凛と咲く 槿の花の 夏だより |
さて、過日より読み進めていた総頁数500頁に及ぶ『祖父東郷茂徳の生涯』(東郷茂彦著)をやっと斜め読みではあるが、全編目を通すことができた。その生涯に圧倒されて一言で紹介できない自分が今いる。せいぜい、この槿の花に代弁してもらうしかない。槿は韓国の国花だが、東郷茂徳は始め朴重徳と称した。祖先は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、強制的に連行されて来た優秀な陶工であったと言う。(ちなみに以下のトーゴーさんの日本記者クラブで語られた講演がある。題して「朝鮮半島の今を知る」と言う三年前の記録があるが、そこでも触れておられる。 https://www.youtube.com/watch?v=Nby_3UmsU_w&t=605 )
その彼が長ずるに及んで、東西文明の和を講じんとして外交官を志し、戦前日本の太平洋戦争開戦と終戦の二度にわたって外務大臣を務めた。それもあくまでも戦を止めようとして必死の努力をした結果であった。そして最後は心ならずも、極東国際軍事裁判で、勝者であるアメリカを中心とする連合軍に裁かれた。私ならずとも言いようのない無念さが残るのではないだろうか。
以下は東郷茂徳が獄中で遺した長詩と和歌を、『時代の一面(大戦外交の手記)』(東郷茂徳著中公文庫)所収の冒頭に掲げてあった、娘のいせさん推薦のものを転写した。
憂きことを 二とせ余り 牢屋にて 過し来りぬ 朝夕に 心を紊す 束縛の とみに多ければ 内わなる 魂こそは 大鳥の 大空の辺に 羽搏きて のぼり行くごと 勢ひの たけくあれど 旅人の 高き山根に 故郷を かえり見するごと 過ぎ行きし くさぐさのこと 且又は 来るべき世の すがたをも 思ひ浮べつ 春雨の 大地に入りて 諸草を 霑ほすがごと 我胸に 思ひの花を とりどりに 育て上げたり
夜な夜なに 眠れぬ時し ありとても 書きしるすべき 鉛筆も 物見るめがねも 夕な夕なに 持ち去られ 我辺になくに 夜の明けて後 そこはかに しるしたるぞこれ
殊にわれ 稚き時ゆ 東西の 文明のすがた 較べ見て そが調整の すべもがと 心ひろめつ これこそは わが生涯の 業なりと 思ひ来ぬれば とりわけて 此方面に つき多く 思ひを馳せぬ
人の子の 育てる時と 所とは いみじくもまた 運命を さししめすかな わが育ちしは 黒潮の めぐる薩摩潟 朝夕に 煙りたへざる 高千穂に 神代を偲びぬ 秋去れば 遠なる海ゆ 台風の 天地を動かし 春来れば 霞棚引く 海門に 海面を按ず 風物の 雄々しき中に 大目球 天を敬ひ 人を愛す てふ世の道を 示したる 大南洲の 威風こそ 身にはしみたり
天地の なりにし始め 人類の 起源に付て くさぐさの 議論はあるも とことわに 空に輝く 月や星 いみじくも 花や草木に さやかなる 進化の跡 誰れとてか 自然の奥に いと貴き ものを感ぜぬ 人とてやある
さればこそ 有史以来の 四千年 人類の 進歩のいとど 早くして 絢爛として 輝ける 機械文明 飛行機は 火星に迄も 飛びぬべく 原子弾こそ 人類を 地獄に迄も 苦しめむ 科学の進みは 人類の 心の進歩を 上へ走り 世に禍ひを 齎せし 基とはなれるも いまははや 止むなきやこれ
などか世の 人の運命の 奇しくして 其為す業の はかなしや 戦に勝てる 為ならで 戦をなくする 為の公事 なりと声高く のらせしに 暇もあらせず 第三次 世界戦争 不可避とぞ 叫びちらして お互に 相手の罪を 数へあげ 今度の戦こそ ボタン一つ 押してただちに 始まること と公言しつ 且つは又原子爆弾 黴きんと 使用禁止の 約束に かかはることなく 公然と 使用すべしと 説き立てて 戦さの瀬戸に 押て来し ものとぞ見ゆる
これもよし 時の動きと 且つは又 諸大国の 不可避的 状勢と 見るべきなれど 裁判の 目あてと呼びし 戦さの廃棄は これはそも 如何なりたる 又かかる 動きのさまに 司直者は 耳を掩ひてか 判決に いそしみ居るや たわごとの さても空しき 業なれや 時に折りに不図 われはなど ここにありやと いぶかしみ 世のしれごとを あざ笑ふ ことのあればこそ ああこれ 勝ちし国の 己らに 都合よかれの 業にして 神の目よりせる 正義のしるし 今はまた 何処にぞありや 思へ人々
世の人の 尊敬と信頼を 裏切りて 本務にいそしまず 敵国の 能力を無視し 古びたる 日露戦争の 惰性にて 進歩せる 戦術を 考ふる愚かさ 政治上の 欲望のみ 強く働き 民衆を 眩惑するに 巧みなり 戦さに敗けはせずと 公言せし 其無智と無責任は いみじくも 緒戦に酔ふて 自己の権勢を 固めんと 反抗する者は 府中宮中団結して 排除す すめらぎも 遂には 軍の云ふ所信じ難し とさえ仰せらる かかる軍部の 空疎な頭 自衛的権勢欲に、国の運命を 託せしことの 如何に不幸なりしよ
あな静か死生一如の坂越えて 春の野原に暫したたずむ
鉄窓に磨硝子あり家人の しのばむ月も見えがてにして
梅雨の日に為すこともなく暮らしつつ 思い出すことのさも多いかな
獄庭のヒマラヤ杉の下に生ふる あぢさいの花に梅雨ふりそそぐ
人の世は風に動ける波のごと 其わだつみの底は動かじ
まさに、この通りの人生であった。そして、この本書『時代の一面』なる手記は、昭和二十五年七月十八日、巣鴨拘置所に拘禁され、病重く米陸軍病院で入院加療中であった重徳を娘さんである伊勢さんがお見舞いしたおり、読んでおくように手渡されたノートブック二冊と数十枚の用紙に鉛筆でぎっしり書かれていたものであったと言う。そしてその五日後、七月二十三日に67歳7ヶ月で亡くなった。先ごろ日野原重明さんのお話をNHKの『声でつづる昭和人物史』で拝聴したが、日野原さんは『祖父東郷茂徳の生涯』251頁、341頁によると、東郷茂徳を往診した心臓医で、心電図で冠状動脈の異常を発見、何度か注射を打たれたということだ。その最後もみとられたのではないかと想像する。https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=1890_01_3873865
聖書には亡国の民が流す涙が諸所方々に記されている。ましてや獄中で神のみぞ知る思いで手記を記された東郷茂徳さんは、やはり主なる神様がみそなわしていてくださるお一人でないだろうか(その葬儀が神式で行われたものであったとしても)。奥様のエディーはオーソドックスなキリストを信ずる一人のドイツ人キリスト者であり、ご主人の重徳さんが伝統的な日本神道に帰依していることの上に父なる神様の御憐みを確信しておられたのではないだろうか。重徳さんがたびたび夫人に「あなたの宗教的信念を尊敬する」と書き、エディーさんはエディーさんで「主人は決してうそをつかない、天地神明に誓って仕事をなしている」と如何なる時にでも夫に信頼していたことが、お孫さんである東郷茂彦さんの著書の端々に描かれているからだ(なお、エディさんは若くしてドイツ人の建築家と死に分かれたが、その間には長女ウルズラと末娘ハイデをふくむ四人の女の子と一人の男子に恵まれていた)。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(新約聖書 マタイの福音書5章9節)
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