「ゴールデン・ウィーク」とはサラリーマンにとっては、大変な息抜きの期間であろう。それがあればこそ、日常の精魂尽き果てる仕事も耐えられるというものだ。そこへ行くと、年金生活者は毎日が日曜日だから、一年365日、身の回りのちょっとした風景にも魂が癒される瞬間を味わう恵まれた身分であり、現役の皆さんには申し訳ない思いがする。しかし、そうとも言い切れない。いかなる形を取ろうとも後述するように、ゴールデン・ウイークは魂の真の安息があって初めて味わえる境涯ではなかろうか?と思うからである。
さて、木内昇さんは『北越雪譜』を基礎資料とし、30近い文献をもとに『雪夢往来』(※1)という小説を書き上げられた。最初この本の題名は漠として意味が通じなかったが、二度読みだけでなく、じっくり考えてみると、良く考えられた作品名だと思う。第一、「往来」という言葉に万感の思いが込められている気がする。それは北方丈雪の越後の人である鈴木牧之が東南寸雪の暖地の人々と「往来」することによって、自らの経験を、すなわち「雪国」の生活を伝えたいという「夢」が如何にして実現したのかを丁寧に追っている作品だからである。
そもそもこの夢は江戸へ縮の行商に行ったことが端になっている。その辺の事情が次のように鈴木牧之の本名である「儀三治(ぎぞうじ)」(※2)として作中で語られている。
江戸とは絶えず繋がっておらねばならぬーーそれが、二十歳を過ぎた頃から儀三治にまとわりついて離れずにいる思量なのだった。縮は江戸にも卸すゆえ往き来を絶やさぬよう目配りをしておきたいという商売上の理由もあったが、かつて行商で江戸を訪れた折、人々が越後国についてあまりに無知であったことに落胆してからというもの、己の故郷をあまねく知らしめられぬかと、そんな希求が湧いて鎮まらぬのだ。雪深いこの塩沢を特段誇りに思うわけでもなかったが、始終空っ風が吹いて、少し表を歩くだけで髷から着物の中まで砂まみれになるあの江戸に住む者たちから、「越後・・・・ああ、山越えて裏っ側にある国だろう」と軽んじられるのもまた癪だった(※3)。(『雪夢往来』17頁)
商いの傍、書画に打ち込む儀三治については
話がまとまらぬまま会は夜半にお開きとなり、儀三治はひとり、自室に据えた文机に向かう。家中はとうに寝静まっている。燭台の小さな灯りを机脇に置き、誰にも邪魔されず書や絵を描く刻を、彼はなにより愛おしんでいた。不思議なことに、そうしていると本来の己に立ち戻れるようで、気持ちは凪いでいくのに総身の血道が躍るような昂揚を覚えるのである。(同書14頁)
著者木内昇さんが描く小説の出だし部分のほんの一端を写してみたのだが、抑制された文章はこのあと394頁ばかり続く。そして「本来の己」に立ち戻るための書画が、鈴木儀三治(鈴木牧之)の『北越雪譜』であったことが証されていく。寛政年間から天保年間に至る中央文壇の戯作者のそれぞれの生き方が、鈴木牧之の悲願と言ってもいい、『北越雪譜』の板行に至るまでのおよそ40年近い歳月の流れの中で語られて行く。
山東京伝(1761〜1816)、滝沢馬琴(1767〜1848)(※4)、十返舎一九(1765〜1831)など、この錚々たる中央の戯作者の伝(つて)を頼りに、版本刷りを手掛けてくれる版元の引き受けで『北越雪譜』は天保12年(1841年)にやっと陽の目を見る。しかもそのことが可能になったのは、山東京伝の弟である山東京山の助けがあってのことである。
本小説の最終頁(394頁)で、鈴木牧之が身罷(みまか)ったのちも安政5年90歳になるまで生を存えた山東京山(相四郎)の臨終の場面を作者は設定し、次のように語っている。
「わしは戯作に出会って、幸せだったのかのう?」
誰に言うでもなく、闇に向かって独りごちる。その様を見詰めていた猫は、相四郎に添うように床の上に横になると、やがて甘えた鳴き声をあげてから目を閉じた。猫に誘われたわけでもなかろうが、ひどい眠気が襲ってくる。相四郎は、ようやっとすべての枷が解かれた軽い身体で、深い眠りへと落ちていく。
これぞ、まさに「ゴールデン・ウィーク」の落とし所かも知れぬ。相四郎の眠りがそれを象徴するように思う。作家稼業は決して楽ではない。しかし「己」を取り戻すための作業であるとしたら、200年前の苦渋を極めた先人たちの歩みも間近に思えるのでなかろうか。著者がこの小説はあくまでも「フィクション」ですと帯で断っておられるように絶えざる問いかけがこの作品の良さであるように思う。「蔦重」がテレビ大河ドラマで話題になっているのを知っている。その蔦重は戯作者の思いが世間に伝えられるように道備えをする大切な役割を果たすこともこの作品を通して考えさせられた。
※1 『雪夢往来』の表紙絵は鈴木牧之の描ける「塚山嶺雪吹図」である。『北越雪譜』に示されている鈴木牧之の文意もさることながら、絵筆の巧みさを思わずにはいられない。その辺を『雪夢往来』はすでに表紙絵で表している。
※2 儀三治は俳句を嗜み、句会を催していた。父恒右衛門の俳号が「牧水」でそれを継いで「牧之(ぼくし)」と名乗っていた。
※3 関西人である私が初めて栃木県の足利に降り立った際に経験したのもこの空っ風と砂まみれになる生活であった。これは大いなるカルチャーショックで湿気のある温和な風土である近江の地を懐かしんだものである。儀三治さんの話される雪国の生活とは『北越雪譜』を知るまではついぞ知りえなかった。それこそ川端康成の創作『雪国』の都会人が見た雪国の姿でしかなかった。
※4 滝沢馬琴については山東京伝に比して、どちらかというと悪し様に描かれているように見えるが、同書326頁に渡辺崋山が馬琴の長男の宗伯が亡くなった時、弔問に訪れたことが書いてあった。にわかに、この小説が身近になった。私がその足利で下宿させていただいた『巌崋園(がんかえん)』はその崋山が逗留したお家であったからである。もっともその史実を確かめたわけではないが・・・
最後に昨日の伝道者の書の続きの部分を聖句として紹介しておく。
知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。わが子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(旧約聖書 伝道者の書12章11〜13節)