2024年12月17日火曜日

人よ、主を褒めよ

鴨の群れ ピヨー一声 従いぬ
 随分ブログから遠ざかってしまいました。この間、日常の生活はそれなりに続けておりました。古利根川縁の散歩は欠かさず行なっております。毎日のように目にするのは、写真の鴨諸君の姿です。家内が数えるところによると百五、六十匹はいるということです。大変な数です。彼らは絶えず群れをなして行動しています。誰かは定かではありませんが、先頭に立つと思われる鴨が「ピヨー」と実に可愛い号令(?)を発します。すると、それに合わせて彼らは行動するようです。時折、何かの拍子に一斉に飛び立ちます。その姿こそ壮観です。残念ながらタイミングが合わず、未だ一枚たりとも写真に収めたことがありません。けれども、鴨が一方向に向かって前進する姿は私にとって感銘深いものがあります。なぜなら、もし人が、不信仰を捨て、主の示される方向にまっしぐらに歩むことができたなら、こんなに幸いなことはないと思うからです。

 冬は寒く、例年は古利根川にまで足を伸ばしたことはなかったので、言うならば今冬は初体験の毎日です。何かカメラに収めるべき被写体はないかと探すのですが、中々見つかりません。その代わりになるべく二人で会話をするように心がけているのですが、それも最近は湿りがちで、気がついてみたら、口数の少なくなった家内と黙々と歩き続けることが多いです。そうならないよう気をつけて、いるのですが・・・。ただ、時折、家内がすれ違う方々と「こんにちは」と言葉を交わすのが私には救いとなっています。よく聞くと、先方が「こんにちは」と言われたので、自分もそれに応えたのだ、ということでした。私には全然聞こえなかっただけでしたが、それでも元気に反応しているのを知るのは嬉しいものです。。

 最近は私自身が「物」の名辞がすぐに出て来なくって、説明するのに難儀します。先日も病院に行くのに「マイナンバーカード」という言葉が出て来なく、「カードが」としか言えず、家内に「あの悪名高きカード」、と説明するのですが、かえって家内にはとんと通じず、しばらく経ってから、「個人番号カード」こと「マイナンバーカード」と名前が思い出せて一件落着となりました。それ以前は「キウイ」という言葉がどうしても出て来ず、そのキウイを、「切ると緑の果物で、丸いもの」とか、説明するのですが、中々通じず、ややあって家内から「ああ、キウイね」と正解をもらったのはいいが、私の中では「キウイ」は「キウリ」としか聞こえず、まさに名前を覚えるのにこれは幸いとばかりに頭の中で「木瓜」と置き換えてしまい、家内から「瓜」じゃない、「キウイ」だと訂正される始末です。

 一番困るのは人の名前です。これまで実にたくさんの方々と二人して交友を保って来、それぞれに素晴らしいお付き合いをさせていただいてきましたが、そのことを、説明するにも、お名前そのものが思い出せず、話にならないもどかしさが付き纏います。やっと名前が思い出せても、家内は過去のことはすっかり忘れているので、諦めざるを得ません。幸い、私自身はそれぞれの方々のその都度お出合いした写真を撮らせていただいているので、今後はその写真を整理して説明してみようかなと思うのですが・・・。でも過去を振り返ると、もう十分なほど主はたくさんの方々と交友関係を結ばせてくださって、恵んでくださったのだ、そのことを感謝しようと思っています。

 次の歌は「福音子ども讃美歌」の歌詞ですが、なぜか、今の私にぴったりです。多くのことを忘れても、イエス様のことを忘れなければ良いんだな、と思わされるからです。ましてや12月25日はクリスマスですね。この前も歯医者さんに治療に行ったら、クリスマスにちなんだデコレーションの絵とともになぜか英語で確か「I wish you a merry Christmas」と綴ってありました。I wish youはわかるんですが、「merry」ってどんな意味だろうと思っていましたら、翌る日の子どもクリスマス会で、遠くつくばから来てメッセージしてくださった方が、「メリー」は「楽しい」、「クリスマス」は「クリスト、すなわちイエス様、マスは『礼拝する』」という意味だよ、だからクリスマスはイエス様のお誕生を祝う日だよ」と子どもたちに説明していました。私は聞きながら、前日の「merry」というちょっとした小さな疑問にもすぐイエス様が答えてくださるんだと思えて内心嬉しくなりました。

子どもよどこを見てる 子どもよなにを見てる
気をつけなさい 天から見てる
お方がいるのですよ


子どもよなにを聞いてる 子どもよなにを聞いてる
あなたのために十字架にかかり
イエスさまは死んだのよ

子どもよなにをしてる 子どもよなにをしてる
ただイエスさまのみことば聞くの
しずかに聞いていましょ

子どもよだれにたよる 子どもよだれにたよる
イエスさまだけが天のお国へ
入れてくださるのです (ふくいん子どもさんびか22)

 さて、話を私と家内が日課としている「散歩」に戻し、アダムがエバを得る以前に、名辞と助け手にちなんで経験した一連の聖句を思い浮かべましたので、下に紹介しておきます。このアダムの孤独にも主はちゃんと答えてくださっているのですね。

 鴨たちはピヨーという一声にみなが信頼して従い、孤独からの解放を経験しています。「人よ、主を褒めよ」とはクリスマスの時期、「孤独」をかこつ私たちに、主が発せられる一大音声(呼びかけ)ではないでしょうか。すべての人がその思いに浸られますようにとお祈りしたいです。

神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。(創世記2章19〜22節)

2024年12月4日水曜日

思い新たなり、師走のひととき

 12月に入って、のどかな日が続いています。ありがたいことです。これがいつまで続くのやら、いずれ寒い日々が来るかと思うと、今のうちにこの暖に浸っていたいという思いにさせられるのは果たして私だけでしょうか。午前中のわずかな時間の散歩ですが、梢から聞こえてくるたくさんの小鳥の囀りに耳を澄ませることができます。河岸を見れば、日向ぼっこをする鴨の群れ(彼らは時折思い思いに泳ぎ遊ぶかにも見えるのですが、後掲の亀もその仲間です)、また抜かりなく餌を求めて河岸を歩き回る白鷺も眺められます。確か、漱石の言葉だったと思うのですが、「午前中の創作は、午後の愉悦をもたらす」とありましたが、こちらは凡人で、かつ老残の身、散歩のひとときは、身をしていかに体力を維持するかだけに腐心している有様です。

 そんな今朝の散歩中、またしても躓きそうになりました。10日ほど前、躓き、しこたま足を強打し医者にもかかったほどにもかかわらず、性懲りもなく、同じ過ちを繰り返しています。まったく我ながら情けないです。先日の同窓会の席でも、皆さんに「躓かれませんように」とご注進申し上げたばかりなのですが、この様(ざま)で、話になりません。そこへ行くと、同行の家内は幸いそのようなことがないのは年齢差三歳の違いですかね(※)。

 今や短期記憶のできない家内と、補聴器なしには耳の不自由な私とでは、二人で一人前だと、これまで、やや自嘲気味に今の夫婦関係をなぞってきましたが、最近、肝心の私自身の記憶も怪しくなって来ました。それだけでなく思い込み、思い違いが激しく、この歳になって、自らの自己像も大いに修正されるべきだと思うようになりました。その上、昨日の閣議で、認知症施策の指針となる基本計画が決定され、新聞報道によれば、「急速な高齢化で認知症は『いまや誰もがなり得る』とし、みんなが支え合う共生社会の実現に向け取り組みを推進すると明記した」とありました。そこまで認知症は喫緊の全国民的課題になっていると思わざるを得ませんでした。

のんびりと 親がめ子がめ 日向ぼこ
 省みますれば、43年前の11月29日に、父は六十九歳で今でいう認知症を患って召されました。当時は原因もわからず、治療法と言うより、対応の仕方もわからず、家族としての認知症患者の父を抱え、混乱するばかりの悩みと苦悶の八ヶ月でしたが、ただひたすら主なる神様の救いと助けを祈る日々でした。その時の気持ちは、裸一貫荒野を行く心境でしたが、不思議と主のご支配は完全で、振り返れば「恵み」ばかりでした。

 今、認知症について、国民的理解が進む中で、我がこととして新たな決意のもと、どのように向き合っていけば良いのか、主イエス様の知恵と助けを叫び求めながら歩みたいと思わされています。
 
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(旧約聖書 詩篇107篇1節)

2024年11月30日土曜日

この日は、我が自戒の日なり


 今日で11月も終わりです。昔、31日に満たない月を覚えるため、「二四六九十一(西向く侍)」と教えられました。そのためか、私には、不思議と何となくこの11月30日で今年も終わりだという思いにさせられる日です。それは私にとって12月師走に入る前に、一年の歩みを振り返りながら、もうここまで来てしまった、もう後戻りできないという切迫感にさえ一瞬とらわれる不思議な日です。そんなこともあって昨日の出来事をめぐって大いに考えさせられる日となりました。

 昨日、私は高校の同窓会に5年ぶりに出席するため新橋まで出かけました(3年間ほどコロナ禍のため、実施されず、昨年は実施されたようですが、たまたま私には案内が来ませんでしたので欠席していました)。前日まで、先週の土曜日からの二泊三日の郷土帰りの強行軍が災いしてか、体調がずっとすぐれず何度も行くのを断念しようと思いました。結局、土壇場まで、逡巡に逡巡を重ねながら、勇を鼓して出かけることにしたのです。結果は、幸い体も守られ、かえって元気が与えられ、家に帰って来ました。出席者は私をふくめ21名(男性16名、女性5名)でした。

 都合三時間の間を利用してそれぞれが近況報告をしました。普通の集まりと違って。お互いに同年なので、今更、歳を経たことの苦しさを訴えるでもなく、その置かれた状態でどのように今生きているかの証、それに互いが耳をそばだてる集いだったように思います。それはもうほとんど全員が八十余年の年月を経て満身創痍の身であり(たとえ自分は健康であっても配偶者が健康を失っていたりしている場合もあり)、そのことにおいては一人の例外もないからであります。

 分けても寂しく思わされたのは、やはり多くの物故者のお名前を知らされたことでした。それぞれの方との関わりを思い出すにつけ、それらの人々とはもはや語り得ない、もう逝ってしまったという寂寥感は覆うべくもありませんでした。特に生前元気であり、会の主メンバーの一人でもあったM氏が10月に亡くなり、彼の奥様が写真をもって我々の集まりに「主人が喜ぶだろう」と言って参加されたのには、痛々しい思いがしました。もちろん、皆さん、奥様の来会を喜ばれ、それぞれが同君との思い出を語る貴重なひとときとなったことは言うまでもありません。

 一方私は、何とか同窓生の方に、「イエス様は、私たちのように座して死を待つばかりになっている人間に、ご自分のいのちと引き換えに永遠のいのちを与えてくださったお方だ」と個人的にご紹介したいと思っていましたが、そのような機会は与えられませんでした。

 ただ、皆さんと三々五々別れる時に、以前から私に「福音」について聞いてこられた方が今回の同窓会にも出席されていましたので、その方にだけは「死は終わりではない」というベック兄のメッセージの載っている小冊子をお渡ししました。私としては、何とかその小冊子がその方にとって「福音」となるようにと祈るばかりです。

 このように、わずか三時間の同窓会でしたが、来年度の幹事は早速その場で決められ、今日は今日で、手際良く、昨日の会計報告がメールで送られて来ました。今、私は許されれば来年の同窓会にも、出席したいと思わされています。冒頭、11月の末日に当たり、考えさせられる点がありましたと述べましたが、過去のブログ記事をこの機会に再読してみて、忘れていることばかりで、その時には切実に思い、決心して同窓会に出席していたのに、今ではいい加減になって、すっかり初心を忘れていることを自戒せざるを得ませんでした(※)。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/12/blog-post_9.html
覚えていなかったのですが、上記ブログでM氏について少し触れていたのです。そこから換算するとM氏はまさに10年余り、病に伏しておられたことになります。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2018/06/blog-post_23.html

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(新約聖書 ローマ人への手紙 6章23節)

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(新約聖書 1コリント15章19〜20節) 

2024年11月26日火曜日

紺碧の空よ

伏しし母 紺碧の空 眺め居り
 昨日は全国的にすごい快晴に恵まれたのではないでしょうか。私は二泊三日の予定で郷里に戻っていました。前の週には次男が車で帰っていましたが、生憎天候が悪く、庭の葉刈りをやってもらえませんでした。次の週にあたる24日(日)近江八幡での礼拝出席のため、帰るので今度こそ是非葉刈りをしていただきたいと望んでいました。危ぶまれた天候でしたが、結果は昨日の月曜日、見違えるばかりの青空でした。

 小さな庭であり、主要な樹木(もちの木、金木犀、山茶花)も三本ですから、三時間半ほど、二人の方で葉刈りをしてくださり、綺麗さっぱりとした庭になりました。庭の中身を紹介するでなく、あくまでも空の青さを味わいたく、このような構図の写真になってしまいました。以前には、と言っても何十年も前には、正面の屋根の向こうに、元の庭の一部であったのか、松の木が形よく枝振りを見せていたのですが・・・。いつの間にか、歳取ると、そんなこともすっかり忘れてしまっています。

 建築を生業としている次男は何とか、この家屋が生かされないかと考えていてくれます。奥に覗いている倉がいつの建造物なのかは知らないのですが、少なくとも本屋は私の年齢に先行すること3、4年ですので、人間に例えれば今80歳半ばを越えています。そもそもその庭にしたって私の小さい頃には梅の木が手水鉢に接して植えられていました。その木が枯れてダメになった時の母の落胆ぶりを思い出します。ツツジは石組みのまさる庭にあって可憐で綺麗な花を今も咲かせてくれていますが・・・

 若くして不治の病にかかり44歳で亡くなっていった母は、最晩年寝室から庭に面する座敷に移り伏し、この庭を眺めながら、世間から女だてらにと嫌味を言われても、お家再興のためにと建造を決意した自らの家を思い、何を考えていたのでしょうか。庭を取り巻く壁は、まさに空の青をベースにして、それも塗り壁は平面でなくやや凹凸のある塗り壁でした。それは座敷の襖(山並みと空をモチーフにした)と相まって綺麗なものでした。先ごろも一足早く故郷入りを果たした次男が、口を注ぐごとに、その美観と造作の丁寧さを語ってくれました。母は、80数年を隔てて、今その孫がその良さを味わい、何とかこの家を残したいと考えていることを知ったら何と思うでしょうか。

 私もこの家を出立してから、いろんな住生活を経験して来ました。浪人時代にはミゼットハウスという1960年代に流行ったプレハブ住宅に住んだこともあります(大徳寺の一塔頭に下宿した時です)。かと思えば教員になって下宿したのは山裾に位置した農家の2階でした。五右衛門風呂でした。私にとっては全く初体験で驚くことばかりでした。その後、同僚に誘われて演劇活動に加わった時、舞台で、大道具よろしく、簡単にセットされる家屋の姿を身直に体験するたびに、それまでの私の住生活の考えは根底から覆されました。それは、家はどんな家でもいいんだ、住めればいいんだ、問題はそこでどんな生活を歩むのかということだ、と。このことは少なからず、私が主の救いを求めていたことと並行した心の動きとなっていたのかも知れません。

 気がついてみたら、故郷のこの家を出てからは、先ほどの農家の二階生活に端を発し、その後由緒ある旅荘(栃木県足利市の巌華園)の一隅の洋間を使わせていただいた生活、県営住宅、校長官舎、2DKの団地生活、3LDKの団地生活、一軒家の中古住宅、そして新築して現在住んでいる積水ハウスによる家屋と8回とその住生活を経験させていただいて来ました。

 振り返れば振り返るほど、我が身がこうして生かされて来たのは、住生活を振り返るだけでもすべて我が力によるのでないという思いです。母は若くして、お家再興のために家を新築しました。しかし、自らその生涯を全うできずに、一人息子を残し、自ら建て上げた家を残し、去っていかざるを得ませんでした。これらのことは、母にとって人間的に見れば無念だったと思います。

 紺碧の空は、彦根地方ではそう度々経験できる空でないように記憶しています。しかし、私にとってこの紺碧の空は、それだけにとどまるものでなく、一身を投げ打って誠意を尽くして生き続けた母も「救い」に加えられて住んでいるに違いない天の御国を思わせるものでした。主なる神様は、この紺碧の空をも造り、今も私たちが主イエス様による罪からの救いを体験して、ともに主とあい見(まみ)えることを願っておられると思うからであります。母には、その生前に、その福音を私の口から伝えられませんでした。しかし、病をとおして必死にその罪と死からの「救い」を求めていた彼女を、全知全能の主が放って置かれるはずがなかったと思うのであります(※)。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(新約聖書 1テサロニケ4章16〜17節)

2024年11月15日金曜日

「あなたは私の助け、私を助け出す方」

君や知る 我が蹉跌(さてつ)時 神語る
 今日は、日々、聖書に養われて歩ませていただいている者として、どんな経験をしているかについて、その一端をお話させていただきます。私にとって、新聞は毎朝欠かせない読み物ですが、一方朝夕の食事の前に決まって朗読することにしている『日々の光』(※)は新聞では得られない心の宝物です。たとえば、昨日(11月14日)の朝には次の御言葉が記されていました。

あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ、遅れないでください。(旧約聖書 詩篇40篇17節)

 随分と短いセンテンスで、一読了解の文章です。ところで、私にとって 、詩篇40篇全篇(わずか17節しかありませんが)は懐かしい思い出が込められた詩篇なのです。その最後の節がこの御言葉でした。私はこの節を朗読しながら、新たな感慨にとらわれたのです。そのことは最後に触れるとして、詩篇40篇に関して、少しばかり過去の記憶をたどらせていただきます。

 想えば、1990年教会を出て、出たはいいけれども、頼るべき何物も持ち合わせず、不安のどん底に落とされていた時に、主が私の心の内側に向かって静かに語りかけてくださった御言葉がこの詩篇40篇だったのです。

 その当時も今と同じように家内と一節ずつ交互に輪読する習慣を持っていました。ところが、ある日の朝、私は一節ずつ読み上げるごとに、己が罪が示される思いがしてならなかったのです。もう逃げも隠れもできない、私の主に対する不信仰の思い・罪(主を信じていると言いながら、そのくせ心の底では信じ切っていない罪)が、白日のもとに全部曝け出された思いがしたからです。しかし、読み進めて行くうちに、そんなどうしようもない私を主なる神様は赦してくださっていたのだという、まったく思いもかけない主の愛に満たされて、私のうちにとめどもない「悔い改め」と「感謝」の涙となって溢れ出て来たのです。一緒に輪読していた家内にはどう映ったかわかりませんが、私は恥も外聞もなく、ただ泣き伏すばかりで、声にもならず、この詩篇40篇を何とか最後まで輪読し終えることで精一杯だったのです。その中でも中心にあった御言葉は次のものでした。

あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえもお求めになりませんでした。(詩篇40篇6節)

 今から振り返ってみると、当時、私の問題点は、クリスチャンらしく歩まねばならないという思いに囚われていて、主なる神様であるイエス様が私たちの罪滅ぼしのために十字架上で流された血潮の価値について考えることも、もちろん感謝することも少なかったように思います。その私に主なる神様はこの6節の御言葉を通して、「あなたのいけにえは必要なし、わたしがあなたの罪のいけにえになっているのだよ」、と語りかけてくださったのです。

 全く有難いことでした。それだけでなく、さらに12節の御言葉を通して自らの罪をはっきりと自覚したのです。

数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。(詩篇40篇12節)

最初、私が自覚した罪・咎は一つか二つほどでした。しかし詩篇の作者は、「私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。」と言っているではありませんか、私のいい加減な悔い改めでなく、作者は全面的な悔い改めの告白をしているんです。そして、もうここまでくれば、主なる神様の前に、私は「全面降伏」をせざるを得ませんでした。さらに御言葉は次のように語っていたのです。

あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう。」と、いつも言いますように。(詩篇40篇16節)

「これだ!」、と思いました。教会生活に別れを告げ、行き先も知らず出てしまった私に対して、この御言葉ほど慰めに満ちた御言葉はありませんでした。ここでは「慕い求める」人、「救いを愛する」人がいるのです。これからは私も心を入れ替えて、自己中心の自分でなく、主を中心とした集まりを、持たせていただきたい、その群れを主は喜んでくださるのだという確信でした。

これぞ、教会生活に別れを告げた私に対する主の餞(はなむけ)の言葉でした。

 そうして、集会生活34年は、とっくの昔に教会生活20年を凌駕する年月を経てしまいました。そして集会生活において、再び、教会生活では想像もし得ない問題、異なる問題に今度は悩まされるようになりました。そうした挙句、私たち集会の原点は何であったのかという熱心な問いが今週の水曜日(13日)のリフレッシュ集会でも出されました。私も当事者として発言を求められましたが、そこでは必ずしも適切に答えられたわけではありませんでした。

 その翌朝、14日の朝にたまたま開かされた聖句が『日々の光』が提供する冒頭の短い御言葉でした。私は34年前に味わった詩篇40篇が、どうして最後このような「あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ、遅れないでください。」という嘆願で終わっているのか長年疑問を持ったままで、それ以上考えようとはしませんでしたが、34年目にしてこの御言葉に対して初めて真正面に向かえるような気がしたのです。この嘆願こそ、やはり詩篇40篇が必要としていた人の思いが集約されていると受け止められたからです。34年目にして初めて知る発見でした。

 このように、聖書は慣れ親しんで、その挙句、古びて滅び去るものではありません。慣れ親しめば、慣れ親しむだけ味が出てくるものです。そして必ず、「悔い改め」と「いのち」に連なるより一層の「喜び」を保証する「神の言葉」です。これからもこの聖書といういのちの糧をいただきながら歩みたいと念じております。それだけでなく、一人でも多くの方が聖書に親しまれ、今生かされている主のいのちの恵みを体感されんことを切に祈っております。

※かつて、私は『日々の光』の原書にあたる英語版『DAILY LIGHT』を古本屋の捨て本の中に見つけ、百円で購入したことがあり、その表紙扉に1794年と記してありました。230年前のその年号がその本の出発点でないかと睨(にら)んでおりましたが、不思議なことに、昨日『日々の光』の日本語版でご尽力いただいたK氏とそのことをふくめてお電話でお話しする機会を得ましたが、まさにその通りでした。K氏によると日本では大正14年ごろに文語訳聖書を基にする版が邦訳されていたのではないかということでした。このように、今や私たち、日本のキリスト者にも、お馴染みの本になっていますが、元をただせば、イギリス・ロンドンのSAMUEL BAGSTER AND SONS LIMITED社が1794年に編集し発行したものであります。だから、全聖書からのバランスの取れた適切な引用に満ちている、この手軽な本は、サムエル・バーガー父子の大変な祈りによる犠牲があったものと推察し、その存在をK氏とともに主に感謝したことでした。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(新約聖書 2テモテ3章16節)

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(旧約聖書 詩篇119篇105節)

2024年11月13日水曜日

余生は天の御国への道備へ

ウラギンシジミ(※)
 次男は今朝遠くへ(信州、関西方面)と車で出かけて行きました。朝起きてきたその次男の様子を見るなり、家内が発した言葉は「元気ね。」でした。すかさず帰って来た彼の言葉は「50だもの、ね。」でした。その言葉をそばで漏れ聞きながら、高校時代、絶えず念頭にあった「漱石の修善寺の大患」を思い出していました。それは漱石が50歳の時だったと思いますが、それが死因につながりました。だからその50歳で人生は終わるものだと漠然と考えていたのです。

 一足早く9日に52歳の誕生日を迎えた次男と昨日12日に誕生日を迎えた家内とのさりげない会話でしたが、そこに母子の間に交わされた老い行く者とそうでない者との間の、歳をとることに対する暗黙の了解のようなものを感じさせられました。昨日の家内の子どもたちへの誕生祝いのお礼の挨拶には冒頭で「ありがとう、79歳だとは!あっというまに80だよねー」と繰り言が記されていました。私たち夫婦は、まったく歳をとる自覚もないまま、あたら余生を生きている感じです。

 こんな日々ですが、日曜日の福音集会でお話しくださったかたが次のみことばを語ってくださいました。

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。(新約聖書 1テサロニケ5章11〜12節)

そして今の信仰生活はこのまま天の御国につながっていると語って下さいました。老いも若きも天の御国を目指している自覚を持つ時、年輪を越えて主への感謝を持つことができるんだなとこの文章を書きながら改めて思わされております。

 一方、礼拝では、私が土曜日に投稿しようと思っていたルターの「神は高きやぐら」(讃美歌267番)を一語で示す御言葉が朗読されたのです。

まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。(旧約聖書 詩篇61篇3節)

朗読された方は、私がそのような文章(ルター作詞作曲の讃美歌についての紹介文)を書いているなんて全くお知りでなかったでしょうし、逆に私自身はこの御言葉を知りませんでした。福音集会でのメッセージといい、礼拝のおりの朗読箇所といい、主なる神様はまったく無駄なことはなさらない方なのだと思わされました。

※先日玄関先の植え込みに黄色と白の紋白蝶が舞っていました。バックの花といい、ちょうど良いタイミングでしたが、中々撮れませんでした。そんな矢先、家内が別のこの蝶を見つけ、教えてくれました。初めて見た蝶の姿でした。しかも撮影した時には気づきませんでしたが、この写真を見る限り、羽根が一部欠けているのですね。何となく我が身に照らし合わせ、哀れさを感じさせられました。 

2024年11月12日火曜日

お母さんのジャム


 今日は家内の誕生日でした。五人の子どもを産み、育ててきた苦労にはいつも頭が下がります。子どもたちは私以上にその労苦に感謝しています。先日も次女が誕生ケーキを買って祝ってくれましたし、今日は今日で次男がパリから帰国中のこともあり、やはり誕生ケーキで祝ってくれました。私はそのお相伴にあずかるばかりで、何もしませんでしたが、唯一試みたのは厨房に入ったことだけでした。結婚して54年が経ちますが、ここ2、3年にして漸く厨房に入るようになりました。ならざるを得なくなりました。

 言わずと知れた高齢化のためです。毎日、家内と一緒に献立を考え、買い物をし、厨房に立つことを心がげています。しかし、いまだに後始末だけは家内に任せることが多いです。そんな日々ですが、今日は長野の友人から「リンゴ」がどっさり送って来ました。健康なときの家内ならすぐ飛びついてジャム作りに取り掛かるところですが、今日は最初そうではありませんでした。全く無関心なのです。ジャムと言えば家内の専売特許だと相場が決まっていた時期が数年前までは10数年以上続いていたのが今では嘘のようです。それではあまりにも寂しすぎるので、家内を促してジャム作りに私も共に取り掛かるようにしました。

 始めてみれば、水を得た魚の如く、家内の所作もいつも通り元気をとりもどしたようでした。そのうちに、私にも手伝えるところがあることに気づきました。リンゴを包丁さばきよろしく細かく切り刻む作業です。振り返ってみれば極めて単純な作業ですが、一緒に一つのものを作り上げる喜びは格別ですね。思わず数を数えるのを忘れてしまったのですが、数十個あったリンゴも二時間ほどの間にすっかりジャムに変わってしまいました。

 五人の子どもたちの感謝の言葉に答えて、家内は「最近ボケてばっかりでねぇ、お父さんを困らせて、申し訳ないんだけど仕方ないよねー。まあこれからどうか毎日無事で守られますようにとお願いするばかりです。お祈りしてくださいね、よろしくね。」と書きましたが、「仕方ない、仕方ない。これからもよろしくね。」とやさしい言葉を三男からいただきました。最後に次男が「(自分の送った誕生ケーキの素晴らしさより)お母さんのジャム、またリンゴがおいしかったよ、みんなとりに来てください」と書きました。

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。(旧約聖書 詩篇126篇5〜6節)