聖書も神の力も知らないではありませんか。(マルコ12・24)
偶然にもこのところで、イエスの旧約聖書に対する態度がハッキリと言明されていることは嬉しい。『聖書も神の力も』と言って聖書の中に神の能力が宿っていることを暗示せられた点もまた嬉しいではないか。
旧約聖書は私どもの心には新約聖書ほどには響かない。それですらイエスはその中に神の権威を見出し給うた。聖書の中に神の能力を見出す者にして始めて大自然の中にも大能の神を見出し得る。聖書信者であるイエスは、また神の大能信者であり給うた。
神の大能信者であったイエスは克く神の大能をご自身の生活の中に織り込まれた。見よ『聖書も神の力も知らないではありませんか』サドカイ人の無能力であることを。而して『聖書も神の力も』克く知ってこれを体得したイエスの偉大さを見るがいい。
祈祷
主よ、聖書をも神の力をも知らない私たちを憐んで下さい。如何に私たちの世界は狭くまた小さいことでしょうか。自然界の力と人間の力との外は何をも知らない私たちは如何に矮小なる者でしょうか。願わくは、私たちの眼界を大きくし、私たちの視野を広げ、聖書をも神の力をも知り、これを用いる者とさせて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著282頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌61https://www.youtube.com/watch?v=mv78JCjUef4
以下は、David Smithの『The Days of His Flesh』〈原書406頁、邦訳784〜786頁〉より引用
15 サドカイ人の誤り
彼らの懐疑の根源は無知であって、彼らの無知には二つの方面があった。すなわち彼らは来世の生活に暗いのである。彼らの最大の誤謬は現世の条件を来世に輸入して『神の力によるにあらずんば』※この世においては悟り得ざる所を推論する点である。彼らにして神の力を知らば、来世の存在をみだりに否定するを慎むはずである。『斯くあり〈このようである〉』とは『斯くあるべし〈このようであろう〉』と言うのと甚だしき相違を生ずる。『人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。』とイエスは仰せられた。
イエスは来世の生活が現在よりも貧弱なりと仰せられず、またこの世においてその心のうちに斯くも喜びを感ずる関係が、彼処において消滅すると仰せられたのではないことはもちろんである。この世における関係は存在するけれども、さらに他の名目を命ずる必要のあるほど変化し、また高尚となるであろう。古い状態ですら『キリストイエスのうちに新たに造られたる』人となるときは、新たな名を生ずるのである。況んや万物ことごとく新たにせられる所では、皆ことごとく新たな名を生ずべきはずである。よみがえった生活には婚姻はない〈黙示2・17〉。
婚姻はないけれども、他の名の必要な一層高尚な量るべからざる何事かがあるであろう。イエスのここに教えられるところは神の力に全く信頼して、その判断を潔く慎み、この来たるべき生活は如何にあれ、言うべからざるこの世の生活に比して一層充実、豊富、壮麗の生活であって、『神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの』〈1コリント2・9〉との確信を与えられるにあった。
※直接これに言及する聖句は思い及ばなかったが、詩篇68・34などを紐解かれればいいのではないか。)
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