2025年3月28日金曜日

諸人こぞりて主をほめよ!

 春が一斉に開花した今日この頃ですね。このところすっかりブログ離れを経験しています。そんな日々でも古利根川縁の散歩を欠かした日はありません。その都度、iphoneでせっせと写真に収めています。出色は何と言ってもこの鳥に出会ったことです。半年ほど前にも畑の中で見つけましたが、今回はもう目の前でこの美しく着飾った鳥がいたのです

 思わず、十枚ほど撮影しました。どれもこれも捨て難い思いですが、流石に当方のしつこさに参ったか、奴さんスタコラスタコラ、移動し始めるのです。飛ばないで。そしてスルスルとフェンス角を曲がり草むらに移って行きました。私もそこまで追うほど風流を解せない男ではありませんので、静かに見送りました。彼も安心したのか、歩を緩め草むらの主に帰りました。

 すると反対側の川中には、これまた、素晴らしい出会いがありました。それが右側の写真です。亀君三匹と鴨君三匹ののどかな川縁の姿です。別の場所では川縁の石ころという石ころの上に亀が甲羅干しをしていました。もはや十本の指では数えられない亀君が思い思いに石ころの上に乗っかっていたのですよ。もちろんこちらが少しでも近づこうものなら、ざんぶと奴さん、水中に潜ってしまいます。何とも言えない可愛さです。もちろん、今や川中は魚が水を得て泳いでいます。

 久しくご無沙汰している植物では、この歳になって初めて知ったことがありました、それもこの三枚の写真が語っています。芽吹くところから、花を咲かせるまでほぼ同一の小枝を撮影しました。毎日通っていましたが、二日ばかりこの木に近づけませんでした。今日、近づいてみてその木が桜ではないことに初めて気づいたのです。観察中、なぜ、桜色の蕾を見せてくれないのかと不思議に思っていたのですが・・・

 

 この左側の木こそ、私が執拗にその発育ぶりを追っていた木の開花ぶりだったのです。何年も春になるとこの木だけが他の桜とは違う。もっとも早く芽吹くと思っていたのですが、桜じゃなかったのですね。「すももももももものうち」と言う、かの「すもも」だったのです。ちなみに一番上の写真は月曜日、その下が火曜日、そして一番下が今日金曜日の写真です。桜の木が咲いているのですが、それをバックに白一色のすももの花が見事に咲き誇っているのです。

 さて、「花より団子」とは良く言ったものですね、果たして「すもも」の実が穫れるんですかね。これまた何も知らない男の愚問でしょうか。

 鳥も騒ぎ、川面にせせらぎも聞こえ、川中を見ますと大きな魚が泳いでいます。「春の麗(うらら)の古利根川(?)、上り下りの散歩道(?)」と思わず、口ずさみたくなります。それもこれも花々がそれぞれ一斉開花に励んでいるからなのでしょうね。でも、元はと言えば、天地万物の造り主のおかげです。旧約聖書詩篇148篇に素晴らしい主への賛美が繰り返されています。最後にその詩篇を写しておきます。

1 ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。 2 主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。 3 主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。 4 主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。 5 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。 6 主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。 7 地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。 8 火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行なうあらしよ。 9 山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。10 獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。11 地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。 12 若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。 13 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。 14 主は、その民の角を上げられた。主の聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。ハレルヤ

あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(新約聖書 マタイ5章16節)

2025年3月5日水曜日

ジャーナリズム健在たれ


 新聞、ラジオ、テレビと、ほぼ満遍なく付き合っているつもりである。それぞれの媒体の特徴があり、一つの事象を多角的に観察できるのは助かる。新聞が夕刊の配達を辞めた時には、もう新聞も終わりなのかと一旦は思ったが、しばらくの失望の期間がすぎて、今ではすっかり慣れてきて、朝刊にふくまれている夕刊記事(多くは文化欄)などをいそいそと取り出しては読んでいる(さしずめ、今朝の新聞の「戦間期の思想を拒絶する」と題する保阪正康氏の論考がそれにあたる。)

 トランプ・ゼレンスキーの口論をテレビで見た時には、これを識者はどのように見るのだろうか、とその意見が聞きたかった。ラジオのTBSの森本毅郎が月曜の朝、そのやりとりを丁寧に追っていた。土曜、日曜と様子眺めの状態が続いたが、事態の様子が明らかになると同時に今後の動向もにらんだ上での解説も徐々に散見できるようになった。なお、様々な論考に期待したい。

 ところで、現実政治は早くもアメリカのウクライナに対する武器援助が休止され、のっぴきならぬ事態へと動いている。かと、思うと、大船渡市では、こう着状態どころか、日に日に山林火災の範囲が広がっていく。その様を国際情勢、年度内予算成立を図る少数与党下の国内政治の動向に並行する形で、私たちは今目にさせられている。ひとときは、アメリカロサンゼルスの山火事は対岸の火であったのに・・・。幸い、雨雪が大船渡市上空にも舞い降りそうだ。一日も早い鎮火を望む。

 今朝の東京新聞の「筆洗」は次のように結んでいた。「奉納のおかげか。大船渡でも雪や雨が期待できるとの予報に少しほっとする。〈あめゆじゆとてちてけんじや〉ー。岩手出身の宮沢賢治の「永訣の朝」。病にある妹トシの雨雪を口にしたいと求める言葉が悲しいが、大船渡に今、〈あめゆじゆ〉がほしい。」 

 人間社会の移り変わりを感じながら、現実を明らかにしていくジャーナリズムの歩みに期待したい。最後に日曜日の歌壇欄に載った一人の方の短歌を紹介しておく。

かいつぶり 潜りて広ぐる水 尾の先 はるか遠くに 顔を出だせり
                   (神奈川県伊勢原市 佐藤治代)

私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。・・・私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。・・・舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やすのです。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。(新約聖書 ヤコブの手紙3章1、2、3、5〜6節)

2025年3月4日火曜日

二つの口径の世界


 二、三日前、買い物帰りの道路脇に、目にも鮮やかな花が咲いていた。家内に何の花か尋ねる。「かたばみ」だと答えが返ってきた。ブロック塀の排水口(径三、四センチ)を根城にこんなにも明るい色を見せてくれるのかと、写真に収めた。どのようにして種子から花に成長したのかわからないが、草花はほんのわずかな隙間を見つけては育っていくことに驚く。

 話は変わるが、台所の水道の蛇口が壊れた。DCMホーマックに出かけて同様な製品がないか見て回ったが、中々見つからなかった。店員の方に相談した。親切な店員で、あちらこちら探してくれた。最初は金具面だけだったが、その後、プラスチック仕様のものを探してくれた。しかし、いずれも壊れた蛇口との同寸法のものは見つからず、同サイズのパッキングを見つけるしかないですね、と最後に言われてその方とは離れた。それもそうだと、訳知り顔の境地で件のパッキングを今度は自分で探すことにしたが、中々見つからなかった。

 そうこうしているうちに、別の場所で違う店員さんが一人のお客さんの注文に対して熱心に応対している姿に遭遇した。そちらの用件が決着するのを待って、この店員さんに相談してみようと思い、ダメもとと思いながら、持ち込んだ、壊れた蛇口をその店員さんにも見てもらった。仔細に眺めたあと、それを手にして、その彼は先ほどの店員さんと違って、二、三箇所を経て、口径22ミリになる「首振りキッチンシャワー」なる2178円の製品を探し当ててくれた。

 家に帰って、当てはめてみるとまさにぴったりだった。二人の店員さんのお世話になったが、店員さんによってこうも違うのかと改めて思わされた。先の店員さんが悪かったわけではないが、あとの店員さんは、お客さんの要望に応えたいという熱心さにおいて、先の店員さんにまさっていたように思う。ひょっとしたら、商品知識の違いもあった上での結果だったのかも知れない。

 今では口径22ミリのシャワー製品は我が家の台所で元気に、壊れた蛇口に変わって、働いてくれている。一方、口径3、40ミリの隙間に根を下ろした「かたばみ」はさすがにここ一二日の寒さで、半分近く花びらをなくしたが、黄色い花の存在は、通る者の目を楽しませてくれているのではないか。人工(人事)と自然の違いはあれども私にとってはありがたい二つの口径が招いてくれた新世界の境地であった。

 ひるがえって、トランプ大統領とゼレンスキー大統領の首脳会談は、敢えて言うならば、両者の口径が合わず、決裂した。その余韻は今も世界の人々の耳目をそばだてさせている。人事の世界では口径が合わなければ、機能しないのだろうか。しかし、それだけではない。いのちある両者だ。いのちある者として、かたばみのように、口径をものともせず、豊かな色を見せてほしい。

光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。(旧約聖書 詩篇97篇11節)

2025年3月1日土曜日

輝かしい希望


 今日から、弥生三月に入りました。庭の山茱萸(サンシュユ)の花が咲きほころびました。毎年のことですが、このように時至って花を咲かせてくれる木に心からなる感謝を申し上げたい思いです。でも、すべては主なる神様のご配慮なのですね。

 毎日毎晩、岩手県三陸大船渡市の山林火災に胸を締めつけられる思いがします。一日も早い鎮火をと祈ります。さて、今日は下記の文章を載せさせていただきました。『重荷も軽く』(A.ドーフラー著)の「輝かしい希望」と題する文章の引用文です。愛する友が重篤で入院中です。その方に読んでいただきたいと決心してお送りしたものです。皆様もお読みくだされば感謝です。

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。(新約聖書 コリントへの手紙第一15章19節)

 希望は人生の源泉です。私たちの生活から希望を取り去ってしまったならば、私たちは平安を保つことができなくなり、絶望へと追いやられてしまいます。

 神を無視する者でも、この世に希望を託しております。彼らは生計を立ててゆくことを望み、より良いことに会うことを望み、健康でありたいと願います。

 しかし、イエス・キリストの復活ほど、私たちを大きな希望で満たしてくれるものはありません。イエスの復活は、イエスが神であることを示し、神のみことばとお約束が常に真実であることを物語っています。イエスはいつも私たちと共に居てくださることを約束してくださいました。イエスは私たちに慰めを与えてくださることを約束してくださいました。神は私たちに、イエスが生きていらっしゃるように、私たちも生きると確信させてくださいます。

 人生においてさまざまな苦労に出会っている時や、苦痛と病気のために閉じ込められている時ほど、この神のお約束は必要なのです。これらの約束は、私たちが決してひとりではないことを確信させてくれます。私たちは主イエス・キリストの永遠のご臨在をいただいているのです。

 その上私たちは、イエスの復活によって、もう一つの希望を持たせていただきました。イエスの復活は、イエスが私たちの救い主であることを語っています。キリストを死から復活させることによって、父なる神はイエスの犠牲が十分に完全に、私たちの罪の代価を支払ったことをお述べになりました。

 イエスは悪魔の象徴であるヘビの頭を砕きました。イエスは悪魔に対して勝利を得られたのです。それゆえ、キリストを身の隠れ家としている限り、何物も私たちを損なうことができないことを知り、希望に満ちて将来を望み見ることができるのです。

 キリストが死から復活なさったのですから、私たちの、苦痛を受け病気をしがちなからだも、ついには朽ちない状態によみがえり、主イエス・キリストの栄光のからだに似たものとしていただけるのです。私たちはこの世において、いろいろと多くの試みを受けます。私たちキリスト者も、神を無視し、キリストを否定する人々と同様に苦痛を受け、痛手をこうむります。もし現世にのみ希望を託するならば、私たちはすべての人々のうち最も哀れむべき存在となります。しかし死のかなたにおいて、この苦しみを受けているからだが完全な状態においてよみがえるというところに、私たちの希望が存在しています。そこにおいて私たちの目から涙がすべてぬぐい去られます。そこにはもう、この世の苦痛はありません。もはや死ということも無いのです。主の御前は、永遠に喜びに満ち満ちているのみです。それゆえ私たちの希望は、この世の生活を超越した果てしない永遠にあるのです。これらすべてのことは、イエスの復活によって絶対確実なものとなります。

 それですから復活祭は、私たちに世界で最も幸いに満ちた喜び、最も希望に満ちた神よりのことばをもたらしてくれるのです。パウロがローマ人への手紙8章18節で言ったとおり、私たちも「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」と心から言うことができます。そして十分自信に満ちて 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(新約聖書 コリント人への第二の手紙。4章17〜18節)と付言することができるのです。

 祈り

 永遠に生きていらっしゃる救い主イエス様。あなたは罪と死に打ち勝ち、栄光ある復活をなさいました。それによって罪の赦しと平安が私たちに保証されました。私は心からあなたを讃美いたします。今日もまたあなたの慈(いつく)しみを私にお示しくださり、私のすべての罪をぬぐい去ってください。悩みと痛みと苦しみとを受けている私を、罪のくびきや苦難から永遠に解放してくださるというあなたのお約束によって、私は希望に満ちてあなたを仰ぐことができます。どうか御恵みによって、常に私の近くにいてくださり、一日のすべての時を、輝かしい栄光の福音によって慰め、揺るがぬ信仰をお与えください。

 あなたのみことば、および、あなたに対する信仰から、私たちすべてが最後まで離れることなく、神の国民を待ち望む栄光に連れて行っていただけますように。イエスの御名によってこの祈りをおささげいたします。 アーメン 

2025年2月26日水曜日

『神の愛』は何処にもあり


 昨日は、ひさしぶりの投稿に対して、早速ありがたい励ましのコメントをいただいた。同氏はせっせとご自身のホームページ(https://sakota575.webnode.jp/%E6%97%A5%E8%A8%98/)で日々、写真と共に俳句を載せておられる。私もそれにあやかるべく、日々の観察怠りないのだが、中々詩心もなく、ほぼ一月余り投稿を休んだ。

 この間、何もしていなかったわけではない。写真はなるべく撮るようにしていた。今日、掲載の写真は先週水曜日、病院に出かけた際に、見かけた「タイリクセキレイ」の姿である。セキレイは写真に撮るのが難しい。ところがこのセキレイ君はどうしたわけか、歩道を歩いていた。それだけでなく、近寄って来る。自転車を降りて、彼の姿を追った。手元まで近寄って来る。またとないシャッターチャンスであった。その余りにも熱心な当方の姿に敬意を表されたのだろうか、通りがかり(多分同じ病院通いなのだろうが)のご婦人が立ち止まって、私に「撮りなさい」と言わんばかりの意思表示を示された。

 私は、この変わったセキレイ君の姿にすっかり安心しきって、逆にご婦人にどうぞ構わず先へ行ってくださいと手招きした。それまでのセキレイ君の行動ぶりから、ご婦人の通行の邪魔を詫びる余裕があっての私の所作であった。ところが、あにはからんや、と言うより、セキレイ君本来の彼らしき行動を発揮して飛び去ってしまった。残念!身近でバッチリ撮れるという思いは敢えなくも潰えた。けれどもご婦人も残念がられたが、セキレイ君は道路脇の人家のお庭に入りましたよ、と丁寧に教えてくださった。確かに自分の希望通りの写真は撮れなかったが、病院行きの束の間の爽やかなひと時であった。

 ところで、この病院行きこそ、ブログを休んでいた理由の一因であったことに思い至る。それはここ二、三年右手人差し指が痛んでいた。家内は私がおびただしくキーを叩く所作を目にしては、心配して、いつも「やめろ」と言わんばかりであった。だから「痛い!」なんて口に出したくなかった。そして内心では折れているのではないかとビクビクしていた。そのため整形外科に出かけたのだった。幸い、骨は折れていず、「経皮鎮痛消炎剤」なるものを処方されて帰って来た。それを塗っても症状は今まで通りであまり変わっていないが、意を決しての病院行きはパソコンに向かう我が生活に少なからず後押しをしてくれた。

 病院通いのついでに書くと、もう一つの根本的な理由がある。病院行きは待ち時間で多くの場合、辟易するのは皆さん共通の思いではないだろうか。そんなおり、待ち時間をどう過ごすか各自様々な工夫をなさると思う。私はこの病院行きに一冊の本を持ち込んだ。

 その本の題名は『なにものも私たちを神の愛から引き離すことはできない(上巻)』(G・ベック著)という恐ろしくも長い題名の本である。新約聖書の「ローマ人への手紙」をはじめから終わりまで、そこに表現されているみことばを今の私たちにわかるように書かれている本である。

 新約聖書の中にある「ローマ人への手紙」は、誰しもが一度は挑戦したことのある手紙であろう。私も何度か読んでいるが、いまだに初めから終わりまで貫通して読み切ったことがない。それで昨年末ごろからであったか、別の方の書物『 ロマ書講演』(パゼット・ウィルクス)を随分時間をかけて読み切ることができ、大変感銘を受けた。

 ただし、この講演自体は昭和6年(1931年)であり、文語体で書かれており、すごく読みづらかった。そこで、お膝元であるベックさんの書かれた本をとにかく読んでみよう、それを読み切った後でないともう何も言えない、言いたくないという思いであった。パゼット・ウィルクス(1871〜1934)は明治期から昭和期にかけて日本伝道のために働かれた宣教師だったが、紙上でしか拝見できない方であるが、私の尊敬してやまない英国の宣教師だ。それに比べて、わがベック兄は2016年8月23日に召されるまで、我が家に26年間、来てくださり、ある時は旅先の四国の坂出では一緒に枕を並べ、寝食を共にさせていただいたこともある。

 そのベックさんが召されて9年になるが、その御本を丁寧に読み切ったことがない。それで時の間を惜しんで、その本に没頭していたためである。ブログ休止はそれが最たる理由である。

 さて、整形外科の待合で多分、これまたその『神の愛』に没頭していた時に、Bさんから声をかけられた。Bさんは二日前にその病院で心房細動のためステントを挿入する手術を受けて退院されたばかりで、その日は、その術後手当で来院されていた。私は、その前日にはBさんのお見舞いに同じ病院に出かけたが、あいにく退院なさった後でお会いできなかった。その翌日、こうして病院で会うことができたのだ。

 顧みれば、セキレイ君に出会い、Bさんに声をかけられる。昨日今日の短い間にも丁寧にコメントを寄せてくださる愛読者の方々がいる。『神の愛』はこのような形でも貫通されていることを思わざるを得ない。ただし私の『神の愛』の読書は上巻の237頁あたりを今通過しているところであり、まだまだゴールには程遠い。なお、この『神の愛』のもとになるベック兄の音声があるのでそれも並行して聞いている。「耳」と「目」で、『神の愛』を味わいながら、春を待ち望んでいる。これほど贅沢なことはない!

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(新約聖書 ローマ人への手紙8章38〜39節)

2025年2月25日火曜日

トーゴーさん、こんにちは

壮観なり 大池親水公園 2025.2.17
 今朝の朝刊を見て、懐かしい思いがした。トーゴーさんのお写真が出ていたからである。1年半ほど前、トーゴーさんとは信濃鉄道「中軽井沢駅」で乗り合わせた。と言っても、ご挨拶したわけでない。こちらは無名人であり、先方はこちらをご存知ない間柄だからである。

 東京新聞は昭和100年、戦後80年を記念して「昭和20年に生まれて」と題して、今年80歳になるそれぞれの方の戦後(史)を伺い、それをもとに紙面構成をしている。見出しには「『51』譲り『49』取る覚悟 終戦交渉の祖父 残した信条」とあり、元外交官・東郷和彦さんへのインタビューによる編集記事であった。

 私はほとんど眺めるようにこの記事を追った。一読するまでもなく、1年半ほど前、トーゴーさんの祖父東郷茂徳さんに関する書籍を次々読んで、東郷氏が類まれなる人物であることに痛く感心もし、もっと調べてみたいと思わされた記憶がよみがえってきたからである。

 そのことを家内に話したところ、家内は案の定、忘れている(※1)。だから無駄だとは思いながらもそのトーゴー氏との出会いについて少し話してみた。と同時に、本ブログに東郷茂徳氏について熱っぽく書いていた数篇の記事の投稿を思い出した。

 一方、今朝、いつも聞いているTBSラジオの「森本毅郎スタンバイ」で、森本氏がウクライナの停戦の行く末を心配する中で、珍しく石破首相の言を評価していた。それは武力でなく、外交で決着をつけるべきだという真っ当なことばを首相が述べたと言うことだった。

 外交交渉がいかに大切なものか、また外交官がいかに苦労するか、かつて遠縁にあたる方(※2)を通して、その一端を知らされていたし、今朝の新聞・ラジオを通して端(はし)なくもそのことを痛感させられた。

 昨日、三男が突然一人で訪ねてきた。「お父さん、お母さんの顔を見たい」と思ったようだ。また、一枚の新聞記事ではあったが、ひょっこりトーゴーさんのお顔を拝見して、「顔」の大切さを思い、久しぶりにブログ記事を書く気になった。これも親しい友人から、昨日LINEで「もうブログは終わったのですか」と問われての今朝だった。愛のみがしからしめる持ちつ持たれつの間柄を、歩ませていただいている今日この頃である。

※1 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/07/blog-post_5.html この日をきっかけに数篇投稿している。

※2 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/02/20102.html この本の著者は父君が外交官であった。「子どもたちはその困難さを知ってか、それぞれ外交官の道を選ばなかった。しかし、その孫が再び外交官になった、不思議なものだね」と言われた。このお孫さんは今は外交官の道を退いておられるが、別の形で尊い宮仕えをなさっている。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。(新約聖書 1ヨハネ4:8)

愛は決して絶えることがありません。・・・完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。・・・今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(新約聖書 1コリント13:8、10、12)

2025年1月21日火曜日

『財布君』と私たち

朝日浴び 新春の気 漲(みなぎ)れり  2025.1.4
 昨夕、家内の財布が見当たらなくなった。家内は、買い物袋、ポーチ、服のポケット、また部屋の中などありとあらゆるところを必死に探してみるが、どこからも出てきそうにない。そう言えば先週、友人が雑談の中で、自転車で外出して財布を落としたが、拾った人が警察に届けてくれて見つかったと嬉しそうに話したのを耳にしたばかりだった。その際、友人は「(悪いニュースばかり流れるが、)こんなふうに、世の中には正直に届けてくれる人がいるんだよね」と感にいると言わんばかりであった。それもそのはず、友人はその財布に大切なものを一切合切入れていたのだ。

 こんな時、いつもなら家内の失策をあげつらって私はガミガミ言うのだが、昨晩は我ながら、落ち着いていて、家内を責めるでなく、一緒になって、室内をなめるが如く、徹底的に探した。かれこれ一時間程度探したであろうか。それでも見つからない。こうなるとどこかで落としたに違いないと結論づけるしかなかった。記憶できない家内に代わり、財布の所在を遡って思い出すことにした。昼前、「ダスキン」の人が来て、家内がお金を払った。その後、自転車に乗り、古利根川べりの散歩に出かけ、その足で「ベルク」に買い物に出かけ、そこでも家内が代金を払った。自転車で家に戻る途中、何とかと言う薬チェーン店に立ち寄ったが、お目当ての品物がなく、買わずに店を出てきた。そこまで思い出せた。

 多分、その間のどこかで財布が落ちたのに違いない。でも見つからないだろうと、思いながら、先日の友人の話もあるので、とりあえず警察に電話した。受付の方が丁寧に応対してくださった。遺失物届けである。遺失物の内容を問われて家内が出たが、一枚のキャッシュカードが入っていることは確かだが、その他のものは思い出せなかった。生憎、警察には現時点では届いていないと言われ、万事休すであった。ただ、その時、「ベルク」や「ウエルシア」に立ち寄られたのなら、そちらのお店にも聞いてみられてはどうですか、と言われた。

 それで先ず、「ベルク」に電話したが、「(そのようなものは)ありません」という答えだった。「ウエルシア」では店内には入ったが、お目当ての品物がなく、買い物もせず、そのまま出てきたので、電話しても無駄だろうと思ったが、一か八かで電話した。しかし、何とそのお店に件(くだん)の財布はあった。その一報を耳にして家内も私もどんなに喜んだことか。家内は自分の不注意で夫にも迷惑をかけ、またキャッシュカード紛失届に銀行に赴かなければならないと覚悟していただけに大変な「救い」を体験したに違いない。

 買い物をしなかった「ウエルシア」にその財布(実は「小銭入れ」だったが)が届けられていたとは不思議だった。つらつら考えてみると、お金を持っていなかった私が家内から小銭入れを預かって、店内に入り、お目当ての品物がなく、店外で待っていた家内と合流して帰ってきたのではなかったか。その辺の記憶は家内には全然ないし、私にも記憶がない。ただ合理的な根拠を次々と時系列で詰めてみるとそうではないかと思った。

 財布の手渡しが駐車場で行われ、その際どちらかが意識しない形で『財布君』は私たちの手元を離れたに違いない。そして、通られた来客のどなたかに拾われ、お店の人に届けられ、のちに持ち主である私たちからの電話で、『財布君』は無事に私たちの元に帰ってきたのだ。数日前の友人の話に続き、また新たに人の善意を覚える昨夕の出来事となった。そして財布をなくした妻をいつものようには責めなかった私に、主なる神はすでに私の不注意だということを知らしめようとしておられたのではないだろうか。

 これらの文章の最後は私の推測であって、本当のところはどうだったかはわからない。ミステリーと言えばミステリーである。さて、このような失くしものとそれが見つかった時の喜びはこの上もないことはどなたも経験しておられるのではないだろうか。

 私は家内のなくし物を家内と一緒になって探したが、それは言うまでもなく、下の聖句にある女の人の「あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか」に促されての行動だった。だから、それが出てきた時の喜びを一瞬のうちだが、家内と共に共有できた。そこには拾ってくださった方の善意があっての結果だったことを覚える。それは小さな喜びであったが、ここでイエス様は、なくなった銀貨が見つかった人の喜びがたとえようもない喜びであったことを、私たちに注意させておられる。その喜びはまた「わき起こる」とも言っておられる。私たち自身が『財布君』であることを覚えたい。

女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。(新約聖書 ルカの福音書15章8節〜10節)