また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。(マルコ12・18)
サドカイ人は当時のユダヤ人の最高階級である。富において、権力において、政治的位置において、彼らは実に特権階級であった。だからイエスの運動の如き大衆的なものに触れる機会が少なく、また触れることを好まなかった。しかも彼らの唯物的立場がイエスによって危うくされるに至っては黙視することが出来なくなって、かかる問題を掲げて彼に迫って来たのである。
実を言えば彼らは聖書をも神をもあまり信じていない、モーセの五書だけは尊敬するけれども、それさえ単に伝統的の尊敬であって、真剣に信じている者ではなかった。パリサイ人に比すればほとんど宗教的に冷淡な人たちである。
然るに、彼らでさえもイエスを傍観していることが出来なくなった。それはイエスの宮潔めによって自分の権威が侵害され、自分らの利益が危うくされると感じたからであろう。然りイエスに従う者がこの世の勢力と衝突するのは偶然でないことを覚悟せねばなるまい。
祈祷
主イエス様、私どもの中にはサドカイ人の血が多分に流れております。現世の富と権勢とを慕う心が度々霊の眼を暗く致します。『復活はない』とは言いませんけれど、復活などは現世の生活よりもつまらぬものにも思われます。どうか私どもの心の眼を開いて晴々しい天国の姿を見せて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著280頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌499https://www.youtube.com/watch?v=tPxVoPPVn8w&t=2s
David Smithの『The Days of His Flesh』〈邦訳783頁〉
11 よみがえりについて
権謀家は完膚なきまでに打ち破られて、主の機敏に驚きつつ言葉もなく退却した。然るにたちまち他の一団が近づいて来た。彼らはサドカイ人であって、パリサイ人と相対峙する激烈な反対党としてその政策においても、信条においても等しく、甚だしい懸隔ある貴族派の党員であった。サドカイ人はパリサイ人が神聖にして崇敬措く能わざるものとした口述の伝説をことごとく否定して、ただ成文の律法のみを容認した。彼らはまた預言書並びに歴史部を否定してサマリヤ人の如くモーセの五書のみを採用したとも伝えられる。ともかく彼らが五書のみを彼らの信仰の法則と認めて、聖書の他の部にはそれほどに重きを置かなかったことは確かである。パリサイ人はよみがえりの教理を教えたけれども、サドカイ人はこれを否定し、これが彼らとパリサイ人との論争の中心問題であった〈使徒23・6〜8〉
12 サドカイ人の嘲笑
今度近づいて来たのはサドカイ人の一団であった。彼らは今退出した団体と何の同盟をも結んだものではなかった。かえって彼らの敗亡を喜び、自ら彼らに勝れりとの自負心をもって偽った慇懃の態度で近づいて来た。彼らの計画は「よみがえり」という笑うべき観念の不合理なるを喝破してイエスとパリサイ人とを同時に困窮せしむるにあった。たとい彼らが成功しても大した結果にはならないはずであった。彼らはローマの大守にイエスを曳くにも至らず、したがって群衆をイエスより離れ去らしめることも少なかったろう。むしろ新たな反感を民衆から受けるに過ぎない。要するに彼らの懐疑思想は到底人望を繋ぐわけには行かなかった。故にサドカイ人が職にある間は霊魂不滅を信ずるように装うにあらずば、到底人民の看過せざるところであったと伝えられる。)
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