2025年4月11日金曜日

のどかなり、春の日

桜散り 戸惑いつつ 踏み歩む
 今日は、いつもの散歩コースと違い、久しぶりに古利根川の下流に歩を定めた。上流に比べると人通りは絶えており、野鳥(主に椋鳥だと思うが)の囀りのみが夥しかった。堤には桜花が路面を散り染めていた。一歩一歩踏み歩くのが思い慮られたが、何も言わない桜花に免じて歩かせていただいた。ふと見上げると今まで気づかなかった水原秋桜子の俳句があった。

 垣の梅 古利根川に 倒れゐる

とあった。流石に動的だ。私もそれを真似て、下の句を「歩みゐる」としたかったが、上のように詠んだ。

 一方、上流の河辺に見かけなくなった鴨や亀が下流にはそれなりに生息していることに気づかされた。左画面はその一つだが、上流と異なり、こうして丘の上に上がって日向ぼっこ(?)をしているのだ。一月ほど前に、「雉」をみつけたのも下流だったから、古利根川の包容力はなかなかどうして大したものだ。

 今朝は3月中旬以来、書写を試みている『聖パウロの生涯とその書簡』(David Smith著日高善一訳1927年刊行)も全700数ページのうち100ページまで辿り着けた。いよいよ本格的なパウロの伝道旅行の記述が始まるところだが、特に『使徒の働き』の13章の叙述が心に響いた。さわりの部分を紹介しよう。

占星家宣教師たちを妬む
 これぞまた得難き好機会であった。彼らは喜んでそれを捉えた。彼らは総督に福音を解説したが、彼は興趣を傾けてこれを聴いた。バルイエスはその傍に佇んでいたが、その主君が感激しているのを知って、警戒を与えた。彼は彼らが総督の信任を得て彼を排斥し、その営利事業を奪うことを虞れた。故に彼らを妨害しようと決心したが、パウロは遂に堪忍の緒を切った。彼はこの法螺吹きを尻目にかけて『ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。』(使徒13:10)と叱咤した。この使徒の心は憤りに燃えたが、同時にまた羞恥の情があった。福音に対するこの詐欺漢の反抗は宛然彼が寸分違わぬ同様の精神によってかつて行うたところであることを認めたからであった。彼は自らかつて陥ったと等しき宣告をバルイエスに下した。『見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる。』(同13:11)と。その語は忽ち実現した。霊は占星家の眼を蔽うと、ダマスコ途上の迫害者と等しく『手を引いてくれる人を捜し回っ』て退かねばならなかった。
総督の回心
 これは一時的の現象で、恩恵深き計画であった。パウロは彼の罪とその刑罰と同様バルイエスがその悔い改めにおいても彼と等しからんことを望んだ。『これによりて彼が自ら受けたる休徴により』と聖クリソストムは言う『彼を捕えんことを望めるのみならず、なお「暫く」とは罰を与うる人の語ではない、回心せしめんとする人の語である。蓋し若しパウロにして罰せんとしたのならば、彼を永久の盲目たらしめたに相違はないからである』と。その結果は記録が残っていないけれども、奇蹟は無益ではなかった。占星家はともかくとして総督は捕らえられたからである。

この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入った。(新約聖書 使徒の働き13:12)

2025年4月8日火曜日

桜花爛漫の古利根川

桜花愛(め)づ 足音軽く 引きも切らぬ  
 今日も古利根川縁では、人々が行き交っていた。画面中央の御仁はキャンバスに向かって絵筆を走らせていらした。その左側の人は上を仰いで桜の木にカメラを向けていらっしゃる。自転車を走らせておられる方、前屈みがちになって歩を早めている方も、すでに心は豊かにされての帰り支度に違いない。

 川中には亀と鴨がお互いに仲良く共存しあっていた。亀は十匹近く縦一列に隊を組んでいる。その近くを鴨の数羽がこれも一団となって、回遊している。画面では捉えられていないが、親鴨は画面右の方に行ってしまったが、親子家族の鴨のようだ。百数十羽いた鴨もここ数日の間にすっかり姿を消しつつあるのだが・・・

 一方、魚は水量たっぷりの河中から浅瀬に入り込んでは、産卵するのだろうか、雌雄互いにのたうち回っての勢いは激しい。波飛沫をあげ、その音がバシャバシャと聞こえる。毎年のように、魚はここに上がってくる。いやが上にも生命の躍動を感ずる。一度その様を撮りたいのだが、中々iphoneでは撮れない。川中の波渦が辛うじてその様を映している。それで了としたい。

  かと思えば、今日じゃなく昨日の写真だが、相変わらず青鷺が虎視眈々と獲物を狙って王者の如く川央を飛んで行く。水辺に少し止まったところを撮影したが、すぐ気づかれて飛び去られてしまい、至近距離では撮影できなかった。それでも嘴の黄色が撮れたので良しとしたい。



 先週は寒く、春だと言うのに、全く冷え切ってしまった。しかしそんな時も川は流れている。暖かくなって桜の開花が進み、私たちの心も陽気になった。もし水なくばどうなるのだろう。樹木、植物は川の水を吸い上げ、実を結び花を咲かせる。一方川には魚が住み、鳥が近寄り餌を求め囀る。私はこの囀りを聴いているだけで心豊かな思いにされる。まさに春爛漫である。最後に今日の古利根川を紹介しておこう。


イエスは立って大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(新約聖書 ヨハネの福音書7章37〜38節)

2025年4月7日月曜日

春眠、夢を覚え


 四月も早や一週間が過ぎた。このところ連日のように古利根川縁は桜を愛でる老若男女の人々で賑わっている。溢れかえるほどではないのが、良い。皆それぞれじっくり桜を鑑賞できる。素晴らしいことだ。

 大抵、ほとんどノルマと化している、一冊の本(※)の書写に倦み疲れた頃を見計らって家内を誘い出し古利根川まで出かける。ある時は自転車で、ある時は徒歩で。徒歩だとかれこれ四キロになる。少し負担がかかるので、自転車で出かけ、古利根川の一周で我慢する時もある。まあ、半々である。82歳と79歳のコンビだから、果たしてこの先何年くらいこのような生活を続けられるのだろうか。

 漱石は確か、「午前の創作は午後の愉悦をもたらす」とかどこかで言っていたように思うが、私にとっては午前中の書写と散歩が、彼の「創作」にあたる。午後はゆっくり寛ぐ、それは彼の「愉悦」にあたる。

 さて今朝は不思議な夢を見た。ある集まりで音楽会が催された。指揮者として「山田耕筰」氏がタクトを振るから、という前宣伝であった。果たせるかな、彼がやってきて、演奏会は始まった。曲目はヘンデルであった。その音色は何とも言えない音色で、その音を聞きながら、ヘンデルにはこんな作品があったのだと独り感動しているのだ。感動していると言ったが、私はと言えば、演奏会の隣室の大きな部屋で寝そべって聞いているのだ。だから当然、指揮者である山田耕筰氏の顔はわからない。演奏される音楽だけが聞こえてくる。

 一体、これは夢と言っていいのだろうか。音が聞こえるなんて。しかも振り返ってみるとその音楽はサンサーンスの交響曲第三番の曲中、オルガンの全奏の前後(?)に奏でられる曲に似ているが、それよりもはるかに落ち着いていて、深みのある、えも言われぬ曲想だった。そんな夢の話を家内に話したら、「随分と高尚な話ね」と言った。私もこんな夢を見るのは初めてだ。まして音楽の素養がなく、むしろ音楽には劣等意識さえ持っている私がそんな夢を見たのだ。

 フロイトは夢判断をしたのだろうが、私の夢判断はどう出るのだろうか。春眠暁を覚えずという言葉もあるが、春の夢を語ってみた。

※『聖パウロの生涯とその書簡』(デーヴィツド・スミス著日高善一訳1927年刊行)

を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(旧約聖書 イザヤ書55章6節)

2025年3月28日金曜日

諸人こぞりて主をほめよ!

 春が一斉に開花した今日この頃ですね。このところすっかりブログ離れを経験しています。そんな日々でも古利根川縁の散歩を欠かした日はありません。その都度、iphoneでせっせと写真に収めています。出色は何と言ってもこの鳥に出会ったことです。半年ほど前にも畑の中で見つけましたが、今回はもう目の前でこの美しく着飾った鳥がいたのです

 思わず、十枚ほど撮影しました。どれもこれも捨て難い思いですが、流石に当方のしつこさに参ったか、奴さんスタコラスタコラ、移動し始めるのです。飛ばないで。そしてスルスルとフェンス角を曲がり草むらに移って行きました。私もそこまで追うほど風流を解せない男ではありませんので、静かに見送りました。彼も安心したのか、歩を緩め草むらの主に帰りました。

 すると反対側の川中には、これまた、素晴らしい出会いがありました。それが右側の写真です。亀君三匹と鴨君三匹ののどかな川縁の姿です。別の場所では川縁の石ころという石ころの上に亀が甲羅干しをしていました。もはや十本の指では数えられない亀君が思い思いに石ころの上に乗っかっていたのですよ。もちろんこちらが少しでも近づこうものなら、ざんぶと奴さん、水中に潜ってしまいます。何とも言えない可愛さです。もちろん、今や川中は魚が水を得て泳いでいます。

 久しくご無沙汰している植物では、この歳になって初めて知ったことがありました、それもこの三枚の写真が語っています。芽吹くところから、花を咲かせるまでほぼ同一の小枝を撮影しました。毎日通っていましたが、二日ばかりこの木に近づけませんでした。今日、近づいてみてその木が桜ではないことに初めて気づいたのです。観察中、なぜ、桜色の蕾を見せてくれないのかと不思議に思っていたのですが・・・

 

 この左側の木こそ、私が執拗にその発育ぶりを追っていた木の開花ぶりだったのです。何年も春になるとこの木だけが他の桜とは違う。もっとも早く芽吹くと思っていたのですが、桜じゃなかったのですね。「すももももももものうち」と言う、かの「すもも」だったのです。ちなみに一番上の写真は月曜日、その下が火曜日、そして一番下が今日金曜日の写真です。桜の木が咲いているのですが、それをバックに白一色のすももの花が見事に咲き誇っているのです。

 さて、「花より団子」とは良く言ったものですね、果たして「すもも」の実が穫れるんですかね。これまた何も知らない男の愚問でしょうか。

 鳥も騒ぎ、川面にせせらぎも聞こえ、川中を見ますと大きな魚が泳いでいます。「春の麗(うらら)の古利根川(?)、上り下りの散歩道(?)」と思わず、口ずさみたくなります。それもこれも花々がそれぞれ一斉開花に励んでいるからなのでしょうね。でも、元はと言えば、天地万物の造り主のおかげです。旧約聖書詩篇148篇に素晴らしい主への賛美が繰り返されています。最後にその詩篇を写しておきます。

1 ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。 2 主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。 3 主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。 4 主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。 5 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。 6 主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。 7 地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。 8 火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行なうあらしよ。 9 山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。10 獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。11 地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。 12 若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。 13 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。 14 主は、その民の角を上げられた。主の聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。ハレルヤ

あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(新約聖書 マタイ5章16節)

2025年3月5日水曜日

ジャーナリズム健在たれ


 新聞、ラジオ、テレビと、ほぼ満遍なく付き合っているつもりである。それぞれの媒体の特徴があり、一つの事象を多角的に観察できるのは助かる。新聞が夕刊の配達を辞めた時には、もう新聞も終わりなのかと一旦は思ったが、しばらくの失望の期間がすぎて、今ではすっかり慣れてきて、朝刊にふくまれている夕刊記事(多くは文化欄)などをいそいそと取り出しては読んでいる(さしずめ、今朝の新聞の「戦間期の思想を拒絶する」と題する保阪正康氏の論考がそれにあたる。)

 トランプ・ゼレンスキーの口論をテレビで見た時には、これを識者はどのように見るのだろうか、とその意見が聞きたかった。ラジオのTBSの森本毅郎が月曜の朝、そのやりとりを丁寧に追っていた。土曜、日曜と様子眺めの状態が続いたが、事態の様子が明らかになると同時に今後の動向もにらんだ上での解説も徐々に散見できるようになった。なお、様々な論考に期待したい。

 ところで、現実政治は早くもアメリカのウクライナに対する武器援助が休止され、のっぴきならぬ事態へと動いている。かと、思うと、大船渡市では、こう着状態どころか、日に日に山林火災の範囲が広がっていく。その様を国際情勢、年度内予算成立を図る少数与党下の国内政治の動向に並行する形で、私たちは今目にさせられている。ひとときは、アメリカロサンゼルスの山火事は対岸の火であったのに・・・。幸い、雨雪が大船渡市上空にも舞い降りそうだ。一日も早い鎮火を望む。

 今朝の東京新聞の「筆洗」は次のように結んでいた。「奉納のおかげか。大船渡でも雪や雨が期待できるとの予報に少しほっとする。〈あめゆじゆとてちてけんじや〉ー。岩手出身の宮沢賢治の「永訣の朝」。病にある妹トシの雨雪を口にしたいと求める言葉が悲しいが、大船渡に今、〈あめゆじゆ〉がほしい。」 

 人間社会の移り変わりを感じながら、現実を明らかにしていくジャーナリズムの歩みに期待したい。最後に日曜日の歌壇欄に載った一人の方の短歌を紹介しておく。

かいつぶり 潜りて広ぐる水 尾の先 はるか遠くに 顔を出だせり
                   (神奈川県伊勢原市 佐藤治代)

私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。・・・私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。・・・舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やすのです。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。(新約聖書 ヤコブの手紙3章1、2、3、5〜6節)

2025年3月4日火曜日

二つの口径の世界


 二、三日前、買い物帰りの道路脇に、目にも鮮やかな花が咲いていた。家内に何の花か尋ねる。「かたばみ」だと答えが返ってきた。ブロック塀の排水口(径三、四センチ)を根城にこんなにも明るい色を見せてくれるのかと、写真に収めた。どのようにして種子から花に成長したのかわからないが、草花はほんのわずかな隙間を見つけては育っていくことに驚く。

 話は変わるが、台所の水道の蛇口が壊れた。DCMホーマックに出かけて同様な製品がないか見て回ったが、中々見つからなかった。店員の方に相談した。親切な店員で、あちらこちら探してくれた。最初は金具面だけだったが、その後、プラスチック仕様のものを探してくれた。しかし、いずれも壊れた蛇口との同寸法のものは見つからず、同サイズのパッキングを見つけるしかないですね、と最後に言われてその方とは離れた。それもそうだと、訳知り顔の境地で件のパッキングを今度は自分で探すことにしたが、中々見つからなかった。

 そうこうしているうちに、別の場所で違う店員さんが一人のお客さんの注文に対して熱心に応対している姿に遭遇した。そちらの用件が決着するのを待って、この店員さんに相談してみようと思い、ダメもとと思いながら、持ち込んだ、壊れた蛇口をその店員さんにも見てもらった。仔細に眺めたあと、それを手にして、その彼は先ほどの店員さんと違って、二、三箇所を経て、口径22ミリになる「首振りキッチンシャワー」なる2178円の製品を探し当ててくれた。

 家に帰って、当てはめてみるとまさにぴったりだった。二人の店員さんのお世話になったが、店員さんによってこうも違うのかと改めて思わされた。先の店員さんが悪かったわけではないが、あとの店員さんは、お客さんの要望に応えたいという熱心さにおいて、先の店員さんにまさっていたように思う。ひょっとしたら、商品知識の違いもあった上での結果だったのかも知れない。

 今では口径22ミリのシャワー製品は我が家の台所で元気に、壊れた蛇口に変わって、働いてくれている。一方、口径3、40ミリの隙間に根を下ろした「かたばみ」はさすがにここ一二日の寒さで、半分近く花びらをなくしたが、黄色い花の存在は、通る者の目を楽しませてくれているのではないか。人工(人事)と自然の違いはあれども私にとってはありがたい二つの口径が招いてくれた新世界の境地であった。

 ひるがえって、トランプ大統領とゼレンスキー大統領の首脳会談は、敢えて言うならば、両者の口径が合わず、決裂した。その余韻は今も世界の人々の耳目をそばだてさせている。人事の世界では口径が合わなければ、機能しないのだろうか。しかし、それだけではない。いのちある両者だ。いのちある者として、かたばみのように、口径をものともせず、豊かな色を見せてほしい。

光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。(旧約聖書 詩篇97篇11節)

2025年3月1日土曜日

輝かしい希望


 今日から、弥生三月に入りました。庭の山茱萸(サンシュユ)の花が咲きほころびました。毎年のことですが、このように時至って花を咲かせてくれる木に心からなる感謝を申し上げたい思いです。でも、すべては主なる神様のご配慮なのですね。

 毎日毎晩、岩手県三陸大船渡市の山林火災に胸を締めつけられる思いがします。一日も早い鎮火をと祈ります。さて、今日は下記の文章を載せさせていただきました。『重荷も軽く』(A.ドーフラー著)の「輝かしい希望」と題する文章の引用文です。愛する友が重篤で入院中です。その方に読んでいただきたいと決心してお送りしたものです。皆様もお読みくだされば感謝です。

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。(新約聖書 コリントへの手紙第一15章19節)

 希望は人生の源泉です。私たちの生活から希望を取り去ってしまったならば、私たちは平安を保つことができなくなり、絶望へと追いやられてしまいます。

 神を無視する者でも、この世に希望を託しております。彼らは生計を立ててゆくことを望み、より良いことに会うことを望み、健康でありたいと願います。

 しかし、イエス・キリストの復活ほど、私たちを大きな希望で満たしてくれるものはありません。イエスの復活は、イエスが神であることを示し、神のみことばとお約束が常に真実であることを物語っています。イエスはいつも私たちと共に居てくださることを約束してくださいました。イエスは私たちに慰めを与えてくださることを約束してくださいました。神は私たちに、イエスが生きていらっしゃるように、私たちも生きると確信させてくださいます。

 人生においてさまざまな苦労に出会っている時や、苦痛と病気のために閉じ込められている時ほど、この神のお約束は必要なのです。これらの約束は、私たちが決してひとりではないことを確信させてくれます。私たちは主イエス・キリストの永遠のご臨在をいただいているのです。

 その上私たちは、イエスの復活によって、もう一つの希望を持たせていただきました。イエスの復活は、イエスが私たちの救い主であることを語っています。キリストを死から復活させることによって、父なる神はイエスの犠牲が十分に完全に、私たちの罪の代価を支払ったことをお述べになりました。

 イエスは悪魔の象徴であるヘビの頭を砕きました。イエスは悪魔に対して勝利を得られたのです。それゆえ、キリストを身の隠れ家としている限り、何物も私たちを損なうことができないことを知り、希望に満ちて将来を望み見ることができるのです。

 キリストが死から復活なさったのですから、私たちの、苦痛を受け病気をしがちなからだも、ついには朽ちない状態によみがえり、主イエス・キリストの栄光のからだに似たものとしていただけるのです。私たちはこの世において、いろいろと多くの試みを受けます。私たちキリスト者も、神を無視し、キリストを否定する人々と同様に苦痛を受け、痛手をこうむります。もし現世にのみ希望を託するならば、私たちはすべての人々のうち最も哀れむべき存在となります。しかし死のかなたにおいて、この苦しみを受けているからだが完全な状態においてよみがえるというところに、私たちの希望が存在しています。そこにおいて私たちの目から涙がすべてぬぐい去られます。そこにはもう、この世の苦痛はありません。もはや死ということも無いのです。主の御前は、永遠に喜びに満ち満ちているのみです。それゆえ私たちの希望は、この世の生活を超越した果てしない永遠にあるのです。これらすべてのことは、イエスの復活によって絶対確実なものとなります。

 それですから復活祭は、私たちに世界で最も幸いに満ちた喜び、最も希望に満ちた神よりのことばをもたらしてくれるのです。パウロがローマ人への手紙8章18節で言ったとおり、私たちも「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」と心から言うことができます。そして十分自信に満ちて 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(新約聖書 コリント人への第二の手紙。4章17〜18節)と付言することができるのです。

 祈り

 永遠に生きていらっしゃる救い主イエス様。あなたは罪と死に打ち勝ち、栄光ある復活をなさいました。それによって罪の赦しと平安が私たちに保証されました。私は心からあなたを讃美いたします。今日もまたあなたの慈(いつく)しみを私にお示しくださり、私のすべての罪をぬぐい去ってください。悩みと痛みと苦しみとを受けている私を、罪のくびきや苦難から永遠に解放してくださるというあなたのお約束によって、私は希望に満ちてあなたを仰ぐことができます。どうか御恵みによって、常に私の近くにいてくださり、一日のすべての時を、輝かしい栄光の福音によって慰め、揺るがぬ信仰をお与えください。

 あなたのみことば、および、あなたに対する信仰から、私たちすべてが最後まで離れることなく、神の国民を待ち望む栄光に連れて行っていただけますように。イエスの御名によってこの祈りをおささげいたします。 アーメン