葡萄棚 道行く人の 笑みこぼる |
今年もあちらこちらで葡萄棚が軒をはみ出しては、すでにはるか先の秋の収穫の季の到来を予告せんかのようである。たわわに実ったぶどうは、盛夏の時を過ごし、さらに熟していくことだろう。そして、その挙げ句には隣近所にもふるまわれる。自然の幸はこうして毎年葡萄棚を持たない我が家もお相伴にあずからせていただく。持ちつ持たれつの隣近所の方々との親しいお付き合いである。土曜日、共に集まる小さな集いで聖書(ローマ人への手紙13章)の輪読を行ったが、その時、一人の方が、次のみことばを読んでくださった。
愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(10節)
まことにその通りだと思った。そして、今しも、「ピン ポーン」と来客の知らせが鳴った。隣家の方だった。「桃を田舎(甲府)から送ってきましたから(お食べください)」とお裾分けをいただいた。ありがたいことだ。
さて、先ほどのみことばの前には律法とは何か、ローマ人への手紙の著者であるパウロの以下の文章がある。
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。(8節〜9節)
今まで13章は私にとって難解な章の一つであった。しかし、ちいさな交わりの中で一人の方が感銘を受けられた10節のみことばが、私の心の内にもストンと落ちてきた。昨日は市川に礼拝に出かけ、福音集会のメッセージを担当させていただいたが、最後の最後、土壇場で示されたのが「愛ですネ」という題名であった。私にとってローマ13章10節は導きになり、早速引用させていただいた。
それだけでなく、私の隣人、妻についつらく当たってしまう度量のなさに、今更ながら、このみことばを噛み締めさせられている。私の愛の実は自分では結べない。しかし、主なる神様を信じ従う時、結ばせていただけると確信している。主に頼っていきたい。秋の到来とともに熟するぶどうの実のようになれたらいいなあ。
愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(新約聖書 ローマ人への手紙13章10節)
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(新約聖書 ヨハネの福音書15章5節)
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