君や知る 我が蹉跌(さてつ)時 神語る |
あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ、遅れないでください。(旧約聖書 詩篇40篇17節)
随分と短いセンテンスで、一読了解の文章です。ところで、私にとって 、詩篇40篇全篇(わずか17節しかありませんが)は懐かしい思い出が込められた詩篇なのです。その最後の節がこの御言葉でした。私はこの節を朗読しながら、新たな感慨にとらわれたのです。そのことは最後に触れるとして、詩篇40篇に関して、少しばかり過去の記憶をたどらせていただきます。
想えば、1990年教会を出て、出たはいいけれども、頼るべき何物も持ち合わせず、不安のどん底に落とされていた時に、主が私の心の内側に向かって静かに語りかけてくださった御言葉がこの詩篇40篇だったのです。
その当時も今と同じように家内と一節ずつ交互に輪読する習慣を持っていました。ところが、ある日の朝、私は一節ずつ読み上げるごとに、己が罪が示される思いがしてならなかったのです。もう逃げも隠れもできない、私の主に対する不信仰の思い・罪(主を信じていると言いながら、そのくせ心の底では信じ切っていない罪)が、白日のもとに全部曝け出された思いがしたからです。しかし、読み進めて行くうちに、そんなどうしようもない私を主なる神様は赦してくださっていたのだという、まったく思いもかけない主の愛に満たされて、私のうちにとめどもない「悔い改め」と「感謝」の涙となって溢れ出て来たのです。一緒に輪読していた家内にはどう映ったかわかりませんが、私は恥も外聞もなく、ただ泣き伏すばかりで、声にもならず、この詩篇40篇を何とか最後まで輪読し終えることで精一杯だったのです。その中でも中心にあった御言葉は次のものでした。
あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえもお求めになりませんでした。(詩篇40篇6節)
今から振り返ってみると、当時、私の問題点は、クリスチャンらしく歩まねばならないという思いに囚われていて、主なる神様であるイエス様が私たちの罪滅ぼしのために十字架上で流された血潮の価値について考えることも、もちろん感謝することも少なかったように思います。その私に主なる神様はこの6節の御言葉を通して、「あなたのいけにえは必要なし、わたしがあなたの罪のいけにえになっているのだよ」、と語りかけてくださったのです。
全く有難いことでした。それだけでなく、さらに12節の御言葉を通して自らの罪をはっきりと自覚したのです。
数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。(詩篇40篇12節)
最初、私が自覚した罪・咎は一つか二つほどでした。しかし詩篇の作者は、「私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。」と言っているではありませんか、私のいい加減な悔い改めでなく、作者は全面的な悔い改めの告白をしているんです。そして、もうここまでくれば、主なる神様の前に、私は「全面降伏」をせざるを得ませんでした。さらに御言葉は次のように語っていたのです。
あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう。」と、いつも言いますように。(詩篇40篇16節)
「これだ!」、と思いました。教会生活に別れを告げ、行き先も知らず出てしまった私に対して、この御言葉ほど慰めに満ちた御言葉はありませんでした。ここでは「慕い求める」人、「救いを愛する」人がいるのです。これからは私も心を入れ替えて、自己中心の自分でなく、主を中心とした集まりを、持たせていただきたい、その群れを主は喜んでくださるのだという確信でした。
これぞ、教会生活に別れを告げた私に対する主の餞(はなむけ)の言葉でした。
そうして、集会生活34年は、とっくの昔に教会生活20年を凌駕する年月を経てしまいました。そして集会生活において、再び、教会生活では想像もし得ない問題、異なる問題に今度は悩まされるようになりました。そうした挙句、私たち集会の原点は何であったのかという熱心な問いが今週の水曜日(13日)のリフレッシュ集会でも出されました。私も当事者として発言を求められましたが、そこでは必ずしも適切に答えられたわけではありませんでした。
その翌朝、14日の朝にたまたま開かされた聖句が『日々の光』が提供する冒頭の短い御言葉でした。私は34年前に味わった詩篇40篇が、どうして最後このような「あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ、遅れないでください。」という嘆願で終わっているのか長年疑問を持ったままで、それ以上考えようとはしませんでしたが、34年目にしてこの御言葉に対して初めて真正面に向かえるような気がしたのです。この嘆願こそ、やはり詩篇40篇が必要としていた人の思いが集約されていると受け止められたからです。34年目にして初めて知る発見でした。
このように、聖書は慣れ親しんで、その挙句、古びて滅び去るものではありません。慣れ親しめば、慣れ親しむだけ味が出てくるものです。そして必ず、「悔い改め」と「いのち」に連なるより一層の「喜び」を保証する「神の言葉」です。これからもこの聖書といういのちの糧をいただきながら歩みたいと念じております。それだけでなく、一人でも多くの方が聖書に親しまれ、今生かされている主のいのちの恵みを体感されんことを切に祈っております。
※かつて、私は『日々の光』の原書にあたる英語版『DAILY LIGHT』を古本屋の捨て本の中に見つけ、百円で購入したことがあり、その表紙扉に1794年と記してありました。230年前のその年号がその本の出発点でないかと睨(にら)んでおりましたが、不思議なことに、昨日『日々の光』の日本語版でご尽力いただいたK氏とそのことをふくめてお電話でお話しする機会を得ましたが、まさにその通りでした。K氏によると日本では大正14年ごろに文語訳聖書を基にする版が邦訳されていたのではないかということでした。このように、今や私たち、日本のキリスト者にも、お馴染みの本になっていますが、元をただせば、イギリス・ロンドンのSAMUEL BAGSTER AND SONS LIMITED社が1794年に編集し発行したものであります。だから、全聖書からのバランスの取れた適切な引用に満ちている、この手軽な本は、サムエル・バーガー父子の大変な祈りによる犠牲があったものと推察し、その存在をK氏とともに主に感謝したことでした。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(新約聖書 2テモテ3章16節)
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(旧約聖書 詩篇119篇105節)