2023年7月31日月曜日

主に私は身を避ける

紺碧に 白の入道 輝けり
 ここは浅間山麓である。週末、知人の納骨の立ち会いを兼ねて、再び御代田のバイブルキャンプに出かけた。これで5月、6月、7月と出かけたことになるが、今回ばかりは、その涼しさに日頃の暑さに辟易している身に取り、大変な清涼剤であった。まさに「避暑地」である。

 もっとも避暑のためだけに、わざわざ時間をかけ、エネルギーを使い、山に登って行ったわけではない。避けどころを、主に求めて人々は全国各地から集われる。私もその中の一人であった。1990年から毎夏出かけている。30年余りの間に世代は着実に変わりつつある。

 今回、日曜の礼拝の後の福音集会でメッセージを取り次いでくださった方は、多分そのころはまだ十代に差し掛かろうとしておられらたのではなかろうか。その方は詩篇11篇を引用し、ヨブ記のみことばなどを次々紹介してくださった。ところで詩篇11篇は私にとり馴染みのある詩篇だった(と、思っていた)。その詩篇は以下のとおりである。

主に私は身を避ける。
どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。
「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。
それ、見よ。悪者どもが弓を張り、
弦に矢をつがえ、暗やみで、
心の直ぐな人を射ぬこうとしている。
拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」

主は、その聖座が宮にあり、
主は、その王座が天にある。

 1990年、教会を退会するさい、私たち夫婦に示されたのは、この聖句の中の「拠り所がこわされた」という感覚であった。だから教会を出た。そのことに偽りはない。しかし、この詩篇の文面からすると、詩篇を書いているダビデが四面楚歌にあるような形で、まわりの人から非難されたことばが「拠り所がこわされたら正しい者に何かできようか」というもっともらしい語りかけであった。それに正しく答えたダビデの信仰が、冒頭の「主に私は身を避ける。」であり、そのあとの「主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。」であることに気付かされた。

 もし、7月30日の礼拝でその方のメッセージを聞かなかったら、私の半可通の聖書理解(この場合は詩篇11篇がそれにあたるが)はそのままで終わったかもしれない。

 今回のキャンプを通して、また多くの人々とのお交わりをいただいた。それぞれ、メッセージとはまた違った照射の仕方で、そのお交わりを通して、自らの「自己中心」のあり方があぶりだされた。キャンプの良さは結局そこに尽きる。詩篇11篇4節のみことばを写す。

主は、その聖座が宮にあり、
主は、その王座が天にある。
その目は見通し、
そのまぶたは、人の子らを調べる。(旧約聖書 詩篇11篇)

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