2022年10月10日月曜日

復活後は天の御使いたちのよう!(上)

人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。(マルコ12・25)

 何というハッキリした言い方であろう。この一語には実に千斤の重みがあるではないか。何とも言えぬ権威がある。目撃者の証言と言ったような感じがする。人間の揣摩憶測(しまおくそく:当て推量)を全く超越している。実に『わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししている』(ヨハネ3・11)の響きがある。

 霊界の人が霊界の実験談をしておられる。かかる意識の前に出ると私たちは霊界の何事をも知らないことを感じさせられる。天使の存在などは現代人には問題でないほどに消滅しているではないか。然るにイエスは彼らを見て来た人の如く語られる。天使は存在すると言われたよりも、はるかにハッキリした言い方ではないか。彼らの娶らず嫁がぬ生活状態までも知っておられる。

祈祷
ああ主イエスよ、世はみなあなたを嘲笑うとも私はあなたを信じております。世はみな天使と霊の世界とを抹殺しても私はこれを信じて疑わず、私もまたこの世を去って彼らのようにならんことを信じ、その日を望んで躍進しようとしております。主よ、願わくは私の霊魂を受け取り、天にある御使いの一人のようにして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著283頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌78https://www.youtube.com/watch?v=G0IsVbz--ls 

クレッツマン『聖書の黙想』〈194頁〉より

 民衆の支配者の大部分は、祭司でさえもサドカイ人で、それはちょうど教会の首席代表であるかのように振る舞いたがる、今日の「現代主義者」のような人々であった。彼らは神の御言葉による教えの根本を否定し、復活も、後の世の生命も、御使いや聖霊も信じなかった。モーセの五書を除いた旧約聖書全体を拒否し、しかも、その五書の中に、ただ外面道徳の一体系しか見出せなかったのである。彼らは明らかに、この若いラビ、イエスを、群衆の面前で笑い物にすることはたやすいことだと考えていた。

 そこで、彼らは主にモーセの律法の話をもちかける。これによると、もしある男が子がなくて死んだ場合、その弟は「兄の妻をめとって、兄のために子をもうけなければならない」ことになっている。とすると、こういう可能性がある訳だ。つまりーーある男が子がなくて死に、後に残された六人の弟たちが皆、次々と兄の未亡人と結婚するが、結局、女が最後に生き残るーーという場合である。この場合、七人の男たちみんなが復活した後で、この一人の女を妻として要求したら、なんとおかしな話になるのではないかーーこれが彼らの主張だった。

 少しのためらいもなく、主は彼らに答えられる。聖書と神の力を知らないでいるとは、なんと愚かしく、無知なことであろうか。まず第一に、来るべき世にあっては婚姻関係など廃棄されるのだということを、彼らは知らなければならなかった。それは、ただ、この世の生活のためにだけのみ定められたものに過ぎない。来るべき世では、人は神の御使いのようになる。彼らは、また、復活があるということもモーセから学ぶべきだった。もし、復活がないとしたら、イスラエル民族の父祖が死んでから数百年にして、なお、神ご自身がアブラハムの神であり、イサク・ヤコブの神であると、なぜモーセに告げたりするのだろうか。神は死者の神ではなく、生ける者の神なのだ。ーーこの御言葉はサドカイ人を沈黙させた。)

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