2025年6月21日土曜日

ピーター・マーシャルの祈り

風そよぐ 薄野(すすきの)に蜘蛛 棲家あり(※1)
 ピーター・マーシャルという人物が昔いた。アメリカ上院付きの牧師である。以下は 『A Man Called Peter』(ピーターという男)という題名で妻キャサリンが夫ピーターの1949年のトルーマン大統領就任式でお祈りした状況・場面をその本の中で叙述しているものである。(同書11〜12頁より訳出※2)

 その朝は寒々として冷たかった。湿っぽい肌を突き刺す風がポトマック川の鋼のような灰色の川面を波立たせていた。ペンシルバニア通りの広い立ち入り禁止の一帯は紙やがらくたのようなものが風で吹き飛ばされ、その風が連邦議会のドームに吹きつけ「ヒューヒュー」と唸っていた。

 ワシントンの至るところで期待感がみなぎっていた。大通りに沿って何週間もかけて積み上げられてきた材木のかたまりはついに屋根付きの観覧席へとしつらえられていった。街角という街角にはネービーブルーの制服に身を固めた特別区の警官が彩りを添えていた。灰色の街灯には小さなアメリカ国旗やトルーマン(大統領)とバークレー(副大統領)の写真が飾られた。赤、白、青の旗が至る所にあった。数時間もすれば合衆国大統領を祝って4万人の行進者や40以上の山車が7マイルの長さで縦列をつくることになろう。この日は1949年1月20日、大統領就任式の日だった。

 両翼を広げた重厚な連邦議会の建物の前で、私は12万人の他の人たちとともににわか仕立てにつくられたベンチに座って、前の貴賓席に場を占めている政府高官を眺めていた。ラジオ、テレビ、映写技師たちは新しく造られたひな壇で器具を調整したりテストしたりするのに上がったり降りたりして大わらわであった。昼の12時に全米の耳目はこの瞬間に吸い寄せられることであろう。

 私はプラム色の革掛け椅子や緑色のカーペットの敷かれた通路を備える旧上院会議場で、ピーター・マーシャルがその瞬間祈ることを知っていた。彼は多くの新聞記者に「上院の良心」と呼ばれていた。彼の簡潔で真摯な地についた祈りは上院議員たちに次第に深い影響を与えつつあった。しかし祈りは親密なものであり、決して人が手軽に話すようなものではなかった。私は何度か見てきたようにその場面を描くことが出来る。ピーターが祈ると、人々は突然静まり返り、うやうやしく頭を垂れた。

「父なる神様、私たちはあなたを信頼しています。また、この国はあなたのお導きとお恵みにより誕生させられました。どうか合衆国の上院議員を歴史上のこの重要な時に祝福し、その義務を真摯に遂行するのに必要なすべてのものをお与えください。

 私たちは今日特に私たちの大統領のためにお祈りします。そしてまたこの議会を主宰する大統領のためにお祈りします。彼らがその務めを果たすために、精神的肉体的緊張に耐え得る健康をお与えください。またしなければならない決定に対する正しい判断力をお与えください。また彼ら自身の力を超える叡智とこの困難な時期の問題に対する明確な理解力をお与えください。

 私たちはあなた様に心からへりくだり信頼できますことを感謝いたします。どうか彼らが恵みの御座に絶えず行くことが出来ますように。私たちも彼らに対するあなた様の愛あるご配慮とあなた様のお導きの御手におゆだね出来ますように。

 私たちの主イエス・キリストの御名を通して、アーメン。」

※1 日々大変な暑さである。この暑さの中で生きとし生けるもの様々な工夫をして生き延びている。土手を歩くと彼方此方にミミズの屍が見える。この暑さで地中から出ざるを得ず、出たは出たで熱にやられての結果であろうか、哀れでならない。一方、伸び放題の葦やススキが繁茂している。オオヨシキリはその豊かな自然環境の中で「ギヨッ ギヨッ」と囀るに遑ない。そしてそのススキには蜘蛛がご覧のようなシェルターにこもっては餌を狙っている。写真では一つしか示さなかったが、もちろんたくさんの蜘蛛のシェルターがある。よくも彼らはこうして「家」を作るものだと感心せざるを得ない。

※2 2008年当時、この本を読んで痛く感動した覚えがある。原本はアメリカで戦後間もなくベストセラーになった本である。典型的なアメリカンドリームの体現者がイギリス・スコットランドから移民としてやってきたピーター・マーシャルその人の人生であった。その人生を妻であるキャサリンが描いた「夫の肖像」とも言うべき本である。幸い、邦訳がある。村岡花子さんの訳である。当時私はこの本が手に入らないのでやむを得ず英書を購入して読んだ。ところが今回探して見たら、今や国会図書館デジタルライブラリーで自由に引き出せ、プリントアウトして読むことが出来ることがわかった。だから村岡さんの名訳を拝借してもいいのだが、私訳を載せた。村岡さんはピーターの祈りの言葉を載せておられない。不必要だと思われたからである。しかし、どっこい、その祈りこそ今私が必要としている祈りの一つであるので敢えて載せてみた。ついでに言えば、村岡さんはこの一連の叙述(20項目)の冒頭に必ず載っている聖句(下のイザヤ書の聖句)をやはり省略している。それらの祈りや聖句の省略が村岡さんにとって、その後どう言う意味・経過を辿ったかはその翻訳書の後書きで少し書いておられる。一読の価値があると思った。機会があれば紹介したい。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/11/blog-post_19.html

まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。(旧約聖書 イザヤ55章12〜13節)

2025年6月19日木曜日

帰心矢の如し(下)

(急行する鴨二羽の動きは、私にただならぬ思いを抱かせて、橋の上を走らせた。そして了解した。二羽の鴨は橋の下の人目に触れぬ場所で子鴨を育てているらしかった。昨年の今頃はたっぷりと、水田の中で子育てをする鴨家族を観察させていただいたが、今年は橋の下か?という思いだった。それにしても、二羽の鴨の急行ぶりの先に家族があったとは・・・。この曖昧ではっきりしない画像からは想像していただけないかもしれないが。) 

 さて、昨日の続きだが、結論を言えば、朝京都駅での待ち合わせに失敗した二人だったが、不思議なことに午後に会うことができたのだ。その間の事情を示す手紙が残っていた。それに語らせよう。

「ドストエフスキー覚書森有正著筑摩書房読んでいました。再び感激しました。そこには魂の問題が美しく描写されているのに感動しました。邂逅!出会いの問題。とくにそのなかの「コーリャ・クラソートキン」はぼくのこれまでの苛立ちを訣別させるべく頭を緩やかに打ちました。啓示!ぼくは一層神の問題に近づいていくのを覚えます。そしてぼくは再び、君が京都駅で幾分憮然とした、自失した状態で階段を降りてきたときに感じた霊感に深い存在感を確認しました。実はあのとき朝から苛立っていた精神が諦めの境地から、かえって透明になり完全にある心的状態に支配されていたので、君の姿を物欲しそうに探すのでなく、ーーそういうときはえてして心の中は空虚なものなのですーー、心の奥底で信頼したときーーこれも変な表現ですが、こうしか表現できませんし、事実ぼくの行動は二枚の葉書を投函することに清々しい悦びを感じていたときなのですからね、ーー君が視界に入ってきたのです」

 今の京都駅(※1)は4代目、1997年に開設したようだが、1968年当時の駅舎は3代目にあたり、当時列車の時間待ちには2階にあった「観光デパート」をよく利用した。この時も私は散々労を尽くしたが、彼女と会えず、やはり失望感を抱いてだったと思うが、観光デパートの階段を上るところだった。ところが何とその彼女が上から降りて来たのだ。
 その後、彼女の帰る時間も切迫していて、もはや一刻の猶予も許されぬ中、京都駅から東海道線で草津駅(滋賀県)まで移動し、柘植(三重県)行きの電車に乗り換える合間の時間を駅構内で過ごす短時間の「デート」となった。淡い草色をした草津駅の壁面をバックに私は彼女の横顔をじっと見つめているだけで、十分だった。

 今回端なくも、二人の友人が待ち合わせに失敗したことをきっかけに57年前のこのことを思い出した(※2)。1964年から1968年のこの時まで不思議と私の彼女に対する片思いは細々ながらも維持され、京都駅での「邂逅」がなかったら、どうなっていただろうとも思う。友人の待ち合わせの失敗の原因は片方の方の朝寝坊であった。私たちの場合は、彼女が途中で友人に会い、その人と交わっていたために約束の時間に来れなかったことにあった。携帯電話がある今ではとても考えられないことだが、互いに連絡しようがなかった。私には彼女のその行為は許せなかったが、それこそ「無償」「無償」と自分に言い聞かせていた。

 しかもそれから1969年の3月12日の「交通事故」(※3)に至るまでの一年間、さらに1970年3月の受洗、4月の同じ京都での結婚に至るまでの一年間。都合二年間、栃木県の足利と滋賀県の甲賀と相離れた遠距離恋愛ゆえに毎日のように交わさざるを得なかった二人の手紙のやり取りを通しての苦闘があった。そのはしりともいうべき、京都駅から草津駅へ移動しての「邂逅」のひとときのことを指しているのだろうか、その頃の手紙の中で次のように記している。

 今度君と会って一番印象深い、あとあとまで残る君のセリフ「ほんでもやっぱりいづれは吉田さんは神さんのことがわかってくれはると思うわ」を大切にしようと思う。さようなら、ではまた。

 もし当時携帯電話があったら、私たちの間の信頼関係の葛藤は表面化しなかったであろう。今回二人の方が経験された行き違いは、お二人の間の主イエス様への信頼が友人関係を打ち壊すものとはならなかったと想像する。もはや「無償」とは、私たちの単なる道徳律ではなく、とりも直さず、私たち罪人に対する主イエス様の十字架上での贖いの愛をお知りになっていると思うからだ。そのお二人の間の素晴らしい愛こそ、別の機会に稿を改めて、詳しく触れてみたいと思う。

 最後に、昨日、今日と掲載させていただいた写真を通して急行する鴨二羽の姿を追ったのだが、「帰心矢の如し」とは鴨に備わっている主がくださる家族愛の発露に違いないと思う。一方私も最近、やっと主の身許に立ち返った我が身を思う時、「矢の如し」とは主なる神様が私たちに示される愛のすべてだと思わざるを得ない。

※1 私の京都駅との出会いは2代目に遡る。火事で消失する以前の駅舎であった。1950年が火災の年、私が小学校一年の時のようだが、消失間もない駅舎を微かに覚えている。
※2 このことは今回初めて書いたと思っていたが、過去にすでに書いていたようだ。
   https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/11/blog-post_30.html
※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/03/1969312.html

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(旧約聖書 イザヤ書55章6節7節)

2025年6月18日水曜日

帰心矢の如し(上)

 この日曜日、友人の二人の方が仙台に行く計画を立てられた。元々この話は一人の方が「父の日」に父親に感謝のプレゼントをしたいこともあって、前から行きたいと思っていた仙台行きを決行されたのだ。ところが残念なことに出発駅の大宮駅での待合場所、待合時間にその方が現れなかった。その方に付き合われた方は携帯電話を持っておられたが、肝心のその方は普段から携帯電話を所持しておられない。為す術がなかった。

 その旨、付き合われた方からの連絡で委細を知った私たちは祈らされた。結局一日の終わりとも言うべき夕方に、その方がたまたま朝寝坊し遅れたので、付き合ってくださる方に家から電話をしようとされたが、様々なことを考えて電話できなかったが、自分は一人で仙台に行き無事にお父さんにお土産も買って帰って来たことがわかり、ホッとした。

 それにしても、付き合われた方の思いはどうだったのだろうか、と思ってしまう。「無償」という言葉がある。その方は、自身の犠牲を顧みず、現れない友のために様々なことに気を紛らわせ、心配されたのでないかと思う。昔、学生時代『対話』という題名で日記(ノート)を作ったことがある。次に作ったノートは『無償』にした。それは何が何でも見返りを求めないで行動しようと思ったためである。

 実はこの日曜日の出来事を通して思い出したことがあった。1968年の3月5日のことである。京都駅で一人の女性と待ち合わせていた。ところが、時間が来ても一向に現れなかったのだ。何しろその二日前に、栃木県の足利から夜行を使って故郷彦根に帰ってきた。目的は彼女と会うためであった。どういう手違いか、その後何時間待とうが本人と会うことができない。

 結局丸半日棒に振った。やむを得ず、岡崎の美術館に行って、青木繁、黒田清輝、浅井忠などの作品を見て回った。今なら携帯ですぐ連絡が取れるが、彼女と会うのは諦めざるを得なかった。その腹いせもあってか、彼女の勤務先・兼宿泊先(滋賀県甲賀町)に京都駅前の喫茶店で二通のハガキを書き、投函した。この機会にと思い、彼女(今は妻)の所持していた書翰を探してみたら、二通ともあった。そのうちの最初の一通は下記のものだ。

「今日は本当に申し訳なかった。と言っても会えなかったのだから何を言ってみても恨めしい。誰が悪いのやら、僕が悪いのか、君が悪いのか、いろいろ努力してみたんだ。今駅前のシャトウーという喫茶店で書いています。頭は支離滅裂で、なんとも口惜しい。それでも岡崎の美術館で明治美術展を一時間ばかり見ていただろうか。あとはもう駄目さ。駅へ一目散。もっとも確実な改札所をねらったのだが。あと5時57分発の柘植(つげ)行きがあるのみだ。なんとしても会って帰らなきゃ、帰って来た甲斐がないというもの。」

(今日の写真は、二羽の鴨が橋の欄干から見えたのを遠くからキャッチしたものです。二羽の鴨は脇目も振らず一目散に画面の左方向へ急いでいるのです。思わず「帰心矢の如し」だなと思いました。その到着点は明日掲載します)

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(旧約聖書 伝道者3章1節)

2025年6月11日水曜日

妻の失くした「チェーン」に寄せて

その名も むらさき露草 映える色
 日曜日の昼下がり、妻が浮かぬ顔をして外出先で礼拝を終えて帰って来た。「自転車のチェーンをなくした」と言うのだ。どこでなくしたかわからないと言う。いつもは一緒に礼拝をするのだが、この日私は滋賀県の近江八幡の礼拝にZOOMで参加していて、それも無事終わったのでホッとしていた時だった。

 いつになくしょんぼりしているので、私も一緒に自転車で探しに行くことにした。この時は思い出さなかったが、一年前私は水田に自転車もろともチェーンを投げ出してしまって、結局そのチェーンは見つからないまま、新しいチェーンに取り替えた。その時携帯で妻を呼び出して、急遽駆けつけてもらった覚えがある。考えてみると、私たちは年がら年中、このような「失くしもの探し」を繰り返している。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/06/blog-post_23.html

 ところが今回、意外に早く見つかった。記憶の定かでない妻なので当てにならないが、とにかく、元来た道を辿らせ、私がその後を追うというスタンスだった。道々、「見つからなくっても、どっち道100円ショップで買えるわい、ここは妻の気が済むまで一緒に探してみよう」と腹を括っていた。しかし、意外や意外、家から7、800メートル先のコンビニエンスストアの駐車場近くの側溝の溝近くに落ちていた。見つけたのは私だった。路上に何やら銀色の物が見えたので近づいた。まさか、それが妻が失くしたチェーンだとは思えなかった。私の呼び寄せる声で近づいて来た妻に確認させるとまさにそのチェーンであった。

 妻はどうして自分の自転車のチェーンがそこにあったのか今もってわからないと言う。しかし、結果オーライでめでたしめでたしであった。そこで思い出したことがあった。それはヨハネの福音書5章5、6節の中に書き記されている、三十八年間病に苦しめられていた男が、誰からも相手にされずにいたところ、イエス様に見出されその病から癒されるシーンだった。

 明治期に日本人の救いのためにイギリスからやって来たバックストン宣教師(1860〜1946)はそのことを次のように語っている。

牧者(主イエス)は羊を求め給います。失われたる羊は牧者を求めません。善き牧者は失われたる羊を求め給います。(中略)主は私共を求め給います。度々私共の心中に主を求むる精神がありません時にも主は私共に近づき給います。私共は主を求めません。主が私共を求め給います。

 このバックストン宣教師のことばをたまたま先週の土曜日、要するに妻がチェーンを失くした日曜日の前日読んでいて、我が身に照らし合わせて痛く感動していたからである。妻と結婚する以前、私は主を求めていなかった。結婚する前、妻も主を求めていなかった。しかし、主はその当時、まことの愛を知らずして苦しんでいた妻を見出し、救ってくださった。そしてその妻は、当時結婚を前にして、同じように苦しんでいるように思えた婚約者の私にイエス様を紹介した。けれども、私には全く求める気持ちがなかった。不思議なことに、その私(迷える羊である)を主イエス様ご自身が聖書のことばを通して、声をかけ見つけてくださったのだ。道の端っこに横たわっていて、自分では動くことができないで、そのまま置かれっぱなしになってしまう「チェーン」と同じだった私を。

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。(旧約聖書 詩篇23篇1節)

2025年6月10日火曜日

紫陽花の「つゆ」

 いよいよ梅雨に突入。雨が降る前の、どんよりした曇り空を見て、私の今の気持ちはこの空のようだ、と言った御仁がいる。いわゆる鬱状態にある人の偽らざる気持ちだろう。それに比すると、曇り空から、いざ雨がシトシトと降る梅雨はどのように人は感ずるのだろうか。

 東京新聞の連載マンガ『ねえ、ぴよちゃん』にはいつも慰められる。今朝の四コマ漫画は次のように描かれていた。

  「宮司(ぐうじ)さん 梅雨だねえ」(ぴよちゃん)
  「梅雨だねえ」(宮司さん)

  「兄貴(あにき)「つゆ」ってなんですか?」(縁の下にいるネコの弟分)

  「朝 花についとる「つゆ」は わかるやろ」(兄貴分のネコ)
  「ええ」(ネコの弟分)

  「雨は雲からたれる「つゆ」なんや」(兄貴分のネコ)
  「へー」(ネコの弟分)

 ぴよちゃんと宮司さんは傘を差して歩いている。そのお互いの会話が最初の場面である。次の場面は、その会話を縁の下で聞いていた二匹のねこ同士の最初の会話である。三つ目は兄貴分のねこが身近な「つゆ」について説明し始める場面である。その花にはちゃんと絵(朝顔?)が載せてある。最後の場面がクライマックスで、傘を差して歩行を進める、宮司さんとぴよちゃんの差す傘が示す後ろ姿、それに比べ縁の下であろうか、傘差さずに済み、にこやかに兄貴分のねこがする「梅雨」の説明に、弟分のねこが感心している場面だ。人間同士の会話が先行するが、兄貴分のネコの蘊蓄(うんちく)に読んでいる「私」も思わず納得させられた。

 読むこと、わずか数秒で、人の心を和(なご)ませる。青沼貴子さんの2896回目の作品だということだ。ほぼ8年余り毎日物語をマンガ四コマに表現しておられる作者に敬意を表したい。迫田さんは、下記のサイトで紹介のあるように、珍しい赤い紫陽花をお載せになっている。https://sakota575.webnode.jp/%E6%97%A5%E8%A8%98/

 私も、ぴよちゃんとみことばに励まされて、天から降ってくる「つゆ」を身にいっぱい受けたいと思う。そのような私に先駆けて、既に「つゆ」を受けている庭の紫陽花を載せさせていただいた。

雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(旧約聖書 イザヤ55:10〜11)

2025年6月3日火曜日

夜ふけの川辺に・・・

中堀から望見する佐和口多聞櫓と天守(彦根城) 2015.5.27
 昨日のKさんはCDと一緒に、聖歌558番、532番の歌詞・詩を是非味わってくださいと手書きでコメントされていました。それで手元にある1992年版の『聖歌』から558番の歌詞を写させていただきました。原詩はイギリスのチャールズ・ウエスレー(1707〜1788)のものです。どなたが訳されたのかわかりませんが、きれいな日本語に訳されていて感謝です。この場を借りてお礼申し上げます。

夜ふけの川辺に
友らと別れて
ただひとり ものを思い居(お)りし時
この身に挑(いど)みて 組み打ち始めし
目に見えぬ人よ
名を証(あか)し給え

如何(いか)なるお方ぞ
この身の悩みと罪・咎(とが)
ことごと見抜き給いしか
この身は知らねど
祝し給わずば
汝(なれ)をば去らせじ 夜明けとなるとも

君は我がために
身代わりとなりて
数多(あまた)の悩みを
受けさせ給いしお方にあらずや
祝し給え
今、よしこの腰骨(こしぼね)砕かせ給うとも

腰は立たずとも
この手はゆるめじ
汝(な)が恵みなくば 生くる甲斐もなし
死力を尽くして 取り組むこの身を
いざ祝し給え
明け方来ぬ間に

闇夜は明け行き
朝(あした)は来(きた)れり
古きは過ぎ去り 新しくなれり
砕かれ尽くして 明け渡しし今
罪の力にも
この身は勝つを得ん

小鹿(おじか)のごとくに
ヤコブさえおどり
神の御力をほめたたえまつる
世にあるかぎりは
「ペヌエル」証(あか)しせん
げに「こころきよきものは神みる」と

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。(新約聖書 マタイの福音書5章8節)

2025年6月2日月曜日

「水無月」の始まり

 昨日から6月に入った。古利根川の堤を降りて、果たして田植えは始まっているのだろうかと、目を凝らして見れば、遠くからではあるが、水田が前日までとは違い、うっすらと緑がかっていることに気づいた。近づくとつがいの鴨二羽が悠然と水田を屯しているではないか。慌てて、iPhoneをショルダーバッグから取り出し、二枚ほど写真に収めた。しかし、私のこの所作は彼らに警戒心を与えたのだろう。すぐに二羽して飛び立ってどこかへ行ってしまった。

 今年も鴨家族の姿を観察できるのだと思うと嬉しくなった。ちなみに昨年のブログはどうだったのかと検索してみたら、次のようであった。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/06/blog-post.html
 昨年は私にとって初めての体験であったから、興奮気味の文章を綴っているのが、何となく伝わってきた。あれから一年経つのだと思うのはやはり何となく寂しいし、辛い。自分はどこに座標軸を置いて生きているのだろうかと、改めて時の迫るのを覚えさせられるからである。

 けれども昨日はもう一つ嬉しいことがあった。それはKご婦人のオカリナ演奏のCDをYさんを介していただいたからである。昼間の礼拝の後にいただいたのだが、私はあまり関心を示さず、うっちゃっておいた。これも私のどうしようもない生まれながらの性質ではある。しかし、その後、Yさんから、なぜKさんがこのようなCDを私たちにくださったのかを、メールで知らされ、襟を正され、妻と二人で聞いた。

 全部で67曲のオカリナによる演奏であった。聖歌、讃美歌、日々の歌、童謡、ショパンの別れの曲などが入り混じって次々と演奏されていた。Kさんは左親指が不自由だそうだ。そんなこととは想像もできない。試練の中でオカリナ演奏は、主イエス様への問いかけ、祈りの時ではなかったかとYさんは書き寄越して来てくださっていた。まさにその通りだと思わずにおれなかった。

 その上、妻がこのオカリナ演奏を喜び、それぞれの曲目に私以上に歌詞を、全部ではないが、すらすらつけて歌っていることにびっくりさせられた。このまま回復するのじゃないかと錯覚させられるほどだった。「音楽」と「美術」は彼女の昔取った趣味の杵柄(きねづか)だのに、絵はここ数年とんと描かなくなった。しかし、歌は今も歌うが、このKさんのオカリナ演奏を通して伝わって来る息遣いは、私たち夫婦の魂を揺さぶるのに十分だった。

 こうして、昨日は、私も遅ればせながら、そういう生き方、Kご婦人のような生き方ができればと思わされる、「水無月」の始まりの日となった。

神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(旧約聖書 創世記2章7節)