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二年越しのカルガモ君 2025.7.7(※) |
そんな私が筆を取ったのは、他でもない、「運のいい」チェーンに再び出会うことになったからである。6月11日に「妻の失くした『チェーン』に寄せて」という題で投稿したばかりだが、またしても、妻がチェーンを失くした。どこでどうなったか覚えがないと言う(これも短期記憶ができない彼女にとってはやむを得ないことなのだが)。前回とほぼ同じシチュエーションだった。礼拝を終えて二人で自転車で帰って来たが、玄関についても中々家の中に入って来ない。どうしたのかと思ったら「チェーン」がないと悄(しょ)げているのだ。
またかと思いながら、やむを得ず、今回は私一人で帰り道をたどりながら探した。元々、帰り道は私の用事に妻までも付き合わせた負い目も私にはあった。しかもインクカートリッジを求めて、文房具店二軒(駅の東口のペンヤというお店と地下道を潜り抜けての駅西口の光文堂というディスカウントストア)を訪ねたが、どちらの店も日曜日ゆえに開いていず、結局足を棒に振るばかりで、ついていないことこの上もなかった。その上での「チェーン」紛失である。
チェーンは図書館の駐車場で外して、家まで乗って来たのだから、その間のどこかにあるはずだ。妻は前回もそうだったが、「誰かが外して、それだから無いのではないか」と言う。もとより、そんなはずはない。どこでどうなったかわからないのだから、どうせ見つからないだろう。その場合は100円ショップで買い求めてやろうと、覚悟を決め、暑い盛りではあったが、図書館まで戻り駐車したあたりを念入りに探したが、果たして、「チェーン」はなかった。やはり無理だわいという思いに支配されていた。
ところが、何と図書館から次の訪問先であるペンヤさん(あいにく休みのお店だったが)に向かったところ、お店の前の道路の真ん中に堂々と「チェーン」が「寝っ転がって」いた。まさか、こんな風にして見つかるとは我ながら不思議な思いがした。もはやわざわざ線路を踏み越えて西口の100円ショップまで行かなくっていいし、その上、最近開店したばかりのCOOPのお店が近くにあるので買い物も出来るしで、途端に心が軽く、陽気になった。その時、二度も持ち主に落とされてしまった「チェーン」が、またしても私に見つけられたことを思わずにはいられなかった。
ああ、これぞ「運のいい」チェーンそのものだなあーと思い至った(持ち主の妻の不注意により落とされたのだが)。先ごろの鶴保氏の無責任な発言「運のいいことに能登地震があった」は、あまりにも当を得ていず、瞬間彼が何を言おうとしたのか理解できなかったが、こういう失くなったチェーンに二度まで出会えた私の経験こそ「運のいい」と言うのだと思い、改めて鶴保氏の失言の重さを噛みしめざるを得なかった。それにしても政治家がいつの間に、こんなふうに劣化してしまったのか悲しい。他者の痛みに対する想像力がまったく欠けている政治家があまりにも多いのではないだろうか。
もっとも、主なる神様は、たとえその時は自分にとっては運が悪く思えても、そうとは限らないともおっしゃっている。運・不運に関する人間の価値観を越えた、主なる神様の深い愛(人のわがままな罪の身代わりに十字架に身をささげられたイエス様の愛)が存在するからである。その愛を鶴保氏自身にも知っていただきたい思いがする。今回の彼の心ならぬ言葉であっても、同氏が「悔い改め」の心さえお持ちになるなら、新しく生きる、それこそ「運のいい」希望の道は用意されていると思うからである。
この運のいい妻の「チエーン」が今度こそこちらの不注意で失くなりませんように。夫としても十分注意していきたい。
※今年も散歩のたびにカルガモ君の動向に注意しているが、昨年の今頃は水田を利用して子育てをしている様をゆっくり観察したが、今年は水田に三羽のカルガモを時たま見かけただけで、このように水田から上がって道路にいるカルガモは珍しいので撮影したが、あらぬ方向に直ぐ飛んでいってしまい、見失ってしまった。一時、橋の下が子育ての場所かと思ったが、そうでもなさそうだ。
主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。ーー主の御告げ。ーー天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(旧約聖書 イザヤ書55:6〜9)