2026年1月7日水曜日

一枚の年賀状の示す真実

by k.yoshioka
 年賀状は今や流行(はや)らない。しかし、年賀状はやはり捨てがたい。一年に一回、その人の存在に触れることができるし、ある場合にはその人が今考えていることに直(じか)に触れることができる。だから、この形のやり取りは今後も続けることになるだろう。

 さて、昨年末、2025年の古利根川の散歩どめを記念する思いで、土手を歩いていた。その歩き慣れている土手で、二、三回つまずき、ヒヤッとした記憶がある。次にはつまずくまいと思いながらも、忘れた頃にはまたつまずいている。そして大体、つまずくところはほぼ同じ場所である。だから、歩きどめの場所としてその場所を特に念入りに眺めながら歩いてみた。すると、小石が想像する以上にたくさんあることに気づいた。その中にとんがった石があり、それを避けきれずにつまずいているのである。目の前に見える道は凹凸のある歩きにくい道である。それは連綿として続く私たちの実人生の姿を象徴していると思わずにはいられなかった。

 そして、心のうちに、昨年末、示されていたみことばを想起していた。そのみことばは以下のものであった。

主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。(旧約聖書 ホセア14:9)

 そうか、私にとって凹凸に見える道は、主いませば平らなのだ。問題は私自身が主にそむいた結果つまずくんだ。そうだ、これからはそむかないで主から我が人生を受け止め歩んでいきたいと思って、年を越した。それゆえ、新年、特に年頭にあたり示されたみことばを求めなかった。

 そんな折り、一枚の年賀状に私の心の琴線がギュッと掴み取られた。今日の絵は、その年賀状に描かれていた作品であるが、次のみことばの前半部が同時に並記されてあった。

私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。 それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。(黙示録19:11)

 黙示録は新約聖書の最後、したがって旧約聖書をふくむ66巻からなる全聖書の最後に登場する書である。その書には次のみことばがある。

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。(黙示録1:3)

まさにこの通りである。2016年に召されたベック兄はこの白い馬に乗られたお方がイエス様であると言い、次のように言っておられる(※)。

最初に地上に来られた時、イエス様は、人の姿をとってへりくだって来られました。しかし、再び来られる時には、栄光につつまれて来られます。かつてはみどりごとして来られましたが、再び来られる時には、馬に乗って来られます。かつては貧しい人の姿で来られましたが、富と栄光に満ちた方として来られます。また、かつては罪をになう犠牲の小羊として来られましたが、罪のさばき主として、獅子のように来られます。かつてはほふり場に引かれて行く小羊として来られましたが、再び来られるときには、勝利者として、また権威あるお方として来られます。(『すぐに起こるはずのこと』第4巻145頁)

 今年も幕開けから、大変な事態(無法、地震)が次から次へと起こっている。目の前の事象に振り回されず、素直に白い馬に乗り再臨されるお方に従う一日一日でありたいと思う。今日読んだみことばに次の聖句があった。つまずかない秘訣は白い馬に乗られる方に従うか従わないかにあると友の年賀状を通して思い定めた。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/08/blog-post_23.html

私は、口のあやまちをしまいと心がけました。人としての行ないについては、あなたのくちびるのことばによりました。私は無法な者の道を避けました。私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。(旧約聖書 詩篇17篇3〜4節)

2025年12月30日火曜日

小学校教育の重要さ

写生大会参加 昭和26年(1951年)彦根市護国神社前(※1)
 前回、同郷の誼(よしみ)である妻との会話を話題にしたが、この機会にふとしたことを75年ぶりに思い出した。それは高宮小学校一年生の時の担任の先生が二年生の時持ち上がらず(普通は一年、二年と持ち上がるのが通例であるのに、その先生は何と妻の入学する予定の隣の町の甲良東小学校へと転勤して行ったのだが)、そのために別の先生に変わったことである。その時の漠然とした不安を思い出したのだ。しかし、それが束の間に終わったことも同時に思い出した。いや逆に私はその新たに担任となった先生に二年どころか三年、四年と都合三年間受け持ってもらって、今にして思うが、終生の私の恩師となった。その先生とは森千恵子先生であった。

 母は一人息子の私を何とか一人前の人間として養育したいと考えていたのだろう。情操教育の一つとして絵画を選び習わせた(母は音楽がからきし駄目だったので、絵なら自分も何とか相手できるのでないかと考えて)。小学校に入る直前だと思うが、絵の先生のもとへ習いにやらせた。そこで初めて与えられた題材は高宮神社の境内の「森」を描くことであった。目の前に見える森の緑、一面緑一色の森、土や樹木の茶色を前にして私は一瞬どのように表現するか困った、しかしそれ以上に表現する楽しさに埋没していった記憶がある。そして、私が不安を抱いた二年生の担任が何とその森先生であった。

 森先生は私にとって名伯楽であった。二年生から四年生の間、私はこの先生の図工教室に放課後になると入り浸り、クレヨンではあるが、絵を一心不乱、無心に描いた(※2)。当時、郡展、県展とあり、その先、全国規模の絵の展覧会があったが、いずれも突破して入賞した。アンデルセンの童話をもとに、アヒルの絵や近くの牛小屋にいる牛の姿を描いてはそれぞれ入賞し、当時の小学校学年雑誌の後ろにもその作品が載せられたことがある。頂点は四年生の時、森永母の日を記念する展覧会で金賞をいただいたことだ。母が台所で井戸のつるべから水を汲み大根を洗っているシーンを描いた作品である(※3)。この時、その森先生と一緒に作品を送る荷造りを済ませたことは昨日の如くしっかり覚えている。

 この期間、母は教育熱心で、絵だけでなく、当時盛んに奨励されていた、「研究発表」にも私を駆り立てた。柿の種類ごとに異なる生育を調べる研究であった。この研究も県レベルまで行った。それやこれやで昔はその表彰式が全校集会で行われるが、その都度私の名前が呼ばれては褒美をもらうのであり、副賞が素晴らしかった。メダルはもちろんのこと本立てなどがあった。当然、皆に羨ましがられた。「ひいき」「ひいき」と同級生にも言われて、特に口さがない父兄からの声には正直参った。確かにその面があったからである。そのような中で母と森先生はそれぞれ、私を支えてくれた。母は生身の人間として様々な思いを私にぶつけてきたが、森先生はそんな母を上手に相手しながら、私の「人格」を擁護して感情的にならず導いてくださった。後年、母が亡くなり大学受験に失敗した私は、八百屋さんの店頭で、買い物かごをさげ、決して先生には見せたくなかった惨めな自分の姿を曝け出しながら、森先生と小学校卒業以来6、7年ぶりにお会いし、短い会話を交わさせていただいた。この時が先生との生前の最後の別れとなった。

 そのような私も五年六年と担任も森先生から別の先生に代わるだけでなく、私自身がそれまでの喜びをもって無我夢中で描いた絵から、何としても上手に描きたいという思いが高じてきたり、また新たな転校生がやってきて彼の描く宇宙人を思わせる空想画に太刀打ちができなくなった。ちょうどクレヨンから絵の具への転換時期が重なり、私はもはや絵を描かなくなった。辛うじて小学校卒業のおり、教頭先生が書いてくださった色紙の「浩さんは将来絵描きになりますか、それとも科学者になりますか」という命題が残るのみであった。

 私は絵の世界は無理、科学者の世界ならコツコツと努力すれば可能なのではないかと考え、中学、高校と一路その方面に舵を切り変えた。振り返ってみると教頭先生の過分な餞(はなむけ)の言葉はそれ以後の私の人生の指針になった思いがする。

 先ごろ東京新聞朝刊の12月9日の記事に「小学校教員離れが加速」というショッキングなニュースが報じられていた。日本政治の右傾化が急速に進む中、他方で子どもたちの未来の可能性を切り開く先生のなり手がいないというこの矛盾も看過できないと思う。私の五年六年の担任の先生は、お身体が悪かったこともあったのだろう、自由放任のスタイルで教室では生徒に学校放送を聞かせて、自習が多く、よく級長の私に同級生の勉強の様子を見るようにという指図があったことを思い出す。そのような中でも世の風潮は「再軍備反対」「教え子を二度と戦場に送るな」「ああ、原爆ゆるすまじ」と校外の声は自我意識の芽生えとともにその後の私の確かな判断力の指針であった。これは戦後民主主義教育運動の成果であったかもしれない。

※1 写生大会参加のため高宮小学校の派遣チーム(?)四年生から一年生になる混成集団。森先生は画面中央にいる先生。筆者は画面右端の少年。

※2 その図画工作室で私は画板に向かっていたが、疲れると床面に寝っ転がったりして、森先生のところに押しかけては、言い寄ってくる男先生の姿などを、自然に見聞きする中で、大人の心の機微にも触れざるを得なかった。もちろん森先生は無心に描いている少年の心にどのようなことが起こっているかはご存知なかったと思うが・・・。私にとってはその図画工作の部屋は密かな人生の学舎(まなびや)でもあった。

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_23.html
大根を洗うシーンも描いたが難しく、何個かの試作の末、このような絵になった。

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(旧約聖書 箴言22章6節)

2025年12月27日土曜日

窓外の景色を見遣る

山茶花の 満開目指す 寒中
 今朝は猛烈に寒い。それでもまだまだ序の口だろう。朝起きて、窓外のつばき(実は山茶花なのだが、妻は往年の識別力は失っており、こちらも何とも思わなかったが、別の北側に椿の花があり、こちらは今「つぼみ」だ。したがって俳句も変えた12/28追記)を見ながら、妻がつぶやいた。「よおー、咲いとるなあー、こんなに寒いのに」「『つばき』って、木篇に春って書くのね」互いにうなづきあった。妻が漢字を当てはめて、「つばき」を感じていることを知って心の中がほんのりと暖かくなった。

 このところ寒く、昨日などは風が強くとても古利根川にまで足を伸ばせないのだが、先日も妻がその古利根川で、鴨の群れを眺めながら、「よー、いとるわ。さむうないのかしら」と独言(ひとりごち)した。お互いに、同じ方言を使っての会話。何となく共に温泉に入っている心地だ。

 昨日、次男がパリから、その故郷の様子を記したyou tubeを送ってきた。その中に一枚の写真があった(※)。私の小学校一年の時の写真だ。教室をバックに左端に担任の先生が立ち、教室の内外にクラスの子どもたちが、それぞれ思い思いの表情・姿態でカメラマンの方を見て写っていた。昭和25年、75年前の写真だ。田舎の子どもたちの着ている服装にも戦後すぐの生活が色濃く滲み出ている写真だ。その中にもちろん私もいる。窓ガラスに顔を押しつけている。その気質は今の私とそんなに変わらない。

 後年、結婚してびっくりしたことがある。3歳下の妻の小学校一年の担任がまさしく私の一年の時のその担任の先生とまったく同じ先生だったからである。私の町と妻の町は互いに隣接しているが当然、互いの小学校は違う。確か、私が2年になる時、どこかに転勤なさった。転勤先が妻の町であったのだろう。私の町は宿場町で妻の町は完全な郷村である。だから若干言葉が違う(と、思い、私は妻を田舎者〈いなかもん〉扱いすることが多い)。しかし、「よおる」とか「いとる」とか、いずれも「居る」の変形言葉だが、他の地域の人が使う言葉とは明らかに違う方言だ。

 だから、二人で交わす言葉にはお互いにキリスト者である共通点がある上に、生まれが同じという親近感がいつもある。まして今妻は認知症が進行している毎日である。その妻が漢字を引っ張り出して窓外の景色を見遣りながら、田舎言葉で話しかける。75年前、クラスの半分近くが外に出て先生と一緒に並んでいるのに対して、室内に残った者は窓を開け、乗り出したりしているが、一方、顔を窓に押しつけて私のようにみんなの仲間入りをしようとしている者もいる。

 75年前の窓外を見やる私と、今窓外を妻と見やっている私は同じ私である。

※一月前であったろうか、次男が帰国し、私の郷里に入った。偶然市の出張所で出会った方と会話を交わしたようである。その方がパリに「故郷」の様子を描写したものをメールで送ってきてくださった。

主は羊毛のように雪を降らせ、灰のように霜をまかれる。主は氷をパンくずのように投げつける。だれがその寒さに耐ええようか。主が、みことばを送って、これらを溶かし、ご自分の風を吹かせると、水は流れる。(旧約聖書 詩篇147篇16〜18節)

2025年12月25日木曜日

クリスマスとルターの子どもたち(下)

つましいクリスマスの備え(※)
 突然、ハンスは、「あっ、見てごらん」と大声を出しました。木の間を動いている一つの影を見たのでした。「おとうさんだわ!」。レナは窓の所から飛び降りながら叫びました。そして壁に掛かっていたオーバーを取るなり、大きなとびらを思い切りあけて、おとうさんを迎えるために寒い戸外の、雪かきされた道に走り出しました。

 「まあ、おとうさん、よかったわ。手伝っていただきたいのよ」。おとうさんに抱き締められながら、レナは言いました。「どうしたんだね。何かぐあいの悪いことでもあったのか」とマルティン・ルターは尋ねました。彼は大きく、かっぷくのよい人で、あごの張った鋭い目の人でした。「おうちがクリスマスらしく見えないの」とレナは訴えました。「ほかのものはみんなクリスマスだけのものなの。あしたはみんなで教会に行くし、ごちそうもたくさんあるし、贈り物の箱もできているのだけれど、おうちだけがいつもとちっとも違っていないんだよ」と、ハンスも口を添えました。「外は、クリスマスのためにおけしょうしているみたいだね」。幼いマルティンは、星が一つずつ輝きはじめた暗い夜空を見上げました。

 子どもたちの物足りなさそうな顔をながめていたルターの額に、二つの深いしわが寄りました。そして、雪をかぶったもみの木と、またたく星をながめました。すると、急に額のしわが消え、「ハンス、早くおのを持って来なさい」と言ったのです。「はあい」とハンスは返事をしながら、家の方へ去って行きました。レナとマルティンは胸をわくわくさせて、「何をするの?」と尋ねました。「まあ、待て待て。黙って見ていなさい」。ルターは満足そうにひとりで笑いながら、回りの木を一つ一つ見て回りました。

 ハンスがおのを持ってもどって来た時、ルターは、小さいけれどまっすぐに立っている一本のもみの木の前に立っていました。そしておのをじょうずに使って、それを切り倒しました。それから、笑いはしゃいでいる子どもたちを従え、木をかついで家の方へ行きました。戸口で立ち止まり、枝の雪を振り落としながらレナに言いました。「レナ、おかあさんに、ろうそくを何本かもらって来なさい」。

 「はい、おかあさんも、もう起きていらっしゃるでしょう」レナは元気よく廊下を走って台所へ行きました。「おかあさん、おとうさんがおうちをクリスマスのためにきれいにするので、ろうそくをくださいって」。「それはいいことね」。明るい丸顔をしたおかあさんのケートはこう答えると、大きな戸だなをあけて、ろうそくを何本か取り出しました。レナはそれを受け取り、また元気よく居間に走って行きました。

 ルターはすでに、ほかの子どもたちといっしょに、かわいい木をへやのまん中に立たせていました。
「ろうそくを木につけよう」。
「はあい」。
子どもたちは声をそろえて返事をし、ていねいに木の枝にろうそくをつけました。ルターがろうそくに火をつけた時、子どもたちは思わずつばを飲みました。光は木のしっかりした緑の枝の間に、明るく光りました。

 「ああ、おとうさん、きれいだわ。おとうさんの考えは、世界でいちばんすばらしいわ」。レナは手をたたきながら言いました。

 ルターは、愛情をこめてレナをなでながら、「神さまがお造りになった木だね。イエスさまに対するわたしの信仰のように、冬でも生き生きしている木で、クリスマスにおうちを飾るのにいちばんよい木だよ」と言いました。

 「でも、おとうさん、ろうそくはなんのためなの」とレナが尋ねました。
 「それはね、最初のクリスマスの夜の星空と、はかせたちをキリストに導いたあの一つの輝く星を思い出させてくれるものだよ。さあ、おとうさんはね、新しいクリスマスの讃美歌を作ったんだよ。イエスさまのことを思っていっしょに歌ってみよう」。

 ルターは三人の子どもを前にして、彫刻のしてある、自分の大きなひじかけいすにすわりました。そして、一節ずつ、讃美歌を教えたのです。

 いずこの家にも  めでたきおとずれ
 伝うるためとて  天よりくだりぬ
 マリヤのみ子なる 小さきイエスこそ
 み国にこの世に  つきせぬ喜び

 子どもたちが歌っている間、もみの木の枝につけられたろうそくは、明るく燃えて、ルターの家を、いかにもクリスマスにふさわしく見せていました。

(『アルフレッドとベード先生』ドロシィ.C .ハスキン著有賀英子訳30〜34頁から引用)

※もうかれこれ5年以上前になるが、ベック宣教師宅で見かけた造作物。左側のオレンジ色のものはろうそくだろう。こうして、クリスマスはイエス様が我が心の中にいらっしゃるか、確かめ、かつ賛美する日。

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(新約聖書 ルカの福音書2章11節)

2025年12月24日水曜日

クリスマスとルターの子どもたち(上)

ブローニュの森 2006.11.28(※)
 クリスマスの前日、夕方近くのことでした。ルターの子どもの上の三人、ハンス、マグダレナ、マルティンは、ドイツのウイッテンベルクにある家の居間に集まっていました。三人は窓から外を見ながら、おとうさんの帰りを今か今かと待っていたのです。

 それは1538年、マルティン・ルターがカトリック教会と戦った時のことでした。「人は教会に行っていることによって天国に行けるというのではなく、ひとりひとりの心にキリストが生まれなければならない」というのがルターの主張でした。そのために、クリスマスの守り方も前と変わってきました。それぞれの家庭でクリスマスをどう過ごすか決めなければならなかったのです。

 ルターの三人の子どもたちは、貧しい人たちへの贈り物を箱に詰め終わったところでした。ハンスとマルティンは喜んではしゃいでいましたが、レナと呼ばれているマグダレナはゆううつでした。台所からはこうばしいにおいがただよって来ます。ハンスは鼻にしわを寄せながら、「なんてよいにおいなんだろう。きょうがクリスマスだといいんだがなあ」と言いました。「そうだね」。おとうさんと同じ名まえのマルティンはそう言いながら、ふと気がつき、「どうしてそんなにゆううつなの」とおねえさんのレナに尋ねました。

 レナは、鏡のはめ込んである高い壁、彫刻のある天井、あらい板の床を見回して、ため息をつきました。へやはきれいに掃除され、みがきたてられていたのですが、いつもと少しも変わっていません。「うちのどこを見ても、あしたがクリスマスだということを表わすものがないから悲しいのよ」とレナは言いました。「そんなことはないよ。あしたはみんなで教会に行くし、おかあさんは特別なごちそうを作っているじゃないか」。ハンスがこう言うと、マルティンも「それから、おとうさんはこの贈り物の箱をみんなにくれるよ」と、不服そうに言いました。

 「わたしが言っているのは、そんなことじゃないの。おうちにだれかが尋ねて来たとき、あしたがイエスさまのお誕生日だということを思い出させてあげるものがないということなのよ」。「じゃあ、どうすればよいかおかあさんに聞いてみよう」。そう言いながらハンスは立ち上がり、奥のへやの方へ歩き出しました。「でも、おかあさんは今、やすんでいらっしゃるから、心配かけては悪いわ」。レナは、一日じゅう忙しく働いていたおかあさんのことを考えて言いました。

 「おとうさんが帰って来れば、何か名案があるかもしれない」とマルティンが言いました。「そうだわ。きっと何か考えてくださるわ」。これを聞いたレナはうれしそうでした。おとうさんはなんでもできることをレナは思い出したのです!そして高い窓にのぼって、外をのぞいてみました。沈んで行く太陽の最後の光が、真っ白に雪でおおわれた庭にさし込んできました。家の回りには、これまた枝の一つ一つに雪を積もらせたもみの木が並んでいます。救い主をお迎えするために特別に整えられたような美しいきよい世界でした。

 まもなく、おとうさんが、雪に深い足跡を残しながら、木の間の小道を帰って来ました。おとうさんなら、クリスマスを完全なものにするのに、どうすればよいか知っていらっしゃる、とレナは確信していました。

 レナはおとうさんが大好きでした。そして、おとうさんが偉い人だということも知っていました。おとうさんは、だれでも読めるように、聖書をドイツ語に訳し、また、よい生活を送って天国に行くにはイエスさまを信じなければいけないと教えた人です。

 「ぼくは、一年じゅうで、クリスマスがいちばんいいと思うなあ」とハンスが言いました。「そうね。クリスマスは、神さまがわたしたちのためにしてくださるすばらしいことのいちばん初めだって、おとうさんがおっしゃったわ」。レナは相づちを打ちました。そして、最初のクリスマスについて、おとうさんのしてくれた楽しいお話を思い浮かべて目を輝かせました。弟たちもまじめそうにうなずきました。彼らもその話を聞いていたのです。

(『アルフレッドとベード先生』ドロシィ.C .ハスキン著有賀英子訳26〜30頁から引用)

※前々回から掲載した二枚の写真と今日の写真は同じところで撮ったものだが、二十年前のものでうろ覚えでリュクサンブール公園としたが、どうも「ブローニュの森」が正解のようだ。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(新約聖書 ヨハネの福音書3章3節)

2025年12月23日火曜日

一大ハプニングとその顛末

リュクサンブール公園で 2006.11.28※1
  12月になって最初の土曜日に、近江八幡からわざわざ東京まで同期会に出席するために上京した方と偶然ホテルに同時に着いたことはすでに”2025年の「東京36会」(上)”で触れておいた。その時、私は自分自身がすでに次週には近江八幡のキリスト集会の礼拝に出席すると決めていたので、その同期生の方には「来週、私は(逆に)近江八幡に行くんですよ」と言ったが、果たして、その方がどの程度心に留められたか。

 私の場合、その近江八幡に行くには、毎回郷里の彦根市高宮町の家に泊まってから翌日出かけることにしている。そのためには、先ず東京まで出て、そこから新幹線で米原に行き、あとは在来線で行くのが常である。ところで、不思議なことに、その一週間前には私の家から新橋に行くには電車所要時間が一時間とキリのいい時間であったが、今度、東京へ行く時間を調べたら、何と最寄駅を9:17分に出れば、10:17分に東京に着ける、これまた一時間きっちりなのだ。幸先良い前触れだと思わずにはいられなかった。

 ところが豈(あに)図(はか)らんや、前日の金曜日に、翌日の近江八幡行きを断念せざるを得ないと覚悟した一大ハプニングが起こってしまった。妻が午後4時ごろ近くのお店に自転車で買い物に出たが、中々帰って来なかった。道がわからなくなって帰るに帰れなくなったのだ。やむを得ず、警察に電話して大変お世話になり、最後は妻が午後7時ごろ道中のとある営業所に入り、道に迷ったことを告げ、自分の住所と電話番号を知らせた。そのことをきっかけにして一挙に居場所がわかり、警察の車で急行し妻と再会できた。

 当日日没が何時だったか、4時半ごろだと思う。暗い夜道で、元々方向音痴の妻に取り、大変だったに違いない。短期記憶ができない妻にとって瞬間瞬間の判断力だけが頼りだった。都合三時間あまり、どこをどう自転車を走らせたのか、その距離は直線距離にしておよそ12キロメートルの西方へと自転車を走らせてしまったが、今となってはわからない。とにかく無事だったのでホッと胸を撫で下ろし、翌日の近江八幡行きも妻を同道させて実行できた。

 その後徐々にわかってきたことは、妻がペダルを一足一足踏むごとに、「イエス様、助けてください!」と祈りながらの自転車走行であったということだった。当時、私は気も動転するばかりで、祈るどころか、(妻は携帯電話を所持していなかったため)唯一の手掛かりとなった財布内に忍ばせてあった「紛失物防止タッグ」(※2)のGPSが刻々と知らせてくれる、その情報を恨めしげに眺めては、止まらず走り続ける妻をどうすることもできず、地団駄を踏むばかりであった。

 妻が認知症を患っているため、ここ一、二年健康時に妥当することは一切通じなくなった。でも段々その行動に慣れてきた。認知症は徐々に進行するが治らない病気だと言うのが今日の常識のようだ(※3)。いかにそれを受け入れて周りの者が接するのかが大切であると自分に言い聞かせている。

 今回の騒動を通して慰められたのは、先ず、春日部から浦和方面に向かって三時間あまりの彷徨の中で、交通事故に会うことがなかったこと。次に当時、一切の記憶がない妻だったが、二、三日するうちに少しずつ自分の行動を語り出したことである。浦和方面に行くには、元荒川を越え、関越高速道路の下を潜らなければならないが、「高速道路の下をくぐった、まわりは田んぼだらけだった」と語ることができたこと。最後に長女から電話で「お母さん、不安でなかった?」と聞かれて、「イエス様、助けてください!」と祈り続けたと答えたことである。

 この最後のことばほど私にとって最大の慰めになったことばはない。そしてその背後に家族全員の取りなしの祈りがあったことも後に知る。私は小心者である。心配事は万と抱え込む。これからもどんな目に遭うかもしれない。しかし、下記のみことばはいつまでも忘れられない。これが一大ハプニングの顛末である。

※1 前回のイチョウの枯葉をリュクサンブール公園と記したが、本当はどこかわからない。念のためパリ在住の次男に問うたが、「枯葉」だけではわからない(笑)と返事を寄越した。今日のこの写真はとりあえずリュクサンブール公園としたが、「枯葉」と同じ公園である。その公園をサイクリングで颯爽と走っている人がいるのが印象的だった。ほぼ二十年前のフランス・パリで見聞きしたことだ。その方の肩越しに元気だった妻が少し顔を覗かせているのも面白い。

※2 何週間か前に三男が購入して妻に持たせておいたもの

※3 妻がお世話になっている先生の本に『認知症そのままでいい』(上田諭著ちくま新書2021年刊行)がある。同じく『「認知症」九人の名医』(東田勉著ブックマン社2024年刊行)という本には上田先生も九人の一人として紹介されている。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(新約聖書 1ペテロ5章7節)

2025年12月9日火曜日

2025年の「東京36会」(下)

パリ市内のリュクサンブール公園で 2006年11月28日
  現在、東京36会に登録されている同期生は合計で34名である。先週の土曜日に集まったのは16名だから、出席率は50%をすでに切り、47%である。年々この数字は低下していく一方であろう。今回も2名の方が亡くなられ、欠席の方々はいずれも体の不調や連れ合いの病気などで出席できない方々ばかりであった。

 私自身も妻が認知症を患い、外出にも気を配らねばならない日々を送っている。しかし、そのような試みのうちにも、主なる神様のことばである聖書を毎日、妻と輪読しては大いに慰めと励ましと将来への希望に満たされている。私自身、27歳に至るまでは、無神論者で「信仰」というものをもっとも忌諱していた張本人である。いや27歳と言わず、この数ヵ月前まで「信仰」に正しい位置を与えていなかった。

 その考えに大いなる訂正を求められたのが今回同期会の方々のどなたかにお渡ししたいと思い制作したこのブログの記事より構成した以下の四編だった。
 1 キリスト教とその疑問(私の宗教迷論)※1
 2 東京36会 ※2
 3 この日は我が自戒の日なり ※3
 4 救いの道 ※4
この1はかつての出身高校の新聞に当時高校2年生であった滝本さんが投稿された記事をそのまま抜粋して写させていただいたものである。滝本さんがその後どのように人生を送られたかは公の記事以外は知る由もないが、ここまで真剣にキリスト教を考えておられることに大変感嘆している。

それに対して、2、3は詰まらない私の雑文を載せたものであるが、最後の4「救いの道」こそ今回私が同期生の方々に是非読んでいただきたいと思い、編集した文章である。

 先に「信仰」に正しい位置を与えていなかったという私の述懐は偽らぬ私の気持ちである。形の上では信仰生活55年にわたる生活を送っていたにもかかわらずである。何も信仰生活に時間がかかると言おうとしているのでない。素直な幼児の心さえあればいつでも「信仰」は持てる。そのことを是非同期生の方々に味わっていただきたいと、今回長編になるが、この「救いの道」を加えさせていただいた。

 同期会は午後3時前には解散した。次回は40回目で早々と幹事の方も決まった。新幹事は浩君ともう一人の方に決まったが、この方は常連の方だが、まだ一度も個人的にお話ししたことはない。しかし互いに奇縁(血縁、地縁)がある。来年、互いに健康であれば、67年目にして交わりが許されることであろう。

 小冊子5冊は浩君と私の右隣に座られた方と、前々からその救いを祈っている方お二人と、新たにかつて同期会で「道中記」を紹介してくださった方にお渡しすることができた。

※1 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/05/blog-post_28.html
なお、文中に登場するマッソン宣教師は私よりも早く信仰を持った高校の同級生の方が公私ともにお世話になった方であった。

※2 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/12/blog-post_9.html

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/11/blog-post_30.html

※4 この文章は8回シリーズで長編だが、第一回目が、2013年の2月19日で、その後3月15日から3月21日まで合計7回連続して載せている。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/02/blog-post_19.html

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/03/blog-post_4889.html 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネの福音書3章16節)