2025年9月7日日曜日

知る価値のあること


 私たちの人生には思わぬことが起こります。そのような時に私たちはどのような態度を取るのでしょうか。次にご紹介するのはA.ドーフラーさんの「知る価値のあること」と題する文章です。お読み下さいますように。(『重荷も軽く』28頁より引用)

 わたしたちの前に横たわっている将来のことは、わたしたちの視野からは隠されています。明日がどういう日か、明日になったら何が起こるか、わたしたちにはわかりません。しかし主は「神を愛する者たちには、万事が相働いて益となる」と約束なさいました。これは知っておく価値のあることです。

 万事と言うのですから、私を骨の髄まで驚かすような人生の大事についても、言っているのです。一見すると、こういう大事がわたしたちを押しつぶすのではないかと思われます。しかし、神が益となるようにしてくださることができないような恐ろしい不幸などはないのです。

 神は単に大事ばかりではなく、つまらない小事でも、わたしたちの益となるようにしてくださいます。人生には、つまらない事でいらいらしたり、悩まされたりすることが、よくあるものです。そういうつまらない小事が山ほど重なって、人生におけるせっかくの祝福がすべて奪い取られることも、しばしばあります。

 神が万事をわたしたちの益となるようにしてくださるというお約束を、真実と心得ておくならば、どんなことがあっても失望の底に突き落とされるようなことはなく、じっと耐えて主を待ち望むことができるでしょう。

 大事も、小事も、万事、現在だけを見るのでなく、永遠という見地から見れば、共に働いてわたしたちの益となるのです。神が万事を益となるようにしてくださる時、わたしたちの肉体的な平安と慰めをも考慮してくださっていますが、その上、特に私たちの魂の救いについて心にかけていてくださいます。ですから神は、時々、わたしたちが最もほしいと思うものを取り去られます。わたしたちが、神を愛する以上にそれらを愛し始めたことをごらんになるからです。わたしたちは自動車、パーティー、夜会、ゴルフ、商売その他のもののために神を忘れてしまうことがあります。そういう時に神は、わたしたちを窮地に追いやり、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」ということを悟るようにといましめるのです。

 試練を受けつつ、人生を歩んで行かなければならない時、神は神を愛する者たちと共にいて、万事が相働いて益となるようにしてくださいます。この神のお約束に固くすがりついてまいりましょう。そうすれば希望に満ち、確信にみちて、明るく暮らしてゆけるでしょう。

 祈り

 恵み深い父よ、わたしの助けはあなたの所からまいります。あなたが、わたしの手を取ってお導きくださらなければ、わたしは一日も安全に過ごすことはできません。わたしの足もとはぐらつき、わたしの視界はかすんでいます。あなたが義の道へ安全に導き、永遠の生命をお与えくださることを信じて、わたしはあなたに従って歩んでまいります。主よ、わたしには理解できないことがたくさんあります。しかし、あなたがわたしを愛してくださっていることだけは、よく存じております。なぜならば、神は、わたしが永遠に生きることができるよう、あなたのみ子イエス・キリストを、死に送られたことを知っているからです。わたしの心からすべての疑いを取り去ってください。またあなたのお約束が、常に真実であると信じることができる信仰をお与えください。主よ、あなたの道はわたしの道とは異なります。しかし、あなたの道はあなたを愛する者にとって、あわれみと恵みの道であることをわたしは知っています。

 主よ、わたしたちがいらだち、あなたにいろいろ不平を言う時がありましたら、いつもイエスのゆえにこれをゆるし、あなたのもとにもっと親しくお導きください。これらのことを、イエスのみ名によってお祈り申し上げます。                  
                            アーメン

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている。(新約聖書 ローマ人への手紙8章28節 口語訳)

2025年9月5日金曜日

待ち遠しい、彼岸花

 今日は生憎の雨になった。いつも続けている古利根川の散歩もさすがに出来そうにない。それにしても、各地から連日流されてくる、線状降水帯の恐ろしさ・被害に身の縮む思いがする。神様のご計画はどこにあるのだろうかと、主を恐れる。

 今年は「暑さ」にしてやられ、朝顔やひまわりのような季節を彩る草花にも何となく縁が薄かった気がする。九月になり、いつも今頃は緑の中に一点注目を引く赤い花が見られるはずだが、まだお目にかかっていない。その赤い花の名前は言わずと知れた「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」であるが、より身近な俗名を久しく妻も私も思い出せないで散歩のたびに互いに困っていたが、二、三日前、私は夢の中で、妻は私との会話の中で「彼岸花」であることを突然ほぼ同時に認識した。

 短期記憶のできない妻との生活を通して、色んな不便を感じるが、人の体が頭脳をふくめていかに精巧に作られているかを思う。夢の中で「彼岸花」と認識するのも不思議だが、妻が突然会話の中でそれまで発することの出来なかった「彼岸花」という名称をごく自然に口の端にのぼせた不思議さである。妻の記憶領域にはたくさんのものが横たわっていて、その原野からある瞬間「ひがんばな」と言う一語が浮かび上がってきたと推測する。

 妻は二十数年前、まだ父母が健在のおり、せっせと絵葉書を作成しては、みことばを添えて出していた。その絵がチリも積もるも山となる形で随分たくさんの花の絵の集成となった。上掲の絵はそのうちの一枚で「彼岸花」を描いたものである。素人の絵であり、スキャンしたもので申し訳ないが、雨の中、一日も早い彼岸花にお目にかかれることを期待しつつ載せてみた。

人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、種のことばは、とこしえに変わることがない。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。(新約聖書 1ペテロ1章24〜25、23節)

2025年9月4日木曜日

カルガモさん、お子さん大切にね

カルガモの 子引き連れるは 微笑まし
 久しぶりにカルガモ親子に出会った(※)。雨が降り、自転車で買い物をするわけにも行かず、傘を差して徒歩で出かけた。途中、まだ目的地の生協店までは20分近くはかかると思い、急遽すぐ近くのスーパーへと行き先を変え、会之堀川沿いに後戻りした。途端に川中に生き物が動くのが見えた。ゾロゾロと子どもを連れてのカルガモ一行だった。五羽とは良くぞ連れ立ったものだと思う。どうしても我が身に照らし合わせて感じてしまう。

 職場で五人誕生のたびに同僚からお祝い金をその都度いただいた。すでに始まっていた(?)少子化の時勢の中、「また、吉田さんか」と言われながらも皆さんに祝福していただいたのを思い出す。ところで買い物は長女が来るというので、妻がどうしても昼食のご馳走にと言っていたので代わりに出かけた。どんなになっても、母親の子どもを思う気持ちがあるのは嬉しい。

 実は長女も五人の子宝に恵まれている。日曜日の次女に続いて、今日は長女が大学生の息子・娘を連れて家の掃除に来てくれた、掃除機持参で。何の打ち合わせもなしに、今の私たちの求めている状態を察して来てくれるので、これまた助かる。台所・食卓をふくめて、居間、廊下など拭き掃除を三人がかりで綺麗にしてくれた。二時間ほどの滞在で昼食も共にしたが、長女の長男が「明日はお母さんの誕生日だよね」と突然言い出した。「51歳だよ」と私たち夫婦と子どもたちを前に、長女は、「照れ笑い」と言うべきか、何とも言えない嬉しい表情を浮かべた。

 五羽の子連れのカルガモ一行は、こうして神様の生きとし生けるものに対する変わりなき愛と摂理をも示してくれた。
※ straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_25.html

さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(新約聖書 マルコの福音書10章13〜14節)

2025年9月2日火曜日

虹の御約束

 昨日、一人の知人の方から残暑お見舞いの葉書が送られてきた。文面もさることながら、上掲の一枚の写真が印刷されていた。途端に嬉しくなった。言うまでもなく、見事な虹を目の前にしたからである。送ってくださった方に早速お電話して、いつのお写真か確かめた。2019年の8月ごろらしい。お住まいは茨城県の境町である。境町のご自宅の西側(写真で言うと手前側)2キロほど離れたところに利根川が流れており、虹はその反対側東側(筑波山の方向)に見えたと言うことだ。

 虹ができあがるためには、三つの条件が必要で、その三つとは「雲」と「雨」と「日光」だ。1996年の10月、日本からスイスへ二百二十余名の方々と旅したことがあるが、ある時、宿舎に入るバスの車中から雨上がりの虹を見た。皆、一斉に歓声を上げて喜んだ。中でも同行したTさんは人一倍喜んでおられた。「神様は私の今までのわがまま、背きの罪をイエス様の身代わりの十字架の死で全部赦してくださり、『もうあなたの罪は忘れた』とこのように虹を見せてくださったのですね」とおっしゃった。

 降って、2016年8月28日、同月23日に召されたベック兄の葬儀の帰り道、長野県の佐久インターに近づく谷間の雲間に光が差し、虹が出現した。つい一二時間前にベック兄と地上でのお別れを経験し、寂しさを禁じ得なかった時だけに、私たちの心に神様だけが語りかけてくださる一条(ひとすじ)の希望の光となった。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/08/blog-post_28.html

 今まで八十余年の人生の中で、幾たび虹を見せられてきたことか。F.B.マイヤーは『きょうの力』と言う本の中で次のように呼びかけている。

空を仰いで虹を眺めたならば、あなたと(神様が)結ばれた契約を思い出しましょう。その滅びの洪水が再び地をおおうことはないとの御約束は、同時に御慈愛と恵みの洪水が地をおおうという宣言でもあったことを!(同書12ページより引用)

 ちなみに残暑お見舞いの葉書をくださった方は次のみことばを書いてくださっていた。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず高慢になりません。(新約聖書 1コリント13:4)

このみことばを通しても、主イエス様の愛がいかに大きなものか、改めて思わされる。最後にノアの大洪水後に虹を通して神様がくださった約束を今一度振り返りたい。

わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。(旧約聖書 創世記9章13〜16節)

2025年9月1日月曜日

秋一番、ぶどうの成る季節

ぶどうの実 我が子孫の数 示せり(※)
 「長い、長い夏が過ぎた!」と言いたいところだが、未だ未だ夏は続きそうだ。いい加減に涼しくなってくれと誰しも思うところだろう。おかげで、8月の投稿はわずか一回にとどまった。でも、投稿が一回しかないのは暑さのせいではない。昨日は今出席している集会でお話しすることになっていて、そのために全神経は集中しているので、書けなかったと言うのが真相だ。9月の第二週の日曜日には近江八幡でのご奉仕が待っているので、これまた難物だが、不完全でも昨日の話で一段落着いたので、これからは自由にこの場でお出会いできると思いますので、よろしくお願いします。

 さて、昨日は礼拝の後、次女が子どもを連れて、私たちの面倒を見に来てくれた。ありがたいことだ。家は散らかり放題。どこからも手がつけられない始末。次女にすれば何とも我慢のならない惨状だが、そこは我慢し、車で郊外にあるイオンでの買い物に連れて行ってくれた。自転車でしか移動手段のない私たちにとり大型店舗での買い物は難しい。おかげで念願のズボンが二着買えた。妻のスカートも買いたかったが、老妻向きの品物を用意している店舗はなかったのでこちらは諦めた。

 その間、ひさしぶりに一歳半になる孫娘と行動をともにした。昔、湯川秀樹が孫の存在について、理性では説明しようもない、新たな感じを抱くと、素粒子論を展開した彼が述懐していたのを思い出す。孫娘はいつの間にか成長し、面白いほどによく歩き回る。こちらは座るのが使命みたいな生き方をしているのに彼女はそうではない。おまけに、「じいじ」「ばあば」と言っては適宜に擦り寄って来る。人の一生で幼年期の姿は独特のものがあるとの思いを我も抱く。

 孫と言えば、昔ベック兄(1930〜2016)はよく神様には孫はいないよと言っておられた。これまた湯川秀樹とはまた違った述懐だ。私たち夫婦は孫娘が成人するまではとても生き延びているとは思えない。三食のたびに子どもたち孫たちのうちに主イエス様の平和が支配してくださるようにと祈る日々である。不思議と暑さを退散させてくださいとは祈ったことがない。

※ 昨日、次女がくれたぶどうの一部。ブログ用に食卓に載せ写真に撮ってみたら、五人の子ども、十一人の孫に思えた。

あなたがたは、・・・『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。わたしは誓って言う。・・・見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(旧約聖書 エゼキエル書18章2〜4節)

2025年8月16日土曜日

平和の使者、いちじく

いちじくを味わい 心満ち足りる
 「いちじくを食べて元気になってください」とばかりに、知人から三個のいちじくをいただいた。わずかと言うなかれ、たっぷりと妻と二人で味わうことができた。その前は、ご主人を今年亡くされ、今やご長男と同居されている隣家の方から美味しいスイカをいただいた。「二人では食べ切れませんので、持って来ました。食べてください」と。今は見渡す限り高齢者ばかりの世帯となった巷の交流の一端である。また、週一のペースで何かと差し入れてくださる方もいらっしゃる。このような有り余る御好意を周りの方から受けるばかりで、お返しに何もできないのが悩みの種である。

 イエス様が言われるように、「平和をつくる者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:9)だろう。明らかに、知人・隣人の私たちに寄せてくださっているご行為もまた、小さくとも「平和をつくる」一里塚だと覚えさせられる。また、このようにもおっしゃっている。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:3〜4)

 恩恵をひたすら受けている者が、あえて引用すべきみことばではないと思うが、引用させていただいた。冒頭のいちじくの贈り主は、突然現れなさったが、実はその数分前に、マルコの福音書10章を読んでいて痛く示されることがあり、その時、チラッとその方のことをも思い浮かべさせていただいていたのだ。主なる神様との以心伝心、父なる神様がこんな小さな者の思いも導いていてくださることを心から感謝する。

 さて、いちじくがどんなに昔から用いられていたかを示す旧約聖書のことばを写しておく(※)。それは、ナバルという男が、当時王に追われて放浪せざるを得なかったダビデから飲食を求められたが、それまでにダビデから受けたご恩を忘れてしまったかのように、けんもほろろに追い返した時、妻アビガイルは夫と違い聡明な女で、かつてのダビデから受けた恩を忘れず、夫の非を詫びるため、糧食をもって赦しを乞い願う場面だ。

そこでアビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五頭、炒り麦五セア、干しぶどう百ふさ、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。私はあなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。彼女がろばに乗って山陰(やまかげ)を下って来ると、ちょうど、ダビデとその部下が彼女のほうに降りて来るのに出会った。(旧約聖書 1サムエル25章18〜20)

 この結末がどうなるか、復讐に燃えるダビデがナバル討伐に向かう、片や、主の愛に動かされるが如くにナバルの罪をかぶってダビデのもとに急いで向かう、さて両者の攻防や如何に、興味津々たる思いがするが、聖書の続きの個所でご確認いただきたい。それにしてもこの執りなしに用いられている糧食の始めがパン二百個であり、最後にやはり二百個の干しいちじくであったとは、なかなかどうして「いちじく」とは味わい深い食べ物だ。

※聖書には旧約新約を問わず、いちじくに言及した個所がたくさんある。極めつきは、創世記3章7節、ヨハネの福音書1章48節、マルコの福音書11章12節以下などであろう。

2025年7月31日木曜日

三題噺(自然と世相を読む)

炎天下 ヘクサカズラの 花負けじ
 昨夕散歩中、足元に小さな花の花弁が見えた。すかさず、同行者に聞く。「ヘクサカズラ」と返って来た。草花の名辞がまたしてもスラスラと口をついて出てくることに驚くと同時に感謝する。それにしても余りの暑さに青息、吐息の私たちだのに、どうしてヘクサカズラはびくともしないでこんなにたくさんの花をつけているのだろうと、今日の午前中今一度確認を兼ねて行ってみた。茎がつる状に伸びているのであって、根はしっかりと河岸に近いところに根ざしていることがわかった、
輝けり カルガモ家族 真っ赤なり
 日没寸前、カルガモ家族が、夕陽に向かって泳いで行く。思わず、「真っ赤に燃えた・・・」という美空ひばりの歌唱を思い出した。昭和42年(1967年)のことだ。こんなに暑いと、今や太陽を恋の燃える象徴としてだけで歌い込むことはできなくなったのでないだろうか。それとも・・・
しがみつき 青味帯ぶ蝉 これからか
 今夏、初めて蝉の成虫を見つけた。まだ一部青味がかっており、脱皮してまもないかも知れない。この成虫の寿命は極めて短い。

 さて、昨日の東京新聞の佐藤正明さんの一口漫画は「しがみつく」という題名で、セミが木に止まっている姿を描写し、木の下では捕虫網を持った二人の男がセミを見上げている様子が描写されていた。
 もちろん、セミが石破首相、下の二人の男はどうみても麻生氏と茂木氏のように見える。その上、茂木氏らしき人物には「どのみち短命だから」と語らせている。その上、麻生氏は何やら言っているらしいが、それは音声とはなっていない。しかし、それにもかかわらず「辞ー」「辞ー」という声が木々の間から聞こえてくるという凝りようである。いうまでもなく、蝉の鳴き声は今や盛んになっているが、この一口漫画の「辞ー」「辞ー」はまさしくそれにあやかった揶揄のようだ。

 なお、同じ日の『本音のコラム』欄では斎藤美奈子氏が「石破おろしの傲慢」という題名で注目すべき論考を書いていた。自民党だけでなく、大手新聞紙(東京新聞をふくめ)が一様に石破おろしに走っているのは「石破やめるな」運動が市民から起こっていることの意味を顧み確かめずそのような結論に至っているとすれば、それは新聞紙の在り方として「傲慢」に他ならないと言っている。

 参院選の結果については、30日の夕刊『論壇時評』欄で中島岳志氏が「参政党躍進の背景は?」と題して、参政党の支持者が無党派層であったことを指摘し「既成政党は真摯に分析を」と呼びかけている。同時に隣の『大波小波』欄では「ディストピアの空気感を読む」という題名で匿名氏「木春菊」氏が参政党の政見はナチス政権の手法と同じ轍を踏むことになるのでないかと案じている。

 以上、7月にして暑い夏が連日続きますが、その中での自然を眺め、一方、参院選の結果あらわれた民意をいかに考えて良いか、能う限りの識者の論評に耳を傾ける日々です。明日から始まる8月は何が待っているのでしょうか。

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。(旧約聖書 エレミヤ17章7〜8節)