「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
イエスは根本的に二人の主を認めたわけでは決して無い。私たちこの世に生きている間には万物の主である神の下に、小さいカイザルが主としてたくさんに存在していることを認めてくださったのである。
例えば会社に勤めている人にとってはその会社がその人のカイザルである。会社の方針が神の栄光を目的としないかも知れぬ。あるいはネロ帝のようなカイザルであって、そのやり方が面白くないかも知れぬ。けれども自分が会社の重役でなく、その根本方針を左右することの出来ない一個の使用人であるならば、カイザルの物はカイザルに納めて居ればよい、而して自分自身の範囲にあるものは神に納めればよいのである。
クリスチャンの青年が社会に出て困却する時に、あるいは妻たる者が未信者なる夫に対して当惑する時に、よく服膺(ふくよう)すべき実際的御教訓であると思う。
祈祷
主イエス様、あなたはこの世が如何なるかをご存知です。この世は未だ天国にあらざることをご存知です。願わくは不完全なこの世にあって一歩ずつあなたに近づくことを学び、忍耐と忍従とをもっておもむろに御国を建設することを得させ給え。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著276頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。青木さんの祈祷の文章を読むと、天の御国に関して私の思いと若干異なるところがあるが、青木さんのマルコの福音書霊解全体を通して、考え続けて行きたい。今は疑問を提起するにとどめて短兵急な結論を出すことは差し控える。)
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