2025年5月8日木曜日

ゴールデン・ウィーク(下)


 「ゴールデン・ウィーク」とはサラリーマンにとっては、大変な息抜きの期間であろう。それがあればこそ、日常の精魂尽き果てる仕事も耐えられるというものだ。そこへ行くと、年金生活者は毎日が日曜日だから、一年365日、身の回りのちょっとした風景にも魂が癒される瞬間を味わう恵まれた身分であり、現役の皆さんには申し訳ない思いがする。しかし、そうとも言い切れない。いかなる形を取ろうとも後述するように、ゴールデン・ウイークは魂の真の安息があって初めて味わえる境涯ではなかろうか?と思うからである。

 さて、木内昇さんは『北越雪譜』を基礎資料とし、30近い文献をもとに『雪夢往来』(※1)という小説を書き上げられた。最初この本の題名は漠として意味が通じなかったが、二度読みだけでなく、じっくり考えてみると、良く考えられた作品名だと思う。第一、「往来」という言葉に万感の思いが込められている気がする。それは北方丈雪の越後の人である鈴木牧之が東南寸雪の暖地の人々と「往来」することによって、自らの経験を、すなわち「雪国」の生活を伝えたいという「夢」が如何にして実現したのかを丁寧に追っている作品だからである。

 そもそもこの夢は江戸へ縮の行商に行ったことが端になっている。その辺の事情が次のように鈴木牧之の本名である「儀三治(ぎぞうじ)」(※2)として作中で語られている。

 江戸とは絶えず繋がっておらねばならぬーーそれが、二十歳を過ぎた頃から儀三治にまとわりついて離れずにいる思量なのだった。縮は江戸にも卸すゆえ往き来を絶やさぬよう目配りをしておきたいという商売上の理由もあったが、かつて行商で江戸を訪れた折、人々が越後国についてあまりに無知であったことに落胆してからというもの、己の故郷をあまねく知らしめられぬかと、そんな希求が湧いて鎮まらぬのだ。雪深いこの塩沢を特段誇りに思うわけでもなかったが、始終空っ風が吹いて、少し表を歩くだけで髷から着物の中まで砂まみれになるあの江戸に住む者たちから、「越後・・・・ああ、山越えて裏っ側にある国だろう」と軽んじられるのもまた癪だった(※3)。(『雪夢往来』17頁)

 商いの傍、書画に打ち込む儀三治については

 話がまとまらぬまま会は夜半にお開きとなり、儀三治はひとり、自室に据えた文机に向かう。家中はとうに寝静まっている。燭台の小さな灯りを机脇に置き、誰にも邪魔されず書や絵を描く刻を、彼はなにより愛おしんでいた。不思議なことに、そうしていると本来の己に立ち戻れるようで、気持ちは凪いでいくのに総身の血道が躍るような昂揚を覚えるのである。(同書14頁)

 著者木内昇さんが描く小説の出だし部分のほんの一端を写してみたのだが、抑制された文章はこのあと394頁ばかり続く。そして「本来の己」に立ち戻るための書画が、鈴木儀三治(鈴木牧之)の『北越雪譜』であったことが証されていく。寛政年間から天保年間に至る中央文壇の戯作者のそれぞれの生き方が、鈴木牧之の悲願と言ってもいい、『北越雪譜』の板行に至るまでのおよそ40年近い歳月の流れの中で語られて行く。

 山東京伝(1761〜1816)、滝沢馬琴(1767〜1848)(※4)、十返舎一九(1765〜1831)など、この錚々たる中央の戯作者の伝(つて)を頼りに、版本刷りを手掛けてくれる版元の引き受けで『北越雪譜』は天保12年(1841年)にやっと陽の目を見る。しかもそのことが可能になったのは、山東京伝の弟である山東京山の助けがあってのことである。

 本小説の最終頁(394頁)で、鈴木牧之が身罷(みまか)ったのちも安政5年90歳になるまで生を存えた山東京山(相四郎)の臨終の場面を作者は設定し、次のように語っている。

「わしは戯作に出会って、幸せだったのかのう?」
誰に言うでもなく、闇に向かって独りごちる。その様を見詰めていた猫は、相四郎に添うように床の上に横になると、やがて甘えた鳴き声をあげてから目を閉じた。猫に誘われたわけでもなかろうが、ひどい眠気が襲ってくる。相四郎は、ようやっとすべての枷が解かれた軽い身体で、深い眠りへと落ちていく。

 これぞ、まさに「ゴールデン・ウィーク」の落とし所かも知れぬ。相四郎の眠りがそれを象徴するように思う。作家稼業は決して楽ではない。しかし「己」を取り戻すための作業であるとしたら、200年前の苦渋を極めた先人たちの歩みも間近に思えるのでなかろうか。著者がこの小説はあくまでも「フィクション」ですと帯で断っておられるように絶えざる問いかけがこの作品の良さであるように思う。「蔦重」がテレビ大河ドラマで話題になっているのを知っている。その蔦重は戯作者の思いが世間に伝えられるように道備えをする大切な役割を果たすこともこの作品を通して考えさせられた。

※1 『雪夢往来』の表紙絵は鈴木牧之の描ける「塚山嶺雪吹図」である。『北越雪譜』に示されている鈴木牧之の文意もさることながら、絵筆の巧みさを思わずにはいられない。その辺を『雪夢往来』はすでに表紙絵で表している。
 
※2 儀三治は俳句を嗜み、句会を催していた。父恒右衛門の俳号が「牧水」でそれを継いで「牧之(ぼくし)」と名乗っていた。

※3 関西人である私が初めて栃木県の足利に降り立った際に経験したのもこの空っ風と砂まみれになる生活であった。これは大いなるカルチャーショックで湿気のある温和な風土である近江の地を懐かしんだものである。儀三治さんの話される雪国の生活とは『北越雪譜』を知るまではついぞ知りえなかった。それこそ川端康成の創作『雪国』の都会人が見た雪国の姿でしかなかった。

※4 滝沢馬琴については山東京伝に比して、どちらかというと悪し様に描かれているように見えるが、同書326頁に渡辺崋山が馬琴の長男の宗伯が亡くなった時、弔問に訪れたことが書いてあった。にわかに、この小説が身近になった。私がその足利で下宿させていただいた『巌崋園(がんかえん)』はその崋山が逗留したお家であったからである。もっともその史実を確かめたわけではないが・・・

 最後に昨日の伝道者の書の続きの部分を聖句として紹介しておく。

知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。わが子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(旧約聖書 伝道者の書12章11〜13節)

2025年5月7日水曜日

ゴールデン・ウィーク(上)

 草むらの ムラサキツメクサ 優雅に
 今年のゴールデンウィークはあっと言う間に終わった。第一、いつから始まったか、その自覚もないまま、気がついた時には、もうそのウィークを抜け出てしまっていたのだ。なして、そのような羽目に陥ったかと言うと、一冊の本に夢中になったからである。

 その本とは『雪夢往来』(木内昇著新潮社)である。2月初めにこの本のことが東京新聞に出ていた。早速図書館にリクエスト。ところがすでに私の前に六人ほどのリクエスト者がいて、私のところには当分回って来ないことがわかった。私だけでなく、「木内昇」ファンがいるのだと改めて思わされた。それから4月下旬になってやっと私の番が回ってきた。待望の本だが、今や興味は薄れていたので、すぐ読まずに放置してしまった。

 2月当時北陸・東北・北海道など大変な豪雪だった。その時、私は『北越雪譜』を思わずにいられなかった(https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/search?q=%E5%8C%97%E8%B6%8A%E9%9B%AA%E8%AD%9C )。そのような折、東京新聞の「推し時代小説」の案内文に接した。私の好きな作家である木内昇さんが、『北越雪譜』の著者である鈴木牧之(すずき・ぼくし)について書いているということだった。だから是非読みたかった。

 ところが、その冬も過ぎ、春の陽気とともに、いつの間にか興味が薄れてしまっていた。だから二週間の貸与期間も、他の私自身が3/16以来日夜取り組んでいる本(『聖パウロの生涯とその書翰』デーヴィッド・スミス著日高善一訳)の存在があり、打っちゃっておいた。ところが返済期限が間近に迫るにつれ、読まずに返すのも癪だという思いが沸々と湧いてきた。最後4日間がちょうどゴールデンウィークとぶつかったという訳だ。

 しかも『雪夢往来』というこの本は結局、二度読みする羽目に陥った。人々が物価高の今日、様々な工夫をしながら、ゴールデン・ウィークを外に出かけて行く姿をTVを通して横目で見ながら、木内昇さんの筆にしたがってほぼ200年ほど前の鈴木牧之(1770〜1842)の越後での生き様を辿ることになった。あとで気づいたのだが、ほぼ一年前も木内昇さんの『かたばみ』という小説を読んでいた(https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/06/blog-post_14.html)。

伝道者は知恵ある者であったが、そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探究し、多くの箴言をまとめた。伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した。(旧約聖書 伝道者の書12章9〜10節)

2025年4月30日水曜日

『沢ぐるみ』という発語

沢ぐるみ 春の勢い 川に満つ
 いつもこの木に何故か、心惹かれる。初めてこの木が『さわグルミ』だと教えてくれたのは何年か前の妻の言葉である。どうして、そんな名前を知っているのか、私には不思議でならない。察するところ、妻の父から幼い時に、教えられたようだ。

 昨日も散歩のおり、しつこくこの木の名前をどうして知ったのか、聞いてみたが、あまり覚えていないらしい。しかし、「ひょっとして『さわ胡桃』でなく『鬼胡桃』かも知れない」とも言った。図鑑で調べてみると、どうも『鬼胡桃』が正解のようだ。

 義父は大正6(1917)年生まれの師範出身の教師だった。実地体験よろしく、子どもたちに教えたのだろう。その親子関係が羨ましくなる。私の父は明治44(1911)年生まれで師範は落ちたが、教員養成所上りの教師だった。義父は旧制中学、父は農学校を経由しての教師生活であった。義父は教師一本で晩年は郷土史に集中した。一方、私の父は同時に教練の先生として配属将校でもあった。戦後教師を辞め、食糧事務所に勤め、検査官として定年まで勤め上げた。

 父は戦争未亡人となった母が嫁いだ家に養子として入った。お家断絶の恐れを抱いていた母は凛々しい軍服姿の父を信頼しての再婚だったのだろう。一粒種の私は昭和18(1943)年に生まれた。父は後年私に一度も「戦争」の話はしなかった。ただ小学校低学年の時に、私の目の前で見せられたのはちゃぶ台をひっくり返しての夫婦喧嘩であった。その原因がどこにあったのかわからないが、大体において私の子育てをめぐっての意見の違いがあったようだ。しかし不如意な戦中、戦後の生活がもたらした互いの生活上の苦しみ悩みがあったのではないかと想像している。

 私が妻の「さわぐるみ」発語で羨ましく思うのは、父からそのように教わる機会を持たなかったことにある。残念ながら、家族三人で撮った写真は一枚もない。父はカメラ愛好家でドイツ製のカメラ「ライカ」を持っていたと聞いている。それなのになぜ?とも思う。詳しいことは語れないが、そこにはやはり戦争というものがもたらした傷跡がある。

 父は昭和56(1981)年痴呆症を患って、69歳で亡くなった。その父の無念を思うと一人息子として父を心から尊敬し愛さなかった己が無知を申し訳なく思う。できれば、母と一緒に伊吹山の麓で育った父の豊かな農学校上がりの知恵でもって、山々や野花の詳しい手解きを受けながら「さわぐるみ」の名前も覚えたかったと思う。

 しかし、今は妻の案内で豊かな植物の花々や自然界の春の息吹を味わうことができるのは望外の喜びである。その上、妻と私の結びつきは、義父が教師として歩む中で、私でなく、私のいとこが二人も義父に教わった偶然性から発展したことにあり、より一層義父の存在が私には眩しく見える。また我が父もそれに劣らない含蓄の持ち主であったことを今は思いたい。6歳違いの父と義父の年齢差は戦争に対する加担の思いは自ずと違うことだろう。義父の最初の子である昭和20(1945)年生まれの我が妻の名前はそれこそ平和への希求そのものである「和子」であることに改めて思い至る。

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(新約聖書 マタイ5章9節)

2025年4月26日土曜日

斯くて「この日」は去れり

 これはまた何と素晴らしい花であろうことよ。昨日、病院の玄関先で家内が指し示した花だ。調べてみると「ヒトツバタゴ」とあり、モクセイ科とあった。改めて今朝写真を取り出して眺めてみた。今日の日にふさわしいと思った。

 毎朝、食事のたびに私は「今日は何日、何曜日」と言うことにしている。そして『日々の光』という聖書のみことばを朗読し、お祈りする。今日はその言で行くと「4月26日」である。そう言った途端、家内が「26日?結婚記念日じゃない!」と言った。

 ここ数年家内の方からこの日に気づくことが少なくなっていた。ところが今朝はなぜかこのような会話になった。感謝なことだ。改めてこの花を見つめてみると、純白のウエディングドレスに身を包んでいた家内を思い出す。よくぞ55年の結婚生活に耐えて今日にまで至ったか感謝に堪えない。

 昨日は主にある友から『山路こえて』と題する歌集を贈っていただいた。千数百首から構成されていた。その歌を家内に読み聞かせた。四季折々の花々が巧みに詠み込まれている。その友とは10年近く親交があった。様々な事情があり、ここ数年交わりを閉ざしてしまった。

 そんな私に友は屈せず便りを寄越してくださっていた。この数日その友に一言私の気持ちをお伝えしたいと思っていた。以心伝心と言うべきか、昨日この400頁近い歌集が送られて来た。急いで読み出した。そのうちに、読み方が分からず、声に出して読まずにおれなくなった。不思議なことに声に出して読んでみるとリズミカルに文意をとらえることができた。何より友の肉声に接する思いがした。

 さらに驚いたのは家内が作者が詠み込んでおられる様々な花々に大変な関心を示して耳を傾けたことだった。いや、花に疎い私の方で家内にそれぞれの花の名前を挙げ、説明してもらう、そして再び歌に戻り、さらにその歌をしみじみと味わう余徳に預かることができた。

 まだ全部読んだわけでないので、その作歌の感想を述べられないが、折角だから、この日の記念に二、三彼の歌を紹介する。

卯月の晦日(つごもり)にして奥美濃は青葉に絡む藤の花房

竹叢(たかむら)の葉陰に咲ける山吹の花ひそやかに季(とき)は移らふ

「行く春の」芭蕉の句など思ひつつ美濃の山路を過ぎ行きにけり

 最後の歌は端なくも、前回の我がブログにそっと書き加えた芭蕉の句が引用の形で詠まれていた。不思議なことだ。

 一方、ここ2、3年お会いすることのなかった家内の50年来の親しい方が久しぶりに訪ねて来られた。85歳になられると言う。その方との屈託のない会話に終始している家内の自然な姿に接し、友の作歌を私の朗読に合わせてともに味わった姿と重ね合わせ、静かな喜びを味わうことができた。

 最後に今朝の『日々の光』の冒頭にあった聖句を紹介しておこう。これこそ主が気づかせてくださった、主が仲立ちとなって私たち夫婦を常に導いてくださる大きな愛の表出だ!

あの方(=主イエス・キリストのこと)の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださる。(旧約聖書 雅歌2章6節)

2025年4月24日木曜日

下戸の春

花の香に 酔って候 下戸の春
 私の宿痾は『鼻』である。それも『後鼻漏(こうびろう)』という始末に負えない病に毎日悩まされている。小学生・中学生の頃から、鼻が出る(垂れる)のが恥ずかしくって、授業中、絶えず下を向いており、一時も早く授業が終わらないかとそればかり思っていた(休み時間になれば鼻をかめるからである)。病昂じて、小学校高学年から京大附属病院に通う羽目になった。

 今から考えてみると、家から近江電車で彦根まで行き、彦根から京都まで東海道線で行くだけでも大変だったと思う。当時は電車じゃなく汽車であった。特に大津から山科に入るまでの逢坂山トンネル、山科から京都に入るまでのトンネルは、煙除けのため、夏の暑い最中など窓の開け閉めで苦労した覚えがある。京都に着いたは着いたで、市電に乗り換えて、最寄りの駅『熊野神社』まで出かけた。

 だから、この持病の所為(せい)で田舎者だが、市電の河原町線、東山線の車窓から見える神社仏閣をはじめとする京都の風物には馴染まされた。大学卒業前に再び大学病院で鼻の手術をした。それ以来それほど気にしなくなった。ところが、10年ほど前から『後鼻漏』に悩まされるようになった。お医者さんによると加齢に伴う『血管性鼻炎』だと言われる。

 長々と「鼻」につきあっていただいたが、そんな私は意外と敏感な「鼻」の持ち主でないかと思った。今日の写真、俳句がその証拠である。いつも通り、自転車で古利根川に向かったが、道路脇に植っているツツジが発する「芳香」を胸一杯(鼻いっぱい?)感ずることができたからである。

 古利根川に着いたは着いたで、桜並木の袂に写真のようにツツジが街路樹よりさらに伸び伸びと花を咲かせていた。桜が散ってすっかり人通りの絶えたかに見える川縁だが、ゴールデンウイークを間近に控え、ゆっくりと落ち着いた春を過ごしたい。

「行く春を 近江の人と 惜しみける」(芭蕉)

主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、野のすべての獣に飲ませられます。野ろばも渇きをいやします。そのかたわらには空の鳥が住み、枝の間でさえずっています。主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。人が地から食物を得るために。また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。油によるよりも顔をつややかにするために。また、人の心をささえる食物をも。の木々は満ち足りでいます。(旧約聖書 詩篇104篇10〜12、14〜16節)

2025年4月23日水曜日

二三人我が名により集まる所、我も在り


 毎週月曜日は長男と私たち夫婦とで祈り会を持っている。もちろん長男は現役の働き人である。様々な用事がある中で、時間を工面するのは中々大変だと思う。案の定、今週は会社の会食があり、昨日22日(火曜日)に延期してくれと、21日(月曜日)に連絡があった。

 ところが昨日九時過ぎに待機していたが、電話はかかって来なかった。多分疲れて眠ってしまったのだろうと思っていた。ところが二、三十分経って携帯でなく、家の電話にかけてきた。どうしたのだと聞くと、いつも通り携帯に電話するが通じなかったのだと言う。

 このような携帯電話を通して三人で祈り会を持つのはいつからか覚えていないが、10年くらいは続いているのじゃないだろうか。その中で通じないという経験は今回初めてだった。原因は私のiphone設定にあることがわかった。

 普段、子どもたちから、5年前に『金婚記念』にといただいたApple Watchに励まされて散歩を欠かさず行っているが、1日の終わりにはその充電量が残り10%を切り、毎日困っていた。それを改善すべく操作をしたが、その際、外部からかかって来る電話が繋がらないようにしてしまった(ようだ)。『集中モード』と言うシステムだ。

 結局昨日はこのためあたふたとし、祈り会は行なえなかった。予定通りであれば、昨日は『ローマ人への手紙』2章の輪読と互いの祈りで終わるはずだった。何となく、泡の抜けたビールのような感じがしないでもなかったが、そのまま二人とも休んだ(普段、ビールは全然飲まないので、この表現は間違っているかもしれないが・・・)。

 さて、2000年前のキリスト者の書翰を通しての交わりについて、今せっせとパソコンに打ち込むという書写に勤しんでいる。『聖パウロの生涯とその書翰』がその本の題名だが、その本に次のような記載があった。以下にコピペする。

書翰の提携者テモテ
 当時にあって書翰の送達は容易の業ではなかった。ペルシヤのangariaを見本としてローマ皇帝が創設した帝国郵便があったけれども、それは国家の施設で、個人の急信は個人の使者が運搬した。普通に富豪は飛脚の人数を具えていたが、それほど余裕のない者は臨時に使者を雇傭した。さらに貧困なるものは友人かまたはその方へ向かう旅人に託した。これがこの使徒の手紙の送られた方法であった。今日の例をもって見ればテモテが逓送夫となった訳である。これは重大な職分であった。蓋しパウロの逓送夫は単純な郵便夫でなかったからである。彼らは人間による音信の書状として信頼せられたのみならず、記された書信を布衍(ふえん)し、また補助する責任を負うていた(ローマ15:12、エペソ6:21〜22)。

 この文章は1926年に日高善一さんが1907年イギリスのスコットランドの片田舎で牧会していたDavid Smithが表題の作品を物すべく13年かかって発表したものを日本人向けに翻訳して総ページ700ページを越える大冊にまとめ出版にこぎつけられたもので、私は今、無謀にもその大冊を書写している。「ちりも積もれば山となる」のたとえ通り、やっと今日の個所はその187ページにあたるところにまで到達した。テサロニケのキリスト者に宛てた第一の書翰について述べている個所である。2000年後、100年後、iphoneを通して家族・友人の救いのために祈る私たちの祈り会は敢えなくも中止された。しかし、そこには彼我の通信手段(2000年前の書翰とiphone)、また日本語表現の違いはある(100年前の日高氏の漢字表現の豊かさ!)ものの、2000年、100年をものともしない主なる神様の御憐れみ、ご支配があることを思わずにはおれない。

 それにしても引用文の最後の文章は中々味わい深い文章である。著者・訳者の真意を表わすための聖句は何だろうと考え喘いで、思い至った聖句を今日の聖句として記しておく。

私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。(新約聖書 2コリント3章2〜3節)

2025年4月21日月曜日

懐旧談(1960年前後の高校時代)


 今朝は新聞休刊日だった。こんな時、私の唯一の頼りはTBSの『森本毅郎スタンバイ!』である。八時台の話題では、名だたる「短大」が次々姿を消し、短大生の数が現在は最盛期の六分の1程度に減って来ていることを扱っていた。一昔前の時勢と今日では人々の価値観も変わって来たことを感じないわけには行かなかった。

 そのことがきっかけで、久しぶりに家内と高校時代の話をした。私たちは三学年違うが、同じ高校なのでお互いに共通の教師を知っている。しかも大抵、教師のあだ名で話が通ずるのだ。そんな私にとって、高校時代はまさに『春爛漫』の時代だった。

 元々、その高校には、中学2年生の時の担任は、進学は無理だと宣った。保護者懇談会を終えて帰ってきた母はその担任の言にぷりぷり怒って帰って来た。母としては息子の学力がそのような判定をいただいたことが不満だったのだろう。それは私に対するぼやきでもあった。

 そんな私がその高校に進学できたのだから、それだけでももって名誉とすべきだろう。だから、英語の時間、私の前の席に座っていた同級生は同じ姓なのだが、隣町から通って来た人だったが、恐ろしくその英語の発音が流暢で滑らかであった。私は嫌が上にもとんでもないところに迷い込んできたものだわいと思った。しかし、中間テストの折り、成績発表があったら、何と私がその人より好成績で、しかもクラスでトップだった記憶がある。

 それは英語だけに留まらず、化学でも好成績であり、苦手の数学も高評価をいただいた。途端に自信を持ち、あくなき好奇心に任せ、様々な本を読んでいった。高校の図書館だけで満足せず、市立の図書館、町の公会所などの図書など手当たり次第手にした。その頃ポーリングというアメリカ人だと思うが、ノーベル化学賞を受賞したと記憶するが、その彼の化学書があった。湯川秀樹の『理論物理学講話』という本も見つけた。

 高校は『東高』でなく『短付(たんぷ)』がふさわしいと中学の担任が宣ったにしてはエライ飛躍ぶりであった。とうとう一年の担任から、私の大学進学の相談のおり、彼の口から、京大理学部は、現役では無理だが、まあ、一年浪人すれば受かるだろうと、望外のお墨付きをいただいた。

 その教師の口調、態度を思い浮かべながら、この話をしたら、それ『コロンブス』でしょう、と家内は言った。私は、目を剥き出すようにして喋るその先生の姿を思い出しながら、どうしてコロンブスと言うのか、と聞いたら、「だって、顔が似ているもの」と言った。そう言えば、英語リーダーの教師は『暁月の君』だと、結婚してから家内を通して知った。「垢つきの君」と言って、いつも同じワイシャツを着ていらっしゃったからだと言った。さすが女生徒は観察が鋭いと思った。

 もう一人の英文法の教師は『てんこち』と在学当時から互いの間で呼び合っていた。口の両側に髭がピンと伸びていて、ヘアースタイルも斬新そのものであった。この先生はユーモアある教師でbuyの過去分詞を言わせ、生徒が答えられないと、「ボーっとしているな!」と喝をつけられた。今から考えると私のレベルにあった授業を各先生から受けたと思う。

 藤倉巌先生は『巌(がん)』と言うあだ名で呼ばれ、『徒然草』を読まされたが、その講義はまさに徒然草を通して語られる、人生訓で古文の学びを超えた真実の世界を垣間見させられた思いがした。一方、東大のインド哲学出身だと言われた先生からも英語の授業を受けたが、大変な博識で英語の授業より、三十三間堂の弓矢の射掛け話など余談ばかり聞いていた記憶がする。

 こうして中学時代に私に『短付(短大附属工業高校)』を勧めてくださった担任は、『東高』に進んだ私をどのように見ておられたのだろうか。ひょっとして、私に発奮を促す意図があったのかも知れない。そのお灸が功を奏したからこそ、私はこのような『春爛漫』の高校生活を手にしたのだ。一方、高校一年の担任の先生の言にもかかわらず、私は2年浪人をして、しかも当初の希望大学に入れず、その後の『疾風怒濤』の生活を経験する。こちらの方は恐らく担任の先生が私を励ますために言われたに過ぎないのに、私はこの時はそれ以上努力せずとも合格できると高を食ってしまったのだった。人生ってわからないものだ。

 なお、中学の担任の先生にはその後、私たちの結婚の際に、仲人をお願いした。その時、母は亡くなっていた。ぷりぷり怒って帰って来た母がそのことを知ったら、どんな表情をしたであろうか。今となっては全て懐かしい思い出である。

主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いはによる。(旧約聖書 箴言21:30〜31)