これから見るように、これだけ言えば十分だと思っているらしい人々もある。さらにある人々は〈こういう考え方がありうること自体が驚きだが、現にある〉、人々の目の前に基準を掲げさえすればそれで良い、人々はそれを見て、「これは完全に正しい。さあ、これを実行し始めよう」と言うと思い込んでいる。だが現代世界は、そうではないことを明白に証明しつつある。そこで私たちは、この学びをもっと先まで続けなければならない。 続く) 

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