大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。(マルコ12・37)
『喜んで聞いていた』のは結構なことである。イエスの御教訓はパリサイ人らと轍(わだち)を異にし、斬新で生気溌剌としている。大衆は喜んで聞いたのは当然である。けれども結局彼らは喜んだ聴衆であったに違いない。
先の学者が『神の国から遠くない』と言われたのと一対である。彼らは喜んで聴きもするし、神の国の近くにまでやってくる。けれどもイエスの最後の提供、ご自身を神の子である救い主としての最後の提供は容易に受け入れない(※)。
聴く者は多く、信ずる者は少ない。現代でも同じである。イエスの教訓に耳を傾ける者はたくさんあるが、イエスを救い主よ、私の神よと仰ぐ者に至っては少ない。人としてのイエスには喜んで聴くが神としてのイエスは、十字架につけんとする者の多い現代である。
祈祷
ダビデの子にしてダビデの主なる神の子イエスよ。願わくは、私に確乎たる信仰をお与えください。あなたが私たちの師であることを信ずるだけでなく、私の救い主であることを信じて、日夜あなたに頼ることを得させてください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著301頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌233https://www.youtube.com/watch?v=m8lBq-RDM5E
以下の文章はクレッツマンの『聖書の黙想』〈197頁〉より〈なお、前回のクレッツマンからの引用はhttp://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/10/blog-post_16.html で読むことができるし、その続きの文章が今日のものである。〉
イエスの勝利は決定的なものだったので、敵たちは言いぬけや、不平の言葉をやめなければならなくなった。
ところで、イエスの方には、律法に関する人々のすべての議論よりもはるかに重要な問題で、彼らに、少し、たずねてみたいことがあった。
キリストをどう思うか? 彼はだれの子であるか?
「ダビデの子である」と答えるのは容易だった。しかし、ダビデがキリストを主と呼んでいるとすると、キリストは単なる人間以上のもので、真実に神にして人なるお方ではないか。これだけのことを前にして、なぜ、何も悟ろうとしないのか。
私たちはここで、また、群衆が喜んでイエスに耳を傾けたという記事に出会う。
※日々の光10/27の夜のみことばに「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである」〈黙示録22・14〉とあった。青木さんが「近くにやってくるだけでなく、イエス様を受け入れなければ」と書いておられることと併せて心に滲みたみことばであった。)
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