昨日の倉松川縁の桜 |
今週はこのことを考えさせられることを二度経験させられた。一度目は月曜日のことで、三年近く私たちと交わりがあり、火曜日には帰国されることになった一人のハンガリー人の方との最後のお別れの場を持つことに関してであった。
この方は事情があり、携帯もお持ちでなく、当方から連絡する方法がない方であった。ただいつもこの方がよく行かれる自宅以外の場所を私たちは三年の長い付き合いの中で熟知していた。本国のお母様とSkypeで話をするためによくここへ行かれていたからだ。帰国前日の慌ただしさの中で、あれこれ様々な用事があるのだろう。自宅は不在で所在がわからなかった。
だから、自宅に行くより、この場所に行けば最後のお別れができると踏んでいた。その日昼間に一度その場所で彼に日本での滞在期間での思い出になるようにと何枚かの写真をアレンジして「There is one body, and one Spirit.(Ephe.4.4)」と書いたものをプレゼントできた。その後、家内と二人できちんとしたお別れがしたくって夕方その場所に直行した。ところが待てど暮らせどご本人は現われない。一時間が経ち、一時間半が過ぎても来られなかった。もう一人のその方の親しい方に連絡を取ってみたが、その方が自宅に赴いても家の中は真っ暗であるということであった。
お腹は空く、待ち焦がれた思い、疲労の蓄積の中ですごすごと引き上げざるを得ないと判断し、その施設の三階から二階へと移動し始めた、その折り、玄関入口から足早に入ってくる一人の外国人を見つけた。彼であった。お互いにどちらともなく、こうして最後のお別れができる幸いを噛み締めることができた。記念の写真を撮り、お別れした。思い残すことはなかった。
ちょうど、三年前彼と出会った時、彼は日本語ができず、英語で話するしかなかった。ところが彼はハンガリー語以外にはドイツ語を流暢に話すが、英語表現は今一つで癖があった。もどかしさを禁じ得なかった。その時、もし彼女が生きていたらと何度も思った。それは一人の教え子で学校を卒業してすぐハンガリーに渡り、ハンガリーで骨を埋めてもいいほどハンガリーが好きになった人がいたからだ。今から4、5年前であったか、久しぶりに日本に帰国した彼女と電車内で再会した。しかし、彼女はすでに病魔に冒されていた。有明のガンセンターに見舞いに行き、一緒に祈り、彼女にイエス様にある永遠のいのちを伝えた。その後しばらくして召された。
この彼女がいたら、日本で失意のうちに生活している彼の悩みはハンガリー語で意思疎通ができ、問題は氷解したのにと思ったからである。しかし、それは主イエス様が取られた道ではなかった。理解者もないまま、問題の解決もなされないまま、三年の月日が経ち、この3月17日に日本を帰国することになったからである。それは私たちにとっての一つの貴重な訓練であった。
あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ19・34)
その中で実現した私たちの最後の交わりであった。彼から昨日短くメールで便りがあった。
Thank you for the support in this days. Now I will have to be short, as I will have to go to the market , with mother. .......
これで良いと思った。
もう一つは今週の水曜日であった。お孫さんが二泊三日のスケジュールで訪ねて来られ、今春社会人としてスタートするそのお孫さんに何としてでもイエス様の救いを知って欲しいと祈って来られた老ご夫妻がおられる。私もそのことを知っており、そのお孫さんとお会いしたいと思っていた。たまたまお近くの銀行に用事があって出かけ、そのあと携帯でお孫さんのことをお聞きした。ところがこれから30分後にここを発つ、ということであった。歩いて10分とかからぬところである。急いで駆けつけ、出発間際のお三人に会い、二三言葉を交わし、写真を撮らせていただいた。
月曜日のことと言い、この水曜日のことと言い、主がなさることは、私の思いを越えていると思わざるを得ない。なぜなら、私は出かける時、あらかじめ必要だと思うものを、鞄の中や洋服のポケットの中にしっかりと用意して出かける。ところが、いざその段になると目的のものが見つからず困り果ててしまい、そのまま空しく帰ってくることがよくある。身近な例で言えば、ティッシュ一つ探すのに右往左往する始末だ。そのようなぼんくら者の私だが、主が用意されると一挙に私の願い事が実現していることを覚えたからだ。
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。(伝道3・1〜2)