2022年10月8日土曜日

想像に過ぎない事柄に対する主のお答え

質問した。復活の際、・・・その女はだれの妻なのでしょうか・・・イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか・・・」(マルコ12・23、24節)

 サドカイ人はほとんど無宗教に等しい唯物信者であったが、イエスの彼らに対する態度はパリサイ人に対するほど峻烈ではなかった。むしろ現世に陶酔している彼らを憐むように、啓蒙的態度をとられたのは注意すべきであろう。

 パリサイ人はかなり多くを知っていたが、その心がイエスに対して高ぶっていたために反対した。サドカイ人は宗教上の真理に暗かったためにかかる愚問を提出した。故にイエスはその無知に対して、徐(おもむろ)にこれを解くの態度をとられたのだろうと思う。

 主は私たちの傲慢を憎み給うけれども私たちの愚に対しては寛大であり給うことは誠に有難い。

祈祷
パリサイの偽善に対して峻烈であり給う主はサドカイの愚問に対してかえって寛大であり給うことを感謝申し上げます。私たちは実に無知蒙昧にして霊界のことを知らず、常に五里夢中に迷います。しかしなおも私たちを捨て給わずして、親しく私たちの蒙を啓き給うを感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著281頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌82https://www.youtube.com/watch?v=YZPZQGDpON8 

以下は、David Smithの『The Days of His Flesh』〈邦訳784〜786頁〉より引用

13 想像の事件 

 彼らは復活の教理を駁撃するは維々たるのみと考えた。この笑うべき観念は真摯な議論を為す価値もなく、判断よりもむしろ諧謔に用いるべきものとして、イエスに来たって想像上のある事件を提出した。

 すなわち七人の兄弟があったとする。第一の兄は子なくして死んだ。夫の兄弟に関する律法によって、第二の兄が兄のために子を得るため、また『死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないように』〈申命記25・5〜10〉その寡婦を娶った。然るに第二の兄にも子がなかったので、その死んだ後に第三のものに嫁した。斯くして七人の兄弟が順次にこの女を妻とした。而してついに子を産まなかった。彼女もまたやがて死んだ。質問は『復活の際、その女はだれの妻なのでしょうか』というのであった。

14 主の答え

 イエスは彼らの浮薄を叱咤してこれをそのまま打ち捨ておかれても良いはずであった。これけだし想像にとどまる事件のみならず、到底あり得べからざるものである。聖クリソステムはこの場に適当な諧謔をもってこれを評して、もし二人の兄が死んだとすれば、後の兄弟はこの女をもって吉相悪しと認めて、これを娶る気遣いはなかったのであろうと言った。

 ラビはこの世において二人の夫に嫁いだ女は来世においては一の夫に添うべきものと論じた。事実夫の兄弟に関する律法によって、女がその兄弟に娶られたときにおいてもなお第一の兄の妻である。後の六名は夫ではない、単に『これを娶って妻とし、夫の兄弟としての義務を果たす』に過ぎない。イエスは当然軽侮をもってこの質問を取り扱われるべきはずのものであったけれども、なお答えを与えられた。

 この質問は税についての質問と異なり、その伝道の間イエスが断固として貶〈けな〉された現世の領域に関するものと異なり、イエスの故郷である霊の世界に関するものでイエスがこれに対する弟子たちの信仰を現実となし、確固たらしめんと欲せられた所に属するものであった。故にイエスの御胸に憤慨の情は湧かなかった〈ルカ12・13、4参照〉

 このサドカイ人はその慇懃の仮面の下に憎むべき謀計を包むにあらざるが故にイエスは彼らを『俳優よ』と譴責せられず、また彼らの自ら恃む所を憤慨もされなかった。むしろイエスの憐憫の情を引くのであった。イエスはその自らこのように明らかに知られる永遠の世界の秘義を無知のために我と悟らず、うぬぼれ嘲るこの不幸な人間を憐まれた。『そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか』とイエスは戒められた。)

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