一週間前の倉松川の桜 |
儀八郎氏がフィリピンの山中で戦友に一冊の聖書を日本にいる愛妻に届けるように託されたが、それは結局届かなかった。私はその聖書をこれまで大部なものとイメージしていたが、昨日ご紹介した大村栄牧師が木村氏の召天を覚えて書かれた言葉により同氏が持っておられた聖書と同じものであったのでないかと思い始めた。実は、そこでは冒頭次のように紹介されていた。
木村正太郎さんは1914(大正3)年10月30日に、現在の中央区八重洲で、青果仲買人をしていた木村八十九郎(やそくろう)さん夫妻の次男として生まれた。東京府立第一商業学校で学んだのち、1932(昭和7)年に日本勧業銀行に入行。同時に法政大学専門部法律科に入学して、学びながら働かれた。
11年後の1943(昭和18)年8月に徴兵された際、木村さんは小さな文語訳の詩篇付き新約聖書を戦地に持参した。後に教会の機関誌「はこぶね」(94年8月発行)に「出征の前夜に信仰の友人達が送別の祈りのあと寄せ書きをしてくれた小型新約聖書」と書いておられる。その「寄せ書き」に名のある藤本正高という方は、無教会派の有力な指導者であった。藤本氏は「阿佐ヶ谷聖書研究会」と称する無教会の集会を主宰し、内村鑑三の弟子であった畔上(あぜがみ)賢造も聖書研究の指導に協力した。木村正太郎さんはこの集会に出入りして聖書の学びを深めた。
たくさん残された儀八郎さんの手紙を読む限り、木村さんの名前は出て来なかったように記憶する。しかし、ロンドンや上海と海外勤務の多かった儀八郎さんにとっては直接接する機会がなかっただけに過ぎず、お名前は存じ上げている信仰の友ではなかったのではないかと拝察する。ところが、その儀八郎さんは1943(昭和18)年7月には上海支店の勤務を終えて、東京本店経理部に戻っている。三井の社報は報ずる。
1943.6.30 小林儀八郎(経理部勤務)一昨日上海出発、赴任の途に就く
1943.7. 6 小林儀八郎(本店経理部)昨日着任
日本に帰るなり、木村正太郎さんの出征に立ち会うことになるのだ。木村さんの送別のための祈りに参加し、寄せ書きにも藤本正高氏とともに名を連ねた。それから一年後、儀八郎さん自身も出征ではなかったが、本店勤務から再び戦渦著しいフィリピンに送られることになる。 又しても送別の集いが持たれ、同じようにやはり文語訳の詩篇付きの一冊の新約聖書を携えたのでないだろうか。再び三井の社報を記してみよう。
1944.2. 9 燃料部会計課長代理を命ず 石炭会計課長代理小林儀八郎
1944.5.17 マニラ支店会計課長代理を命ず(5月16日)
1944.8.22 小林儀八郎(マニラ支店会計課長代理)去13日赴任の途に就く
もっともお嬢さんの証言によると、「父は英語と日本語の聖書をいつも肌身離さず、河を渡るときも頭の上に乗せて渡ったそうです」また「現地の人たちに聖書を読んで聞かせていたそうです」「病気で動けなくなり木の下で聖書を開いていた姿を見たのが最後」(『国籍を天に置いて』7〜8頁)とある。儀八郎さんはかなり英語が達者であったようだ。戦前すでに英語と日本語が一緒になった対訳聖書があったのだろうか。あれば一度見てみたいものだが、英語を敵性語としていたくらいだから多分なかったのだと思う。それにしても二種類の聖書を肌身離さずとは信じられないことだ。当時のことだから風呂敷に上手に包まれたのであろうか。最後の有様は、私にとってはリビングストンの最後と重なってしょうがない。
かつてウオッチマン・ニーは許婚にあげた聖書が日中戦争の混乱の中で紛失させられた。それが数年後帰って来た。
http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2010/07/blog-post_30.html
http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2012/03/blog-post_27.html
儀八郎さんの場合は聖書は戻らなかった。その代わりにお嬢さんに信仰が受け継がれ、今日一冊の証の本の自費出版となった。主のなさることは素晴らしい。
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(詩篇119・105)
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