2023年9月30日土曜日

待ち焦がれた「秋」、待ち焦がれた「画鋲」

秋よ来い 渇ける魂を 癒すため
 明日から10月、と言うのに、この暑さはいったい何なのだろう。ただ、観念は秋モードになり、すっかり心のうちを静かに問う季節になっていることはありがたいことだ。そんな中で今日は夕方、ずっと書かずに済ましていた家の前の看板(みことばを書くためと、キリスト者の友が東南の角地に位置する庭の植え込みを利用して設置してくれた)に、聖書のことばを久方ぶりに筆で認(したた)めた。このところ、散歩から帰るたびに、何も書かれていない看板の木目がいやに気になり、本来あるべき聖書のことばが、私の怠慢で記されていないことに心が傷んでいた。

 いつごろから書かなくなったか覚えていない。かれこれ4、5年掲げていない気がする。気になって、看板聖句は大体家庭集会のたびに書いていたので、そもそも家庭集会はいつごろ閉じられたのか、あれやこれやの資料を駆使して調べてみたら、2020年の2月に高齢のご婦人の召天を記念して家庭集会を持ったのが最後だった。1990年5月以来(※)、31年間続いた家庭集会は気がついたら、あっと言う間になくなっていた。コロナ禍が始まった時と軌を一(いつ)にしていることは人の思いを越える主なる神様がご計画された事柄であった。

 すると、少なくとも四年間、看板聖句は姿を消していたことになる。当時、通りすがりの友人から、よく「もう家庭集会はやめたのですか(信仰を捨てたのですか)」と言われたり、共産党シンパの方は看板聖句が出るたびに、呼び鈴を押しては、「(看板に書いてある)みことばの意味を説明してください」と玄関先に来られていた人だけに、「どうして書かないのですか」とも言われて、曖昧に答えたりしていた。それらの方もこの四年間のうちにすっかり諦められたようで申し訳ない思いが今もしている。明らかに私自身の信仰が萎(な)えてしまっていることに原因があった。

 その私がなぜ今日は奮い立って看板聖句を書く気になったかと言うと、今朝聖書を読んでいて、次のみことばに元気をいただいたからである。

真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエス・キリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。(新約聖書 ヨハネの手紙第二 3節)

 このことばは、ヨハネが夫人とその子どもたちに書いた手紙の文句だが、何度読んでも、私自身が持ち得ない真理と愛は、すべて父なる神と主イエス・キリストが用意していてくださるのだということにハッと思い至ったからである。

 現に、看板には四年間、使われずに放置していた画鋲が刺されたまま、5、6個残っていた(こども用の習字用紙に毛筆で書き、その2枚を貼り合わせるのに用いていた)。風雪のもとすっかり錆びてはいたが健在だった。それは私の怠慢をじっと我慢していてくださった神の愛のあらわれに他ならないと思わされた。早速、昼間の交わりで私の決心を知り、一声かけてくださった冒頭のキリスト者とは別の友に、この喜びをLINEで知らせたところ「おー。辛抱強い画鋲。鋲は鉄の兵隊ですね」と感想を寄こしてくださった。まことにそのとおりで、神が遣わされた兵隊を思うた。

※このことについてはブログのあちらこちらで触れているが、次のものなどその一つである。終わりまで読んでいただけると、その時の様子は少しはお分かり願えると思う。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/09/blog-post_28.html

2023年9月28日木曜日

ナイチンゲール語録

うろこ雲 海を描いて 彼岸花
 三日前に(9/25)珍しい光景に遭遇した。随分前に、と言っても9/19の迫田さんのブログhttps://www.sakota575.com/になるが、画面上で今年の秋の彼岸花の健在ぶりを拝見させていただいていた。

 その私が、いつものように古利根川の川縁を散歩しようとして、堤内地から堤防に上がろうとした時、その急斜面にたくさんの彼岸花が咲いているのに気づいた。ああ、彼岸花は(暑い夏が続いたにもかかわらず)正直に季節を知らしめてくれているのだなあと感謝の思いにさせられた瞬間であった。

 と同時に、目の前に広がる青い空、うろこ雲、夕方間近であったので東の空には月さえも見える景色に目を見張らされた。思わずiPhoneを構えた。家に帰ってその画面を見ると、緑の草々の上に海が広がっているように見える。海があろうはずがない。もちろん古利根川の川面が見えているのでもない。ただ秋の空が演出した一シーンだった。

 さて、過去3回にわたり紹介してきた、田中ひかるさんの著作『明治のナイチンゲール 大関和物語』で肝心要のことを抜かしてしまった。忘れないうちに付け足しておく。それはナイチンゲールについてだ。日本における最初の看護婦誕生のおり、大関和たちが教師アグネスが秋に来日する前に英語教師峰尾の指導のもとに最初に取り組んだのは、ナイチンゲールの『Notes on Nursing』(看護覚え書)の翻訳であった。峰尾は生徒に話す。

「ナイチンゲールはイギリスの看護婦です。クリミア戦争のとき、38人からなる篤志看護婦団を結成し、短期間のうちに野戦病院における死亡率を43パーセントから2パーセントにまで激減させることに成功しました。これによって看護婦の必要性を世に知らしめました。夜間、ランプを手に全長6キロもある野戦病院の病棟を巡回し、眠れない患者、苦しむ患者に寄り添う姿は、『ランプの貴婦人』『クリミアの天使』と呼ばれました」(同書76頁)

 そして以下は「ナイチンゲール語録」と言ってもいいものだ。

「あなた方は、自分が十分な仕事を成し遂げたときに、『女性にしてはお見事です』などと言われることを望んでいないであろう。ましてや『見事だけれども、やるべきではなかった 。なぜなら、それは女性にふさわしい仕事ではないからだ』と言われるからといって、仕事をすることをためらうこともないだろう。あなた方は、『女性にふさわしく』あろうとなかろうと、とにかく良い仕事をしたいと願っているのだ。『女性にしてはお見事です』と褒められたところで、その仕事が優れたものになるわけでもないし、男性の仕事とされていることを女性がしたからといって、その仕事の価値が下がるわけでもない。どうかあなた方はこうしたたわ言に耳を貸さず、誠心誠意、神に与えられた仕事を全うしてほしい。」(83〜84頁)

「(矢島揖子は言う。)看護ぞれ自体によって救える命もあれば、看護婦という職業を確立し、女性の経済的な自立を図ることで、間接的に救える命もあります。ナイチンゲールも、They're a lady, be independent. Stand up by your foot.と言っています。『女性よ自立しなさい。自分の足で立ちなさい。』」(91頁)

「看護婦は他人の噂をふれ歩くような人間であってはならない。作り話をしてはならない。受け持ちの病人に関して質問をする権限を持つ人以外から質問を受けても、何も答えてはならない。言うまでもないが、看護婦はあくまでも真面目でかつ正直でなければならない」(106頁)

「(白衣の天使は)花をまき散らしながら歩く者ではなく、人を健康へと導くために、人が忌み嫌う仕事を感謝されることなくやりこなす者」(122頁)

「Regardless to any work, it is only in the field is to be able to learn in practice.(どんな仕事をするにせよ、実際に学ぶことができるのは現場においてのみである)」(176頁)

「病院の第一の条件は、患者に害を与えないことです」(185頁)

 これらの断片的に記されている、ナイチンゲールの考え方は、読者である私にとっていずれもゆるがせにできないことばであった。そしてこの本において最後まで決着のつかない問題がナイチンゲールの本意をめぐって、大関和と鈴木雅との間で繰り返される。看護婦は献身・自己犠牲を旨とすべきかどうかという大問題であった。

「犠牲を払っているなどとは決して考えない、熱心な、明るい、活発な女性こそ、本当の看護婦といえるのです」「犠牲なき献身こそ真の奉仕である」(265頁)

 その後、25日には東京新聞の「本音のコラム」欄で、看護師の宮子あずさ氏は「裸の王様」と題して例の女性差別の原点がどこにあるかを明らかにしていた。翌日26日には、某自治体の市長選挙の立候補者の出馬動機を紹介する文中に「信条はナイチンゲールの『白衣の天使とは人々の苦悩を背負う者のことである』という言葉だ」があった。偶然とは言え、私にとって、もはやナイチンゲールは単なる偉人ではなくなった。今夏の苦しい日々の末、このような人々の存在に遅まきながら気づかせていただいたことに尽きない感謝を覚える。

 最後に蛇足ながら、二つの良書を紹介しておきたい。

『ナイチンゲール 看護覚え書 イラスト・図解 でよくわかる!』
                    (金井一薫編著 西東社)

『ナイティンゲール 看護覚え書 決定版 』
    (ヴィクター・スクレトコヴィッチ編 助川尚子訳 医学書院)

神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。・・・そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。(旧約聖書 創世記1章26節27節31節 2章1節2節)

2023年9月26日火曜日

大関和(おおぜき ちか)物語(下)

秋来る 文化の宝庫 図書館
 和は、娘「心」を亡くして傷心のままキリストを信じ切れないで、悶々と八年間を過ごす。そして、明治40年(1907年)のころのことだろうか、和は50歳になっていたが、困窮している人々のために炊き出しの奉仕の中で一人の人物「安田」と偶然出会うが、そこで意外な事実に直面する。途中からで失礼だが、著者田中ひかる氏の叙述を引用させていただく。(同書279〜281頁より)

「夏の猛暑の日、和は若い看護婦たちと一緒に、鶏肉とネギを加えたうどんを作り、大鍋ごと井戸水で冷やしてから、「冷やしうどん」として提供し、住民たちから喜ばれる。育ち盛りの子どもたちは何杯もおかわりをし、白衣にエプロン姿できびきびと働く看護婦たちに憧れのまなざしを向ける女の子たちもいた。

 和が額の汗をぬぐいながら辺りを見まわすと、安田がいつものように空き地の片隅に座り、食前の祈りを捧げている。以前に比べると、ずいぶんと痩せたようだ。顔色も悪い。近づいていき、「安田さん、どこかお悪いのではありませんか。私が付き添いますから、大きな病院で診察を受けませんか。すぐそこの慈恵医院が施療を行っています」と声をかけた。芝新網町の目と鼻の先にある慈恵医院は、創立以来、貧者への無償診療を続けていた。

 安田は、「自分の体のごどは自分が一番よぐわがってるよ。大丈夫。心配すんな」と言いながら、うどんを口にした。そのとき、弱い地震があった。すぐに収まったのだが、安田は落ち着かない様子だ。
「安田さん、意外と気が小さいのですね』
 和が軽口を叩くと、彼は少し躊躇(ためら)ってからこう言った。
「おらぁ明治29年の三陸地震のどぎ、大津波で家族をみんな亡ぐすたんだ。四人いだ子どもだづも全員亡ぐすたのさ。もう10年以上経づげっとも、地震がくっとあの日のごど思い出すておっかねぐなんだ。もうあんな思いは二度どすてぐね。みんな忘れでくて、遠ぐさ遠ぐさど歩いで、東京さ着いだのさ」

 和は言葉を失い、無精ひげに覆われた安田の横顔を見つめる。この人はいったいどんな思いで、この十数年を生きてきたのだろう。深い悲しみや埋められない喪失感を知っているからこそ、自分を気遣い、心の命日に声をかけてくれたのかもしれない。それなのに「娘のことには触れないでください」などと突っぱねてしまった。
「このごとを人さ話したのは、看護婦さんが初めてだど、話せるようになったつうごどがなあ。少すは悲すみが和らいでいるのかもしれねえなあ。家族さは申す訳ねぇげっとも」

 最後の方を独りごとのように言いながら安田がふり向くと、和が滂沱(ぼうだ)の涙をエプロンでぬぐっていた。この日、安田はうどんをほとんど残した。

 二週間後に芝新網町に炊き出しへ行くと、安田の姿がなかった。和が自宅を訪ねると、すっかりやせ細った安田が、せんべい布団にくるまっている。彼は自分が末期の胃癌であることを知っていた。和は、炊き出しの雑炊を食べさせようとしたが、もはや彼の体は受け付けなかった。

「おらは耶蘇教さ出会えでほんとによかったよ。天国で子どもだづさ会えるど思うど、死ぬのもおっかねぐねぇ」
「天国へはいつでも行けますよ。もう少しこちらにいてください」
和が安田の手を握る。
「いや、おらはもう十分生ぎだ。最期に看護婦さんさも会えだ。そろそろ天国さ行がせでもらう。看護婦さんの娘さんさ会ったら、『母ちゃんは、人のために一生懸命に働いでだよ』ど伝えるよ」

 安田が心に語りかける姿が目に浮かぶ。心が亡くなったばかりの頃、まわりから「心ちゃんは天国にいるから、いずれ再会できる」と言われても、まったく聞く耳を持てなかったが、今は安田と家族の再会を強く信じることができる。同様に、自分もいつか心に会えるような気がしてくる。

 この日から毎日、和は安田の看護に通う。雲一つない秋晴れの午後、安田は家族が待つ天国へと旅立った。」

 和の悲しみを癒すにふさわしい安田氏の最後の主にある証ではなかっただろうか。このあと和自身はさらに20数年生きる。そして公的には「大正12年9月1日の未曾有の大震災を経ましてから、兎角(とにかく)病気がちになりまして、ただ神の寵愛の中に静かに暮らしております」と昭和3年(1928年)に述べられていたが、四年後74歳で召されて行った。

 今年は時あたかも関東大震災から百年が経過したとして、様々な追悼記事を目にする。大関和たちはその関東大震災の中でも機敏よく負傷者を救助する。それはいかに歳を取ろうと若き時に身につけたトレインド・ナースとしての気概であったと思う。そしてその救護活動は吉原の娼妓たちへと向かい、これが看護婦大関和の最後の仕事であったという。文字通り、その生涯を捧げることになったその成果は、百年後、衛生思想の普及、衛生環境の整備とともに、トレインド・ナースは、今日看護となって女性だけでなく男性も従事する専門職になっている。

 振り返れば、ここ3、4年、百年前のコレラや赤痢という伝染病に置き換わり、猛威をふるう新型コロナに振り回された日々であった。この間、このコロナという感染病予防とその治療のために医療従事者の方々がその最前線でどのように戦っていてくださるかは想像に難くない。そのような時に、その原点に立ち返るべく、この骨太で実に行き届いた著作『明治のナイチンゲール 大関和物語』を江湖にお送りくださった著者に深甚なる感謝を捧げたい思いで一杯である。

『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。・・・・』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(新約聖書 マタイの福音書25章37節、40節)

2023年9月25日月曜日

大関和(おおぜき ちか)物語(中)

七人の こども戯る 秋日
 こどもの姿を見るのは楽しい。近寄って仲間に入れてもらいたくなる。大関和は終生こどもを愛した。そのような中で二人のこども(六郎と心)を置いて(母にまかせて)の看護婦への道、看護婦養成者としての道は患難と忍耐の日々だったにちがいない。そんな大関和の生涯を著者は等身大で描いてみせる。

 「等身大」とは何であろうか?私たち普通の人間が抱く感情・葛藤はこのような偉人の中にも存在すること(への共感)である。そもそも私が昨日のブログでナイチンゲールについて記した思い、特別視こそ、見当違いな見方であったと、この本を読んで思わされ、反省させられた。

 ナイチンゲールこそ、かのクリミア戦争の場にあって敵味方を問わず人々のいのちを守るために働いた人であった。そのナイチンゲールの到達点となったのが「トレインド・ナース」であった。それまで日本では「看病婦」こそ存在したが、それは卑しめられた職業であった、と言う。医療行為のすべてについてその技能を完全に習得した上で病人にあたる、そして医師と同等の立場で働く「トレインド・ナース」(看護婦)が育つことであった。

 そのために立ち上がったのが、数名のアメリカの宣教師、それを支えるアメリカのキリスト者たち、また日本のキリスト者であった。「耶蘇」と忌み嫌っていた家族の一員である大関和が、キリスト教に惹かれていったのは、二つあったと言う。一つは妾を容認する日本社会に対して、聖書の原則が一夫一婦制にあることの意義(※)、二つは讃美歌の存在であった。その彼女に看護婦の道備えをしたのが、和に洗礼を授けることになる牧師植村正久であり、アメリカ人のリディア・バラ、マリア・トゥルーの祈りであった。

 大関和にとって、家族以外に、生涯その心の中にあったのは、婚家先で過ごした四年間の間に、姑に命ぜられるまま、不毛の田んぼを一人前にするために、手伝ってくれた婚家先の夫の妾の子・綾、小作の娘マツの存在であった。その二人がある日突然いなくなった。

 自らの二人のこどもを何よりもたいせつにした大関和は、このように愛する綾が、またマツが家の借金の肩代わりに売られて、女郎の境涯に閉じ込められているにちがいないという何とも言えない哀憐の情を持ち続けたのであった。著者はその大関和をこのような心の内部から突き動かした事実を描いて行く。

 戊辰(ぼしん)戦争、日清戦争、日露戦争、関東大震災、コレラ、赤痢の流行、どれ一つとして、大関和にとって無関心であり得た出来事はなかった。そのような中で「トレインド・ナース」として結実していった歴史がたどられる。著者は、この一人の人間の手に余る事業をバランス感覚よく、彼女のライバルと言っても良い鈴木雅(昨日の絵の中央のアグネスの左側の女性)との協力関係をとおして描写して行く。そこには「シテ」と「ワキ」を思わせる微妙な関係が描写され、「トレインド・ナース」とは何かが具体的にわかる和と雅の対話として創作されている。

 最後に大関和と牧師植村正久について書かれているエピソードを紹介しておく。それは大関和が困難にさしかかるとき、必ずと言っていいほど、牧師のところに昼夜を問わず人力車を走らせては相談に行った事実である。そのことについて、身近にあった植村牧師の三女環が次のように記しているという。

「大関ちか女史は傑出した婦人であったが、よく泣かれた。繁々来られては堰(せき)を切って落とされる。すると大関さんを愛敬していた父は慰めるのか揶揄(からか)うのか分からぬ調子で『あなたはナイチンゲールなんでしょう。それじゃ宛然(えんぜん)『泣キチン蛙』ではないか』などといっていた」(同書110頁より)

 しかもこの大関和が最愛の娘「心」を亡くした時には、その悲しみのあまり、とうとう牧師の許を去って行く。しかし著者はその後の大関和の姿を描写することを忘れてはいない。それは明治29年の三陸地震の時、全家族を失った元漁師が行き倒れ寸前にクリスチャンに助けられ入信したが、炊き出しを受けざるを得ない境遇にあったとき、病を得て、大関和看護婦と出会う場面である。明日はその次第を同書から抜粋引用させていただく。

※今日の主題とは直接関係ないが、私は次の一人のご婦人が亡くなる前にこどもたちに残された遺言が一夫一婦制の真実を証しているのでないかと思う。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_23.html

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(新約聖書 マタイの福音書11章28節)

2023年9月24日日曜日

大関和(おおぜき ちか)物語(上)

六人の 白衣の天使 巣立つ秋
 やっと涼しくなった。今夏の暑さは正直参った。何をする気力もなく、そのためにテレビをいつもよりは見る時間が多くなった。そんな日々の間に、一週間ほど前、1963年に公開された『にっぽん昆虫記』の映画を鑑賞した。のっけから薄暗い土間が中心で、話される言葉は東北弁で私にはわかりづらかった。ただ主演の左幸子の演技に引きずられるようにして、とにかく全部観終えることができた。もっぱら、貧困と女性の虐げられた性を凝視させられた二時間であった。

 翌日、今度は『みとりし』という、2019年に公開された映画を観た。いずれ訪れるであろう死を真正面に取り扱っていて、正直目を背けたくなる内容だったが、この映画もまた、死と女性の存在を深く教えられる内容だった。それと並行するかのように、岸田首相の内閣改造にまつわる発言「女性ならではの感性や共感力も十分発揮していただきながら、仕事をしていただくことを期待したい」がいろんな方々から問題とされていた。しかし、果たして自分は無縁と言えるだろうかという思いが、実は私にはあった。

 果たせるかな、そんな日の次の日に、久しぶりに図書館に行った。そして何の気なしに書架の新蔵書棚を見ている時、この本『明治のナイチンゲール 大関和物語』(田中ひかる著 中央公論新社 2023年5月刊行)を見つけた。孫娘が看護師を志していることもあって、この手の本に無関心ではない。しかし、「ナイチンゲール」ということばにはひっかかった。何か、立派な看護婦さんの模範的な行為が描かれているのではないかという警戒心(?)であった。そんなものは読みたくないという私の「わがまま」があった。

 しかし、読んでみて驚いた。ここには連日観た映画の底辺を抉(えぐ)る「答え」が書かれていることはもちろんのこと、今もなお続く一国の首相自身も陥っている日本社会の陥穽(かんせい)を、一人の看護婦「大関和(おおぜき ちか)」の誕生の描写をとおして深く教えられ、考えさせられたからである。さしずめ、廃娼運動を始めた矢島揖子(やじま かじこ)のことばとして作中で語られているものなど、明治時代のこととは言え、今だに日本社会の根底にある病根を指し示す一つでないだろうか。

「公娼制度は遊郭の女たちだけの問題ではありません。金で女を買うことができる、それを政府が公認しているということが、この国の女性観に決定的な影響を与えているのです。富のある男が妾を囲うことが誉れとされるのも、女は金で買えるという考えがあるからです。」「政府は男には遊郭を用意しながら、女が不貞を働けば姦通罪に問うのですから、これ以上の不公平はありません」(同書118頁)

 このような日本社会の病根に対して、下野国黒羽藩(現栃木県大田原市)の家老の娘という出自を持つ大関和(おおぜき ちか)が、妾(めかけ)を良しとする婚家を抜け出て、二人の子どもを持つ身として、その後いかにして自立していくかが描かれていく。婚家先での大地主の嫁の地位を捨てた彼女は生活の糧を得るために、最初携わった仕事は「女中」であった。その彼女がめぐりめぐって、どのようにして日本で最初の「看護婦」になり、それだけでなく、たくさんの看護婦を養成したか、その歩みが著者の筆を通して、ていねいに追われていく。

 私はこの本を結局二回読まざるを得なかった。それは二回読んでも消えることのない感動の物語であったからである。そしてこの本の表紙絵(上掲のもの)こそ、そのなぞを一挙に明らかに示してくれる格好の絵でないかと思った。

 時は、今を去る、135年前、明治21年(1888年)の秋のことであった。桜井看護学校での一年目の座学、二年目の病院実習を終えての修了証書が卒業生六名に渡されたが、それを記念して、同校の寄宿舎の庭で撮られた写真がもとになったイラストである。この本の中心人物である大関和は同校の生徒として、正面に座っているスコットランドから来た教師アグネス(40代)を中心にして向かって右に座っている。その左には和が何かと頼りにした戦友とも言うべき鈴木雅が座っている。いずれも28歳、29歳で、この時それぞれ二人の子どもを持つシングルマザーであった、それ以外の四人はいずれも20歳前後の若き乙女たちであったが、その六人のうち三人が看護婦に、そして残りの三人は看護婦でありながら廃娼運動にかかわっていくのだ。

 職業としての看護婦が市民権を得る道と廃娼運動をとおし女性の真の解放を勝ち取る戦いは明治・大正・昭和の激動の時代の中で、相携えて進みゆく二つの働きであった。それが一枚の写真のナイチンゲール看護学校の制服を模した、「スタンドカラーの紺のロングドレスとその上に胸当てのある白いエプロンをかけ、動きやすい編み上げ靴を履いた」(同書98頁)日本初の看護婦誕生を記念すべき写真に盛り込まれていると私には思われてならないからである。そして、そのふたつの道は、大関和を、鈴木雅を終生終わることなく突き動かした動機であった。

主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。(旧約聖書 詩篇3篇1節〜3節)

2023年9月4日月曜日

その名は「犬蓼(イヌタデ)」

イヌタデの 盛んなる秋 訪れる  
 8月初めに、帰省して雑草を刈り取ったはずなのに、もう「どくだみ」も「すすき」も芽を出していた。根っこから引き抜かないのでやむを得ない。ところが一昨日、帰省したら新たな雑草が、しっかりと根を張って勢い盛んであった。私はすっかり頭を抱え込んだ。そのために今回は同行しなかった家内に、新たな雑草があらわれたとばかり、その名前は何だとLINEを使ってこの写真を送った。

 果たせるかな、家内は「イヌタデ」だと宣った(※)。それにしてもなかなか可愛い葉っぱだなと、写真を見て思っていたが、この雑草めとばかり限られた時間の中で「イヌタデ」を根っこから片っ端に引っこ抜いて、やれやれ一安心と思いながら、こちらに昨日遅く帰ってきた。

 家に帰って、ネットでさまざまなことを調べるうちに、「イヌタデ」は「アカマンマ」とも言われ、先端に赤い果実を咲かせ、秋の季語であることを知った。途端に我が行為の愚かさを想うた。考えてみれば、確かにこれまでは気がつかなかったが、秋の訪れとともに「イヌタデ」は芽を出すべき草花として、今や人類が不倶戴天の敵と称する「沸騰化」の夏にもかかわらず、ちゃんと育って、今地上に姿を現したのだ、むしろ感謝こそすれ、何と短見な行為よと我ながら恥ずかしくなった。

 かの憎き「どくだみ」についても、稲畑汀子に

十薬をはびこらせたる庭に住む 

を初めとして様々な俳人の方が、いろんな観点から俳句を詠まれていることを知った。

 遅まきながら、私も風流を解したいなと思わされた。

※家内の言 そのときパッと名前が出てきた。父のおかげだと、小さい頃お父さんに連れられて草花を愛でたことを懐かしんだ。そして、これも牧野富太郎盛んなりしころの小学校教員であった父の姿であったとも言う。

神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。(新約聖書 1テモテ4章4節)