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| by k.yoshioka |
さて、昨年末、2025年の古利根川の散歩どめを記念する思いで、土手を歩いていた。その歩き慣れている土手で、二、三回つまずき、ヒヤッとした記憶がある。次にはつまずくまいと思いながらも、忘れた頃にはまたつまずいている。そして大体、つまずくところはほぼ同じ場所である。だから、歩きどめの場所としてその場所を特に念入りに眺めながら歩いてみた。すると、小石が想像する以上にたくさんあることに気づいた。その中にとんがった石があり、それを避けきれずにつまずいているのである。目の前に見える道は凹凸のある歩きにくい道である。それは連綿として続く私たちの実人生の姿を象徴していると思わずにはいられなかった。
そして、心のうちに、昨年末、示されていたみことばを想起していた。そのみことばは以下のものであった。
主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。(旧約聖書 ホセア14:9)
そうか、私にとって凹凸に見える道は、主いませば平らなのだ。問題は私自身が主にそむいた結果つまずくんだ。そうだ、これからはそむかないで主から我が人生を受け止め歩んでいきたいと思って、年を越した。それゆえ、新年、特に年頭にあたり示されたみことばを求めなかった。
そんな折り、一枚の年賀状に私の心の琴線がギュッと掴み取られた。今日の絵は、その年賀状に描かれていた作品であるが、次のみことばの前半部が同時に並記されてあった。
私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。 それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。(黙示録19:11)
黙示録は新約聖書の最後、したがって旧約聖書をふくむ66巻からなる全聖書の最後に登場する書である。その書には次のみことばがある。
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。(黙示録1:3)
まさにこの通りである。2016年に召されたベック兄はこの白い馬に乗られたお方がイエス様であると言い、次のように言っておられる(※)。
最初に地上に来られた時、イエス様は、人の姿をとってへりくだって来られました。しかし、再び来られる時には、栄光につつまれて来られます。かつてはみどりごとして来られましたが、再び来られる時には、馬に乗って来られます。かつては貧しい人の姿で来られましたが、富と栄光に満ちた方として来られます。また、かつては罪をになう犠牲の小羊として来られましたが、罪のさばき主として、獅子のように来られます。かつてはほふり場に引かれて行く小羊として来られましたが、再び来られるときには、勝利者として、また権威あるお方として来られます。(『すぐに起こるはずのこと』第4巻145頁)
今年も幕開けから、大変な事態(無法、地震)が次から次へと起こっている。目の前の事象に振り回されず、素直に白い馬に乗り再臨されるお方に従う一日一日でありたいと思う。今日読んだみことばに次の聖句があった。つまずかない秘訣は白い馬に乗られる方に従うか従わないかにあると友の年賀状を通して思い定めた。
※https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/08/blog-post_23.html
私は、口のあやまちをしまいと心がけました。人としての行ないについては、あなたのくちびるのことばによりました。私は無法な者の道を避けました。私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。(旧約聖書 詩篇17篇3〜4節)






