2024年10月15日火曜日

同窓会出席(下)

秋深し 青鷺一羽 佇みぬ(※1)

 今回の八潮高校第4期の卒業生の方が開いてくださった同窓会に出席して改めて自覚させられたことは、教職につくことの責任の重大さでした。会が始まって間もなく、一度も担任になったことのないTさんがツカツカと歩み寄って来て、「先生、Tです。授業中、先生に注意されましたよ。(他の科目の勉強をしていて・・・)」と言って来たことでありました。そう言われても、私には覚えのないことでした。しかし、高校時代の彼女の面影を懸命にたどって行くうちに、そのシーンを何となく思い出せたのです。およそそのようなことをするはずがないと思っていた、彼女にその行為が見受けられて注意したのだ、と(※2)。私は何しろ社会科の教員としてスタートしたばかりで己が授業が十分でないという負い目を抱いていましたので、そうされてもやむを得ないと内心では思っていたからです。

 そうかと思うと、やはり担任をしたことのないO君が快活に「先生、先生が『人には甘く、自分にも甘いのは一番よくないことだよ』と言われたことは卒業以来忘れたことはありませんよ」と言ったことです。私にはこの言には正直参らされました。自分がそのようなことを言った確信が全然なかったからです。そのあと、彼は「そうだ、先生は『倫理・社会』の先生だった!」とも言いました。それまで、その場にいた卒業生の間では、「地理」だとも「世界史」だとも意見が分かれていた中での彼の断言でした。私にとってはこのO君の言には大いに励まされて、何か新しい力を得たような気持ちにさせられました(※3)。

 肝心の6人のクラスの人ともきちんと話しすべきだったと帰ってから悔い改めさせられています。ただ最初私が担任だとは知らなかったH君とはじっくり話すことができました。現在、段ボールのデザインをやりながら、コロナ禍の大変な時も通信販売が盛んになり、かえって仕事が与えられたことなど、話してくれました。S君からは年金生活が始まりそうだということや自己の資産運用などを聞かされました。女性陣の中ではSさんと少し話ができただけでした。

 私以外の3人の先生は、どっかと座っており、クラスの生徒と交わっておられるのに、私と来たら、懐かしさのあまり、日頃会っていない先生や生徒諸君と交わりたくてクラスから離れてしまっていました。一方では、総計273名の入学者が一年、二年、三年と三度クラス替えをしており、いずれの生徒諸君も私たち担任にとってクラスを越えた関心の的でしたから、このこともやむを得なかったのかと今では思っています。

 最後に特筆すべきことは、Eさんのように今回来れなかった担任の先生のことを心から心配する姿、一方ではクラスの生徒が亡くなったことをその場で初めて知って愕然としている担任の先生の悔恨など、師弟の枠を越えたその愛情の深さに接することができたことです。またHさんのようにかつて私のクラスにいた彼女が、在学中の私に対する思いを(不満をふくめ)卒業以来体当たりにぶつけてくれたことです。同窓会を通して、過ぎ去った月日の重さを実感しながら、高齢者の鳥羽口にいる彼らと、まさに老境に入り、死さえ間近に覚える私も、他の3人の年少の方々と担任として一緒に招かれ、座談に興じている姿は、私たちの学年「6人委員会」が理想した境地でなかったかと思うのです。

 この八潮高校も2026年度には、八潮南高校と統合されて新しい高校に再編成されようとしていますが、時世上やむを得ないのでしょうか。しかし、この4期生を初めとして、この学び舎で50年におよび青春をぶっつけあった仲間がいたことは忘れられることがないでしょう。

※1 昨日は久しぶりにいつもより下流の古利根川を歩きました。いつもの上流に比べ、鷺が多いように思いました。

※2 言外に、その注意のおかげで以後気をつけるようになりました、という意味が込められていたように思います。

※3 大学では経済学を専攻しましたが、社会科の各科目は無免許運転の嫌いが多分にあり、すべての授業が手探りで、これと言って自信の持てる科目はありませんでした。その私は一年で地理、二年で倫理社会、三年で世界史と担当しました。社会科の先生方の間では特に「倫理社会」を持つことが敬遠されました。それは生徒諸君に道徳めいたことを話すのを由とされなかったのだと思います。その社会科教員の中に急にキリスト者である私が新たに加わったので、当然私がそれにふさわしいと考え、歓迎されたのでした。しかし、私にとっても悪戦苦闘しながらの「倫理社会」の担当でしたから、O君の話は私にとりまことに慰めになりました。

あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。・・・あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(新約聖書 マタイの福音書23章8〜12節)

2024年10月14日月曜日

同窓会出席(中)

秋深く 過越思い 月仰ぐ(※1)

 ところで、この八潮高校は私が埼玉県の教員採用試験に合格し登載されてから、正式に赴任が決まった高校であリました。それまで9年間栃木県で商業科の教員をしていました。その私が埼玉県の社会科の教員になろうとしたのは、とどのつまり、日曜日の礼拝のために栃木県足利市から出席していた教会が埼玉県春日部市にあったからです。課外とは言え、日曜日以外も教会の奉仕が忙しくなり、いっそのこと、足利市から春日部市へと住居を移してはと思い、三年前にすでに大胆にも実行してしまったことにあります。

 八潮高校の教頭さんから、「うちに来てくれないか」という打診があったのも、当時、教会で奉仕をしていた時だったと思います。家に電話されたが、私が不在のため、家内から教会の電話番号を聞いてかけてこられたようです。私にとっては待望の知らせでした。私はそれまで2年間、採用試験には合格するが、その後、埼玉県内のどこの高校からも打診がなく、2年間棒に振っていたからです。

 低い小さな声でおっしゃる教頭さんの声は、「ついては一年の担任を持ち、学年主任として働いて欲しい」という知らせでした。私は一瞬戸惑いました。栃木県の現任校では交通事故(※2)に遭ったとは言え、担任も一回だけしか経験しておらず、まるきり自信がない、ましてやその上、責任のある学年主任の仕事を果たせるものか、という不安でした。一方、私は栃木県の組合活動に熱心で、学年主任は担任団の互選が望ましい、それこそ民主的な職場づくりに貢献すると考え、職場で実践活動をしていたからです。だから戸惑いましたが、このお誘いを拒めば、またしても浪人かと思い、そのお電話に結局お引き受けしました。

 こうして1976年(昭和51年)の4月に273名の新入生を迎える学年団の一員となったわけです。同校は新設間もない高校でちょうど4年目に入るところでした。清新の意気に燃えた若い学校でした。私のような若輩者(33歳)でも年次は上から数えた方が早い部類に入っていました。しかし、私は埼玉県の教育界の現況も知らず、落下傘部隊よろしく、すでに五人の方からなる学年団が構成されている中に、追加のように私が一人加わり、しかも学年主任を任せられたのです。管理職の先生方は私の存在をよく知られず、埼玉県に転入して来たばかりで組合に未加入の私が学年主任なら都合良いと考えられたのではないでしょうか。

 しかし、この学年団は副学年主任たる先生の影の力、その五人の先生方の協力もあって、稀に見る結束力を持つ学年集団として成長していったのではないかと思います。学年を卒業させてからも、担任6人は「6人委員会」と称しては飲み会などを課外で精力的に持ち、互いの交流を深めて行ったからです。この「6人委員会」の面々は、当時教会の宣教活動に熱心で、課外にD.L.ムーディーの「科学映画」を私の家で試写した時も、喜んで出席して歓談に加わってくださったほどです。互いの人生観は当然違うのですが、それでもお互いの存在を認め合いながら切磋琢磨していた仲間だったのではないかと思います。

 今回の同窓会で私が経験したことは端なくもその一端ではないかと思っています。明日の項目でそのことに触れたいと思います。

※1上掲の写真は昨夕の古利根川沿いの夕景色です。三、四日前まではまだ蝉の声が聞こえましたが、さすがにこの頃は聞こえなくなりました。

※2https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/04/blog-post_28.html

友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(旧約聖書 箴言17章17節)

2024年10月13日日曜日

同窓会出席(上)


 昨晩は1979年春に卒業していった、高校生諸君の学年同窓会にかつての担任として招待され出席しました。6クラスでおよそ50人ほどの出席者に恵まれましたが、先生方は私をふくめて4人でした。

 考えてみれば1970年代最後の3年間学窓を共にした良き「仲間」でした。私のクラスは6名の出席でした。クラスには14名の出席を数えたクラスもありましたのに、一番少ない参加者数のクラスで、最初肩身の狭い思いでおりました(これでも幹事の方が骨折って呼びかけてくださった結果でしたが・・・)。

 45年ぶりに再会したH君に至っては、私に向かって「お名前は?」と聞いてきました。私は、動揺を隠しながら、「教師なんだ」と答えました。家に帰ってきてから、会を通して醸成された懐かしさのあまり、卒業アルバムを隅から隅まで見ておりましたら、上掲の写真が収められていました。綱引きのクラス対抗の写真でした。何とそのH君は私の下で懸命に綱を引いているではありませんか。考えてみれば、私もH君におとらず、すっかり彼の存在を忘れていて、その名前を失念していたのですから、同罪ですね。

 さて、クラスの出席者6人のうち二人だけが男子でしたが、もう一人のS君も高校時代の顔は何となく思い出せるのですが、あまりにも体型が変わっており、貫禄あり、童顔だった顔と結びつかず、困りました。そのS君はH君の前で腰を下ろして、やはり懸命に引っ張っています。先頭になって全精力を傾けて引いているのは委員長の佐伯君ですが、亡くなったと聞きました。寂しいことで、惜しいことをしました。

 恐らく1978年の秋の運動会の一シーンをカメラがとらえたもので、男性陣の後ろには女性陣が陣取っていたのではないでしょうか。クラス対抗で、当時も決して強いクラスとは言えませんでしたが、そんな評判も何のその、懸命に綱を引っ張っている諸君の意気込みが今も新鮮に伝わってきて、いつまでも眺めていたい気分になります。

私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(新約聖書 1コリント9章26〜27節)

2024年9月30日月曜日

主にあって愛する友の召天(下)


 今月も、今日で終わりです。苦しめられた長い夏の期間もやっと終わり、これが本来の秋の季節なのかと思いながらも、今度は今度でまた寒い冬に向かうのかと新たな警戒心で身構えている愚かな私です。結局、9月の投稿は近来になくわずか六通に留まりました。原因は、この9月の異常な暑さと、その中で鈍行列車による二度の故郷への往復、叔母の法事参加、友の召天などがあり、様々なことを考えさせられ、日常茶飯事の出来事を筆にするのがおっくうになったことにあります(一方で、世間を見ると、正月地震に遭い、再び度重なる豪雨の災害の中で「神も仏もない」と慨嘆された方の声の哀れさに胸が締め付けられます)。

 さて、今日の写真は8年前の2016年の2月26日(金)に撮影したものです。この時、私はALSを発症し、闘病されている山崎裕介さんをお見舞いし、お交わりするために、何回か私の友人をお誘いしては、お訪ねしておりましたが、そのうちの一枚に当たります。その時お連れした方が、今回召された方であり、にこやかに微笑んでおられる右側の佐久間邦雄兄です。

 私はこの写真の存在はもちろん覚えていました。ただ、今回佐久間さんの在りし日を記念するためのパネル作成の際に、この写真はご家族もご存知ないので、果たして採用されるだろうかと思いながら、作成の労を買って出られた方々に、恐る恐る提供したものでした。ところがこの写真は堂々とパネルに収められていました。その後、佐久間さんの奥様にお聞きしますと、この写真はご存知ないどころか、「主人が最も大切にしていた写真で、いつも飾っていたものですよ」と言われました。

 一方、私は別の用件で、「メフィボシェテ」という聖書中の気になる人物について過去にこのブログに何回か投稿した作品があるので確かめてみたいという思いに駆り立てられ、検索したところ、数編の記事の中に2016年2月28日(日)「満ち足りて」という題名で投稿している記事があることに気がつきました。そのカット写真には忘れもしない懐かしい紅梅が写っており、私の下手な俳句もどきも添えてありました。しかもそれには※がついており、事細かにその事情が述べてあったのです。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/02/blog-post_28.html

 当時、ALSを患っておられた山崎裕介さんが、町田の地から、新たな療養のため埼玉県の三郷の某施設に入所されたので、春日部在住の私は2015年の3月を手始めとしてほぼ1年数ヶ月の間何人かの友人を誘っては足繁く山崎さんを訪問していました。武蔵野線の三郷駅から、タクシーで行ったり、バスで行ったり、徒歩で行ったりしていましたが、1年後の2016年の2月26日に佐久間さんと一緒に行った時は、彼の健脚に信頼して徒歩で行ったのはよかったのですが、すっかり熟知しているはずの道先案内人である私が道を間違えてしまいました。三つ年上になる先輩の佐久間さんに余分な労を煩わせて、申し訳なく思ったことを思い出します。

 しかし、訪れた山崎裕介さんとの間でいただいたお交わりは恐らく佐久間さんにとっても忘れられないものだったのではないでしょうか。山崎さんの病室には確か「私たちの国籍は天にあります」と美しい字体で書かれた書が額に納められて飾られているだけでなく、町田集会の方々の集合写真が飾ってありました。見舞客である私は訪れるたびにALSの病魔に冒されて身体の自由を失っている山崎さんの言に励まされる一方でした。その日のことは上述のブログ記事に書いてある通りです。

 その後、山崎さんは2017年10月に召されました。そして7年後の2024年9月18日に佐久間さんが召されたのです。恐らく山崎さんは初対面の佐久間さんのことは十分ご存知ないまま召されたのではないかと思います。ましてや、その後今から2年半前、食道癌に端を発し、喉の切開に踏み切られ、発語できず意思の疎通を奪われ、孤独のうちにも奥様、お嬢様に励まされ、主にある友の祈りに支えられ、天に召されていかれた日々の労苦と主に守られなさった祝福は知る由もなかったでしょう(「召天の集い」の翌々日、奥様に2016年2月28日のブログ記事をお読みしてあげたら、主人の病床にある毎日もこの山崎さんと同じような性質のものであったと述懐されていました。)。しかし、今やお二人は居を天の御国に移して主イエス様とともにたくさんの先に召された友とともに交わっておられるのではないでしょうか。

 佐久間さんの「召天の集い」が25日の午前中に終わり、午後の火葬の間の待ち時間の間に私は佐久間さんの妹さんやその甥御さんたちと親しい御交わりをいただきました。その時、妹さんの話っぷりが、邦雄兄とよく似ておられ、改めて兄妹間の愛情の深さを覚えさせられました。その時、日野から足を運ばれた今63歳になる甥御さんは「おじさんには可愛がってもらった、何しろ私は5歳でしたからね」と新潟・新発田時代の佐久間さんの人となりを懐かしんで涙ぐんでおられました。お聞きするところによりますと、兄の故郷である新潟でのイエス様をご紹介する集いには、ご親族が何度か足を運ばれたそうです。ご家族、親族にはこれに限らず、尽きせぬ思い出がたくさんあることでしょう。

 また、この他、ここでは記せなかったご近所の方や、職場の方とも親しい交わりを持たれたことでしょう。一時期仕事のためタイに赴任され、現地の方との会話も不自由の中にもその生活が守られ、無事帰国し余生を過ごされました。今回の稀に見る闘病の生活も、ご家族の献身的な看病やお医者様など医療に従事される方の愛に支えられました(※)。その根底には、佐久間邦雄兄に不治の病に立ち向かう勇気を与えられた主イエス様の愛があったのではないでしょうか。多くの主にある兄弟姉妹の祈りに支えられた佐久間邦雄兄が天の御国に凱旋されたことを、主にある友として感謝をもってここにご報告せていただきます。とともに残されたご遺族のために、引き続きお祈りをよろしくお願いします。

※作家の大崎善生さんは佐久間邦雄兄とほぼ同時期に発病され、一足早く8月に亡くなられました。大崎さんは藤井聡太さんの王位就任に対して祝辞挨拶を奥様の代読でされました。その文章が東京新聞の昨年末に掲載されました。私はこの記事を読みながら佐久間邦雄兄の闘病、またご家族のご苦労が如何ばかりであるかを思うておりました。参考までにそのサイトを以下に示します。https://www.tokyo-np.co.jp/article/288793/1 この挨拶中で語られた「Mastery for service」という関西学院の建学精神は、まさにキリストに端を発するものだと確信しております。

そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。(旧約聖書 イザヤ書35章8〜10節)

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分をお与えになりました。これが時至ってなされた証(イエス様の十字架上での死と三日後の復活・よみがえり)なのです。(新約聖書 1テモテ2章4、6節)

2024年9月26日木曜日

主にあって愛する友の召天(中)


 久方ぶりに、白鷺の群れを見つけました。依然としてセミの声がかすかに聞こえてきます。暑かった今年の夏はまだ決して終わらないよ、と言わんばかりに。けれどもこの白鷺を見ていると、やはり秋は訪れて来たのかな、と思わされております。

 昨日は敬愛する友の召天の集いが持たれました。ご親族の方、ご近所の方、かつての職場の方、キリスト集会の方それぞれが集まられました。集いの中で次々と登壇(?)される方が、友のありし日のわざを通して励まされてきた次第を語られました。私はそれを聞きながら、何と友は皆さんに愛されたお方であったのかと思わされました。

 私もそのうちの一人として話させていただきましたが、私にとって最大の思い出は静かに召されていった友を交えて祈り、賛美し、みことばを拝読したその時の雰囲気でした。そこには少なくとも「泣き叫び」はありませんでした。「涙」はあったと思いますし、これからじわじわとその「悲しみ」は遺族である奥様とお嬢さんに襲ってくることだと思いますが、一方で天の御国でいずれ再会できるのだという望みがあることを確信しております。

 私は臨終の場で様々なみことばを友に良かれと思って朗読しましたが、前回も書きましたが、どうしてピリピ3章20〜21節を読んで差し上げなかったのか、友が召された夕方家に帰ってから己が不明を自らに責めていました。ところが、その夕の輪読個所の、ルカの福音書8章を読み進めるうちに、主イエス様の絶大な力と愛を改めて知って大いに慰められたのです。

 それはこういう次第です。この8章にはいろんなことが書いていますが、最終場面に書かれている一つの出来事があります。会堂管理者ヤイロの一人娘が死に瀕(ひん)してる時、ヤイロはイエス・キリストに救い(癒し)を求めてやってきて、主の前にひざまずきます。主はこのヤイロの願いに直ちに答えられ、ヤイロの家にと急行されます。しかし、その途中に別の婦人の病の癒しの求めがあり、それに応えられていたため、娘の死が間近に迫っていて、いっときも早く行って欲しいというヤイロの願いがむなしくも邪魔されます。そのうちに、家の方から連絡が入り、娘さんは死んだ、もうイエス様に来てもらう必要がないと伝わります。

 その報に接し、恐らく顔色を失ったであろうヤイロに主イエス様ははっきりと「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」と言われたのです。そしてイエス様とヤイロが家に直行すると、案の定、家には娘が亡くなっていたのです。その後がどのように書かれているのか、ルカの福音書の記事を丸写ししてみます。52節から55節にかけてのところです。

 人々はみな娘のために泣き悲しんでいた。しかしイエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。・・・

 私はこのくだりを読んで大変慰められたのです。それは死者は主のことばによって生き返らされるという信じられない奇蹟です。そして、主にあっては、人の神様に応答する「霊」(いのち)こそすべてであり、イエス様は霊に呼びかけられるという事実です。生きている時に、どうしてピリピ3章20〜21節を友に読んであげなかったかという私の悔いは無意味であると思ったからです。

 友が息をしている間に私も有名な詩篇23篇はもちろんのこと、イエス様のおことばであるヨハネの福音書14章1〜3節をはじめとして様々なみことばを読ませていただきました。ただ迂闊にも落としたのがピリピ3章20〜21節だったのですが、私は知らず知らず人間の目で判断した、生と死に分けてしまっていて、主にとっては「死んだのではない。眠っているのです。」というご自身の復活を通して死に勝利された方の「死」に対する見方から離れてしまっていたことが分かったからです。

 その上、主のことばは様々ですが、どれ一つとっても無駄な言葉はなく、それぞれが主に応答する時の人間の喜び・力となるということを思ったからです。確かに、友の体は、昨日すぐに火葬に付されお骨に変えられましたが、主を信ずる者にとって、それが終わりでなく、主イエス・キリストが再び来られ、霊の眠りの状態から目覚めさせてくださる時が来るのです。

 藤本正高さんはその著書(『藤本正高著作集第二巻』162頁より)の中で次のように言っておられます。「主イエスには、人の死は皆寝た姿に見えるのです。キリスト再臨のときに目覚めるまで、寝ているに過ぎません。このことがわからない時に私どもは泣くのです。ほんとの意味の死は、人間が神から離れることであって、霊が肉から離れることではありません。」

 友の場合、生きている時、主の御声を聞き、主に信頼していました。それが友の信仰生活でした。友は息を引き取りました。その時、友の霊は肉体を離れ、主イエス様の身元に行ったのです。もはや肉体という姿で友と会うことはできません。しかし、霊はまさに主が再び来られる時、主の呼び声で一挙にヤイロの娘のようによみがえるのです。ヤイロの娘のよみがえりは再臨の時、私たち主を信ずる者が経験することをあらかじめ示す一つの予表ではないでしょうか。それがどのようにしてかはわかりませんが、友が召された日、自分の自宅に帰って私が強く示されたことです。

 最後にそのことを語っている聖書のことばを写しておきます。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。(新約聖書 1コリント15章51〜54節)

2024年9月21日土曜日

主にあって愛する友の召天(上)


 今日は愛する友の誕生日でした。しかし、三日前の18日(水)、友は天に召されました。84歳を迎える直前でした。この写真の風景は、その友が元気な時、いや病を得てもその旺盛な精神力で半年前までは歩き続けたであろう古利根川べりの土手付近の光景です。

 友は持病の糖尿病や高血圧対策もあって、以前から一日一万歩もの距離を物ともせずに、古利根川沿いを歩きに歩き続けておられました。その友の話を聞いて、私もそれに比べると小距離でしたが、古利根川散策を実行するようになりました。言ってみれば、私にとって、古利根川散策の生みの親と言っていい方です。召された日の翌日、その友のことを思いながら妻と散策し、しばし友の元気なおりの姿を偲びました。

 友が、食道がんを患い、手術したのはほぼ2年半ほど前でした。病の進行とともに喉を切開し、それ以来、お話は一切できず、私たちとの交わりも筆談を通してするしかありませんでした。時折、お訪ねする折も、友は健気にもホワイトボードを持ち出し、文字を書き、私たちはその字を追うという手間のかかるものでしたが、しかし貴重なお交わりのひとときとなりました。

 さて、友は私たちより一足先に天国に召されて行ったのです。その日の午後、奥様から、「主人が何も食べなくなった。息を引き取るのが真近に迫っている。兄をはじめ親族がいるが、なにぶんそれぞれ遠方で高齢で病を得ている。来ていただけませんか」と電話がありました。前日に彦根で叔母の法事を終えて帰ってきたばかりでした。まったくこれは無駄のない主のご計画だと思わされました。一週間ほど前に病院にお見舞いに行った時も不思議と面会が許され、事態が深刻なことを理解していましたので、帰省中に召されることがあってはならぬという焦燥感を抱いていたからです。

 16日(月)私は叔母の法事に彦根で参加していました。同じ頃、友は、春日部の病院を出て、在宅看護を受けるべく自宅に戻られました。看護師さんの話によると、体は衰弱し切っていたが、お顔は晴々となさっていたそうです。しかし、家に戻って、まだ一、二日も経たないうちに、このように、臨終の時が迫ってきたのです。友は、急を聞いて駆けつけた私たちに笑顔で応じてくださいました。もちろん体はお痩せになり、頬がげっそりと落ちて、一目で闘病の激しさが窺われました。

 その間、奥様と私たち夫婦で、聖書のみことばを朗読したり、讃美したり、お祈りしながら時が経って行きました。友は、その私たちと声を合わせるかのように、しきりと口を動かしておられました(奥様のその後のお話によると、実際は呼吸を整える必要があってのものだったようですが)。静かなひとときが続きました。そのうちに奥さんはベッドに横たわり、身動きのできないご主人の耳元に口を寄せ、しきりと語り続けておられました。何分かするうちに、ご主人が反応を示されなくなる時が来ました。付き添っておられた看護師さんが、急いで瞳孔を確認され、聴診器で確認されると、もはや息をしておられない状態でした。友の霊はこの時、静かに天の御国へと移されて行ったのです。

 それからずいぶん時間が経ってから、お医者さんが来てくださり、死亡確認をしてくださいました。私たちは静かに、目の前でその後の処置をしてくださる看護師さんたちにおゆだねしながら、さらに時を過ごさせていただきました。その間であったでしょうか、室内に掲示しておられる何点かの絵があることに気づきました。そのうちの一点にジョルジュ・ルオーの『郊外のキリスト』という作品がありました(※)。

 私には、私たちがすべてを主イエス様におゆだねしているその姿に、ふさわしい絵と映りました。私は奥さんに箴言6章22節をプレゼントし、今後の歩みもふくめ、主のお約束を一緒に聖書をとおして確認させていただきました。別の病を得て入院中の一人娘のお嬢さんも、この時お父さんのために祈っておられたと思いますが、一方、春日部キリスト集会ではこの間、別会場で並行して集会が持たれており、その席で、友の8年前、2016年6月21日になさった証を聞いて、友のために祈って下さっていたそうです。それを終えて、馳せ参じて下さった方に最後、感謝のお祈りをしていただきました。その冒頭でピリピ3章21〜22節のみことばがその方の口をついて出てきました。私はそのみことばを耳にしながら、これこそ今の友に最もふさわしいみことばだなーと思わされました。

私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(新約聖書 ピリピ3章20〜21節)

 今まで臨終の席に立ち合わせていただいたのは、当然ですが、ほんの少しです。高校3年の卒業直後の1961年の母の死の時、1994年の6月の継母の召天の時とわずか二回です。(1981年に毛呂山の病院に入院中の父が亡くなった時は、ちょうど私は春日部の教会で礼拝をささげていたので、その死を知りませんでした。何も知らず、いつもの調子で電車を乗り継いで、父の大好物の品々をあつらえて、やっとたどり着いた先に、待ち構えていたのは変わり果てた父の姿でした・・・・)

 私は1970年に主イエス様を信じました。それよりも10年前の1961年に病院で息を引き取った母の死は救い主イエス様を知らず、信じていなかったので、悲しみ以外の何物も感ぜられませんでした。ところが1981年の父の突然の死は臨終にこそ立ち会えませんでしたが、敬愛する主にある兄姉の祈りに支えられ、父の死を主からの祝福と受け止めることができました(ローマ8章28節)。そして、1994年の、主を信ずるように変えられた継母の召天は家族にとり、最大の出来事でありましたが、その召天を真心から主に感謝するひとときとなりました。

 それに比べ、今回の友の召天のひとときは、静かなうちにも、死から生へ、死からの復活が何か見えるような思いにさせられました。そして、主が罪と死に苦しまざるを得ない私たちに、その愛がどんなに、私たちの分を超えた愛か、罪人を天国に導いてくださる出来事であるかをしみじみと味わせてくださる時であったように思います。もちろんご家族にとって愛するご主人、またお父さんを地上で失くす喪失感は増しこそすれ、その悲しみは尽きないと思います。しかし、主なる神様はきっと残されたご遺族を豊かに導いてくださると確信する者であります。・

※私が友人の家で見たものは、奥様が1988年に読売新聞に載ったものを見つけ、切り抜き貼り出して額に納めておかれたものでした。したがって白黒版でした。それにもかかわらす、上記のいきさつで惹かれてしまったのです。ルオーについてまったく何も知らない私にとり、下記のブログは、ルオーの作品の原色版であり、その解説を読み、大変な慰めを受けました。どういうどなたのブログかわからないのですが、以下にそのサイトを載せておきます。http://suesue201.blog64.fc2.com/blog-entry-320.html

2024年9月20日金曜日

叔母の思い出(下)


 これは、何と読めばいいのでしょうか(※)。9月16日(月)、彦根の叔母の十七回忌に出席したおり、玄関の上がり端に飾られていた額です。叔母は、晩年、このような書をたくさん書いていました。一度、「遊」というたった一文字を大きな和紙に大書した作品を見たことがあります。それは、子どもたちが、楽しげに遊ぶ姿を彷彿させる字で、見ていて楽しくなり、その大胆な構成に驚いたことがあります。

 私としては叔母が病を得て亡くなるまでの3年ほどの間に、4、5回はお見舞いできたし、その間に貴重なお交わりを得たことに満足を覚えていましたが、法事の席で、「お父さんが出征し、間もなく戦死の報が来て、家では子どもがいないので養子の話さえあったところ、お腹に赤ちゃんを授かっており、事なきを得た」旨の話がありました。いとこは何不自由もなく育ったように思っていたが、やはり、その成長にあたっては戦争の影が人知れずあったのだと思わされました。

 そのような叔母自身は夫のいない戦後の生活の中で心の拠り所を求めて、お城のお堀端にあった近くのカトリック教会に通い、「公教要理」も学んだと言っていました。近くには日本基督教団の教会もあり、またそれ以上に多くのお寺が近くにあり、仏都ですので信仰を持つには至らなかったようです。ただ、習字に端を発する様々な文化活動にも参加して、一人息子が京都伏見で世帯を持っても、病を得るまでは、一人で彦根の家を切り盛りして守っていました。彦根にいる時は、帰省のたびに叔母を訪ねるのが習慣であり、私にとってはホッとする寛ぎの時でもありました。それだけに病を得て京都伏見に身を寄せ、当地の病院にお世話になっていると聞いた時は、いったんはお見舞いは無理だと思ったものです。

 しかし、不思議なことに、当時私はキリスト集会のメッセージの当番で関西方面に参ることが多くあり、その帰り道を利用して、何としででも叔母に「福音」を伝えたいとの思いに導かれ、芦屋の方々にも祈っていただき、ある時は京都在住の方と一緒にお見舞いに行ったこともありました。最後にお見舞いした時はいとこに案内されて病室に入りましたが、祈りのうちに対面させていただいて、静かに辞去したことを覚えています。それから間もなく亡くなったことを知りました。

 法事はお坊さんの三十分ほどの読経、講話が中心でした。曽孫さんである若者6人をふくむ20人の参列者でしたが、お坊さんが講話で、その若者を念頭においてでしょうが「今はわからないと思うが、大きくなったら、今日の法事の意味がわかると思います。ご先祖さんを大切にしてください。」と言って話を閉じられました。残念ながら、こちらはお経の意味がわからない、何がわかるようになるのか、それは「先祖崇拝」ということだと思うが、それで私たちの心の平安が得られるのだろうかと思いながらお聞きしていました。

 先祖と言えば、私たちの先祖は一体誰なのでしょうか。帰ってきてから、家内と毎日輪読している聖書の個所はとうとう旧約聖書の1歴代誌1章に入りました。実際にお開きになるとお分かり願えると思いますが、それこそお坊さんの読経も顔負けするほどの人名の羅列です。いったいこれにどんな意味があるのだろうかと思いました。ちなみに、その冒頭は「アダム、セツ、エノシュ」です。辟易する私たちに、F,B.マイヤーは次のように語っていました。ご参考のために全文を転記させていただきます(『きょうの力』234頁より)。

 歴代誌のへき頭は、えんえんと続く名まえの羅列です。さながら大昔の墓場を見るここちです。かつて、生まれては死に、愛しては傷つき、叫んでは戦った人々も、この堅い墓石には、ただ冷然と、その名まえが刻まれるだけなのです。

 けれども、これらの人々の存在は無意味ではありませんでした。これらの人々は、みなひとりびとり、民族の進展の重要な一コマ一コマであったのです。父たり、子たりして、いのちのともしびを継承していったのです。山の頂も広い裾野あればこそなのです。

 しかも、実はこのひとりびとりが神の愛の対象であったのです。この点のようなひとりびとりが、みな主の贖いの目標であったのです。と同時に、また、どの人もみな終わりの日の神の審判の前に立つのです。

 「アダム、セツ、エノシュ」と読んで、すべての人が、みなひとりのアダムから生まれ出たものであることを、いまさらながら確認させられるとともに、その第一のアダムから出たあなたが、第二のアダムである主イエスに接木された者であるという神聖な喜びにあふれるように。

※その後、額の字は何と読むのかという私の問いに対して、いとこから、メールで、「『年豊人楽』であり、読み方は私もいい加減ですが『年豊かにして人楽しむ』ではないでしょうか。母の願いだったのでしょうね。」と返事が来ました。叔母は1921年に生まれ、2008年に亡くなり88歳の天寿を全うすることができました。新婚早々夫を戦争で亡くし、以後姑に仕え、一人息子を立派に育て上げ、書などを通してたくさんの知己を得られたのでないでしょうか。福音は戦後すぐに叔母に届きました。そして、最晩年には甥である私を通して福音をお聞きになられました。いとこの小学校の担任の娘が、後に私の妻となるにあたって、「福音」は私に届き、その「福音」を私はいとこや叔母に伝えるように変えられたのです。

 改めて、叔母の残した「年豊かにして人楽しむ」の言わんとすることを、私なりに考えてみました。「年豊か」とは素晴らしいことです。ですが、「人楽しむ」とは、中々難しいことです。それは主なる神様が与えてくださるものではないでしょうか。その証拠が私たち人間の罪と死からの救い主である神の子であるイエス様です。だから、真の楽しみを与えてくださるお方は、唯一主イエス様です。贖い主イエス様です。この方以外にありません。そのことを下の二つのみことばは示しているのではないでしょうか。叔母の88年の生涯の歩みもその上にあったと私は確信しています。

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。(旧約聖書 出エジプト20章12節)

すべての人は、・・・神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(新約聖書 ローマ3章23〜24節)