2022年10月27日木曜日

ダビデの子とダビデの主(中)

『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵を、あなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。(マルコ12・36〜37)

 現代の高等批評家がいかにこの詩篇がダビデの作であることを拒むとも、またこの詩篇が来らんとするメシヤの預言であることを否定するとも、それは小さな批評学に立て篭もった不信仰が振るうところの蟷螂の斧に過ぎない。

 パリサイ人学者など及び当時の一般民衆の中から誰一人反駁することのできなかった議論であり、またイエスご自身の人性と神性とを預言した聖霊の言葉であると信じておられたところの聖句である。すなわち一方から見れば救い主はダビデの子孫であるから人間に相違ないが、他方から見ればダビデの『私の主』と称するところのお方であり、神と座位を分かつお方であるから神に相違ない。

 イエスは斯く論じて最後にパリサイ人らの前にご自身を神として提供されたのである。決して遊戯的にパリサイ人を議論でへこますために言われたのではない。イエスはいつでも真剣であらせられる。

祈祷
主イエス様、あなたを拒む者がいかに多く現代にはびこっていることでしょうか。あなたを信ずると自称する教会の中にも、浅はかなる学問の名において、あなたを拒む者が多いのを悲しみます。願わくは、『信』私たちに与えてください。天地は過ぎゆくとも、過ぎゆくことのないあなたのみことばを緊く信じて、これに立つことができるようにしてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著300頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌339https://www.youtube.com/watch?v=3vdkaZ39JEE

※23日に吉岡兄の絵を紹介したが、作者は「アンデルセンのメルヘンからイメージしました」と寄越してくださった。それで、赤木かん子さんの「こんなアンデルセンを知っていた?」という副題のある『イブと小さいクリスティーネ』の一文を掲載させていただいた。その後、原作の邦訳〈天沼春樹訳アンデルセン童話全集第二巻235頁〉を手にした。写してみる。

「ーーきみの父さんからの手紙を読んだよ。きみがもうしぶんなく幸せに暮らしていて、そのうえ、それ以上に幸せになれることがわかった。きみの心に聞いてみればいいんだよ、クリスティーネちゃん! きみとぼくが所帯をもったら、どんなふうかをよく考えてみてごらん! ぼくの財産なんてわずかなものだよ。ぼくのことや、ぼくの気もちなんか考えないで、自分の幸福のことだけ考えればいいんだ! きみはどんな約束にもしばられてはいないんだよ。きみが、心の中でぼくと約束したことを思うのなら、ぼくのほうから、その約束はなかったんだと、きみを自由にしてあげるよ。きみが世界じゅうの幸福にめぐまれますようように、クリスティーネちゃん! 神さまが、ぼくの心をたぶんいやしてくださるだろう!」
                常に変わらぬ心からの友 イブより

 最後の一文が気に入った。そして芥川が結婚するはるか前に妻になる文さんに宛てた手紙をゆくりなくも思い出した。芥川の手紙は希望に満ちた現実の優しさ、それに対して虚構ではあるが悲しみとそれだけに終わらない未来を予感させるアンデルセンのメルヘンを想うた。)  

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