2025年12月30日火曜日

小学校教育の重要さ

写生大会参加 昭和26年(1951年)彦根市護国神社前(※1)
 前回、同郷の誼(よしみ)である妻との会話を話題にしたが、この機会にふとしたことを75年ぶりに思い出した。それは高宮小学校一年生の時の担任の先生が二年生の時持ち上がらず(普通は一年、二年と持ち上がるのが通例であるのに、その先生は何と妻の入学する予定の隣の町の甲良東小学校へと転勤して行ったのだが)、そのために別の先生に変わったことである。その時の漠然とした不安を思い出したのだ。しかし、それが束の間に終わったことも同時に思い出した。いや逆に私はその新たに担任となった先生に二年どころか三年、四年と都合三年間受け持ってもらって、今にして思うが、終生の私の恩師となった。その先生とは森千恵子先生であった。

 母は一人息子の私を何とか一人前の人間として養育したいと考えていたのだろう。情操教育の一つとして絵画を選び習わせた(母は音楽がからきし駄目だったので、絵なら自分も何とか相手できるのでないかと考えて)。小学校に入る直前だと思うが、絵の先生のもとへ習いにやらせた。そこで初めて与えられた題材は高宮神社の境内の「森」を描くことであった。目の前に見える森の緑、一面緑一色の森、土や樹木の茶色を前にして私は一瞬どのように表現するか困った、しかしそれ以上に表現する楽しさに埋没していった記憶がある。そして、私が不安を抱いた二年生の担任が何とその森先生であった。

 森先生は私にとって名伯楽であった。二年生から四年生の間、私はこの先生の図工教室に放課後になると入り浸り、クレヨンではあるが、絵を一心不乱、無心に描いた(※2)。当時、郡展、県展とあり、その先、全国規模の絵の展覧会があったが、いずれも突破して入賞した。アンデルセンの童話をもとに、アヒルの絵や近くの牛小屋にいる牛の姿を描いてはそれぞれ入賞し、当時の小学校学年雑誌の後ろにもその作品が載せられたことがある。頂点は四年生の時、森永母の日を記念する展覧会で金賞をいただいたことだ。母が台所で井戸のつるべから水を汲み大根を洗っているシーンを描いた作品である(※3)。この時、その森先生と一緒に作品を送る荷造りを済ませたことは昨日の如くしっかり覚えている。

 この期間、母は教育熱心で、絵だけでなく、当時盛んに奨励されていた、「研究発表」にも私を駆り立てた。柿の種類ごとに異なる生育を調べる研究であった。この研究も県レベルまで行った。それやこれやで昔はその表彰式が全校集会で行われるが、その都度私の名前が呼ばれては褒美をもらうのであり、副賞が素晴らしかった。メダルはもちろんのこと本立てなどがあった。当然、皆に羨ましがられた。「ひいき」「ひいき」と同級生にも言われて、特に口さがない父兄からの声には正直参った。確かにその面があったからである。そのような中で母と森先生はそれぞれ、私を支えてくれた。母は生身の人間として様々な思いを私にぶつけてきたが、森先生はそんな母を上手に相手しながら、私の「人格」を擁護して感情的にならず導いてくださった。後年、母が亡くなり大学受験に失敗した私は、八百屋さんの店頭で、買い物かごをさげ、決して先生には見せたくなかった惨めな自分の姿を曝け出しながら、森先生と小学校卒業以来6、7年ぶりにお会いし、短い会話を交わさせていただいた。この時が先生との生前の最後の別れとなった。

 そのような私も五年六年と担任も森先生から別の先生に代わるだけでなく、私自身がそれまでの喜びをもって無我夢中で描いた絵から、何としても上手に描きたいという思いが高じてきたり、また新たな転校生がやってきて彼の描く宇宙人を思わせる空想画に太刀打ちができなくなった。ちょうどクレヨンから絵の具への転換時期が重なり、私はもはや絵を描かなくなった。辛うじて小学校卒業のおり、教頭先生が書いてくださった色紙の「浩さんは将来絵描きになりますか、それとも科学者になりますか」という命題が残るのみであった。

 私は絵の世界は無理、科学者の世界ならコツコツと努力すれば可能なのではないかと考え、中学、高校と一路その方面に舵を切り変えた。振り返ってみると教頭先生の過分な餞(はなむけ)の言葉はそれ以後の私の人生の指針になった思いがする。

 先ごろ東京新聞朝刊の12月9日の記事に「小学校教員離れが加速」というショッキングなニュースが報じられていた。日本政治の右傾化が急速に進む中、他方で子どもたちの未来の可能性を切り開く先生のなり手がいないというこの矛盾も看過できないと思う。私の五年六年の担任の先生は、お身体が悪かったこともあったのだろう、自由放任のスタイルで教室では生徒に学校放送を聞かせて、自習が多く、よく級長の私に同級生の勉強の様子を見るようにという指図があったことを思い出す。そのような中でも世の風潮は「再軍備反対」「教え子を二度と戦場に送るな」「ああ、原爆ゆるすまじ」と校外の声は自我意識の芽生えとともにその後の私の確かな判断力の指針であった。これは戦後民主主義教育運動の成果であったかもしれない。

※1 写生大会参加のため高宮小学校の派遣チーム(?)四年生から一年生になる混成集団。森先生は画面中央にいる先生。筆者は画面右端の少年。

※2 その図画工作室で私は画板に向かっていたが、疲れると床面に寝っ転がったりして、森先生のところに押しかけては、言い寄ってくる男先生の姿などを、自然に見聞きする中で、大人の心の機微にも触れざるを得なかった。もちろん森先生は無心に描いている少年の心にどのようなことが起こっているかはご存知なかったと思うが・・・。私にとってはその図画工作の部屋は密かな人生の学舎(まなびや)でもあった。

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_23.html
大根を洗うシーンも描いたが難しく、何個かの試作の末、このような絵になった。

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(旧約聖書 箴言22章6節)

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