2022年10月14日金曜日

イエスに進み出て問え!

律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。(マルコ12・28)

 『律法学者』とは聖書を筆写しまたは説明しこれを教える人たちである。彼らは聖書の文字に明らかであっただけ、先の問答においてイエスの説明の凡ならざるを認めることも大きかったのである。そこで『進み出て』※重大な問いを提出した。

 この人には悪意はなく、研究的の精神は十分にあったと思われる。然り、イエスの問答を読むといつでも『みごとに答えられる』お方であることを何人といえども痛感せざるを得ない。

 されば何事についてでも、殊に重大な問題については『進み出て問う』ことを忘れてはいけない。自分でわからぬ問題や、持て余す問題はイエスに問うがよい。一人密室に入り聖書を開き、へりくだって祈るがよい。イエスは静かに親切に解きあかして下さる。

祈祷
主イエスよ、あなたは如何なる問いに対しても『みごとに答えられる』願わくは、私たちに自分の愚に頼ることをやめて密室に入り、あなたの光の前にすべての問題をひろげて、あなたの聡明なる解決にゆだねる心をお与えください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著287頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌535https://www.youtube.com/watch?v=kcBNvkPk19I
「進み出て」とは文語訳聖書が「進み出でて問う」とあるのを受けて、青木さんは書いている。ちなみに口語訳も新改訳も特段そのような記述はなく、「イエスに質問した」「イエスに尋ねた」と訳している。欽定訳も”asked him”とあるばかりである。

以下は、David Smithの『The Days of His Flesh』〈原書407頁、邦訳789頁〉より引用

17 中心なる戒め

 主の反対党は対戦するごとに痛手を負うたのであって、もし彼らにして賢明であったならば、自分たちの敗亡を認めて、再びイエスを煩わせなかったことであろう。しかも彼らの年来の敵であるサドカイ人の駁撃されたのに雀躍したパリサイ人は、敵の失敗した所に成功せんと欲してなお他の計画をめぐらす心を起こした。
 彼らは律法に精通する学者を一人その党の代表者に選んでイエスに近づいて、その判断を請わんとして面倒な質問を提出した。律法には613個条を含まれているというのがラビの主張であって、このうちに『重きもの』と『軽きもの』との区別があった。而していずれの個条が『重きもの』で、いずれの個条が『軽きもの』であるかというので、厳格派のシャムマイ学派と自由派のヒルレル学派との間に鋭い議論があった。
 これらのうち重きものは死刑に処する点は両者の一致するところであって、それは割礼、発酵のパンを食うこと、安息日の厳守、手を洗うことに関するものが中心の律法であった結果は、後年のユダヤ教の災害となった儀式過重の弊を醸したのであった〈創世記17・14、出エジプト12・15、19、31・14、レビ7・20、25、民数19・20〉

一方、クレッツマンはその『聖書の黙想』で次のように述べる〈同書196頁〉

 さて、パリサイ人はこの議論を聞き、自分たちの間では意見の一致を見ることのできなかったある問題をイエスに提出して、彼を困らせる機会が到来したと考えた。それは議論百出していた問題で、どの戒めが最も偉大なものであるか、ということだった。彼らは有能の士を一人代表として選び、これで主をたやすく窮地に陥れられるものと考えた。律法の中には六百三十もの、つまりヘブライの十戒の中にある文字の数ほども、たくさんの細則があることを彼らは計算していたからである。しかし彼らにとってイエスが与えたもう答えが、実は律法そのものから引き出されようとは思いも及ばなかった。)

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