金糸梅 希望の光 元気得る |
このところ、トーゴーさん関係の本を毎日読んでいる。そのためにブログも足踏み状態を続けている。そして、本来は柏木義円、朝河貫一という二人の人物を追うことが目的であり、それぞれ三冊の本を精読した。現に今もキリスト者柏木義円さんの生き様を追うにふさわしい、膨大な『日記』『書簡』(県立図書館所蔵)を借りている。
ところが、既述の通り、たまたまお見かけした中軽井沢でのトーゴーさんが、機縁になって、東郷茂徳という人物にも関心を持ってしまった。全く予期しなかった人物の登場である。しかも、私の思索の中では大いに三者の間に共通点があるのではないかと思い始めた。それはひとえに彼らのうちに燃える祖国日本を愛する思いであり、そのために三者それぞれ立場は違うが、戦前の軍国主義、総動員体制、翼賛体制に抵抗していった点ではないかと思ったからだ。歴史の流れに翻弄されることなく、毅然として歩むために彼らが何を基軸にして生きたかは、「新しい戦前」(タモリ)と言われる今を生きる私たちにとっても必要とされていることではないかと思う。
試みにその三者のキリスト・イエスに対する思いをそれぞれにたぐってみた。先ずはもっとも遠いと思われる東郷茂徳に関する叙述である。これは重徳の孫に当たる茂彦さんが書かれた『祖父東郷茂徳の生涯』(文藝春秋1993年)からの引用(同書86頁)である。(なお、ついでながら書き足しておくと、私が見かけたと「思い込んでいる」トーゴーさんは双子であった。茂彦さんが兄で和彦さんが弟であり、私がテレビでお顔を知っていたのは和彦さんの方だったが・・・)
それから(引用者注:結婚以来)二十年余り、巣鴨の獄中でエディ宛に綴られた重徳の手紙に、二人の間に築かれた精神世界を垣間見ることが出来る。そこには、裁判や社会的な出来事だけではなく、キリスト教や愛、あるいは、文学に関する様々な記述が含まれていた。
ーー昨日あなたに書いたように、私の心の平安について心配をする必要はありません。なぜなら、私は、既に、キリスト教の愛を正確に理解しているからです。神と共に在って、神を通じてお互いに愛しあう!(日付不明 独文)
ーー近頃では、聖書も私にとてもいい影響を与えています。この愛の宗教を私は、すばらしいと感じています(同)。
シェークスピア、モリエール、ラシーヌ、ヴォルテール、ゲーテ、シラーなどの作品の一部を最近読んだこと、こうした古典は、「always tasteful, interesting, and stimulating(常に、趣きがあり、面白く、刺激的だ)」とも書いている(昭和二十四年四月二十四日付 英文)
とくにエディの差し入れたゲーテの本をうれしく読んだこと、できれば詩集もほしいのだが、と頼んでいる。
ーーゲーテは、あなたが差し入れてくれた本の中で、こう言っています。「人間にとって必要なものは何と僅かしかないのだろう。そして、その僅かなものを自分がどれほど必要としているかを感じることは、人間にとってどんなに嬉しいことであろうか」。どうか、いつまでも、健康で元気であって下さい。 愛するあなたのシゲ(二十四年四月十一日付 独文)
この一年余りのちに、東郷茂徳はA級戦犯として禁錮二十年の刑を受け、獄舎に囚われのまま病を得て、妻であるエディの看病を得ぬまま亡くなった。昭和二十五年七月二十三日のことであった。その悲しみぶりはすでに以下に記載した通りである。http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/07/blog-post_7.html
数奇な運命の下、未亡人であったドイツ人エディと結ばれたベルリンの日本大使館書記官であった東郷茂徳が、その後、開戦時と終戦時に外務大臣であったため、極東国際軍事裁判の対象者になり、挙げ句の果て、二人は私宅と獄舎とに引き離されてしまった。その五年間の獄中生活の間に、エディ夫人は夫である東郷重徳に何を伝えようとしたのだろう。また東郷茂徳はエディに何を語ろうとしていたのだろうか。短いながらも、上述の東郷茂徳のお孫さんの茂彦さんが記する叙述をとおしてしか知ることができないが、そこには互いが互いに生かされている摂理の神様に対する感謝があったのではないか。
一片の「金糸梅」の花びらでさえ、私に希望を与えてくれた。ましてや、みことばのもたらす「平安」はいかなる状況にあっても人に生きる希望を与えてくれたに違いない。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(新約聖書 ピリピ人への手紙4章6節〜7節)
0 件のコメント:
コメントを投稿