2013年10月31日木曜日

永遠のいのち(上)

今の読んでもらいました箇所をもう一回読みます。ロマ書5章の18節(です)。

こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

このいのちとは単なる生命ではない。言うまでもなく、「永遠のいのち」です。21節を見るとわかりますね。

それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

言うまでもなく、「永遠のいのち」は聖書の中で、もっともたいせつな真理なのではないでしょうか。どうして(でしょうか)。三つの答えがあります。第一番目、「永遠のいのち」を持っていない人は誰でも天国に行くことはできないからです。第二の理由として「永遠のいのち」はイエス様がこの新しいいのちを与えるために、この世に来られなければならなかったから、たいせつです。三番目に「永遠のいのち」は、人間の永遠の運命を決定しますから、聖書の中のもっともたいせつな真理です。この三つの点について簡単に一緒に考えて見たいと思います。

先ず第一番目、「永遠のいのち」を持っていない人は誰も天国に行くことはできません。天国には主なる神のいのちがあるだけです。そのほかのいのちは天国にはありません。この「永遠のいのち」すなわち、「主なる神のいのち」を持っている人だけが天国へ行きます。そうでない人は天国へ入れません。ですから、「永遠のいのち」が聖書の中で一番たいせつにされていることなのではないでしょうか。どんな人間も「永遠のいのち」を持たなければならない。ですから、これは欠くことのできないものです。

聖書によると、すべての人々は、「永遠のいのち」を持っていないから死んでいるのです。すなわち、霊的に死んでいるのです。一ヵ所読むとわかります。エペソ書2章、342頁になります。エペソ人への手紙の2章1節から3節までお読みします。パウロのエペソの兄弟姉妹に書き送った文章です。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

ロマ書6章の最後の節23節に、皆さん何回もお読みになった箇所ですが

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

「永遠のいのち」とは、勉強した結果、努力した報いではなく、賜物です。最高の宝物です。ここで 「罪から来る報酬は死である」と言っています。死ぬであろう、なのではなく、「死んで、現在(いま)死んでいる」と言っています。この死は将来のことでなくて、今ある死です。この死はわれわれの葬式を意味しているのではなく、罪に死んでいる人間の今の状態を言うのです。

人間は三つの要素から成っています。それは精神と魂と肉体です。創造主が人間をそのようにお造りになったのです。けども、主なる神がエデンの園に人間を置き、その園を耕し守らせられた時、主なる神は、人間に「善悪を知る木」を注意するようになさったのです。主なる神は、人間に、(創世記2章17節を見ると)次のように言われました。

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。

けども、3章を見るとわかります。人間は主なる神の言うことを聞こうとしなかった。聞く耳がなかったから、取って食べました。その第一の人が罪を犯したとき、その人の何が死んだのでしょうか。「食べると死ぬ」と言われた。彼は取って食べた。けど何が死んだのでしょうか。体でしょうか。もちろん、そうじゃない。アダムの体は以前と全く同じように生きていました。それともその人、アダムの魂が死んだなのでしょうか。アダムの理解力が死んだのでしょうか。感情が死んだのでしょうか。決してそうではない。アダムはまだ考えることができたし、感ずることもできたし、計画することもできたんです。前と全く同じです。そしたら、何が死んだのでしょうか。聖書によると、精神が死んだんです。

アダムは自分の精神によって主なる神との交わりを持っていたんです。罪を犯す日まで主との交わりを持っていました。しかし、罪を犯したその時、主なる神とつながりが消えてしまいました。交わりがなくなったのです。ですから、人間の精神は生き返らなければなりません。生まれながらの人間の体は生きています。魂も生きていますけど、精神は死んでいます。そしてその精神を新しいいのちで新しくされなければなりません。生まれながらの人間は主なる神によって永遠のいのちを精神にもらわなければなりません。さもないと、永遠に死ななければなりません。「永遠のいのち」がなぜ聖書の中でそんなにたいせつな真理であるか、そのわけは、どんな人も「永遠のいのち」を持たなければ、永遠に死んでしまうという点にあります。

(昨日の昼間行なわれた家庭集会の聞き書きである。二年前の10月一人のご高齢の方が病床で息を引き取られた。しかしその二日前やはり家庭集会に来られたベック兄から慰問を受けみことばを聞かれた。もはや会話はできなくなっていたが、意識の朦朧としている中で、奥様からペンをもぎとるようにして手にされ、「これで十分だ」と書かれた。主イエス様を受け入れることによって「主なる神のいのち」をいただかれたからだ。)

2013年10月30日水曜日

「宗教」と「啓示」(最終回)

再び浅間山 2013.10.12
神は第一に自然界の被造物を通して、第二に御子イエス・キリストを通して、第三にみことばを通して、ご自身を「啓示」して下さいました。第三にみことばを通して、ご自身を「啓示」して下さいました。しかしこの神の「啓示」も人間がそれを信じなければ、何の意味も持ちません。信仰がなければ、神を知ることはできません。信じたいと願う人には、神は助け主である聖霊を送って信仰を与えて下さいます。この信仰によって私たちは被造物に現わされた創造主なる神を知ることができます。またこの信仰によって、私たちは御子イエス・キリストに現わされた、神ご自身の本質を知ることができます。またこの信仰によって私たちは聖書に現わされた神のみこころについて知ることができます。これらは、上から、つまり神の側から人間に与えられた三種類の啓示であり、人間はこの啓示を幼子のような素直な心で受け入れるならば、神ご自身を体験的に知ることができるのです。神の力は被造物に現わされており、神の愛は御子イエスに現わされており、神の義はみことばのうちに現わされています。

神を知りたいと思う者は、神に近づく必要があります。そして、神に近づくためには、自分が神の前に罪人であることを認め、その罪を悔い改めることが必要です。しかし、聖霊が働かれなければ、人は自分の罪を認めることも悔い改めることもできません。そして悔い改めには信仰が伴わなければなりません。罪を悔い改め、イエスを救い主として信じた者の心には聖霊が宿り、新しい生まれ変わり「新生」を体験するのです。聖霊は理性に光を与え、魂に喜びを与え、人間に正しい判断力を与えてくれます。こうしてイエスを救い主として受け入れた人は、今までとはまったく違う新しい人生を歩むようになるのです。そして、真理に対して心を開く者は、必ず次のように言うことができるようになります。

私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。(ヨブ40・4)

私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ42・3)

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。(ヨブ42・5、6)

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1・12)

しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3・7、8)

(「実を結ぶいのち」146〜147頁より引用。先週火曜学び会でKさんたちとお出会いする中で、この「宗教」と「啓示」の文章をもう一度確かめてみたい思いになって五回に分けて載せさせていただいた。ところが昨日の学び会によもやと思われたKさんが再び現われた。今回は前回と違って、集会開始時間11時に間に合い、メッセージも証も聞くことができたと言われた。そして再び、「啓示」のすばらしさ、みことばのすばらしさを賞賛された。ベック兄は人々には未来は不確かである、それゆえ不安・恐れが伴う。しかし主イエス・キリストを信ずる信仰者にとって未来は確かである。どこに根拠があるか、それは主のみことばである。そしてみことばは「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」と約束してくださっていると前置きしてテサロニケ第一4章から先週に引き続いて語られた。再びKさんは私は今まで集会の冊子を見る度に学歴の優秀な人ばかりが証をしていて、私には関係ないと思っていた。しかしそれは私が劣等感に囚われていただけで、そんなことは主の前には何の関係もないのだ、悔い改めさせられたと言われた。私は先週ベック兄が語られた主の怒りの日に主を信じないすべての人がその怒りから守られようと岩の間に身を隠すと紹介されたくだりを思い出した。黙示録6・15〜17である。「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」そして七という完全数が示すように、ここに出てくる7種類の人々はすべての人間を代表する者だと言われた。学歴があろうとなかろうと、善良であろうとなかろうと同じように主の怒りは燃えあがる。あだや啓示のみことばに不忠実でありたくない。)

2013年10月29日火曜日

「宗教」と「啓示」(4)

朝ぼらけ 秋明菊 輝けり
第二に、神は御子イエス・キリストを通してご自身を「啓示」して下さいました。私たちが自然界を通して知ることのできる神は、「全知全能なる神」、「裁き主としての神」であり、この神の前に私たちは畏れおののかなければなりません。しかし、一方で、神は、私たちの罪の問題を解決して恵みを与えて下さる方であり、主イエスの贖(あがな)いのゆえに、私たちの状態をのろいから祝福に変えて下さる方であり、私たちの霊の父となって下さる方です。ですから神がご自身を御子イエス・キリストのうちに「啓示」して下さることがどうしても必要なのです。

神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1・1〜3)

自然界は神の造られた作品ですが、御子イエス・キリストは、「神の本質の完全な現われ」です。これこそ、上から与えられた神の偉大なる啓示です。主イエスについて知ることによって、私たちは神を知ることができるのです。これこそ、神の側から私たち人間に与えられた「上から下へ」の道であります。主イエスは「ヨハネによる福音書」の中で、次のように語っています。

あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。(ヨハネ8・23)

神の本質がどういうものであるかということを、私たちは主イエスを通して知ることができます。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1・18)

御子イエスは神ご自身の完全な現われです。私たちはイエスを通して、主イエス・キリストの父なる神、愛と正義の神、生けるまことの神、また聖なる神を知ることができます。これは主イエスを救い主として受け入れた者だけに与えられる特権です。神の愛をとらえるのは、人間の理性ではなく、感情でもなく、霊です。この霊によって私たちは、御子イエス・キリストを通して現わされた神の愛を知ることができるのです。イエス・キリストを通して、主なる神は、私たちひとりひとりに、個人的にご自身を現わしたいと願っておられるのです。

神はこのように御子イエスを通してご自身を「啓示」しておられるのですから、人間にはこのイエスを受け入れるか拒むかという決断をする責任があります。イエスを受け入れる者は、新しい生まれ変わりを体験します。聖霊によって、その人には、新しい人生の目的と価値観が与えられます。またこの聖霊は、日々救いを受け入れた者と共にあって、真理に導いて下さいます。ところがイエスを拒む者は神の愛をも救いをも拒むことになり、その結果、自ら滅びの責任をとらなければならなくなります。私たちは、御子イエスを通して、贖いを成就して下さる方としての神をはっきりと認めることができるのです。

それでは、一体どうしたら私たちは主イエスを知ることができるのでしょうか。これはみことばを通してです。私たちはみことばを通して主イエスをはっきりと 知ることができます。これが第三の「啓示」です。主イエスはこの地上におられたときは人間の目に見えるかたちでご自身を現わしてくださいましたが、今日では、聖書を通してご自身が全人類の贖い主であることを明らかに示して下さっています。聖書は、聖霊によって記された神のみことばであり、私たちはこの聖書によって、主なる神のみこころを知ることができ、贖いの意味について知ることができ、万物の存在の目的について知ることができるのです。神が人間に望んでおられることはみことばを通して人間が神のみこころを明らかに知ることができ、自分のわがままな意志に従って生きる生き方を捨てて、神のみこころに従って生きるようになることです。神のみことばを拒む者は、神とのあらゆる交わりを閉ざしてしまうことになります。

(「実を結ぶいのち」143〜146頁より引用。「御子は神の本質の完全な現われである」とは上述のみことばが示すイエス・キリストである。古今東西様々の画家がイエス・キリストを何とか描きたいと作品にするが、どんな画家の力作をもってもあらわしえないのではないだろうか。映画『ベン・ハー』が成功しているのはイエス・キリストを俳優をもって表現しなかったところにある。しかし、私たちが素直に聖書の表現するイエス・キリストを受け入れ、信頼するとき、私たちの霊はイエス・キリストを体験できる。神のことばである聖書の「啓示」に心をしたがわせる時にまことの自由を人は体験できる。)

2013年10月28日月曜日

「宗教」と「啓示」(3)

海辺※ 2011.12.11
私たちは科学的な方法によっては、神を完全に把握することはできません。人間の理性には限界があり、無限の存在である神を百パーセント理解することは不可能なのです。人間の努力によって、すなわち、「下から上へ(地上から天へ)」という方法では、神に到達することは決してできないのです。それにもかかわらず、人間が有史以来試みてきたことは、何とかして人間の側からの努力によって神に到達しようとする試みでした。

人間が神に近づこうとするとき、ふつう次の三つの方法を試みます。第一の方法は、理性による方法で、哲学の目的はここにあります。第二は、感性によって、神をとらえようとする方法です。これは神秘主義と言われます。第三は人間の意志によって神に到達しようとする試みです。ところが第一の方法である「哲学」は必ず乗り越えることのできない大きな壁に突き当たり、第二の方法である「神秘主義」は方向性を見失った自己満足に陥ってしまい、そして第三の方法である「修行」は人間の尺度による間違った希望を目標としがちであります。つまりこれらの三つの方法によっては、神に到達することはできないのです。確かに人間はこのような方法をもって自分自身の神概念をつくりあげることはできるかも知れませんが、それでは生けるまことの神に到達したことにはなりません。

「下から上へ」すなわち人間の努力によって神に到達し、神を理解しようとする試みは、結果的には、人間を偶像礼拝へと導いてしまいます。偶像礼拝とは、唯一のまことの神以外のものを神とすることであり、偶像は人間が造り出したものにほかなりません。「下から上へ」という方法に基づく宗教や世界観は、私たちを真理へ導くものではありません。まことの神は人間によって造られたのではなく、人間が神によって造られたのです。ですから、人間が造った神は、まことの神ではなく、偶像にすぎません。偶像にはいのちがなく、私たちに永遠のいのちを与えることもできません。

これに対して、生けるまことの神は、ご自分のほうからご自身を「啓示」してくださり、人間に求める心さえあれば、神に出会うことができるように道を備えて下さいました。まことに神は人間がご自身に出会われることを切に望んでおられるのです。神が愛をもってご自身を現わしてくださること、これを「啓示」と言います。

この「啓示」には三種類のものがあります。第一に、神は自然界の中にご自身を現わして下さいました。

なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1・19〜20)

このように、私たちは自然界の中に創造主なる神を見出すことができるのです。いかなる人間も、自分から新しいものを創造することはできません。人間が発明・発見と呼んでいることがらは、すでに神によって創造されているものを発見すること、また、それを活用することにほかなりません。たとえば、今世紀になって発明されたとされている電気や原子力なども、この例にもれません。大自然を見て、私たちがなすべきことはただひとつです。すなわち自然界の個々の被造物を通して、それらを造られた創造主である神を認めるということです。神は被造物の中に、神ご自身、神の力、神の知恵、神の配慮、神の真実、そして神の限りない愛などを「啓示」しておられます。また一方、罪を決して見すごしにはされない神の峻厳さも、同時に「啓示」されています。被造物は罪のゆえにのろいのもとにあるということも事実だからです。被造物はこぞって神を証ししています。自然科学者は、自然を研究すればするほど、自然の背後にある創造主の存在について認めざるを得ないと言います。自然を知ることは、神を知ることにつながるのです。正しい自然科学は、私たちを神への礼拝へと導きます。

しかし人間は、この神からの「啓示」に対して、どのような反応を示してきたのでしょうか。大部分の人間は神の作品である自然を認めていながら、その造り主である神を認めようとはしませんでした。その結果、神に対する畏れも知らず、神を礼拝しようともしませんでした。神を認めないということは、神の裁きのもとにあるということを意味しています。

愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。(詩篇14・1)

つまり、神を認めないことは、自らを愚か者に定めていることにほかなりません。彼らに弁解の余地はないのです。人間は、神を認めることを拒否した結果、自らを霊的な盲目状態に陥れてしまい、神について何も理解することができなくなってしまい、その結果、「神はいない」と主張するようになってしまったのです。しかし人間は、この盲目の状態から回復され、霊的ないのちを再び与えられなければなりません。そしてそのための道をも、神は私たちに与えて下さっています。

以上でおわかりのように、神は自然界を通してご自身を「啓示」しておられます。

(『実を結ぶいのち』140〜143頁より引用。
※ニュートンは「世の人は私をどんなふうに見ているか知らぬが、わたしはただ真理の渺茫たる大海を前にして、めずらしい貝、美しい小石をひろいながら浜辺に遊ぶ子供たちのしているようなことをしてきただけだ」と言った。その墓石には次のように刻まれているそうだ。Nature and natural law lay hid in night! God said let Newton be! And all was light! 自然と自然の法則が暗夜の中にかくされていた! 神「ニュートン出でよ」とのたまい、かくてすべては光かがやいた!〈信仰偉人群像27頁より〉)

2013年10月27日日曜日

「宗教」と「啓示」(2)

浅間山             2013.10.11
また、インドでは、他の東アジアの国々(註1)と同様に偶像礼拝すなわち誤った祖先礼拝も広くおこなわれています。聖書は死者を礼拝したり、香をたいたりすることを固く禁じております。(死者を礼拝してはならない=出エジプト20・2〜6、申命11・16、17、26、27、28。死者に香をたいてはならない=出エジプト30・34〜38、レビ10・1、2)それらは、死者を葬っているのではなく、悪霊を礼拝しているのだと、聖書は警告しています(1コリント10・19〜22)。死者の霊は神のもとに帰っているのであり、私たち生きている者が死者の運命を左右することなどできません(伝道者の書12・7「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」)。それをあえてしようとすることは、神に対する冒瀆にほかなりません。人々はこうして、真の神から隔たった存在になってしまうのです。数々の、いわゆる宗教の特徴はそれを信じる人々をまことの救いから遠ざけ、さらには、人々が自分で気付かぬうちに、悪霊の支配下に置いてしまうところにあります。

ところが、現代の私たちの周辺には、宗教と名の付かない宗教がはびこっています。それは、仕事であり、趣味であり、慣習であります。仕事に関して言えば、聖書は怠惰を禁じています。「働かざる者は食うべからず」と最初に語ったのは、聖書です(2テサロニケ3・10)。しかし、仕事や会社が人生のすべてになり、それによって支配されてしまうなら、これは神の喜ぶことではありません。よき趣味を持つことは、すばらしいことです。しかし、趣味や遊びによって、自分が支配されるというなら、これも不幸なことです。また、自分の判断を持たずに、ただ、多くの人がするから自分も行ない、それで正しいと考えている人も不幸です。これらの人々は、私たちの身辺にも意外と多いものです。これらの人々の特徴は、人を恐れて神を恐れないということであり、その原因はまことの神を知らないところにあります。人々の顔色をうかがうことに一生懸命になっている人は、生けるまことの神との結びつきを持っていません。

主イエスは次のように言われました。

わたしは人からの栄誉は受けません。互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。(ヨハネ5・41、44)

私たちは、あわれな「人間の奴隷」となるか、または、何物にも束縛されない「神の僕(しもべ)」となるかのどちらかの道を選び取る必要があるのです。

私の書斎にはかなり部厚い聖書大辞典がありますが、ある時思い立って「宗教」という項目を探してみました。この本には、聖書に出てくるすべての項目が網羅されていますが、「宗教」という項目はついに見出すことはできませんでした(註2)。つまり聖書は「宗教」と全然関係がないということがいえるのです。それでは、聖書はまことの神について、また、上からの「啓示」について何をいったい私たちに教えてくれるのでしょうか。このテーマで次に考えてみることにします。

(『実を結ぶいのち』ゴットホルド・ベック編著138〜140頁から引用。
註1 インドが東アジアの一員と考えられていることに抵抗を感ずる方もおられるであろう。これは編者がドイツ人であり、ドイツから見たインドの地勢観によるものと思われる。アジアに位置する私たち日本人から見るなら、インドは南アジアであるが、アジアを風土・文化を加味して大分類するなら西アジア〈乾燥アジア〉と東アジア〈モンスーンアジア〉の二大分類ができなくもない。そうするとインドも日本もやはり東アジアとして共通項にひっくるめることができる。
註2 私の手もとにある文語訳聖書語句事典1955年聖書図書刊行会版には「宗教」という一行項目があるのみだが、それにはsectと言う英語表記が併記してあり、使徒26・5、使徒28・22があがっている。むしろ「信心」という一行項目にreligionと英語表記の併記があり、新改訳聖書では同じみのヤコブ1・26〜27があげられている。だからこれも編者がここで言われていることと大差はないと言える。

2013年10月26日土曜日

「宗教」と「啓示」(1)

「風の歌Ⅰ」 吉岡賢一 二紀展より
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1・12)

人々は、いわゆる「宗教」と「イエス・キリストに対する信仰」とは同質のものであると考えていますが、これは大きな誤解です。「宗教」は人間が作り出したものであり、「イエス・キリストに対する信仰」は、上からの啓示によって与えられたものです。そこで、いわゆる「宗教」とイエス・キリストによって与えられた「啓示」がどのように本質的に異なるかということを、この章(註1)を通して明らかにしてみましょう。

ロシア革命の指導者、レーニンの有名なことばに「宗教は人民にとって阿片である」(註2)というものがあります。ここでレーニンは「宗教」ということばを使っていますが、彼はいわゆる宗教信者だけではなく、真の信者をも念頭においてこのことばを用いました。確かにレーニンは、心の支えを持っている人間は、まことの神を礼拝することや真理に従うということに関しては絶対妥協しないということを知っていました。まことの信仰を持っている人は、主イエスに不従順な道を歩むよりは、喜んで殉教の死を選ぶからです。レーニンは、革命を遂行するために、人間をあやつり人形のように自分の思う通りに従わせたかったのです。レーニンの必要としたのは、自分自身で考え、行動する人間ではなく、彼の指図通りに動く人間でした。ですからレーニンは心の支えを持った人間を憎まざるを得なかったのです。

同時にこのレーニンのことばは、いわゆる宗教信者に対しても当てはまることばであるとも言うことができます。仏教、神道、儒教、イスラム教などはもちろんのこと、キリスト教でさえ宗教としての側面を考えるとき、このレーニンのことばは、鋭く一面の真理を指摘していると言わざるを得ません。なぜなら、これらの「宗教」の特徴のひとつは、「阿片」のように、人々の判断を麻痺させたり、霊的に盲目にしたりしていることであり、この結果、人々は真の神から目をそらし、永遠の救いに至る道を見失い、本来神でない神、すなわち、偽りの虚しいものに、根拠のない希望を置くようにされてしまっているからです。

いわゆる「宗教」は、キリスト教、仏教、神道、儒教、イスラム教、その他種々の宗教も含めて、すべて人間が作り上げたものです。これに対して「まことの啓示」は、上から与えられるものです。「宗教」は人間を永遠のいのちに導き入れることはできません。「上からの啓示」だけが私たちを滅びから救い出し、他の何ものによってもゆるがされない「喜び」と「希望」と「平安」を与えることができるのです。聖書も語っているように、すべての人間には、例外なくまことの神を慕い求める思いがあり、(伝道者の書3・11註3)この思いを、多くの人々は、種々の「宗教」を通して満たそうとしています。人間の側から神に近づこうとすること、これが「宗教」の本質です。これに対して、「啓示」とは、まことの神が、ご自分の側から人間に対してご自身を現わしてくださり、人間が体験的に神を知ることができるようにして下さることを言います。このことを具体的な例をもって考えてみましょう。

インドは世界中で、最も貧しい国のひとつであると言われています。六億の人口をかかえ、子どもたちの50パーセントから70パーセントは、慢性的な栄養失調に陥っているのが実状です。インドは世界各地から毎年莫大な小麦を輸入しています。ところがある学者によれば、インドは本来十分な食糧を自給できる国であり、さらに、それを輸出することさえできるはずであるとのことです。それでは、一体何がインドをこのような貧困に陥れているのでしょうか。それはほかならぬ「宗教」なのです。インドには約50億匹のドブネズミがいます。つまり、インド人ひとりに対して8匹のドブネズミがいるという勘定になります。ですから、インドのドブネズミは、すべてのインド人よりもたくさんのものを食べていると言うことが言えるのです。インドの宗教によれば、ドブネズミは神聖なものであり、殺してはならないとされています。ですから、インドのドブネズミは撲滅されずに増える一方です。そしてその代償として多くのインド人の子供たちが餓死してゆくのです。私たちはここに「宗教は人民にとって阿片である」ということの一例を見ることができます。

(『実を結ぶいのち』ゴットホルド・ベック編著136〜137頁から引用。
註1この本は三部に分かれており、上述の文章は最後のⅢ光を見上げて—宗教から救いへ—の第二章からのものである。ちなみに第一章は「みこころに反する祈り」、第三章は「仰げ主を」である。
註2このことばは厳密にはマルクスのことばである。しかし、レーニンもこれに似たことばを用いているようだから大意としては差し支えないであろう。
註3「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」

2013年10月25日金曜日

刎頸の交わり(その1)

交わりに参加し、鳥かごから出て来たインコ Tさん宅で
表題は「ふんけいのまじわり」と読む。国語辞典によると「首を切られても悔いないほどの、生死を共にする親しい交際」とある。このような語彙はかつて田中角栄氏と小佐野賢治氏との交わりなどを表現する場合に使われていたように記憶する。

今週火曜日に定例の集会に出席して、そのあと二人の方とお交わりした。一人の方Kさんとは二回目、もうひとりの方Tさんとは三回目であろうか。KさんとTさんはお互いに初対面であった。私を介してのお交わりになった。ほぼ一時間ほどの昼食をともにするお交わりであった。お互いに主イエス様を若い時に信じ(Tさんは19歳、Kさんは25歳、私は27歳)、教会生活も送ったが、今は教会には集っていない。

あまりお互いの素性は知らない。ただ主イエス・キリストを救い主として信じ、永遠のいのちをいただいている確信のある者同士である。Tさんは1950年生まれ、Kさんは1947年生まれ、私が戦前だから一番年長になる。ここ二三年に集会に来られて知り合った間柄である。ところがいずれも教会を経由して来ているので、「宗教」の恐ろしさを体で体験している面々である。「宗教」にはだまされないゾという覚悟が互いにある。

談たまたま、その日の短いベック兄のメッセージの話になった。当日の題名は「もうちょっと」で第一テサロニケ4章13節から18節が引用聖句であった。「もうちょっと」とは主イエス様が再び来られるのは、もうちょっとという意味である。そのような話になったとき、Kさんが頭を抱え込んで言い出した。「ちょっと、待って。俺は毎日これは自分が正しいと思ってやっているけれど、ほんとうにそうでなかったらどうしよう。主に裁かれ、お前なんか知らないと言われるかも知れない。やはり『主よ、これはどうなんでしょうか、まちがっていないでしょうか、教えて下さい』と祈って行動しなければ」

あとでわかったのだが、Kさんは仕事が忙しく、やっとの思いで集会場に来たのだが、メッセージも証も聞いていない、私に会いに来たのだと言う(私が集会に来ているかどうかも分からないのに・・・)。その彼がすぐそのように反応したことに私は正直驚いた。メッセージをじかに聞いていても私はそうは思わなかったからである。彼の純粋な信仰に目を見張らされた。

Kさんも、Tさんも、今のご時世、年金生活を送るわけに行かず、毎日生活のために日曜日もなく働いている。たまたまご両人の時間が割ける日がこの日だったと言うわけだ。集会出席は年に数回ではないだろうか。そしてそれほど会う機会のある方々ではない。しかし、ひとりひとりその日は示されて集会場に集まって来たのだ。Kさんにいたっては前言したように、集会場をあとにしようとするとき、誰かがあなたのことを捜していましたよ、と言われて大ぜい集まる人々の中でやっとお会いできたのであった。

Kさんとは昼食のあと別れ、示されてTさんのお宅に急遽行くことにした。もちろん前もって決まっていたことではない。家には病気の奥様が伏しておられるとは聞いてはいたが。目的は彼にパソコンとネットを教えるためであった。でも、それだけでなく彼の純真な気持ちと交流をともにすることに喜びを覚えたからである。そして奥様ともお会いできた(普通、そのような訪問はすべきでなく、先方も突然の珍客はいくら何でもお断りしたくなるものだ、しかしそんな気配は感ぜず、そこでさらに一時間ほど豊かなお交わりになった)。

キリスト者とは不思議な民だ。「刎頸の交わり」とは主にある兄姉の交わりにこそふさわしい。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(第一ヨハネ3・16)