2012年3月3日土曜日

ああ、「主」にある愛の尊さよ!

兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので、――といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、――なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。(新約聖書 1テサロニケ2:17〜18、3:1〜3)

 これはアテネ滞在中のことを後に回顧して述べたのであるが、当時の彼の心境を示すものとして価値無上である。彼の燃えさかっていた兄弟愛の貴さは、二千年後の今日も強くわれらの胸をうつものがある。

 アテネ滞在中に、かくテモテをテサロニケに遺した彼は、間もなくシラスをもマケドニヤ(多分ピリピ)に送って、ただ一人となった。そして市場に道を説き、 またアレオパゴスに福音の証をしたのち、敗軍の将のごとくただ一人にてコリントに来た。そして既に述べた通り、アクラ夫妻とともに天幕工として働きながら、安息日ごとに会堂にて十字架の福音を証した。間もなくテモテとシラスとはマケドニヤより来たりて、アクラの家にてまたパウロに会した。この時シラスは、多分ピリピ教会よりの愛の寄与をたづさえて来たのであろう。そしてテモテはテサロニケ教会の状況を報告して、迫害にかこまれながらの彼らの堅固の信仰について語った。彼の喜びは大きかった。この喜びが彼をしてテサロニケ前書を書かしめたのである。

 眼を閉づれば、当時の光景がありありと心に浮かぶ。ところは物質文化の世界的中心地であって、現代の大都会の比ではないとしても、豪華と繁栄と歓楽の渦巻きの中に大都会の一日は華やかに明け、また華やかに暮れたであろう。この華麗と騒音をよそにして、市の片ほとりに貧しき職工夫婦が日々の営みをしていた。 二人の年齢は分からないが、多分働き盛りの中年者であったであろう。その傍らに50歳ぐらいの人が、やはり同じ工に励んでいる。彼は背の低い、病弱らしい人であったが、どことなく一種の高気がその身辺にただよっている。百戦の過去を語るような奥深さがどこかに見える。その前に二人の青年があってしきりに何か語っている。その一人は恐らく30歳を出ていたであろうが、他の一人は30歳未満の、まだ子供らしい俤のただよっている若者であった。二人の語るのを聴いて、老人の顔はかがやいてくる。そのうちに工をやめて、歓びを顔一面にあらわして、若者の報告にますます熱心に耳をかたむける。語り終わって若者は一通 の手紙をさし出した。老人はそれを読んでますます顔をかがやかした。

 しかし若者が、あることをつけ加えて語ったとき、老人の顔はやや曇った。しかしそれはほんの一時であった。やがて三人はこもごも感謝の祈りをささげた。傍らにあって聴いていた職工夫婦もそれに加わった。老人の力強い祈りの声は一座を圧するようにひびいた。——多分数日の後、老人は若者に向かって口授した。それを若者は紙にしたためた。そして多分自らそれを携えて、テサロニケの教会に到った。かようにして、テサロニケ前書は草せられたのである。

 事は市の片隅の小さい家にて起こった。 たとい裏長屋ではなかったとしても、場末の小さい家で起こったことである。その時誰がそれをこの市において在った最大の歴史的事件と認め得たであろうか。50歳の労働者が20余歳の若者に口授したものが、一流の学者・思想家・文士の著作にくらべて、くらべ得ぬところの貴重な文書であるとは、誰か知ったもの があろう。然り口述者たる老人さへも筆記者たる若者さえも、また傍らにあった他の三人さえも、少しもそんな事を知らなかった。彼らはただ当面の要務を果たしたに過ぎなかった。ただ物質文化の中心地たる大都において、昼も夜も狂奔と歓楽の大波に漂っていた一切は忘れられ果てて、その場末の小屋に起こったこの事のみが永久に遺るというのは、そしてかの事どもよりもこの一事が人類の心霊と文化に多大の寄与をしたというのは、げに意味深甚のことであったというべき である。

(『畔上賢造著作集』1940年版274〜276頁「パウロの生涯」より引用。畔上氏は冒頭引用句の中でなぜか以下の聖句を省略している。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」参考のために書き加えることにする。)

2012年3月2日金曜日

充実した英国における生活

 英国に来た時、ウオッチマンは西欧でほぼ4ヶ月過ごし、アメリカ経由で11月には戻る予定だった。しかし、新しく友となり相談相手になった T・オースティン・スパークス氏ともっと意見の完全な交換をしないで帰ってしまうことは不十分のように思えた。それは彼が「キリストのからだの実際的な完遂」だと考えた問題に関してであった。彼がノルウエー、ドイツそしてスイスを経てパリに着いた時、上海の同労者からの手紙もこのことなしに帰国しないようにという要請であった。彼の「働きの再考」を英語に翻訳する必要があった。幸いなことにエリザベス・フィッシュバッヘルは何もしていなかったので、ウオッチマンに加わり、そこで同僚のフィリス・N・デックとともにこの仕事に携わった。それで彼女は二ヶ月間ウオッチマンが要約し、編集し、別の序言を書いているものを、翻訳した。

 とうとう一月には原稿が完成し、さらに4ヶ月間ロンドンへ戻り、大概はオナー・オウクを基地にし、その間オースティン夫妻との間で互に実のある友情が固められた。ここではまたしても集会があったが、四六時中というわけではなかった。 彼は英国人の家庭生活を味わうのに喜びを感じた。彼は以前にはむしろしゃちこばっていたのだが、今度はくつろいで子どもたちと隠れん坊をして黒板から彼の長いブルーのガウンがはみ出させてはすぐつかまえられたりした。一度、充実した会議で非常に効果ある説教をしてから、会議に出席した者の仲間に加わり、サリー州のヒースランドへ出かけたが、そこに出席した人は彼が側にいて全く愉快で、決して「すぐれて霊的な兄弟」のようでなかったことを覚えている。ウオッチマンは家庭ではおばあさんが部屋に入って来る時いつも誰も立ち上がらないことや、他方ではどなたかが愛玩している犬を間違って足を踏みつけでもしたらわびることさえするのに 驚かされていた。車で外出するときは、下り坂では雲南省時代は倹約を教えられていたので、車のエンジンはかけないように求めさえした。彼は子どもたちを連れ出しては中国料 理を食べさせた。けれども個人的には淡白な英国の食材には醤油で味付けする必要があると感じていた。醤油は彼が何とかしてしっかりとした味付けを守らねばならないと考えていたものだったからである。

 彼はもちろんあちらこちら自由に移動でき、ノーフォークのシェリングハムではマーガレット・バーバーのノリッジの友人であるD.M.パントンを捜し当てた。彼は彼女の書き物を大事にしていたが、彼女に対して彼は朝食に二個の卵を中国風に用意して自らの好みを現わそうとしたと言われている。別のオープン・ブレザレンの地方教会では建築家であるジョン・ライング(John Laing)氏(のちに卿)と出会った。ライング氏はウオッチマンが自分の働きに対する西側の資金援助の申し込みをどんなに潔く辞退したかを思い起こしている。そしてすべてのうちでもっとも幸せなことだったのはエクスクルーシヴ・ブレザレンの長年の友であるチャールズ・バーロウと暖かい仲直りの会合を個人的に持つ機会が与えられたことである。

  1939年5月に、ちょうど彼が英国を離れる前に、英語訳の「働きの再考(Rethinking the Work)」がロンドンで「私たちの宣教に関すること(Concerning Our Missions)」という題で「主の証人と証」誌のお墨付きで出版された。当時多くの人たちが夢中になって求めた小冊子となった。この時期は宗派を越えた宣教の全盛期だったと記憶されるに違いない。長い歴史を持つ宣教団体のなかにはこれまで極めて神聖視されたものもいくつかあったようだ。けれどもすでに二三の宣教団体は改宗者とどうかかわっていけばよいかについて組織固有のあいまいさに実際のところ直面し始めていた。いくつかの仲間うちでは、新しく生きた教会にしてはじめて働きの成果が維持され得るのだという見解が地歩を固めつつあった。そういう読者にとってはニーが強調する神だけに責任があるとする地方教会に関する論は新鮮な空気の息吹となった。それに加えて彼がなした「教会」と「働き」の区別、すなわち聖書に基づく合理的な結論は役に立つように思われた。これ以外にも明確な実践上の手助けになる本には会計に関する彼の頭脳明晰をあらわす章のような数節もあった。

(『Against the tide(流れに抗して)』by Angus Kinnear 152〜154頁より。今日の文章中に登場する「Rethinking the Work」の著作で彼が何を言おうとしたかその著作を直接確かめていないので、この短い文章での判断だが、引用者が今朝聖書を読んでいて示された下記の聖句はあながち無関係と思えないので記念に書き記しておく)

神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(新約聖書 1テモテ3:15〜16)

2012年3月1日木曜日

別れのことば

窓辺から見た雪景色(昨日のものですが、昨晩、今朝と大きな揺れを感じさせられました)
愛する読者、兄弟姉妹へ、

 この書物もこれで終わろうとしています。けれども、また読みかえしてくださらないでしょうか。二度目に読むときは、最初よりも、得るところが多いかもしれません。あなたの読みかたが正しければ、三度、四度と度を重ねるごとに、新しいことを発見することもあり得るのです。そのためには、第一に必要なことは、この本の活字を、単に文章とか、一つの章にまとめられたものとして、目で追って読むのではなく、聖霊によって心が照らされることを、祈りながら読むこと。第二に、しるされている内容について、一語一語かみしめ て、静かに黙想すること。第三に、見いだした真理を、自分の魂と生活にあてはめ、役立てるということです。深く考えもせず、注意も払わずに読む習慣がついているために、一番重要な点を見落とす人は、驚くほど多いのです。

 聖書を読むことは、他の書物を読む場合とは違っています。たいていの場合、書物は、一読すれば、その内容をとらえることができるものです。しかし、聖書は、神ご自身によって書かれていますから、その内容は深遠で測り知ることはできません。この金鉱は、あなたがどのように深く掘り下げても、掘りつくすことはできません。掘るたびごとに、 心の宝をより豊かにする黄金のかたまりを、あなたは必ず掘りあてるでしょう。この不思議な本の中に、あなたは、何を見出したかを、他の人に教え、そして、 彼らは何を探しあてたか尋ねなさい。そうすれば、あなたは、あるいは、生涯かくされていたかも知れない金塊を、見いだすことができるのです。

 聖書に対する自分の知識を、他に誇るために読んではいけません。それは、あなたの心の中の古いアダムがすることです。聖書に見いだした真理を、自分の生活と行為に生かすために、読みなさい。そうするならば、あなたは、みことばを読むことによって、たしかに、さいわいを受けるでしょうし、また、あなたが、天の宝をわかち与える人々は、主の祝福にさずかるでしょう。

 このような心がまえで、聖書を読むことを約束なさいますか。主にむかって答えてください。たとい、あなたが誰であろうと、あなたは聖書を読まねばならないということが、わたしにはわかっています。聖書を読むことによって、あなたは、主から限りない恵みと、知的成長と、霊的な光と、義と、心の平和と喜びを授けられるということも、わたしは確信を 持って断言することができます。主は、あなたをすべての真理に導いて、その真理を語らせたもうでしょう。この真理こそ、あなたが聖書の中に探し求める宝であることを、決して忘れてはなりません。

 さらば、友よ、さらば。魂の回心のために祈ってください。信ずる者の救いのために祈ってください。このわたしのためにも祈ってください。わたしは、ひとりの巡礼者にすぎない。だから、やがて、あなたに会うでしょう。あなたがつながっているからだに、わたしもつながっています。あなたと同じように、わたしも収穫のための働き人です。しかし、畑が広いので、わたしたちは、今まで顔も会わせることがなかったのです。収穫の主のために働く忠実な僕(しもべ)になりましょう。そうすれば、わたしたちは、大いなる刈り入れの日には、お互いに相見えることができるでしょう。

 あなたは、今日、多くの人々が、滅亡への広い道を捨てて、永遠の生命への狭い道にむかっていることを喜んでいるのですか。あなたは、多くの人々が、主にあがなわれておりながらも、み霊の招きに耳を傾けず、主の救いをこばみ、主との交わりに喜びを見いだすことができなくて、悲しんでいるのですか。あなたは、主を愛し、主の御国を愛しています。そうではありませんか。あなたは、兄弟を愛しています。そうではありませんか。

 神のことばを黙想するにあたって、次の二つのことを、いつも心に覚えておくようにしましょう。1、わたしたちは、生まれながら堕落した、汚れた者だという自覚を持つこと。2、主イエスとのつながりを強めること。主の御名によって。
                      さらば。

(『あらしと平安(原著書名A Faithful Guide To Peace With God)』ロセニウス著岸恵以訳1961年版529〜531頁より引用。著者ロセニウスはスウェーデン人で1816年に生まれ、1868年に召された人である。日本ではあまり知られていないが、この本は珠玉の書であり、引用者にとって教えられることの多い本である。最後の文章をほんの少しお知らせする。馥郁ふくいくとした芳香を感ずる。下記に記した聖句は著者最愛のみことばの一つであると引用者が判断するものである。)

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(新約聖書 ローマ4:5)

2012年2月29日水曜日

みことばのプレゼント

日本は雪。しかし、この二羽のひよどり、果敢にも我が庭に姿を見せる。
「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」昔、よく聞かされた「君の名は」の名台詞である。恐らく振り返りたくない戦時の思い出を封殺したいという国民感情とマッチしてこの台詞は巷に流れ出て行ったのではないかと思う。過去あっての現在だから、忘れ去ろうにも忘れられない。忘れるふりをするだけであると言う悲しさか。

 生きんがために、忘れてしまっていることがたくさんある。しかし人様から受けた恩を忘れる忘恩の罪は犯したくないものである。ふと今朝思い出したのは一人の宣教師から受けた40年以上前の恩義である。当時、私はむち打ち症の後遺症に悩まされていた。牧師夫人の紹介でその知り合いの方からカイロプラクティックの治療を行なっているというカナダの老婦人を紹介された。東京の保谷市にお住まいであった。今となってはその方のお宅にどのようにして出かけて行ったかも記憶が定かではない。ただそのお方のお部屋だけは良く覚えている。

 弟さんとか言う方と一緒に住んでおられ、私が治療に伺ったときは音楽(多分賛美歌だったのだろう)を流しながら弟さんがハミングされる。合間合間に、その婦人と弟さんの間で会話がなされる。こちらは首を初めとしてボキボキ乱暴とも言える治療に息をこらして台の上にただ静かに身を横たえ、委ねるしかなかった。(お二人とも英語しか話されなかった)それまでの安静治療が功を奏しないので、選択した治療だが全く逆療法であった。三四回通ったのだろうか。私は当時足利に住んでいたのでかなりの距離だった。

 そんなある時、台の上に寝かせられながら私は思い切って日頃抱えている問題を彼女にぶっつけ、信仰を持つのにはどうすれば良いのかを聞こうとしたが、もとよりうまく話せない、結局あなたが私に勧めたい聖書のことばは何ですか、と尋ねた。ところが彼女はこの哀れな私に向かって「Nehemiah chapter8 verse10」と甲高い声で宣った。恐らくその節を英語で話してくれたのだが、すぐわからなかった。当時、ネヘミヤ記という書が聖書にあることも知らなかった。恐る恐る日本語の聖書を調べて見ると「主を喜ぶことがあなたがたの力である」とあった。

 その時、それまで主はどういう方か、ほんとうに神は存在するのであろうかとただひたすら論証を求めていたのに、この聖書のことばは有無を言わせず私を神様の前にポンと押し出すみことばとなった。瞬時に了解した。無い物ねだりをしていた自分に気づかされたからである。そうだ、主を喜ぶことが大切なのだ。わかろうと一所懸命お前はしているが、今の知り方で十分だよ、それよりは、お前はわたしを愛することだよ、と主から語られているように感じたからである。優柔不断であった自分が一歩神様の前に自分を差し出すことを始めた記念すべきみことばとなった。

 忘れていることがある。自分は神様の前でごう慢極まりなかった。その私の救いのために多くの方が祈ってくださった。今改めてお一人お一人に感謝したい気持ちである。その後どうされたかも知る由もない、その老婦人はベイカーさんと言う方だった。恐らく今頃は天国に行っておられることであろう。天国に行ったらその方にお礼を言いたい。昨日も保谷市とは同じ界隈の吉祥寺に出かけた。40年以上前に出会ったベイ カーさん宅の前に立ってみたいと思いはするのだがどのあたりかもわからない。けれども彼女が私にプレゼントしてくれたみことばは永遠に輝いている。

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(旧約聖書 詩篇119:105)

2012年2月28日火曜日

勝利ある生活

 当時、私はアジアに出かけるばかりになっている真剣な若い宣教師の新参者だった。二人の他の友達と一緒にウォッチマンと宣教団財政から黙示録にいたるまでのすべてのことについての長時間にわたる貴重な会話を楽しんだ。彼はいかなる時も確立された宣教事業から離れるべきだとか参加するべきでないとかはほのめかしさえしなかった(Never at any time did he so much as hint that I should leave, or not join, an established missionary enterprise.)。彼が外国文化に入る主の仕え人としての私にしてくれた最上の助言は、たとえて言うなら、宣教地の最初の10年間はイギリス人の仮免許者のL字プレートの一つを身につけるということだった。(実は最初使用中のL字プレートを見た時それらは大層彼を喜ばせたのだった)やがてキリスト者にとって彼が示唆した10年間はいつまでも伝えられるべきことだと感じるようになった。
 
 ちょうどそのころはヨーロッパではミュンヘン危機を経験している頃だった。イギリスの外国人賓客としてウオッチマンは私たちがシェルターを掘り進めたり、ガスマスクを分配することに躍起になっている様をよく見ていた。当時はネヴイル・チェンバレンの「宥和政策」に対する感情的な信頼が高潮している時だった。彼は直接には巻き込まれていないので、 彼に言わせると、正しい種類の分離、別の面ではキリスト者がまさしくこの世では異邦人や寄留者のように感ずるようなことを経験していた。
 
  しかし私的なことでは彼には悲しみがあった。ほぼこの頃、香港から子どもの出産が今かと待ち望んでいたチャリティーが流産したという知らせが彼の所に届いた。妻からの手紙が来た時、手紙にはしっかりしたものがあった。けれども彼は妻が地球の反対側にいる自分にどんなに深い打撃を与えているかを感じたに違いないと知った。彼は彼女を励ますためにあらん限りの最善を尽くして手紙を書いた。実際、彼女が旅行しても良い条件が整うや否や、彼の母は彼女を連れて、ハノイを経由して昆明(クンミン)に至り、雲南省の避難している信者を訪問する大旅行を敢行した。チャリティーは実のところ二度と子どもをみごもることがなかった。したがってニー夫妻には子どもがいなかった。
 
 10月にはコペンハーゲンのフジョード・クリステンセン牧師の招待でウオッチマンはヘルシンゲン(『ハムレット』の舞台であるエルシノア)の国際学校での集会のためにデンマークに行った。そこで彼は『キリスト者の標準』と銘打ってローマ人への手紙5章から8章までの一連の10の説教をした。これらはのちに同じテーマで他のものを補足してその名前の本となった。ウオッチマンにとっては『勝利ある生活』は敗北している人によって本当のキリスト者の生き方を求める余りにもよく使い慣れた希望を意味する用語だった。「勝利※」している人々は、彼が論じたように、神の目から見る標準的なキリスト者であり、それ以外は標準以下である。オーデンスに移動するや、ウオッチマンはエペソ人への手紙の「座す、歩む、立つ」の鍵になることばで注目する話をした。彼がデンマーク人の間でかなりたくさんの人が持っているように、大変な霊の解放を発見したことは明白なようである。(It seems clear that he found, as have so many, much release of his spirit while among the Danes.)

(『Against the tide』by Angus Kinnear151〜152頁より。英文を併記したところは特に誤訳の恐れのあるところ。)

なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(新約聖書 1ヨハネ5:4)

2012年2月27日月曜日

Honor Oakでの交わり(1937年)

 ウオッチマンは次にロンドンとオナー・オウク・ロードのキリスト者交流センターへ出かけた。そこでは以前彼が一人で訪ねた時、開かれた交わりにつき論争を激しく引き起こしたところだった。すぐに彼はオースティン・スパークス氏や教会のほかの責任ある人たちと打ち解けることができた。彼はここを 一時的な本部にした。現著者がいくつかの忘れられない週を彼と過ごしたのもここだった。

 オナー・オウクの教会は主の民に広く開放されており、明確な宣教ビジョンを備えていたが、キリスト者生活における十字架の主観的な働きを強調するところもあった※⑴。そのような働きは、福音伝道の時節にあっては幾分消極的とみなされ、活動的なクリスチャンの証を余りにも「より高いことがら」をもつ受け身的な働きに転換しがちなものとして受けとめられていた。 それに加えて、オナー・オウクはニー自身のように、生活や証がより原初的な、あるいは「霊的」な模範を追求していて、歴史的な宣教からは逸脱する宣教師の吹きだまりになっていると非難されていた。このようにしてウオッチマンは再度、福音伝道の主流からはわずかにはずれた流れに身を投ずる道を選んだ。

 結果として短い間、彼との交わりを独り占めしてそれを楽しんだ私たちのそれぞれは、聖職者たちとともに、彼の体験を知り非常に豊かな思いにさせられた。彼は大層気楽に話し かけ、その東洋的な文化の背景によって私たちのキリストにある共通の遺産について大変刺激的な議論を引き起こすのだった。彼が公の席上で話す時、朝の祈り会であろうとも教会の集会の説教であろうとも、彼の英語力の素晴らしさは彼の仕草の魅力ぶりと相まって耳を傾ける者を喜ばせた。しかし私たちを勝ち得たのは彼の説教の中身そのものであった。彼は多言を要せずして、私たちにキリスト者の生活の幾つかの問題点を直裁に伝えた。それは長い間私たちを悩ませていたり、あるいは私たちが避けていた神様がいくつか要求されていることに改めて直面させるものだった。というのは、私たちキリスト者は余りにも多くの問題点に優っているからだ。まさしく彼が魅力的に「dotching the itchue」※⑵と指摘したとおりであった。また彼は中国の思想家の偉大な関心事を彼の選んだ用語で示し、しばしば私たちの陳腐化した福音的な言い回しに新しい意味をもたらすのであった。

 さらに彼は私たちの本質を洞察することができた、もちろん、洞察は信仰深いものであった。これは彼の目的はつねに彼が愛したキリストをほめあげることにあったからである。私たちの所に来て一ヶ月も経たないうちに、巧みではあるが明らかな関心を示して、私たちの危険な点、すなわち霊的な高慢を正しくも言い当てたのだ。神様は彼にすでに体験から示されていたことだった。彼は私たちに、やさしく語りかけ、「さばいてはいけません。さばかれないためです」は「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます」※⑶と同じ確かな神の原則であると語った。30年経っても、彼が私たちに話した記録は、ぼろぼろになったノートから躍り出て来て新鮮で驚くべき妥当性を示すように思われる。


(『Against the tide by Angus Kinner』の第12章Rethinking再考〈150〜151頁〉より訳す。※⑴については作品の欄外に下記に示す、みことばが示されていた。※⑵は恐らくウオッチマンの中国なまりの英語をそのまま現わしたものであろう。仮に「ditching the itches」とするなら「うずうずしている心を捨てる」とも訳せるようにも思えるが、わからない。※⑶はマタイ7:1、ルカ6:38である。いきなりWatchmanの伝記についての作品を一昨日から紹介することになったが、できるだけ紹介し続けたい。)

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(新約聖書 2コリント4:7)

2012年2月26日日曜日

ああ、何たる主の恵み!

「ヨナ、大魚の腹から吐き出される」 ギュスターヴ・ドレ絵
救いは主にある。(旧約聖書 ヨナ2:9)

 救いは神のみわざである。「罪過と罪とによって死んでいた」魂を生かし、その霊のいのちを守られるのは彼のみである。彼は「アルファであり、オメガ」であられる。「救いは主にある。」

 もし私が祈り深いなら、それは神が私を祈り深くされたのである。もし私に徳があるなら、それは神の賜物である。もし私が調和ある生活をしているなら、それは神がその御手で私を支えておられるからである。神が私を守るために先手を打たれるのであって、私はなんの努力もしたのでもない。私が持っているものはすべて、私の善いものはすべて、主からきたものである。私の犯す罪は私のものであるが、私のなす正しい行ないはことごとく主から来たものである。もし私が霊の敵を撃退したなら、主が私の腕を力づけられたからである。私が人々の前で聖い生活をいとなんだとすれば、それは私ではなく、私のうちに住まれるキリストである。

 私はきよめられているか。私をきよめたのは私自身ではなく、神の御霊が私をきよめられたのである。私は世的なものから離れているか。私は私のためにおもんぱかられる神のこらしめによって世から離されている。私は知識において成長したか。それは大教師が私を教えられたからである。

 私の宝石はすべての天の技術によってみがかれたものである。私に欠けているものは、すべて神の中にある。しかし私の中にあるものは罪とわざわいだけである。「彼こそはわが岩、わが救い」である。

 私は神の御言葉を食べて成長しているか。御言葉を私の魂の食物とし、私がそれを食べることができるようにしてくださるのは神である。私は天から降るマナによって生きているか。そのマナは受肉されたイエス・キリストであって、私はそのからだを食べ、その血を飲んでいるではないか。

 私は不断に新しい力を受けているか。その力はどこから来るか。私の助けは天の丘より来るのであり、イエスなしに私は何もすることができない。枝が幹につらなっていなければ実を結ぶことができないように、私も主につながっていなければ何もできないのである。

 ヨナが海底で学んだことを、今朝は私の密室において学びたい。それは「救いは主にある」ということである。

(『朝ごとに夕ごとに』スポルジョン著2月26日より引用)