2024年9月21日土曜日

主にあって愛する友の召天(上)


 今日は愛する友の誕生日でした。しかし、三日前の18日(水)、友は天に召されました。84歳を迎える直前でした。この写真の風景は、その友が元気な時、いや病を得てもその旺盛な精神力で半年前までは歩き続けたであろう古利根川べりの土手付近の光景です。

 友は持病の糖尿病や高血圧対策もあって、以前から一日一万歩もの距離を物ともせずに、古利根川沿いを歩きに歩き続けておられました。その友の話を聞いて、私もそれに比べると小距離でしたが、古利根川散策を実行するようになりました。言ってみれば、私にとって、古利根川散策の生みの親と言っていい方です。召された日の翌日、その友のことを思いながら妻と散策し、しばし友の元気なおりの姿を偲びました。

 友が、食道がんを患い、手術したのはほぼ2年半ほど前でした。病の進行とともに喉を切開し、それ以来、お話は一切できず、私たちとの交わりも筆談を通してするしかありませんでした。時折、お訪ねする折も、友は健気にもホワイトボードを持ち出し、文字を書き、私たちはその字を追うという手間のかかるものでしたが、しかし貴重なお交わりのひとときとなりました。

 さて、友は私たちより一足先に天国に召されて行ったのです。その日の午後、奥様から、「主人が何も食べなくなった。息を引き取るのが真近に迫っている。兄をはじめ親族がいるが、なにぶんそれぞれ遠方で高齢で病を得ている。来ていただけませんか」と電話がありました。前日に彦根で叔母の法事を終えて帰ってきたばかりでした。まったくこれは無駄のない主のご計画だと思わされました。一週間ほど前に病院にお見舞いに行った時も不思議と面会が許され、事態が深刻なことを理解していましたので、帰省中に召されることがあってはならぬという焦燥感を抱いていたからです。

 16日(月)私は叔母の法事に彦根で参加していました。同じ頃、友は、春日部の病院を出て、在宅看護を受けるべく自宅に戻られました。看護師さんの話によると、体は衰弱し切っていたが、お顔は晴々となさっていたそうです。しかし、家に戻って、まだ一、二日も経たないうちに、このように、臨終の時が迫ってきたのです。友は、急を聞いて駆けつけた私たちに笑顔で応じてくださいました。もちろん体はお痩せになり、頬がげっそりと落ちて、一目で闘病の激しさが窺われました。

 その間、奥様と私たち夫婦で、聖書のみことばを朗読したり、讃美したり、お祈りしながら時が経って行きました。友は、その私たちと声を合わせるかのように、しきりと口を動かしておられました(奥様のその後のお話によると、実際は呼吸を整える必要があってのものだったようですが)。静かなひとときが続きました。そのうちに奥さんはベッドに横たわり、身動きのできないご主人の耳元に口を寄せ、しきりと語り続けておられました。何分かするうちに、ご主人が反応を示されなくなる時が来ました。付き添っておられた看護師さんが、急いで瞳孔を確認され、聴診器で確認されると、もはや息をしておられない状態でした。友の霊はこの時、静かに天の御国へと移されて行ったのです。

 それからずいぶん時間が経ってから、お医者さんが来てくださり、死亡確認をしてくださいました。私たちは静かに、目の前でその後の処置をしてくださる看護師さんたちにおゆだねしながら、さらに時を過ごさせていただきました。その間であったでしょうか、室内に掲示しておられる何点かの絵があることに気づきました。そのうちの一点にジョルジュ・ルオーの『郊外のキリスト』という作品がありました(※)。

 私には、私たちがすべてを主イエス様におゆだねしているその姿に、ふさわしい絵と映りました。私は奥さんに箴言6章22節をプレゼントし、今後の歩みもふくめ、主のお約束を一緒に聖書をとおして確認させていただきました。別の病を得て入院中の一人娘のお嬢さんも、この時お父さんのために祈っておられたと思いますが、一方、春日部キリスト集会ではこの間、別会場で並行して集会が持たれており、その席で、友の8年前、2016年6月21日になさった証を聞いて、友のために祈って下さっていたそうです。それを終えて、馳せ参じて下さった方に最後、感謝のお祈りをしていただきました。その冒頭でピリピ3章21〜22節のみことばがその方の口をついて出てきました。私はそのみことばを耳にしながら、これこそ今の友に最もふさわしいみことばだなーと思わされました。

私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(新約聖書 ピリピ3章20〜21節)

 今まで臨終の席に立ち合わせていただいたのは、当然ですが、ほんの少しです。高校3年の卒業直後の1961年の母の死の時、1994年の6月の継母の召天の時とわずか二回です。(1981年に毛呂山の病院に入院中の父が亡くなった時は、ちょうど私は春日部の教会で礼拝をささげていたので、その死を知りませんでした。何も知らず、いつもの調子で電車を乗り継いで、父の大好物の品々をあつらえて、やっとたどり着いた先に、待ち構えていたのは変わり果てた父の姿でした・・・・)

 私は1970年に主イエス様を信じました。それよりも10年前の1961年に病院で息を引き取った母の死は救い主イエス様を知らず、信じていなかったので、悲しみ以外の何物も感ぜられませんでした。ところが1981年の父の突然の死は臨終にこそ立ち会えませんでしたが、敬愛する主にある兄姉の祈りに支えられ、父の死を主からの祝福と受け止めることができました(ローマ8章28節)。そして、1994年の、主を信ずるように変えられた継母の召天は家族にとり、最大の出来事でありましたが、その召天を真心から主に感謝するひとときとなりました。

 それに比べ、今回の友の召天のひとときは、静かなうちにも、死から生へ、死からの復活が何か見えるような思いにさせられました。そして、主が罪と死に苦しまざるを得ない私たちに、その愛がどんなに、私たちの分を超えた愛か、罪人を天国に導いてくださる出来事であるかをしみじみと味わせてくださる時であったように思います。もちろんご家族にとって愛するご主人、またお父さんを地上で失くす喪失感は増しこそすれ、その悲しみは尽きないと思います。しかし、主なる神様はきっと残されたご遺族を豊かに導いてくださると確信する者であります。・

※私が友人の家で見たものは、奥様が1988年に読売新聞に載ったものを見つけ、切り抜き貼り出して額に納めておかれたものでした。したがって白黒版でした。それにもかかわらす、上記のいきさつで惹かれてしまったのです。ルオーについてまったく何も知らない私にとり、下記のブログは、ルオーの作品の原色版であり、その解説を読み、大変な慰めを受けました。どういうどなたのブログかわからないのですが、以下にそのサイトを載せておきます。http://suesue201.blog64.fc2.com/blog-entry-320.html

2024年9月20日金曜日

叔母の思い出(下)


 これは、何と読めばいいのでしょうか(※)。9月16日(月)、彦根の叔母の十七回忌に出席したおり、玄関の上がり端に飾られていた額です。叔母は、晩年、このような書をたくさん書いていました。一度、「遊」というたった一文字を大きな和紙に大書した作品を見たことがあります。それは、子どもたちが、楽しげに遊ぶ姿を彷彿させる字で、見ていて楽しくなり、その大胆な構成に驚いたことがあります。

 私としては叔母が病を得て亡くなるまでの3年ほどの間に、4、5回はお見舞いできたし、その間に貴重なお交わりを得たことに満足を覚えていましたが、法事の席で、「お父さんが出征し、間もなく戦死の報が来て、家では子どもがいないので養子の話さえあったところ、お腹に赤ちゃんを授かっており、事なきを得た」旨の話がありました。いとこは何不自由もなく育ったように思っていたが、やはり、その成長にあたっては戦争の影が人知れずあったのだと思わされました。

 そのような叔母自身は夫のいない戦後の生活の中で心の拠り所を求めて、お城のお堀端にあった近くのカトリック教会に通い、「公教要理」も学んだと言っていました。近くには日本基督教団の教会もあり、またそれ以上に多くのお寺が近くにあり、仏都ですので信仰を持つには至らなかったようです。ただ、習字に端を発する様々な文化活動にも参加して、一人息子が京都伏見で世帯を持っても、病を得るまでは、一人で彦根の家を切り盛りして守っていました。彦根にいる時は、帰省のたびに叔母を訪ねるのが習慣であり、私にとってはホッとする寛ぎの時でもありました。それだけに病を得て京都伏見に身を寄せ、当地の病院にお世話になっていると聞いた時は、いったんはお見舞いは無理だと思ったものです。

 しかし、不思議なことに、当時私はキリスト集会のメッセージの当番で関西方面に参ることが多くあり、その帰り道を利用して、何としででも叔母に「福音」を伝えたいとの思いに導かれ、芦屋の方々にも祈っていただき、ある時は京都在住の方と一緒にお見舞いに行ったこともありました。最後にお見舞いした時はいとこに案内されて病室に入りましたが、祈りのうちに対面させていただいて、静かに辞去したことを覚えています。それから間もなく亡くなったことを知りました。

 法事はお坊さんの三十分ほどの読経、講話が中心でした。曽孫さんである若者6人をふくむ20人の参列者でしたが、お坊さんが講話で、その若者を念頭においてでしょうが「今はわからないと思うが、大きくなったら、今日の法事の意味がわかると思います。ご先祖さんを大切にしてください。」と言って話を閉じられました。残念ながら、こちらはお経の意味がわからない、何がわかるようになるのか、それは「先祖崇拝」ということだと思うが、それで私たちの心の平安が得られるのだろうかと思いながらお聞きしていました。

 先祖と言えば、私たちの先祖は一体誰なのでしょうか。帰ってきてから、家内と毎日輪読している聖書の個所はとうとう旧約聖書の1歴代誌1章に入りました。実際にお開きになるとお分かり願えると思いますが、それこそお坊さんの読経も顔負けするほどの人名の羅列です。いったいこれにどんな意味があるのだろうかと思いました。ちなみに、その冒頭は「アダム、セツ、エノシュ」です。辟易する私たちに、F,B.マイヤーは次のように語っていました。ご参考のために全文を転記させていただきます(『きょうの力』234頁より)。

 歴代誌のへき頭は、えんえんと続く名まえの羅列です。さながら大昔の墓場を見るここちです。かつて、生まれては死に、愛しては傷つき、叫んでは戦った人々も、この堅い墓石には、ただ冷然と、その名まえが刻まれるだけなのです。

 けれども、これらの人々の存在は無意味ではありませんでした。これらの人々は、みなひとりびとり、民族の進展の重要な一コマ一コマであったのです。父たり、子たりして、いのちのともしびを継承していったのです。山の頂も広い裾野あればこそなのです。

 しかも、実はこのひとりびとりが神の愛の対象であったのです。この点のようなひとりびとりが、みな主の贖いの目標であったのです。と同時に、また、どの人もみな終わりの日の神の審判の前に立つのです。

 「アダム、セツ、エノシュ」と読んで、すべての人が、みなひとりのアダムから生まれ出たものであることを、いまさらながら確認させられるとともに、その第一のアダムから出たあなたが、第二のアダムである主イエスに接木された者であるという神聖な喜びにあふれるように。

※その後、額の字は何と読むのかという私の問いに対して、いとこから、メールで、「『年豊人楽』であり、読み方は私もいい加減ですが『年豊かにして人楽しむ』ではないでしょうか。母の願いだったのでしょうね。」と返事が来ました。叔母は1921年に生まれ、2008年に亡くなり88歳の天寿を全うすることができました。新婚早々夫を戦争で亡くし、以後姑に仕え、一人息子を立派に育て上げ、書などを通してたくさんの知己を得られたのでないでしょうか。福音は戦後すぐに叔母に届きました。そして、最晩年には甥である私を通して福音をお聞きになられました。いとこの小学校の担任の娘が、後に私の妻となるにあたって、「福音」は私に届き、その「福音」を私はいとこや叔母に伝えるように変えられたのです。

 改めて、叔母の残した「年豊かにして人楽しむ」の言わんとすることを、私なりに考えてみました。「年豊か」とは素晴らしいことです。ですが、「人楽しむ」とは、中々難しいことです。それは主なる神様が与えてくださるものではないでしょうか。その証拠が私たち人間の罪と死からの救い主である神の子であるイエス様です。だから、真の楽しみを与えてくださるお方は、唯一主イエス様です。贖い主イエス様です。この方以外にありません。そのことを下の二つのみことばは示しているのではないでしょうか。叔母の88年の生涯の歩みもその上にあったと私は確信しています。

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。(旧約聖書 出エジプト20章12節)

すべての人は、・・・神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(新約聖書 ローマ3章23〜24節) 

2024年9月10日火曜日

ああ、伊吹山!


 「伊吹山」です。手前の川は、「姉川」のつもりです。先週土曜日(9/7)、米原発大垣行きの列車の車窓から撮りました。伊吹山は父の故郷です。その父は農学校を卒業して師範を目指しました。残念ながら、不合格でしたが、臨時教員養成所に入り、教員の道を歩んだようです。それが戦前の父の姿でした。

 しかし、私が父の仕事を知った時は、教員でなく、農林省の食糧検査官としての父でした。私は父にそのへんの事情を尋ねることもなく、また父も話さなかったために、詳しいことは知らず仕舞いでした。その父は1981年(昭和56年)に69歳で召されました。

 召されて後に、父の日記やアルバムなどを見て、父の思いを少し知るようになりました。師範を受験する際の猛勉強も日記に記していましたし、教員になってからの記録には「姉川」のことが書いてあり、私にとって。車窓からとは言え、いつも食い入るように見る風景の一つです。

 この伊吹山(※)には二回程度登った記憶があります。多分父に連れられての登山だったと思いますが、それ以上の記憶がありません。ほとんど、この山野を駆け巡ったであろう父は。夫を戦争で亡くした母が嫁ぎ先のお家存続のためにと切望した家(私が後継として誕生することになる)に婿養子として、入りましたが、伊吹の実家は猛反対だったようです(戦争未亡人の家に男子たる者が何を好んで入るのかと・・・)。

 そのために父もそうおいそれと伊吹には帰らなかったのではないでしょうか。そしてそんな私が何も知らないまま、ましてや夫婦間の愛情も知らないうちに、私に植え付けられた感情は父の「不甲斐なさ」でした。この微妙な私の感情はいつの間にか、父に対する尊敬心を持つことなく、育ってしまいました。主なる神様は無条件に父を尊敬せよとおっしゃっているのに。これが、私が気づかないうちに持ち続けた「罪」のひとつの始まりでした。

 今、私はそのことを思うて、父に済まなかったと思い、車窓からこの伊吹山を眺めるのです。私の好きな萩原朔太郎の「旅上」には、フランスへの憧れがありますが、私にとって「車窓によりかかる」ことはそれとまた違った父恋しさの感情にとらわれる時です。

※この伊吹山について、東京新聞社説(8/11)で「山の花畑は夢の痕跡か」と題して「山の日」にちなんで書かれていました。冒頭、「日本百名山」の著者である深田久弥の文章が伊吹山について述べた文が一部紹介されていました。<薬草の山として知られた。(中略)。織田信長が南蛮人に命じて海外の薬草をもたらさせ、この山に方五千町の薬園を作った>

子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(新約聖書 エペソ6章1〜4節)

2024年9月2日月曜日

長月よ、こんにちは

 待ちに待った「長月」の到来です。この語源にも様々な説があるのですね。私は長雨が語源だと思っていましたが、それは折口信夫の説で比較的新しい説だと知りました。今朝のブログ写真の候補にはあと二つの作品があったのですが、この写真を選びました。楠木ですが、遠くから見ると赤い実をつけているように思いましたが、同じ緑の葉が、赤くなっているのですね。実はまだ開いていません。

 昨日は日曜日で礼拝の日でした。当初、近江八幡の礼拝、彦根のいとこの家の法事出席と予定していましたが、台風10号の進路で関西行きは全く阻まれてしまいました。法事は延期、礼拝はZOOMで実施されました。礼拝はほぼ20世帯の出席でしたが、みなさんいつも通りの淡々とした落ち着いた中にも喜び溢れる礼拝でした。

 私は礼拝の後、持たれる福音集会で聖書のみことばからお話しすることになっていましたが、この日も土壇場まで焦らされました。絶対的だと思っていたみことばの解釈が、私の思い込みに過ぎないことが前日の夜半に示されたからです。それと同時にどうしても理解できていないみことばがあることにも気づきました。

 どうして毎度毎度こうなのだと、30数年間繰り返してきたメッセージのご奉仕ですが、土壇場で産みの苦しみをさせられ、パニック状態になるのです。ところが、助け手が一言「事前に間違いが分かって良かったじゃない。もしそのままだったら、間違ったことを話してしまうことになったから・・・」と言いました。途端に腹が座りました。

 少々寝るのが遅くなりましが、短いけれども自分が、主から導かれたことをお話しできるようになりました。題名は「みことばを味わう」、引用聖句は何日か前にこのブログでも引用しました箴言6章22節にさせていただきましたが、本番までに主は更に次々と私にみことばを味わわせてくださいました。そのうちの一部のお話として読ませていただいた文章が本ブログに過去掲載したことがありますので、それを記念にご案内しておきます。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2012/03/blog-post_04.html

 その福音集会の司会をしてくださった方が、終わりのお祈りの時に、「今日はみことばをともに食べることができて感謝します。今週も一人一人が主にあって霊の成長をいただけますようにお願いします」という意味のことを祈られました。主なる神様は台風10号の最接近のうちに近江八幡と春日部を豊かな恵みで結んでくださいました。

わが子よ。あなたの父の命令を守れ。
あなたの母の教えを捨てるな。
それをいつも、あなたの心に結び、
あなたの首の回りに結びつけよ。
これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、
あなたが寝るとき、あなたを見守り、
あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。
命令はともしびであり、おしえは光であり、
訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。
これはあなたを悪い女から守り、
見知らぬ女のなめらかな舌から守る。
彼女の美しさを心に慕うな。
そのまぶたに捕えられるな。
  (旧約聖書 箴言6章20〜25節)

2024年8月29日木曜日

叔母の思い出(中)

 
 昨日撮影した、何の変哲もない一枚の写真です。しかし、私には画面中央にいる水鳥(青鷺?)が一羽、大きく羽根を広げ、何処からか飛んで来て、川中へと着水。その後、続け様にグングン泳いで行く姿は極めて印象的でした。その一部始終を目の当たりにしたものですから、この写真を見るたびに、躍動する「いのち」を感じて、私には捨て難い思いがしてならないのです。

 何もわからず、人生という海に飛び込んで来た私ですが、これまでいろんな人との出会いがあって、今の自分があることを思うと厳粛な思いにさせられます。家内がすっかり老いてしまい、いつの間にか、私たち相互の恋心が結婚へと発展していったことを忘れてしまい、叔母が私たちの結婚の仲介人だった、と思い込んでいるのも、あながち嘘ではなく、正解であるような気がしております。

 叔母は息子の恩師への礼をいつまでも厚くしていたようです。息子がお世話になってからもう10数年も経っているのに、恩師のお嬢さんの結婚のお世話をしようと、見合い用の写真まで預かっていたようですから・・・。ところが、私は、叔母のその思いはつゆ知らず、まったく無関係に、そのお嬢さんなる彼女と、たまたま彼女の弟の家庭教師をしていた関係で、出会い、結婚にまで導かれようとしていたからです。そのようなある時、叔母を訪ねたら、「浩ちゃん、奥川先生のお嬢さんと結婚するんだって!」とびっくりし(まさか、甥が自分の知らないところで、そのお嬢さんと深い交際を続けているとは知らず)、笑いながら「さすがに、”みす”ちゃんの子だわ」と言いました。母美壽枝が再婚の時、婿養子として迎える父に示した熱情は印象的で、親族の間では”大恋愛”だったと語り草になっていたので、そのことを暗に指した言葉でした。

 叔母と母は四人姉妹の中で、歳も近い妹、姉として、お互いに切磋琢磨して戦後の生活の切り盛りをしていたようです。その上、一人息子の教育には人一倍熱心で、それぞれがいのちをかけていました。小学時代には、昆虫採取や、ある時は「お城」や「港湾」の写生にと、二組の母子共々で出かけたこともありました。また、附属中受験の話まであり、それはさすがに実現しませんでしたが、中学に入ると、二人して高校の英語の先生に教えてもらうために出かけて学んだり、当時流行り始めたビタミン剤が頭にはいいというので、買い求めたり、SONYのオープンリールの録音機を購入し英語学習に打ち込もうとしたりしましたが、いずれも叔母の発案があってのことだったように想像しています。

 考えてみると、私は人生の様々な場面(病や死などもふくみ)で、叔母が見せる機微にわたる感情を、その一挙手一投足から随所・随所で学んで来たような思いがします。晩年まで彦根の家を守りつつ、字の創作意欲は盛んで、書家として、様々な作品を残していました。夏の今頃、故郷に帰省してご機嫌伺いに、訪れると、決まってカルピスや西瓜などが出され、互いの近況報告など、取り留めない話をしては、私は満足して帰って行くのでした。母を若くして亡くした私にとってそれは慰安のひとときでした。それだけに最晩年になった京都伏見での病床生活の枕辺を訪れ、過去を振り返りながら、虚心にお互いに話し合い、主の福音を伝えられたことは、私にとっては忘れられない、さらに幸いなひとときでした。

 一人子をどれだけ愛したか、叔母と母の生き様は私にそのことを十分教えてくれました。そんな人間の尊い愛にまさる愛をお示しくださったのが、父なる神様の愛です。それはご自分の一人子であるイエス様を、私たちの罪の身代わりに十字架におつけになったのです。叔母や母が示した愛を振り返りつつ私はその主の愛の深さを思わずにはいられません。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネの福音書3章16節) 

2024年8月28日水曜日

叔母の思い出(上)


 台風10号の進路には、正直参りますね。その発達ぶりは今後も予断を許さないようで、過去最強と言われています。お昼頃、散歩中に彦根のいとこから携帯に電話が入りました。9月1日に予定していた、叔母の十七回忌を、台風情勢のため中止にさせていただきます、という連絡でした。

 主催者としては、熟慮を重ねての判断だったと思います。こちらとしては先ずはホッとしました。私としては前日までギリギリ待って出かけようと思っていましたが、何しろ東海地方を経由しての彦根入りですから、果たして交通機関が機能するのかという一抹の不安がありました。

 そもそも叔母の十七回忌には私一人で十分なのですが、家内も同道させようと思いました。それは私たち夫婦の結婚には因縁浅からぬ叔母の存在があったからです。叔母は、私の母の妹で、かつ二人には、その子どもが一人息子で同い年だという共通点、しかも戦争未亡人だという共通点もありました(ただし、私の母は夫を亡くしたあと、家の跡継ぎがいないため、婿養子を迎え、その間に私が誕生しました。それに対して、叔母は再婚せず、戦死した夫との遺児を生み育て、姑さんに仕えて家を守る道を選ばれました)。

 母が胃癌で最後息を引き取った病院は、叔母の家から、当時七、八分の距離にあった彦根市立病院で叔母が昼夜にわたり、心底面倒を見てくれました。当時、私は高校三年を終える受験勉強真っ只中の頃で、薄情なことに母を見舞うこともせず、父や叔母たちがせっせと看病してくれました。その恩返しもあって、叔母が四十数年後、京都伏見の某病院にお世話になった頃は、何度かお見舞いに行き、みことばを読み、祈り、イエス様にある永遠のいのちを伝えさせていただきました。

 ところで、私の家内は私を知る、はるか十数年前の幼い頃に、叔母をよく知っていたのです。それは家内の父が小学校の先生であった時、いとこの担任であった関係から来たことです。教育熱心であった叔母は、何かと遠くにある家内の家(7、8キロほど離れたところ)にご機嫌伺いに出かけたり、恵比寿講に家内家族が彦根に出かけて、たまたま道で出会おうものなら、下へも置かぬ気配りをし、決まって、まだ小さい家内はじめ弟妹たちにお菓子をたくさん持たせてくださったそうです。その話をそれから、もう70年ほど経つのに、まるで昨日のごとく、その時の情景を家内は私に語るのです。

 その家内曰く、「叔母さんが私たちに結婚するように計らってくださったのよ」と言います。私はその話を聞きながら、そんなことはない、全然違う、肝心なこと(私が家内を好きになって、結婚したこと)を家内は忘れてしまっているのだと思って聞いていますが、この年になると今ではそんなことは、どうでもいいという結論になりそうです。でも、明日はその辺の事実を書かせていただこうと思います。

これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。命令はともしびであり、教えは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。(旧約聖書 箴言6章22〜23節)

2024年8月25日日曜日

折り返し地点


「毒食わば皿まで」という言葉がありますが、あまりいい意味ではなく、悪事を最後までやり抜くことを言うそうですが、私の「蝉探訪」は、連日続いています。そして、さらに前日(8/21)より、その発見個数を増やすに至りました。昨日(8/22)は十五匹でした。

 元々、蝉の数が気掛かりになったのは、あまりにも暑い夏の日々が続いていることにあります。私の予想では当初この数は徐々に減って行き、秋に向かっていくのではないかという微かな期待と「遊び心」がありました。ところが、案に相違して一昨日(8/21)、最高数値十三匹を記録したのです。当然昨日(8/22)はそれより少ないであろうと思って出かけましたが、またしてもその予想をはるかに裏切る結果が出ました。

 でも、この結果を見るにつけ、右岸、左岸の違いに気付くようになりました。そしてそれまでの蝉観察が右岸中心であったことに思い当たりました。8/21 (水)に私は初めて左岸の木々にも目をつけ、熱心に蝉のありかを探した結果が右岸を上回る数字でした。昨日(8/22)もそのことは明らかでした。その結果、右岸に比べ、左岸には圧倒的に桜の木々を始めとしてたくさんの木々が植わっている違いに改めて思い至りました。

 以上は、8/23に記しましたが、そのあともう、午後六時を過ぎてしまった頃、古利根川の「蝉探訪」に出かけました。その時は夕焼けが美しい散歩になりましたが、樹幹を見るには暗く、雲行きを見ては、足取りを早めざるを得ず、観察はややいい加減になりましたが、下の表が示すように九匹確かめることができました。明らかに、過去二日間と比べると減りました。そこで一念発起して、昨日(8/24)は午前中に「蝉探訪」に出かけることにしました。結果は、とんでもない数字、二十三匹を記録しました。これでは一向に晩夏は終わりそうにないようです。それにしても、昨日は、ここ数日は夕方に探索していた時間を、明るい時間を選び。午前に切り替えたのですが、当地では昨夕初めて「ゲリラ豪雨」を経験しました。いったい蝉諸君は今ごろどうしているのだろうかとの思いがよぎりましたが、それは束の間、我が探索が無事守られたことの僥倖に感謝しましたが、こんなところにも「自己中」が顔を出しています。

      8/21   8/22 8/23 8/24 
      (水)  (木) (金)   (土)

   右岸  6   4       2         9    
         左岸  7  11       7       14     
            計 13  15       9       23    

 昔、寺田寅彦が彦根測候所のデータを取り寄せ、そこから伊吹山を詠んだ芭蕉の俳句の分析を行なっていたことを思い出し、上記の拙い表を作ってみました。数的事実の背後にある大きな自然の恵みに参入し、一日も早い秋を体感したい思いや切です。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/12/blog-post_20.html

 今朝の東京新聞の俳句欄に、

 折り返し地点だろうか今日の秋 土居健悟

と、ありました。長々と書いた我が駄文に比べ、一句のうちに我が思いも凝縮されていて感心しました。最後に八木重吉の詩を写します(『あるがままに生きる』吉野秀雄・山口瞳共著59頁より引用)。

 雲

くものある日
くもは かなしい
くものない日
そらは さびしい

 草に すわる

わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる

私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。(新約聖書 エペソ6章24節)