2015年3月5日木曜日

一冊の本(6)

須臾の木 ほころびて空 仰ぐ夜 召されし遺児の 証聞きたり 

 三井物産の社報は社員の動静が逐一報告されていて、今回小林儀八郎さんの足跡について全く未知であった私たち三人(お嬢さんをふくめて)を驚嘆せしめるものであった。その社報によると、上海支店から本店に帰り、さらにマニラ支店に赴任される迄の有様が次の様に記されていた。

1943.7.6  小林儀八郎(本店経理部勤務)昨日着任
1944.2.9  燃料部会計課長代理を命ず 石炭会計課長代理小林儀八郎
1944.5.17  マニラ支店会計課長代理を命ず(5月16日)
1944.5.32  マニラ支店勤務を命ず 広東支店勤務奥名修一(5月30日)
1944.8.22  小林儀八郎(マニラ支店会計課長代理)去13日赴任の途に就く
1944.9.28  奥名修一(マニラ支店勤務)、一昨日帰京
1944.10.4  小林儀八郎(マニラ支店会計課長代理)赴任の途次去月30日高雄着
1944.11.10  小林儀八郎(マニラ支店会計課長代理)去月9日着任
1944.12.29  奥名修一(マニラ支店勤務)、昨26日着任

 もちろん、社報は三井物産全社員の動静が記録されており、当方が今回の『国籍を天に置いて』発行の視点に則って、関心のあるものを抜き書きして整理してみたのが上表である。

 この足跡を見て二つのことに気づかされる。一つは小林儀八郎氏の人事の不自然さである。上海支店から本店経理部に戻ってきた儀八郎氏に用意されていたポストは本店の石炭会計課長代理であり、のちに拡充改組されたのであろう、燃料部会計課長代理であった。その辞令が出てわずか三ヵ月かそこそこでマニラ支店での同じ会計課長代理の辞令が出たことである。これが『国籍を天に置いて』で岩井穂積氏が書いておられる更迭人事であろう(同書111頁参照)。

 あと一つは、言うまでもなく、松本侑子氏が描くマニラ支店の奥名修一氏には先任上司の一人として小林儀八郎氏がいたことである。奥名氏は宇都宮商業から物産に入った。儀八郎氏は新潟商業から物産に入った。すでに数年前に本店の石炭部で席を並べていた間柄でもあった。ともに商業出身として親しみを覚えた両者に先輩・後輩としての交流がなかったとは言えない(※)。しかし、奥名氏は儀八郎氏より一足早く昭和20年1月17日に現地召集の結果戦死している。

 儀八郎氏がマニラ支店でどのような働きをし、現地召集をいつ受けたのか調べようとしたが、残念ながら社報は昭和20年のまさしく戦地そのままの事情と、物産そのものも戦後の財閥解体の中でまさに巨像傾くかのごとき様相を呈すのみでそれ以上は調べられなかった。

※松本侑子氏によると「戦前の旧三井物産は、商業学校、実業学校出身者を多く採用したが、幹部候補生というより、どちらかというと事務方が多かった。だが昭和11年に取締役会長をつとめていた井上治兵衛は商業学校を出てトップに登りつめている。修一は、日本最大の商社に職務をえている現実に若者の野心をもった。不平不満をもらさず「満足」すること、周囲の人々に「感謝」すること、たゆまず自分をみがいて「向上」することを、みずからに課した。英語を学び、クラシック音楽とテニスをたしなみ、海外勤務を志望して、有能な企業人への出世、本物の紳士への成熟を長い目でめざしていた。」『恋の蛍』107頁より引用。私たちはこの松本侑子氏が造型した修一氏の生き方に儀八郎氏の50数通の手紙を重ね合わせて読むことができる。)

隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。(申命記29・29)

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