儀八郎氏の聖書の書き込み |
小説『恋の蛍(山崎富栄と太宰治)』(松本侑子著)には次の記述がある。
65年前、昭和19年のマニラ支店に勤務していた男性が見つかり、話をうかがった。
現在89歳になる彼は、修一と同じ会計課に所属していた。だが、名刺交換くらいはしたかもしれないが記憶にないという。修一の着任からほどなく、彼は支店を去っていた。
「支店長とけんかしましてね、私も若かったですから。それでルソン島の南部、ピガールにある小さな事務所にとばされたんですわ、ウイスキー一本もたされて。でもそのおかげで、戦後、生きて日本へ帰ることができました。マニラに残ってたら、命はありませんでした」
当時のマニラ支店の名前と所属課を、私は職員録から読みあげた。
戦前の同僚たちの名を耳にすることで、かつて机をならべた仕事仲間の顔がよみがえり、そこから、職場の様子、町の風景を思い出してもらえるかもしれない。
「ああ、その人は死にましたよ、この人は、生き残りました、あ、その人も亡くなりましたねぇ」
男性は、マニラ時代の同僚たちの名を聞くと、急に若い日にもどったように生き生きと声をはずませ、いかにもなつかしそうに、そして無念そうに、死者たちの名をくり返した。それから遠い日の記憶をたどるように目をつむり、長い息をはいた。(同書117頁より引用)
松本氏が取材された方は当時24歳である。一方小林儀八郎氏は34歳。入社以来10数年力をつけた中堅としてマニラ支店に赴任した。奥名修一氏よりは赴任が二ヵ月半ほど早く、そのポストは会計課長代理だったので、この方が小林儀八郎氏を知っておられた可能性はある。取材された当時、私も儀八郎氏の書簡に出会っており、すでにパソコン内に活字化を終えていたので、私もこの松本氏のご本を知っていたら、この方に様子をお聞きできたのにと思う。何よりも小林儀八郎さんの信仰の友・岩井穂積氏は存命であり、岩井氏にお会いするチャンスはあったが、そうもしなかった。
そしてあれよあれよと言う間に、戦後70年を迎えることになった。この間、戦争の生き証人はますます少なくなり、限りなくゼロに近づいている。一方それに呼応するかのように、この6、7年の間に政治状況は急速に変わり、戦争体験に何の痛痒も感じない首相に私たちは全権をゆだねている。かつてワンマン首相と言われた吉田茂氏がいた当時、そのワンマンぶりは子どもであった私にまで何となく首相の態度が良くないとする社会の雰囲気が伝わって来たものだ。どんなにワンマンであっても政党の力があり、新聞を始めとする社会の木鐸が健在であったからである。
ところが今はどうだろう。かつての首相たちが持っていた見識・自省の力とは程遠い首相が自己の思うままに政治を進めて行っても人々は何とも思わない。まして子どもたちがかつての私たちの子ども時代のように、政治に敏感にさせられているとは思えない(それどころか、子どもを巡る痛ましい事件が続出している)。それもこれも、もとはと言えば選挙で政権側に圧倒的勝利を与えた私たち一人一人の責任である。文頭に掲げた写真により、一市井の民であった儀八郎氏のほぼ80年前の聖書への書き込みに思いを馳せたい。この時、すでに日本は日中戦争を始めていた。
いかにして主に奉仕し、いかにしてか主を喜ばせ奉(たてまつ)らんと焦り悩み、己の足らざるを悶えおりし数年を経て、先ず主を愛し、彼に聴き、彼より奉仕を受けて行かねばならぬことを覚える。願わくば今より後、ただ静かに彼に聴き且つ祈るを得んことを。
1936年12月
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(1テモテ2・1〜4)
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