2024年11月15日金曜日

「あなたは私の助け、私を助け出す方」

君や知る 我が蹉跌(さてつ)時 神語る
 今日は、日々、聖書に養われて歩ませていただいている者として、どんな経験をしているかについて、その一端をお話させていただきます。私にとって、新聞は毎朝欠かせない読み物ですが、一方朝夕の食事の前に決まって朗読することにしている『日々の光』(※)は新聞では得られない心の宝物です。たとえば、昨日(11月14日)の朝には次の御言葉が記されていました。

あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ、遅れないでください。(旧約聖書 詩篇40篇17節)

 随分と短いセンテンスで、一読了解の文章です。ところで、私にとって 、詩篇40篇全篇(わずか17節しかありませんが)は懐かしい思い出が込められた詩篇なのです。その最後の節がこの御言葉でした。私はこの節を朗読しながら、新たな感慨にとらわれたのです。そのことは最後に触れるとして、詩篇40篇に関して、少しばかり過去の記憶をたどらせていただきます。

 想えば、1990年教会を出て、出たはいいけれども、頼るべき何物も持ち合わせず、不安のどん底に落とされていた時に、主が私の心の内側に向かって静かに語りかけてくださった御言葉がこの詩篇40篇だったのです。

 その当時も今と同じように家内と一節ずつ交互に輪読する習慣を持っていました。ところが、ある日の朝、私は一節ずつ読み上げるごとに、己が罪が示される思いがしてならなかったのです。もう逃げも隠れもできない、私の主に対する不信仰の思い・罪(主を信じていると言いながら、そのくせ心の底では信じ切っていない罪)が、白日のもとに全部曝け出された思いがしたからです。しかし、読み進めて行くうちに、そんなどうしようもない私を主なる神様は赦してくださっていたのだという、まったく思いもかけない主の愛に満たされて、私のうちにとめどもない「悔い改め」と「感謝」の涙となって溢れ出て来たのです。一緒に輪読していた家内にはどう映ったかわかりませんが、私は恥も外聞もなく、ただ泣き伏すばかりで、声にもならず、この詩篇40篇を何とか最後まで輪読し終えることで精一杯だったのです。その中でも中心にあった御言葉は次のものでした。

あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえもお求めになりませんでした。(詩篇40篇6節)

 今から振り返ってみると、当時、私の問題点は、クリスチャンらしく歩まねばならないという思いに囚われていて、主なる神様であるイエス様が私たちの罪滅ぼしのために十字架上で流された血潮の価値について考えることも、もちろん感謝することも少なかったように思います。その私に主なる神様はこの6節の御言葉を通して、「あなたのいけにえは必要なし、わたしがあなたの罪のいけにえになっているのだよ」、と語りかけてくださったのです。

 全く有難いことでした。それだけでなく、さらに12節の御言葉を通して自らの罪をはっきりと自覚したのです。

数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。(詩篇40篇12節)

最初、私が自覚した罪・咎は一つか二つほどでした。しかし詩篇の作者は、「私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。」と言っているではありませんか、私のいい加減な悔い改めでなく、作者は全面的な悔い改めの告白をしているんです。そして、もうここまでくれば、主なる神様の前に、私は「全面降伏」をせざるを得ませんでした。さらに御言葉は次のように語っていたのです。

あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう。」と、いつも言いますように。(詩篇40篇16節)

「これだ!」、と思いました。教会生活に別れを告げ、行き先も知らず出てしまった私に対して、この御言葉ほど慰めに満ちた御言葉はありませんでした。ここでは「慕い求める」人、「救いを愛する」人がいるのです。これからは私も心を入れ替えて、自己中心の自分でなく、主を中心とした集まりを、持たせていただきたい、その群れを主は喜んでくださるのだという確信でした。

これぞ、教会生活に別れを告げた私に対する主の餞(はなむけ)の言葉でした。

 そうして、集会生活34年は、とっくの昔に教会生活20年を凌駕する年月を経てしまいました。そして集会生活において、再び、教会生活では想像もし得ない問題、異なる問題に今度は悩まされるようになりました。そうした挙句、私たち集会の原点は何であったのかという熱心な問いが今週の水曜日(13日)のリフレッシュ集会でも出されました。私も当事者として発言を求められましたが、そこでは必ずしも適切に答えられたわけではありませんでした。

 その翌朝、14日の朝にたまたま開かされた聖句が『日々の光』が提供する冒頭の短い御言葉でした。私は34年前に味わった詩篇40篇が、どうして最後このような「あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ、遅れないでください。」という嘆願で終わっているのか長年疑問を持ったままで、それ以上考えようとはしませんでしたが、34年目にしてこの御言葉に対して初めて真正面に向かえるような気がしたのです。この嘆願こそ、やはり詩篇40篇が必要としていた人の思いが集約されていると受け止められたからです。34年目にして初めて知る発見でした。

 このように、聖書は慣れ親しんで、その挙句、古びて滅び去るものではありません。慣れ親しめば、慣れ親しむだけ味が出てくるものです。そして必ず、「悔い改め」と「いのち」に連なるより一層の「喜び」を保証する「神の言葉」です。これからもこの聖書といういのちの糧をいただきながら歩みたいと念じております。それだけでなく、一人でも多くの方が聖書に親しまれ、今生かされている主のいのちの恵みを体感されんことを切に祈っております。

※かつて、私は『日々の光』の原書にあたる英語版『DAILY LIGHT』を古本屋の捨て本の中に見つけ、百円で購入したことがあり、その表紙扉に1794年と記してありました。230年前のその年号がその本の出発点でないかと睨(にら)んでおりましたが、不思議なことに、昨日『日々の光』の日本語版でご尽力いただいたK氏とそのことをふくめてお電話でお話しする機会を得ましたが、まさにその通りでした。K氏によると日本では大正14年ごろに文語訳聖書を基にする版が邦訳されていたのではないかということでした。このように、今や私たち、日本のキリスト者にも、お馴染みの本になっていますが、元をただせば、イギリス・ロンドンのSAMUEL BAGSTER AND SONS LIMITED社が1794年に編集し発行したものであります。だから、全聖書からのバランスの取れた適切な引用に満ちている、この手軽な本は、サムエル・バーガー父子の大変な祈りによる犠牲があったものと推察し、その存在をK氏とともに主に感謝したことでした。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。(新約聖書 2テモテ3章16節)

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(旧約聖書 詩篇119篇105節)

2024年11月13日水曜日

余生は天の御国への道備へ

ウラギンシジミ(※)
 次男は今朝遠くへ(信州、関西方面)と車で出かけて行きました。朝起きてきたその次男の様子を見るなり、家内が発した言葉は「元気ね。」でした。すかさず帰って来た彼の言葉は「50だもの、ね。」でした。その言葉をそばで漏れ聞きながら、高校時代、絶えず念頭にあった「漱石の修善寺の大患」を思い出していました。それは漱石が50歳の時だったと思いますが、それが死因につながりました。だからその50歳で人生は終わるものだと漠然と考えていたのです。

 一足早く9日に52歳の誕生日を迎えた次男と昨日12日に誕生日を迎えた家内とのさりげない会話でしたが、そこに母子の間に交わされた老い行く者とそうでない者との間の、歳をとることに対する暗黙の了解のようなものを感じさせられました。昨日の家内の子どもたちへの誕生祝いのお礼の挨拶には冒頭で「ありがとう、79歳だとは!あっというまに80だよねー」と繰り言が記されていました。私たち夫婦は、まったく歳をとる自覚もないまま、あたら余生を生きている感じです。

 こんな日々ですが、日曜日の福音集会でお話しくださったかたが次のみことばを語ってくださいました。

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。(新約聖書 1テサロニケ5章11〜12節)

そして今の信仰生活はこのまま天の御国につながっていると語って下さいました。老いも若きも天の御国を目指している自覚を持つ時、年輪を越えて主への感謝を持つことができるんだなとこの文章を書きながら改めて思わされております。

 一方、礼拝では、私が土曜日に投稿しようと思っていたルターの「神は高きやぐら」(讃美歌267番)を一語で示す御言葉が朗読されたのです。

まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。(旧約聖書 詩篇61篇3節)

朗読された方は、私がそのような文章(ルター作詞作曲の讃美歌についての紹介文)を書いているなんて全くお知りでなかったでしょうし、逆に私自身はこの御言葉を知りませんでした。福音集会でのメッセージといい、礼拝のおりの朗読箇所といい、主なる神様はまったく無駄なことはなさらない方なのだと思わされました。

※先日玄関先の植え込みに黄色と白の紋白蝶が舞っていました。バックの花といい、ちょうど良いタイミングでしたが、中々撮れませんでした。そんな矢先、家内が別のこの蝶を見つけ、教えてくれました。初めて見た蝶の姿でした。しかも撮影した時には気づきませんでしたが、この写真を見る限り、羽根が一部欠けているのですね。何となく我が身に照らし合わせ、哀れさを感じさせられました。 

2024年11月12日火曜日

お母さんのジャム


 今日は家内の誕生日でした。五人の子どもを産み、育ててきた苦労にはいつも頭が下がります。子どもたちは私以上にその労苦に感謝しています。先日も次女が誕生ケーキを買って祝ってくれましたし、今日は今日で次男がパリから帰国中のこともあり、やはり誕生ケーキで祝ってくれました。私はそのお相伴にあずかるばかりで、何もしませんでしたが、唯一試みたのは厨房に入ったことだけでした。結婚して54年が経ちますが、ここ2、3年にして漸く厨房に入るようになりました。ならざるを得なくなりました。

 言わずと知れた高齢化のためです。毎日、家内と一緒に献立を考え、買い物をし、厨房に立つことを心がげています。しかし、いまだに後始末だけは家内に任せることが多いです。そんな日々ですが、今日は長野の友人から「リンゴ」がどっさり送って来ました。健康なときの家内ならすぐ飛びついてジャム作りに取り掛かるところですが、今日は最初そうではありませんでした。全く無関心なのです。ジャムと言えば家内の専売特許だと相場が決まっていた時期が数年前までは10数年以上続いていたのが今では嘘のようです。それではあまりにも寂しすぎるので、家内を促してジャム作りに私も共に取り掛かるようにしました。

 始めてみれば、水を得た魚の如く、家内の所作もいつも通り元気をとりもどしたようでした。そのうちに、私にも手伝えるところがあることに気づきました。リンゴを包丁さばきよろしく細かく切り刻む作業です。振り返ってみれば極めて単純な作業ですが、一緒に一つのものを作り上げる喜びは格別ですね。思わず数を数えるのを忘れてしまったのですが、数十個あったリンゴも二時間ほどの間にすっかりジャムに変わってしまいました。

 五人の子どもたちの感謝の言葉に答えて、家内は「最近ボケてばっかりでねぇ、お父さんを困らせて、申し訳ないんだけど仕方ないよねー。まあこれからどうか毎日無事で守られますようにとお願いするばかりです。お祈りしてくださいね、よろしくね。」と書きましたが、「仕方ない、仕方ない。これからもよろしくね。」とやさしい言葉を三男からいただきました。最後に次男が「(自分の送った誕生ケーキの素晴らしさより)お母さんのジャム、またリンゴがおいしかったよ、みんなとりに来てください」と書きました。

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。(旧約聖書 詩篇126篇5〜6節)

2024年11月9日土曜日

ルーテルの恃み(完)

四 祈祷と讃美

 ルーテルのことについて語るならば、一晩語り続けてもとても尽きない。私はことに彼の家庭生活に言及し得なかったことを遺憾とする。彼の家庭もまた聖書本位であった。彼はまた特別に祈祷の人であった。後年皇帝がアウグスブルヒに宗教会議を開いた時、彼は独りコーブルヒに遣わされて甚だしき不安の中に幾月かを過ごさしめられた。その間彼の生活はほとんど聖書の研究と祈祷とのみであったという。その時彼と一緒におったデートリッヒがメランヒトンに送った手紙にいう、「かかるわびしい生活の間にこの人が現わした非常なる忍耐と勇気と信仰と希望とは、いくら驚嘆してもなお足りない。しかし彼がかかる力を得た所以は絶えず神の言と親しんでいたからであった。彼が一日に三時間を祈祷のために費やさなかった日とては一日もない、而もそれはいつでも一日中の一番よい時間であった云々」と。聖書本位の生活はまた当然祈祷の生活である。何となれば福音によって神に近づけば近づくほど、我々と神との交通は益々親しくならざるを得ないからである。

 而して祈祷の生活はまた必ずや讃美感謝の生活である。ルーテルは大なる患難の中にありながら、彼の口には常に感謝の声が溢れておった。彼は幾たびか悩みの間に在りて自ら讃美歌を作った。1527年彼が結婚の二年目は、彼にとって極めて多事なる一年であった。ルーテルは重き病気にかかり、もはや最期も近く見えた。彼の新しき家庭には何らの資産とてもなかった。しかし彼は妻の篤き信仰を見て自ら慰めた。妻の親切なる看病によって漸く死を免れた。しかるにそれに次いで、ほとんど昔のエルフルト修道院時代に劣らぬある烈しき霊的煩悶が来た。それは信仰によって漸く解決した。

 しかるに今度は恐るべき疫病がウイッテンベルヒへやって来た。大学と選挙侯の宮廷とは一時町を引き揚げてエナに移転した。侯はルーテルにも是非避難せよとくれぐれも忠告した。しかし彼は聞かなかった。彼は言うた、「私は私の羊が一番私を要する時に、これを棄てて逃げることはできません」と(※1)。彼は疫病の町に踏み留まった。臨月に近き妻も一人の幼児も一所に留まった。疫病は町の片隅から始まってたちまち十数人の死者を出した。これらの死屍はルーテルの家からほど遠からぬ場所に埋められた。疫病は町の中心に入り込んだ。ルーテルが市長夫人と同席しておった時、その夫人はたちまち斃れた。ルーテルの友人シュルフ博士の妻もやられた。彼の親しき牧師の妻も死んだ。ルーテルは牧師一家にその疫病つきの家を棄てて自分の家へ同居さした。とうとう疫病はルーテルの家へ入った。ルーテル家に寄寓しておったある婦人が襲われた。その間に妻の重きお産があった。長男が病気に罹った。しかし幸にして皆が心配したように疫病ではなかった。こんな間へまた知らせがあった。曰く南ドイツで信仰の迫害が始まりバヴアリアの牧師が焼き殺されたと。内憂外患一時に彼を襲撃した。しかしながら神に頼れるルーテルは福であった。彼はその時の心境をそのまま一つの讃美歌に綴った。

堅き城なり我らの神は、
拠るべき楯なり剣なり。
我らを襲えるすべての悩みより
いみじく我らを救い給う
(略 ※2)

 ルーテルに学ぶべきところはもちろん一二ではない。しかしながら私は今日特に彼がいかに聖書を重んじたか、いかによくこれを研究したか、いかにこれをもってすべての問題を解決したか、を高調する必要があると思う。聖書を研究せずして信仰は維持されない。聖書を重んぜざる信仰は、浅薄なる信仰にあらずんば誤りたる信仰である。今日我が国キリスト者の信仰に果たしてこの欠点がないであろうか。我らは果たして福音を福音のままに信じておるであろうか。父と子と聖霊とについて明確なる信仰を持っているであろうか。復活を信じているであろうか。キリストの再臨を信じているであろうか。黙示録やイザヤ書はよく研究されているであろうか。この世の事業にのみ熱中する現世的宗教、道徳と混同せられたる浅薄なる信仰、手段方法のみに苦心し数字統計に重きを置く偽の伝道、これらは皆聖書を重んぜざるの信仰である。かかる信仰は欧州の中世教会の信仰と等しく、また早晩改革の必要あるものである。而してこれを改革するの道は他なし、深き祈りをもってする聖書の研究にあるのである。(『藤井武全集第8巻625〜630頁より引用)

※1 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。(新約聖書 ヨハネ10章11〜15節)

※2 言うまでもなく冒頭の写真はそのルーテル自筆の楽譜(『改革者マルティン・ルター』岸千年著101頁所収)で、有名な讃美歌267番は彼の作詞作曲によりますが、その原曲を表しているものです。

2024年11月8日金曜日

ルーテルの恃み(9)

聖書を翻訳するルーテル(※1)
 宿に帰ってルーテルは一夜を祈りのうちに明かした。曙の光のさす前に彼の決心はさだまった。翌日夕また議会へ臨んだ。その途中の群衆や議場の雑踏はきのうよりも以上である。時既に日はくれて議場は揺らめく炬火(たいまつ)の光に照らされている。すべての光景はきのうと同様であった。ここに皇帝を頭にいただき法王をその背後に控ゆるドイツ全国の代表者の前に一人のルーテルが立ったのである。彼は周囲を顧みて一人の明白なる味方を持たない。而してこの訊問はそもそも何のためぞ。帝国が法王の破門に同意して正式にルーテルを処分せんがためではないか。憐れむべきルーテル、彼は今正しく風前の燈である。彼がまさに議場に入ろうとする時有名なるフルンヅベルヒ将軍が同情の余り彼の肩を叩いて、「実にお気の毒だ、私らの経験にもこんな難しい戦いをしたことはなかった」というた。

 しかしながらルーテルは孤独ではなかった。彼には恃むところがあった。彼の後ろには目にこそ見えないが主イエス・キリストが立ち給うたのである。この偉大なる援軍をもって、彼は勝利を収めざるを得なかった。彼はきのうと同じ問いに対して答えていうた、「私は一つも取り消すことができません。私の頼るものは聖書であります。私は法王や宗教会議に頼ることはできません。何となれば彼らが間違いを為していることは、白日の如くに明瞭なことであるからであります。私は聖書に縛られている者であります。私の良心は神の言につながれております。私は聖書にそむき良心にそむいて取り消すことはできません」。ちょっと途切れた後に付け加えて、「これより他どうすることもできない、私はここに立つのである、おお神よ助け給え、アーメン!」(※2)。

 カーライル曰う、これ近世歴史上最も重大なる時であった。英国の清教徒もフランス革命もアメリカ建国もその他欧州のよきことは皆この時生まれたのである。もしルーテルがこの答弁をしなかったら欧州は亡びておったかも知れない、」ゆえにこの時全欧が彼に嘆願しておったのである。曰く我々を亡びにやるなかれ、我々を救いに導けと。然り独り欧州のみではない、日本もまたそうである。我々の救いも彼のこの答弁によって確立せられたのである。

 皇帝は遂に法王の要求にしたがって、ルーテルの保護を剥奪するという布告を発布した。二十日を経過した後には何人も如何なる方法をもってもルーテルを助けてはならない、犯す者は厳罰に処せられるのである。この世のすべての権力を代表する帝国と教会とが共に彼を棄てたのである。ここにおいてか残るところはただ帝国の官吏が彼を逮捕して焼殺の刑に処するのみであった。しかるにルーテルは突然行方をくらました。何人も彼の行方を知る者がなかった。

 彼はウオルムスを去って元来た道を引き返した。旅程数日ののちアルテンスタインの城を過(よぎ)り、道はようやく曲折して木の茂れる坂道にさしかかった。一脈の渓流がその傍を走っている。突然森蔭から二人の騎士が五六人の従者を従え騎馬のまま飛び出してルーテルの馬車を引き止め、彼を一頭の馬に乗せて何処とも知らず連れて往ってしまった。これはあくまでルーテルを保護せんとするフレデリック選挙侯の心配によりワルトブルヒの城へ隠されたのである。ルーテルはここに人目を忍んで十ヶ月を過ごした。その間にも彼は無為にはくらさなかった。彼は色々のことをなしたが、中にもこの隠れ家にある間に彼の事業として最も適当なる一つの貴き仕事をなし遂げた。それはすなわち新約聖書の翻訳である。

 この時までドイツ訳の聖書がなかったわけではなかった。否実は総体で十九種ばかりの訳がすでにあったのである。しかしながらこれらはいづれもラテン訳聖書からの二度訳で、文体も平民にはわかりにくく、間違いも少なからずあった。そしてまた実際平民はあまり聖書を読まなかった。これはルーテルにとっては大問題である。棄て置き難き問題である。聖書を与えずして福音を伝うるも無用である。聖書を読まずして信仰を維持することは不可能である。自分はすべての場合に聖書を唯一の恃みとしているではないか、しからばこの貴き神の賜物を平民に分けてやることは何よりも大事な急務である。彼は早くから聖書翻訳を思い立っていたであろう、しかしながら今日まで適当なる機会がなかった。今やしばらく世間と全然離れてワルトブルヒの城深く静かに研究の時を与えられた。

 この時ルーテルが聖書の翻訳に着手したというほど自然的なことはない。そしてこれまた確かに神の摂理であった。彼はその聖書翻訳をなさんがためにワルトベルヒに隠されたのであるというも決して過言ではない。彼の翻訳はもちろんギリシヤ原語からであった。そして原文の精神を活き活きと伝えんがために非常なる苦心を為した。その原稿の一部が今でも残っているそうだが、それを見れば適当な訳語を発見するまでに十五回も書き直したところがあるという。ことに彼は一般の平民に分かりやすい書物にしようと苦心した。かかる苦心の結果出来たる翻訳であるから、実に見事な出来栄えであった。必ずしも文字が原文の通りであるとはいえぬが、読者を導いて直ちに原文の中心へつれて行くという点においてはどの翻訳もこれに及ぶものがない。彼の聖書翻訳はドイツ国語に一新紀元を作ったといわれるが、その宗教上における功績はほとんど無限であるといわねばならぬ。

 かかる貴き仕事に従事している間にウイッテンベルヒの形勢は日々に変化しつつあった。ルーテルの精神に感激した人たちが熱心のあまり暴力に訴え、極端なる革命を実行しようとしておった。ルーテルはこれを見て非常に憂えた、これまた聖書にかなわないことである。ルーテルはローマ教会に反抗して宗教改革に着手したけれども、彼の事業は徹頭徹尾聖書本位であった。もし武器が要るというならば聖書が我が武器である。聖書を説教することによってすべて必要なる改革は成し遂げられるのである。たとい如何に貴き改革を実現するためといえども暴力によるが如きは絶対に不可である、とは彼の持論であった。

 しかるにウイッテンベルヒにおいては改革派の人たちが乱暴にも教会に闖入(ちんにゅう)して画像を引き裂き、儀式を撹乱し、僧侶を侮辱し、あるいは大学を解散して学生を散乱させ、その他色々の不都合なる騒擾が日々に盛んになった。これを見てルーテルは自己の安全を護るためにいつまでも選挙侯の保護の下に隠れておることができなくなった。彼は決心した、よし我が身には何が起きるとも我はワルトブルヒを出ねばならぬと。侯は驚き恐れ、もしここを出たら所詮ウオルムスの布告による処分を免れないと警告した。ルーテルは侯宛手紙を書いていうた「私は閣下の保護よりももっと遥かに高い保護の下に移ります。閣下といえども決して私を保護しきれるものではありません。私は別に恃むところがあります。どうぞ帝国の官吏が私を捕えましてももはや決して保護してくださいますな」。(『藤井武全集18巻622〜625頁より引用)

※1 今日の図版は『改革者マルティン・ルター』(岸千年著 聖文舎1958年改定版発行)126頁に載っていたものを用いさせていただきました。少しでもその有り様を想像できるのではないでしょうか。

※2 何かこのルーテルの決心をあらわすにふさわしいみことばはないものかとあちらこちら探しましたが、中々見つかりませんでした。とりあえず以下の聖句をあげておきます。

いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(新約聖書 使徒の働き20章22〜24節)

彼はこう言った。主、わが力。私はあなたを慕います。主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。(旧約聖書 詩篇18篇1〜3節)

2024年11月7日木曜日

ルーテルの恃み(8)

河岸を 餌求め歩く 白鷺(※)
 なかんずく1520年にはルーテルは三つのえらい著述を為した。これは三大宗教改革論文といわれ 、今日においても実に貴きものである。しかもかかる立派な著述を八月の初めから十月の初めまで、僅々二ヶ月の間に引き続いて発表したのである。その一つは有名なる『キリスト者の自由』であった。次は『教会のバビロン俘囚』であった、もう一つは『ドイツの貴族に与うる書』であった。いずれも聖書の重んずべきことを主張したる論文である。

 例えば『キリスト者の自由』においてはこんなことを言うている、「霊魂に自由を与えるものは外側の事物ではない。僧の衣を纏(まと)いローマの本山に住んでも霊魂には何の益にもならない。霊魂はただ神の言すなわち福音さえあれば足りるのである。福音によりて初めて真の自由が得られるのである」と。あるいはまたいう、「今日豪然として法王様とか監督様とかいっておる者を聖書には何というておるか、曰く役者(つかえびと)、僕(しもべ)、家宰(いえつかさ)と呼んでいるのである。彼らは信者という点においては少しも一般のキリスト者と違わない。ただ違うところは彼らは信仰上のことをもって他の人々に仕える僕であるのみ」と。

 『教会のバビロン俘囚』の中にはこんなことをいうておる、「すべてのこと皆ただ聖書によってのみ判断すべし」と、すなわち聖書以外に判断の根拠は何処にもないというのである。而して彼は聖書に照らしてローマ教会の聖礼典制度(サクラメント)を鋭く批評した。洗礼と主の晩餐以外のサクラメントは皆聖書に基づかない人間の伝説または命令によるものだからこれを廃止すべしというている。

 また『ドイツの貴族に与うる書』には、ローマ教会が法王のほか何人にも自分で聖書を解釈することを許さないことを手厳しく非難していうている、曰く「聖書を解釈し得るものが法王のみであるというならば、しかしそれがほんとうなら聖書の必要がそもそも何処にあるか。むしろ聖書をやいてしまってローマにいるあの無学無信仰の坊主たちで満足するがいい。現に彼奴(きゃつ)等が悪魔の手先であるということを知ったのも、私が自分で聖書を解釈したからではないか」と。

 一にも聖書、二にも聖書、三にも聖書、聖書聖書聖書である。そしてその論鋒の鋭いこと、実に聖書によらなければ到底できないところである。ルーテルには敵の本営を突き崩さねばやまぬような鋭い力があったが、それは彼の性格によるというよりもむしろ彼の用いた聖書の力であった。聖書そのものが両刃の剣よりも鋭いのである。これはいわゆる「たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す」(新約聖書 ヘブル4章12節)。これを武器として用いて、鋭からざるを得ないのである。

 そのうちに遂に法王はルーテル破門の令書を発布した。ルーテルは法王より狐、野猪、猛獣などという名を被(かぶ)せられ、いよいよ最後の処分に処せられたのである。この当時において恐るべきものは地震でもなく雷でもなく、実に法王よりの破門であった。幾百万の忠良なる国民と精鋭なる軍隊とを背後に有する皇帝すらも、この処分には敵(かな)わなかったのである。しかるに見よ一巻の聖書の他何の頼るところなき寒僧ルーテル、彼は同僚と学生とを招きウイッテンベルヒの門外に火を炊いて法王の令書を焼いてしまったのである。一人の坊主が法王の令書を焼いたと、これを聞いてドイツ全国否欧州全体の心臓がひっくりかえるほど驚いた。今日の我々にはとてもその驚きを想像することができない。しかしながら聖書によってキリストと神とに恃める一人のルーテルは強かった。皇帝を頤使(いし)するローマ法王といえども、彼一人をどうすることもできなかったのである。

 遂に1521年の有名なウオルムスの議会が来た。正にルーテル三十有八歳の春である。この議会は皇帝チャールズ五世の即位以来初めての議会であったがため、その議題に上るべき事件は色々あったが、なかんずく最も重要なる問題はドイツ国とローマ法王庁との関係であって、而してその中にはもちろんルーテルの破門に関する帝国の処置如何ということも含まれておった。法王はこの議会へ使者を遣わして皇帝宛の親書を送り、ルーテルに対する破門処分を執行せんことを要求した。皇帝は政治上の理由よりこの際法王と握手せんことを欲していた。しかしながら一応の審問もしないで法王の要求のままに自分の臣下を処分するが如きは威厳にも関するというわけで、ルーテルを召喚し議会へ出頭させることにした。

 途中ルーテルの一身に関しどんな椿事(ちんじ)が持ち上がるかも知れぬ虞(おそれ)があるので、皇帝からその安全を保証するための保身券が下付せられた。ルーテルはこの皇帝よりの召喚の命令に応じて、1521年4月2日遠くウオルムスに向かい、ウイッテンベルヒを出発した。彼の前途は雨か霞か、黒い雲が一面に地平線の上を蔽うているが如くに見えた。死の影が前に漂うているが如くであった。いずれにしろ唯ですむはずがなかった。ルーテルはもちろんそのことを自覚しておった。しかしながら彼には恃むところがあった。まさに出発せんとするに臨みその友リンクに手紙をやって言うた、「私は知っているかつ信じている、主イエス・キリストが今なお生きて我らを護って下さることを。私はただこれに頼るのである。ゆえに一万の法王といえども恐くはない。何となれば私と一緒におる者はローマにおる者よりも遥かに偉大であるからである」と。

 ウオルスムスといえばライン川の上流に位し、ウイッテンベルヒからは二週間の長い旅路である。この間ルーテルは到るところで聖書について説教をした、ことにあのエルフルトの修道院に泊まった時には如何に思い出多く感じたことであろう。そこにおいて彼はキリストの復活についてえらい説教をなした。かかる場合にありながら、彼の心中を占めておった問題がどんな種類のものであったかがわかる。旅行の最後の駅オッペンハイムへ着いた時、自分の殿様のフレデリック選挙侯の秘書官から一通の手紙を受け取った。それには危険だからしてウオルムスへ来ることを見合わせよと書いてあった。そしてジョン・フスも皇帝の保身券がありながら焼き殺されたではないかと書いてあった。ルーテルは直ちに返事を認めた、曰く「フスは焼かれた、しかし真理は彼と一緒に焼かれない。私はウオルムスへ行く。たとえ屋根の瓦の数ほどの悪魔が待っているとも私は行く」と。

 ウオルムスでは朝早く物見の塔に出ておった見張り人がラッパを吹き鳴らしてルーテルが見えたと知らせた。町の人々は朝餉(あさげ)をやめて外へ駆け出で、僧服を着て妙な旅行帽をかぶっているルーテルを見た。街は群衆で押し合いひし合いし、辛うじて通り抜けることができた。翌日午後四時頃議会に呼び出された。議場へ入って見ると正面の玉座に皇帝た座っている、その下には六人の選挙候が並んでいる、満堂には諸侯貴族僧侶自由都市の代表者外国の使臣などが綺羅星の如くに着席している。すべてで五千人以上の人が堂の内外に集っておったという。

 皇帝の前には卓があって、その上に本が山の如く積み重ねてあった。みなルーテルの本である。皇帝の代表者が出て来てその本の表題を一々読み上げ、「これらは皆ルーテルが書いたものであるかどうか」と尋ねた。「その通り、私の書いたものに相違ありません」。しからば今なおこれを固執するかあるいはその一部または全部を取り消すかと。ルーテルにとっては軽々しく即答のできない質問であった。何となれば彼は決してつまらぬ意地を張って自分の書いたものを何処までも固執しようという気はない、彼の恃むところは自分ではない、ただ聖書である、かつて自分の書いたものにいやしくも聖書に背くような節が一点でもあるならばそれを取り消さないわけにはいかない。ここにおいて彼は自分の著述の全部にわたり一応調べ直して見なければならなかった。彼は一日の猶予を乞うた。而して翌日また召喚せられることになった。

※ 今、古利根川は白鷺、青鷺が川の上を飛行しては、餌になる魚を求めては歩き回っています。しかし白鷺の「白」は美しいもので、何か私には訴えるものがあります。造物主はこうして私に無限の慰みをくださいます。

 さて、アメリカ大統領選は結果が判明しました。トランプ氏の圧勝でした。実は私は、結果が判明する前に、いったん次のようにコメントを書きましたが、削除しました。その文章とは次のものです。
 トランプ支持者のうちには福音に立つ人々が中核を占めていると言われています。一方ハリス氏はどうなのか、数ヶ月前に彼女の著書『私たちの真実』を読みましたが、その中で彼女は次のように述べていました。「私は寝る前にはいつも、短く祈りを捧げた。『神よ、どうか私に正しいことを行なう力をお貸しください』。自分の選ぶ道が正しく、最後までやり遂げられる勇気がもてますようにと祈った。とりわけ、私を頼りにしている多くの家族が安全に不安なく過ごせますようにと。彼らの生活がどれだけ危機に瀕しているかをよく知っていたからだ。」(同書123頁より引用)
 こう書きながらも、私はハリス氏の信仰とは如何なるものか、もう一つ確信が持てず、判断しあぐねていたところがありました。彼女はこの本の中で信仰に関し三箇所ほど書いていましたが、この箇所は彼女の信仰のあり方を示すにふさわしいのではないかと思って引用させていただいたのですが、ルーテルの信仰が上述のように、全面的に主に依存するものであるのに対し、ハリス氏の場合は全面的でないのではないか、「お貸しください」という祈りがいみじくも示すように、それはご利益主義と異ならないものになるのではないかと少し思ったからです。祈りの次の文章が示しますように、ハリス氏の善意は分かりますし、彼女が落選したあと、今後どのようにその思いを達成していくのか期待したいと思います。 

2024年11月6日水曜日

ルーテルの恃み(7)

日輪を コスモスの群れ 仰ぎ見る(※)
 果たして論題の効果はえらいものであった 。ルーテルに対して盛んなる攻撃反対の火の手が方々に起こった。なかんずく最も有力なるは神学者ジョン・エックであった。この人はルーテルの敵の中第一流の人物であったといわるる。学問は博く頭はよく、加うるに極めて優れた討論家であった。彼はルーテルの論題を研究すればするほど敵愾(てきがい)心が募るのみであった。彼はどうかしてこれを一揉(も)みに揉みつぶしてやろうと考えた。そして明敏なる眼をみはってルーテルの議論の一番の弱点を探した。彼は遂にそれをめつけた。すなわちルーテルの意見の中には恐るべきものが入っている、百年前にボヘミアで焼き殺されたあの異端者ジョン・フスの意見と似たものが入っている。ボヘミアのフスといえば、名を呼ぶだに人々の恐れていたものであった。しかるにルーテルは少なくともある点においてフスと同じ意見を持っているのである。エックはこれを発見して独りほほえんだ、ここを衝(つ)けばルーテルの立場はことごとくひっくりかえるのである。而してそのために最もよい方法は自分の得意な討論にルーテルをおびき出して公衆の面前において彼をわなの中に陥れることである、かくて有名なるライプチヒ論争は始まった。

 ルーテルはかかるたくらみがあるとも知らず、やむをえず引っ張り出されてライプチヒに向かった(1520年)。ライプチヒはサクソニー公国の首府であって、その王様のジョージ公はルーテルの大敵であった。ライプチヒに滞在中エックはあらゆる名誉をもって歓迎せらるるに拘(かかわ)らず、ルーテルは非常なる侮辱を受けた。彼はただはねのけ者として爪弾(つまはじ)きせられるばかりであった。礼拝のため教会に行けば、僧侶らはやあ異端が来た汚れる汚れるといって祭壇から聖餐用の品物を取りおろした。彼は不快の念禁じ難かったけれども、ただ聖書を恃みとし神によって慰められて、心の平和を保っていた。いよいよ討論の折にもエックは種々なる詭弁を弄(ろう)し、またルーテルの言をあるいは曲解しあるいは誤解し、無暗に圧服するような風があったが、ルーテルの態度は落ち着いておった。彼はいつも一束の菫の花を手にして討論の熱する時など度々その香りを嗅(か)いでいたという。その様子を実見したモゼルラヌスの如きは、特別むつかしき立場に置かれながらかかる態度を保ち得るからには、必ずや神彼と共に在り給うのであろうと信じたというておる。

 しかしながら討論の結果はエックの策略の成功であった。彼は歩一歩ルーテルを押しつめて、遂に予定のわなのところまで連れて来た。そしてルーテルのある言葉を捉まえて尋ねた、「それでは貴下の意見はフスの意見と似ているではないか」と。ルーテルは答えた、「そうです、フスの意見の中にも全然キリスト的かつ福音的のところがある」と。この一言に満場どよめき渡った。傍で聞いておったジョージ公の如きは憤然として頭をふって全聴衆に聞ゆるような大音声で叫んだ、「おお大変だ、この疫病め」と。喜んだのはエックであった。ルーテルからこの一言を聞けばもう目的を達したのである、この上はもはや何ら討論の必要がない。彼に異端の宣告を与えフスと同じ刑罰に処しさえすればよいのである。憐れむべきルーテルは遂に窮境に陥ったのであった。彼自身も意外の結果に陥ったことを驚いた。しかしながら「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません」(新約聖書 Ⅱコリント4章8節)、彼は決して失望しなかった。世界中が彼を異端扱いしても、彼にはなお恃むところがあった。法王は彼を焼き殺しの刑に宣告するとも、彼にはなお大なる慰めがあった。それは他なし、やはり聖書であった。ライプチヒの論争は表面より見てルーテルの失敗である。しかしながら実は彼をしてこの世のすべてに望みを失わしめ、ただ益々聖書にのみ頼らしめんとする神の摂理であった。神の摂理は度々人の失敗の形をもって現わるるのである。彼はひとしお心を込めて聖書を研究した。而してフスの意見のあるものも自分の意見も共に聖書に背かざることを知って、非常なる慰安を感じた。彼の心には前よりも大なる勇気が湧いた。彼は筆を執って盛んに自分の意見を公表した。その当時のルーテルの著述の盛んなること、実に驚くの他ない。ドイツ中で出版する本の半数もしくは三分の一は彼一人の書いたものであった。而してこの不思議なる力に動かされて、ドイツ全体が彼の著述を争い読んだ。何か彼の著述が出版せらるるという時には、その最初の版を手に入れたいとて群衆が印刷所の戸口に押し掛けてこれを待ち受け、しかも家までそのまま持って帰ることができない。途中でまた他の群衆が彼らを包囲して声高く読み上げさせたという。メランヒトンはいうておる、「何人もルーテルのように全国民の心を動かす者はない、貴族といわず農民といわず諸侯婦人小児といわず、みな彼の貴き言葉に動かされた」と。(『藤井武全集第8巻』615〜618頁より引用)

※ 文化の日の翌日(11/4)の古利根川沿いのコスモス畑です。私たちの散歩コースの折り返し点になる「人道橋」からはさらに上流部側に位置するので、私たちは圏外扱いにしておりますが、秋のこの時期には足を延ばして訪れるようにしています。さてどこからどのように撮ったら様(さま)になるか考えましたが、コスモス一輪一輪がそれぞれ思いのままに咲き誇っているのを眺めているうちに、いつしか、アメリカ国民の大統領選に臨んでいる姿を想起せずにはいられませんでした。
 本文中にルーテルとエックの討論の様子が描かれていましたが、ルーテルは自らの立場がたとえどんなに不利になってもその信仰は弱らなかったことが鮮明に描かれていたのではないでしょうか。「神の摂理は度々人の失敗の形をもって現わるるのである。」とは名言ではないでしょうか。
 ルーテルの信仰は世界をひっくり返しました。そのルーテルの申し子でもあるアメリカ大統領は果たしてトランプ氏なのか、ハリス氏なのか固唾を飲んで世界中の人々が注目しています.。