2015年3月19日木曜日

一冊の本(9)

杏花 造化の妙 語りおり

 いよいよ、集団的自衛権が法制化される段階に進んだ。公明党が難色を示し、そう簡単には合意が得られないと思っていたが、予想をはるかに越えて事態は急ピッチに進んでいる。

 物産の社員であった小林儀八郎さんはマニラ支店への駐在を決めるにあたり、戦争に巻き込まれることを十分想定して、その際は自らどうしたらよいか、仲間の岩井氏に尋ねられたようだ。その時、「丸腰がよい」と勧めたと言う。(『国籍を天に置いて』111頁参照)岩井氏はちょうどブレーキーのリビングストン伝を読んでいたのでと書いている。リビングストンのこの本は彼らの交わりの中心にあった藤本正高氏が翻訳した作品であり、このブログでも何度か紹介している。http://straysheep-vine-branches.blogspot.jp/2014/03/blog-post.html

 儀八郎さんや岩井さんとともに同じ交わりの中にあった木村正太郎さんという方について記された短文を今回の本制作の過程で私は手にした。この話と関係があるので、一部転写させていただく。

 藤本正高氏や「信仰の友人達」の寄せ書きを得た聖書を携えて、木村さんは1943(昭和18)年8月に中国北部に派遣され、ソ連参戦に備えて実戦訓練に明け暮れしていた。少しでも自由時間があるとその聖書を背嚢の底から取りだし、「便所の中で『くさい所ですいません』とおことわりしてから1篇1章を読み進んでいきました。まこと隠れキリシタンの心境でした」と「はこぶね」に書いておられる。
 死がいつも念頭にあった。国のため、国民のためにやむを得ない戦闘に従事しているんだと一生懸命自分に言い聞かせても、戦闘で殺し合うことへの抵抗は否みがたく、「いざ一人対一人の肉弾合戦の場合は目前の敵兵を刺し殺すことはせず、自らの命を相手に投げ出そうと最後の覚悟を決めていました」とも書いている。
 その文章の冒頭に「軍国主義の泥流を防ぎ止め得なかった痛みと、その流れの中で矛盾に苦しんだり、小さな抵抗を試みたことを思い出します」とある。彼の言う「小さな抵抗」とは武器を持たないことではない。そのようなことが選択し得ない状況において、殺されても殺さないという徹底した「非暴力抵抗」主義だった。(略)
 翌1944(昭和19)年夏、部隊が南方ニューギニアへ出動する直前、上海付近で待機中に、木村さんはマラリヤに罹って入院を余儀なくされた。栄養失調もあった上に肺結核の前兆である肺浸潤も患ったために、戦闘要員の適性を失って1945(昭和20)年の春にやせ細った体で、「張り板のような白衣姿で」帰宅することが出来た。「多くの戦友がその後、南方で血のにじむ苦戦を続け戦死していくことになり、申し訳なく思った」とも書いている。
 聖書に寄せ書きをしてくれた「阿佐ヶ谷聖書研究会」の仲間の一人である小林儀八郎さんは三井物産の社員だったが、1944(昭和19)年10月にマニラ支店へ赴任を命じられ、現地で米を調達する任務にあたった。やがて米軍上陸によって敗走し、弾薬も医薬品も食糧も尽きて多くの将兵と共に戦死した。(阿佐ヶ谷教会文集 大村栄筆より一部引用)

 結局、木村氏も「丸腰」を地で行こうとした。もちろん儀八郎氏もそうであっただろう。それゆえの戦死、戦病死であった。このような生々しい戦争体験を経て、今日の平和日本がある。どうしてそのような経験を政権担当者は好い加減に扱うのだろうか。

 一方、木村氏は小林儀八郎さんより3つほど年下であったようだが、儀八郎さんと同じような経験をなさった上で、戦後生き延びられて、92歳で召天されるまでお元気で過ごされた。そして、岩井氏とともに儀八郎さん亡き後の遺族の面倒を最後まで物心両面にわたって何くれとなく見られたと聞いている。ここにも戦争が残した大きな爪痕とそれに屈し得ないキリスト者同士の交わりがあることを知る。スポルジョンは今日の「夕ごとに」でこのようなキリスト者の豊かな交わりの原点について次のように書いている。

彼女(ルツ)はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。(ルツ2・14)

愛の晩さんには余りものが多い。この栄光に輝けるボアズのもてなしをほめたたえよう。(『夕ごとに 』スポルジョン著 松代幸太郎訳)

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