彼らはイエスに驚嘆した。(マルコ12・17)
『驚嘆した』とはイエスの知恵に感じたのである。頭の良さに驚いたのである。しかしそれが何になるであろう。彼らはイエスに驚いたり感心したりしたけれどもイエスを殺さんとする素志を投げ捨てなかった。
イエスに感心することが必ずしも人を救わない。彼らは根本問題においてイエスを見誤っていたから、どうしても彼を殺さずにはいられぬところに達してしまった。私は思う、イエスを神として受け入れない人は、結局イエスを殺さずには置かない人であると。何となればイエスの自己主張は余りに強い。イエスは自己の教えを受け入れしむるに満足しないで、自己を受け入れしめんとなし給う。『わたしよりも父母を愛する者はわたしにふさわしくない』などと平気で公言している。
かような人間は神として信じない以上は危険千万な人間である。だから近代人のようにどれほどイエスの人物や教訓に尊敬を払っても、その人格や頭脳を『驚嘆しても』これを神として信じないならば、その奇蹟的人格を信じないならば、遂には彼を殺す者の群れに入らなければならない。
祈祷
主イエス様、願わくは私たちに堅くあなたを信じさせて下さい。あなたが神の子として私たちの救い主であることを信じさせて下さい。而して、あなたを人とし偉人としあなたの教訓のみを信じようとするこの世の欺きより、私たちをお救い下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著279頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌529https://www.youtube.com/watch?v=XHmO0ZGJ7gI
クレッツマンはマルコ12・1〜17をまとめて「不義とよこしまは真理の前に立つことができない」と題しているが、その序論・総論にあたる部分で次のように述べている。
伝道生活の最後となったあの火曜日、イエスは宮へお入りになった時、ユダヤ人が自分を滅ぼそうと考えているのをすっかりご存知だった。彼らには、今やらなければ二度と機会がなかったのである。
しかしイエスは何ものも恐れなかった。その週の終わらぬ中に、彼らが自分を殺そうとしているのを知っておられたが、それは主の権威が踏みにじられようとしているという訳ではなかったし、また真理がおしとどめられる訳でもなかったのだ。彼らは思い通りにことを運ぶだろう。しかし、それは彼らにどんな満足も勝利ももたらすものではないのだ。よくよく熟慮された計画も、ずる賢く仕組まれたわなも、ことごとく主の御知恵の前では無に帰してしまう。しかし主は真理の前にひざまずく者には、だれにでも必ず助けの御手を差し伸べて下さった。〈『聖書の黙想』185頁より引用〉)
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