りりしくも 輝く琴の 音聞きたし |
「一つは箏曲家としての面である。16歳の時から75年間、その道を歩み、山田流の蘊奥を極め、多くの弟子や孫弟子を養成された。古曲を保存し伝授するとともに、「星の光」「老春」などの新曲を創作された。芸能人として最高の叙勲を受けられた。
次は国文学者としての面である。田藤兄は学校教育は受けなかったが、頭脳明晰、記憶の抜群の人で、国文漢籍の知識においても一家を成していた。その学問的成果は「山田流箏歌講話」「箏曲八葉集」などの著書にあらわれている。
第三は歌人としての面である。田藤兄は短歌を趣味として、三人の歌人たちの指導を次々に受けつつ、その道に精進し、数千首の歌を詠まれた。それらは同兄を知るための最も手近な資料である。
第四はキリスト者としての面である。田藤兄は15歳の時に受洗して以来、76年間信仰の道を歩み、東中野教会に転会してからでも51年以上教会生活をつづけられた。その間つまずいたり迷い出たりマンネリに陥ったすることなく、常に求道し研究し実践してこられた模範的キリスト者であった。このような持続的でしかも熱心な会員を与えられたことを私は神に感謝し、その祝福がご遺族をはじめ関係者と教会全体に及ぶことを祈るものである。」
さて、1884年(明治17年)生まれの、田藤氏は1975年(昭和50年)に召されるまで、上記の説明によると詠われた短歌は数千首に及ぶという。前回に続いて、最初に二句、
二葉教会の頃 と題するものから写す。
ヨハネ伝講義を聞けばわき出づる命の水につかれいやさる
(聖書研究会)
とはの光こころにしめてかへるさに空をあふげば星はまたたく
(同 前)
次に最晩年の短歌を写してみる。
1974年(昭和49年) 90歳
あけぼの翼はややにひろがりて清しき朝の大気みなぎる
(御題 朝)
み言葉をくちずさみをれば時として天使の声きこゆ心地す
(家にて)
ゆたにして紫都子と語る三時間調べしことを告げしよろこび
(紫都子とかたる)
みことばあり琴うたありてしみじみと聞くにかたりて心はみつる
(同 前)
肩のみか爪先までも暖かしなれが手なれの心づくしに
(誕生日に嫁道子より贈らる)
神の国と義とを求めば隠匿はやみて物質は順調にめぐらん
(聖書をよみて)
奉仕する心深めば今とてもパンと魚との奇蹟起らん
(マタイ伝6章)
身もたまも神殿の再建に打込みし古預言者の姿にうたる
(旧約をよみて)
現代の我らは心を神の宮となるまでいそしみせちに祈るも
(同 前)
梅見れば大倉山の梅園に妻と遊びし昔おもほゆ
(マンションの三階からのながめ)
老いぬれば教の親も教子も友垣となりかたるは楽し
(教子と語る)
洋和をつれて義雄とたき子とは箱根めざして朝戸出にして
(義雄一家旅立つ)
あしの湖の遊覧船にのらんとて驚きの声す洋和の電話
(同 前)
尺にあまるへちま七つはぶらさがり竹架もつるも重げに支ふ
(へちまの花)
ものみなの価あがるをわが庭のへちまはゆたにぶらさがりをり
(同 前)
君迎へし米のよはひのことほぎに信仰に生きし神の加護かも
(喜代子の君米寿を祝ふ)
九十年歩みし地上の旅をわりねむらせ給ふ再臨の日まで
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。(新約聖書 ヘブル人への手紙10章37〜38節)
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