2009年11月10日火曜日

地下鉄に乗り合わせた人たちの人生


 先週の11月6日(土)に各紙とも地下鉄サリン事件でサリンを散布した豊田・広瀬被告の死刑が確定したニュースを報じていた。東京新聞は論説委員の署名入りの解説記事を載せた。いかに重要なことであるかがわかる。その姿勢は他の各紙が無署名であっただけに印象に残った。

 内容は、二人の被告がいずれも高温超伝導研究や、素粒子研究に携わり始めた研究者であるのに、なぜオウムに走ったか、また今どのような思いでいるかを語り、「麻原死刑囚の弟子にならなければ二人は科学技術の発展に貢献する仕事を続けていたはずだ。地下鉄に乗り合わせた人たちの人生。そして自分たちの人生も、二人はサリンの袋と同時に突き破ってしまった。」と結んでいた。

 他紙も大なり小なり同じような内容であった。一方日経は案外簡単な記事であったが、「履歴書」がノーベル賞を受賞した益川さんの話であっただけに、人生におけるコントラストのちがいを思わざるを得なかった。その他では朝日の報道に一工夫を感じた。豊田被告のもとに通う、大学の先生である伊東乾氏のことに触れていたからである。

 それによると同氏は被告の同級生であり、自身のゼミ生をせっせとその接見に行かせており、再発防止に取り組んでいるということだった。伊東氏は豊田被告と大学の同期で、ともにペアーで実験をした仲間であった。私が知らなかっただけで『さよなら、サイレント・ネイビー(地下鉄に乗った同級生)』の本を著しておられた。早速図書館から借りて大急ぎで読みすすめた。

 3年前の11月21日の奥付きのあるこの本の願いは最高裁による終身刑判決である。それから3年後、結局伊東氏はじめとする方々の願いは届かなかった。伊東氏は単に豊田氏の命乞いのためにこの本を物しているのではない。当の豊田氏自身が寡黙で死刑を甘受するのは当然としているからである。だとすれば、何が伊東氏をしてこのようにこの本を書かせ、今も自身のゼミ生を日参させるのか。

 伊東氏も豊田氏も素粒子物理を目ざした。しかし「素粒子物理は最高の物理学であるというドグマは、私たちの世代の純粋な科学少年たちをマインドコントロールした。だが、その背景は東西冷戦の核兵器開発競争にほかならなかった」(同書200頁)ことに気付く、その上、結局彼らが属した学部、修士課程、博士課程と学びすすめる中で「本質」をつかもうとしても大学の制度の与えるものとギャップがあったことが分析される。豊田氏と伊東氏はともに机を並べ、どちらかというと豊田氏は学科内でも最優秀の学生であった。その彼が博士課程に進む段階でオウムに「拉致」されたという。なぜ「拉致」と言えるのか、また今後この悲惨な地下鉄サリンという事件は繰り返されることがないのか、伊東氏は親友ともいうべき豊田氏の過ちを彼個人の過ちにしないためにも国家全体の検証が必要と考える。

罪を憎んで人を憎まずと言う。だが、私は「オウム」という単語が、多くの普通の人を冷酷な批評家にするのを見てきた。「オウムなんか全員、即刻死刑で当然」といった乱暴なもの言いもたくさん聞いた。実際、豊田が犯した罪は大変重い。カルトの犯罪集団を生ぬるく許すつもりもない。だからこそ、きちんと罪は償われねばならないと思う。私は教団時代の豊田を知らない。実行の瞬間も、いまだに想像することができない。それに近づこうとして乗り込んだ地下鉄だったけれど、やっぱり、いま罪を償おうとしている豊田は、20年前とまったく変わらない、私の大切な友だちだ。

 小さな分岐点がポイントを逆に切り替えていたら、二人の立場は逆だったろう。そして、いまもそのまま、小さな分岐点が私たちの社会に根強く残っている。豊田は私で、私は豊田だ。東大に助教授として招聘が決まったとき、豊田のお母さんはYシャツの生地と仕立券を送ってくださった。それから7年がたった。いまだにYシャツは仕立てられない。」
(同書332頁より)

 伊東氏は戦前の日本の国家体制においてもマインドコントロールは行なわれた。またこの本を物されている2006年のライブドア事件もそうでないかと言う。確かにサイレント・ネービーという言葉があり、それは大英帝国海軍の大航海時代から帝国主義までは通じたかもしれないが、今日それは死語にしなければならない。最高裁のかつてのメンバーであり、今もご高齢の身でご健在の団藤重光氏にも協力を得ながら根気強く事件再発防止のための提言を各所で繰り返しているようだ。

一連のオウム事件から10年以上の月日が流れ、おぞましい印象ばかりが残って、具体的な記憶が風化している今日こそ、過ちを経験した人間自身からの「引き返せ、取り返しのつくうちに」という言葉が、もっと広い層の「わたくしたち」みんなに、もっと形を変えて、もっと言葉を変えて、つねに伝えられてゆくべきだ。それらを確実に生かし、犯罪を防止してゆかねばならないだろう。

 いま多くのオウム事犯は最高裁判所の判断を待つ状態にある。最高裁で問われるのは、極言するなら、憲法に照らして判決の正当性がゆるぎないものであるかという一点である。だから、いま必要なのは、本書で示してきたこと、そのすべてを「憲法解釈の問題」として、厳密に翻案して、法廷で展開することなのだ。

 よく聞かれたい、豊田の弁護団をはじめとするあらゆる弁護士、検事、そしてあらゆる法曹とりわけ最高裁判所第二小法廷の全判事を含む裁判官諸兄姉よ。現行の枠組みの中で、拉致=出家の現場を目撃した私の証言者、その後10年以上を積み上げてきた、問題の所在を示す科学的な根拠を、再発防止のために生かすことができる「憲法解釈の問題」として、正面から論を立てていただけないだろうか。そして、全身全霊をもって、その立証に取り組んでいただきたいのだ。法律のプロフェッショナルでない多くの読者の方々も、自分の問題として一過性の激情に駆られることなく、落ち着いて考えていただきたい。二度と同じ過ちを繰り返さないために、実用に直結する智慧を導き出すこと。これこそ、日本の司法がテロの渦巻く21世紀の国際社会に貢献できる、真に価値ある叡智に他ならない。それは、憲法に照らして最高裁が下す、明確な「最高裁判例」として未来に受け継がれてゆかねばならないものだ。

 未来は決して、裁判官や検事、弁護士だけのものではない。私たち一人一人が選び取るものでなければならない。あなたのいる「いま此処」その地点から、何をすることができるのか。それを慎重に考えようではないか。それは果断に実行に移されなければ、なんの意味もない。そのために、無言のうちに事態を繰り返す「サイレント・ネイビー」の、一見「潔い」姿勢にも、私たちはもうひとつの別れを告げる必要があると思うのだ。黙って責任を取り、あとに同じ過ちを繰り返させるという、「義挙」と誤解される潔い沈黙への別れを。だから私は伝えたいと思うのだ。

 さよなら、サイレント・ネイビー。」(同書344頁以下の抜粋)

 残念ながらこの著者の願いは最高裁には届かなかった。しかし、この本の読者は伊東氏の言を通して真剣にこのことを考え続けることだろう。風化しそうな事件に、そもそも私の耳目をそばだてさせたのは、東京新聞の論説委員の記事であった。それを通して他紙を眺める中でこの伊東氏の著書も知ることができた。それは私自身物理学の入り口にも立てなかった者であるが、その「本質」を理解したいという豊田氏伊東氏また益川氏と共通の願いをかつて持ったことがあるからである。

 伊東氏は豊田氏の真の友となろうとしている。豊田氏にその愛は十分通じているだろう。そして豊田氏は自分の手で人を殺めた己が罪をはっきり悔い改めておられる。それが法廷での他の被告と一線を画した寡黙さにあるという。豊田氏は法廷でいちはやく麻原氏に失望したという。それは真理に殉ずる姿勢のない教祖であったからだという。豊田氏が願ったのは「救済」であったと言う。

 ひとつの事件の背後にどうしようもない人間の罪とそこからの脱却を求めて歩んだ人間の悲劇が垣間見える。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。(新約聖書 ヨハネ10・11~12)
神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7・10)


(写真はチェリーセージ)

2009年11月9日月曜日

『塩狩峠』から


 先週の土曜日、ガン末期の状態で苦しむ畏友Aさんを見舞った。枕元には三浦綾子さんの『氷点』が置かれていた。上巻を読み終え、下巻に移るということ だった。その梗概を彼が私に話してくれた。すでに余命宣告を受けて一年経とうとしている。人生の晩年にイエス・キリストの福音に接し、信仰をいただき、今 またこうして枕元に『氷点』をひもとく幸せを語られた。そしてわが人生には「高慢」しかなかったが、聖書は唯一「へりくだり」の主イエス様を伝えてくれたと喜んで語られた。私もまた福音に接し、彼女の作品『塩狩峠』に深く感動した当時のこと、今から37年前にこの書物を手にしたことを思い出していた。

 2005年4月、痛ましい列車脱線事故が起きた。その当時従兄も某鉄道会社の責任を負っていた。いつもとちがい他人事に思えなかった。ために新聞初め多くのジャーナリストの見る目と一線を画しながら事態を眺める自分がいた。それから四年足らずJR西日本の事故調査に関する姿勢が次々明らかにされている。多くの鉄道マンは今の事態をどのように見ているのであろうか。以下小説『塩狩峠』を抜書きさせていただく

 塩狩峠はいま、若葉の清々しい季節だった。両側の原始林が、線路に迫るように盛り上がっている。タンポポがあたり一面咲きむれている。汗ばむほどの日ざしの下に、吉川とふじ子は、遠くつづく線路の上に立って彼方をじっと眺めた。かなりの急勾配だ。ここを離脱した客車が暴走したのかと、いく度も聞いた当時の状況を思いながら吉川は言った。

「ふじ子、大丈夫か。事故現場までは相当あるよ」

 ふじ子はかすかに笑って、しっかりとうなずいた。その胸に、真っ白な雪柳の花束を抱きかかえている。ふじ子の病室の窓から眺めて、信夫がいく度か言ったことがある。

「雪柳って、ふじ子さんみたいだ。清らかで、明るくて」

 そのふじ子の庭の雪柳だった。

 ふじ子はひと足ひと足線路を歩き始めた。どこかで藪うぐいすがとぎれて啼いた。最初信夫の死を聞いた時、ふじ子は驚きのあまり、自失した者のようになった。ふじ子は改札口で、たしかに信夫を見たと思った。信夫はふじ子にとって、単なる死んだ存在ではなかった。失神から覚めた時、ふじ子は自分でもふしぎなくらい、いつもの自分に戻っていた。大きな石が落ちたようなあの屋根の音は、まさしく信夫の死んだ時刻に起きたふしぎな音だった。改札口で見た信夫と言い、あの大きな音と言い、やはりふじ子は、信夫が自分のもとに戻ってきたとしか思えなかった。そして、そう思うことで、ふじ子は深く慰められた。
 ふじ子は、ふだん信夫が語っていた言葉を思った。

「ふじ子さん、薪は一本より二本のほうがよく燃えるでしょう。ぼくたちも、信仰の火を燃やすために一緒になるんですよ」
「ぼくは毎日を神と人のために生きたいと思う。いつまでも生きたいのは無論だが、いついかなる瞬間に命を召されても、喜んで死んでいけるようになりたいと思いますね」
「神のなさることは、常にその人に最もよいことなのですよ」

 いまふじ子は、思い出す言葉のひとつひとつが、大きな重みを持って胸に迫るのを、あらためて感じた。それは信夫の命そのままの重さであった。

 ふじ子は立ちどまった。このレールの上をずるずると客車が逆に走り始めた時、この地点に彼はまだ生きていたのだと思った。そう思うと言いようのない気持ちだった。だが彼は、自分の命と引き代えに多くの命を救ったのだ。単に肉体のみならず、多くの魂をも救ったのだ。いま、旭川・札幌において、信仰ののろしが赤々とあがり、教会に緊張の気がみなぎっている。自分もまた信仰を強められ、新たにされたとふじ子は思った。ふじ子の佇んでいる線路の傍に、澄んだ水が五月の陽に光り、うす紫のかたくりの花が、少し向こうの木陰に咲きむれている。

 ふじ子はそっと、帯の間に大切に持って来た菊の手紙に手をふれた。信夫の母親は、本郷の家をたたんで、大阪の待子の家に去った。大阪は菊のふるさとでもある。

「ふじ子さん。お手紙を拝見いたしまして、たいそう安心をいたしました。あなたが、信夫の生きたかったように、信夫の命を受けついで生きるとおっしゃったお言葉を、ありがたくありがたく感謝いたします。信夫は幼い時からキリスト教が嫌いでございました。東京を出る時も、まだキリストのことを知りませんでした。これはすべて、わたくしの不徳のいたすところでございます。ふじ子さんの純真な信仰と真実が、信夫を願いにまさる立派な信者に育ててくださったのです。
 ふじ子さん、信夫の死は母親としても悲しゅうございます。けれどもまた、こんなにうれしいことはございません。この世の人は、やがて、誰も彼も死んで参ります。しかしその多くの死の中で、信夫の死ほど祝福された死は、少ないのではないでしょうか。ふじ子さん、このように信夫を導いてくださった神さまに、心から感謝いたしましょうね・・・・・」

 暗記するほど読んだこの手紙を、ふじ子は信夫の逝った地点で読みたいと思って、持って来たのだった。
 郭公の啼く声が近くでした。郭公が低く飛んで枝を移った。再びふじ子は歩き出した。いたどりのまだ柔らかい葉が、風にかすかに揺れている。

(信夫さん、わたしは一生、信夫さんの妻です)

 ふじ子は、自分が信夫の妻であることが誇らしかった。
 吉川は、五十メートルほど先を行くふじ子の後から、ゆっくりとついて行った。

(かわいそうな奴)

 不具に生まれ、その間長い間闘病し、奇跡的にその病気に打ち克ち、結婚が決まった喜びも束の間、結納が入る当日に信夫を失ってしまったのだ。

(何というむごい運命だろう)

 だが、そうは思いながらも、吉川はふじ子が、自分よりずっとほんとうのしあわせをつかんだ人間のようにも思われた。「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん」その聖書の言葉が、吉川の胸に浮かんだ。ふじ子が立ちどまると、吉川も立ちどまった。立ちどまって何を考えているのだろう。吉川はそう思う。ふじ子がまた歩き始めた。歩く度に足を引き、肩が上がり下がりする。その肩の陰から、雪柳の白が輝くように見えかくれした。やがて向こうに、大きなカーブが見えた。その手前に、白木の柱が立っている。大方受難現場の標であろう。ふじ子が立ちどまり、雪柳の白い束を線路の上におくのが見えた。が、次の瞬間、ふじ子がガバと線路に打ち伏した。吉川は思わず立ちどまった。吉川の目に、ふじ子の姿と雪柳の白が、涙でうるんでひとつになった。と、胸を突き刺すようなふじ子の泣き声が吉川の耳を打った。

 塩狩峠は、雲ひとつない明るいまひるだった。

(写真は彦根城大手門橋から眺めた風景。37年前の今日私どもに一人の男の子がこの城下の病院、ちょうど道路を走っているバスの奥にある病院で誕生した。今はこの病院も移転してない。2月撮影。)

2009年11月8日日曜日

父は栄光を受ける 


「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネ15・8)

 私たちはどのようにすれば神の栄光を輝かすことができるであろうか。それは神の栄光を増そうとするのでもなく、栄光を新しく加えようというのでもない。ただ神の栄光が、私たちの中に、そして私たちをとおして世に現われることによって、光り輝くようにすればよいのである。多くの実を結んだぶどう畑の農夫は多くの称賛を受ける。というのは、それは農夫の技術と手入れのよいことを物語っているからである。それと同じように、弟子が豊かな実を結べば、父なる神はあがめられる。人と天使との前で神の恵みと力との証拠が示されて、神の栄光はその弟子をとおして輝くからである。

 ペテロが、「奉仕する者は、神から賜る力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである」(1ペテロ4・11)と書いていることはこのことを意味するのである。人が神だけから来る力によって働き、奉仕する時、神はすべての栄光を受けられる。私たちがすべての力が神だけから来たことを告白するとき、その働きをする人も、これを見る人も等しく神の栄光を輝かすことができる。なぜなら、それをされたのは神ご自身だからである。人は畑になっている果実を見て、栽培人の腕前を判断するものだ。そのように、人は神の植えられたぶどうの木に実る果実によって神を判断するのである。わずかな実りはぶどうの木にも農夫にも決して栄光をもたらさない。

 私たちは時々、実りの少ないことを私たち自身や仲間の損失として嘆き、その原因は私たちの弱さによると訴えてきた。しかし実りの少ないことから生じる罪や恥は、むしろ神が私たちから当然受けるべき栄光を、私たちが神から盗み取ったことにあると考えるべきである。神が与えられる力を役立て、神に栄光をもたらす秘訣を学ぼうではないか。「あなたがたは何一つできない」というみことばを全面的に受け入れること、神がすべてをされるという素直な信仰を持つこと、そしてキリストにとどまること(神はキリストをとおしてみわざを行なわれるからだ)、これが神に栄光をもたらす人生である。

 神は多くの実を求められ、私たちが神に多くの実を差し出すかどうかを見ておられる。神は少しの実では満足なさらないのだ。私たちも少しの実で満足してはならない。キリストの「実」、「もっと多くの実」、「豊かな実り」というみことばを、キリストが考えられるとおりに私たちも考えることができるようになるまで、そしてキリストが私たちのために結ばれた実を、いつでも受け取ることができるようになるまで、私たちの心にとどめようではないか。そうしてこそ父は栄光を受けられるのだ。ご命令の最高まで実を結ぶことが私たちの義務である。それは私たちの能力をはるかに超えたことであるだけに、キリストの上に私たちのすべてを投げ出さねばならない。主は私たちの中にそれを実現させることができるし、また必ず実現されるに違いないのだ。

 神が多くの実を求められるのは、神がその力を示すためではない。実は人の救いのために必要なのである。それによって神は栄光を受けられるのである。私たちのぶどうの木と農夫に多くの祈りをささげようではないか。父なる神に人の糧である果実を私たちにくださるように一生けんめい願い求めようではないか。キリストがあわれみの心を動かされて重荷を負われたように、私たちも飢えている人や死にかかっている人の重荷を負ってあげようではないか。そうすれば、私たちの祈りの力と、私たちがキリストにつながっていることと、父の栄光のために多くの実を結ぶこととは、私たちが今まで考えることもできなかったほどの現実性と確実性とを持つようになるに違いない。

祈り
「『父は栄光をお受けになる』とあなた言われます。何という恵まれたお見通してでしょうか。神は私の中でご自身の栄光を現わせれます。神は私の中で、そして私をみわざを行なわれることによって、慈愛と力との栄光を示されます。神が私の中で多くのみわざを行なわれるように、私にも多くの実を結べと命じられるのは、何という恵まれた尊いみ教えでしょう。父よ、私の中であなたの栄光を現わしてください。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳 にひきのさかな社刊行75~79頁より。写真はたわわに実るゆずの実。)

2009年11月7日土曜日

Mさんの葬儀


 水曜日、木曜日と召されたMさんの葬儀に出席した。

 Mさんとは礼拝の席でお顔を拝見したり、お越しになったときに握手をし、ご挨拶をする間柄であった。その時はいつもこちらに最大の敬意をあらわしてくださるので恐縮させらることが多かった。

 火曜日の早朝に召された。奥様と前日の夕べに食事をともにし、その後雑談なさっていたが、気分が悪いと言って横になられた。少し異常を感じられた奥様は、心配のあまり救急車でもお呼びしましょうかとすすめられたが、それには及ばないと言うことであった。その後しばらくしてさらに容態が悪くなり、人事不省に陥られたようだ。一緒におられた奥様には大変なショックなことだった。

 Mさんは某会社の営業マンとして会社の発展に貢献され、皆さんに信頼され、愛されたお方であった。仕事一筋に生きて来られた。2000年に一身上に経験なさったことを通して、奥様が受け入れておられた救い主イエス様の前に頭を下げられるようになり、自然と足が私たちが毎日曜日ささげている礼拝場へと導かれ参加されるようになった。今年の2月には会社を退かれ、普段も奥様と一緒に聖書を読み、祈る時が与えられようになった。奥様にして見れば、会社人間として、母子家庭と言われても仕方がないような状態から、永年祈っていたご主人の救いが実り、これから二人でもっともっと主をあがめ、ともにイエス様を知り求める生活をされたいと希望されていた。それがわずか半年あまりで閉じられたわけである。

 二日間の葬儀には親族はじめ会社の方、ご近所の方、キリスト者の方々と多くの方が出席され、心温まる葬儀であった。葬儀の親族の挨拶はご長男がされたが、お父様への親不孝を心から詫びる内容であった。お父様への愛を伝えたく泣かんばかりにしてなされる挨拶はいつ果てるとも知れなかった。傍に一緒に立たれた叔父様(お父様の弟さん)が、やさしくご長男の肩に手を置いて、「感謝します、だね」となだめられやっと終えられた。家族・親族を大事に誠実に生きて来られたMさんを髣髴させる瞬間であった。

 私は火葬場の席でお二人の会社の上司・同僚の方とお交わりする機会が与えられ、よりくわしくMさんのお人柄を知ることができた。「沈着冷静な人」と言うのが上司の方の評であった。また大学時代応援団長をなさっていたという意外な事実も知らされた。お骨納めの時その上司の方が「Mちゃん」と口に出しながら参加されていることも印象的であった。

 二人のお子様も立派に成長なさっているが、もっともっとお父様と一緒にいたかったであろうし、いろいろなことを相談したかったに違いない。63歳という年齢でご主人やお父様とお別れしなければならない辛さを思う。この11月という月は私にとっても父を亡くした月だ。それでも父は69歳の死だった。私には妻もおり、子どもも与えられ、すでに一家を成していた。それでも父を亡くした時は丸一日、二日泣いてばかりであった。大切なMさんを亡くされたこのご家族の心中を思い、大いに主の上からの慰めがあるようにと祈らざるを得ない。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている・・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(旧約聖書 エレミヤ29・11)

(写真は昨日知人3人と浦和市内のとある食べ物屋さんに立ち寄ったが、生憎満席で入ることが出来なかった。店先にこの花が咲いていた。「アプチロン」というのが店主の方による花の名前だった。)

2009年11月5日木曜日

孤独と痛みに光そそげ


 先頃、一週間の間に相次いで、私よりは年下であったが、60代前半の親しい方お二人がお亡くなりになった。心筋梗塞による突然の死であった。ご家族にとってはショックな出来事だった。気も動転されたことであろう。その後、悲しみのうちに葬儀が執り行われた。葬儀の終わった今は、愛し親まれたご家族が亡くなられたことによる不在感はより一層募っていることであろう。このようなご遺族を前にして私たちはどのようにしてその方々を慰めることができるのであろうか。

 そのようなことを思っているさなかにたまたま次の文章を読んだ。転写しておく。

 「私たちが主のみもとに一緒に集められる。」(二テサロニケ二・一 英欽定訳)
 
 最近、このおことばは、私にとって継続的な慰めとなっています。
この世では、私たちは別離の悲しみにさらされます。何度も会いたいと思う人には、めったに会えないのが世の常です。人生には多くの別れがあります。私たちには、地上で長い間一緒にいられるという保証は、聖書のどこにも与えられていません。
 しかし「私たちが主のみもとに一緒に集められる」というのは、確かな喜びです。毎日毎日が、このように私たちが主のみもとに一緒に集められるという日に限りなく近づいていきます※。
 この地上でも、親しい人と一緒にいることは、実に大きな喜びです。私自身、その喜びを深く味わいました。そうだとしたら、私たちが一緒に天の御国に集められるということは、どんなに大きな喜びであることでしょう。

(『主の道を行かせてください』エミー・カーマイケル著湖浜馨訳312頁より引用。※この意味は聖書本文「私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められること」の前半の部分を前提としたものである。)

 ここには死を越えた確かな世界が述べられている。今朝の新聞には六本木ヒルズのクリスマスに向けたイルミネーションの点灯が昨夜から始まったことが記されていた。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方にいのちがあった。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1・1~5)

とは、ヨハネの福音書の冒頭のことばだ。「罪と死」(やみ)を滅ぼすために来られたイエス様を証しする者でありたい。

(写真は木立ベコニアの花。この可憐な花を造られた造物主こそほめたたえられるべきお方だ。)

2009年11月2日月曜日

病床にあった妻の夫への手紙(1)


 以下は「泉あるところ」(http://livingwaterinchrist.cocolog-nifty.com/blog/)で紹介させていただいてきた「100年ほど前の異国の一女性の証し」の続編である。タイトルを変え、引き続いて紹介させていただく。この本の翻訳は井上良雄氏によるものだが、手紙の文体が旧かなを用いていて、「良妻賢母」というかつての日本の女性像にぴったりの表現になっている。井上氏はこれを敗戦前夜灯火管制の続く中でなしたそうだ。読めば読むほど味が出てくる思いを個人的に感じているので、あえて旧かなの原文にした。

 (ローザンヌにて 1930年11月3日)
 体の具合は引き続き素晴らしくよろしうございます。これがたとへ一時的のものでございましても、本たうに楽しうございます。ここ数年来とは申せぬまでも、ここ数ヶ月来、自分がこんなに生活力に溢れているのを感じたことはございません。その証拠には消化が大へんよろしうございますし、長い間、疲れもせずに外に立ってゐられます。疲れを感じないということは、本たうに素敵でございます。

 けれども、わたくしが本たうに泣きたいほどに焦れている仕事、恋い慕ってゐる仕事、郷愁を感じている仕事―それはロンドンでの仕事でございます。このこと、おわかりいただけると存じます。自家(うち)や子供たちや、そこにあるわたくしの大事ないろいろのものへの憧れ―そのことは何も申し上げません。 ・・・・けれどもわたくしは、自分が前よりも落着いて安らかになったとは申せます。やはり寂しい時はございます。

 けれどかうして外面的には何もせずにゐる間にも、神様がこれまでわたくしからお求めになったのよりは、ずっと大きな仕事をお望みになってゐることが、御恵みによってわたくしにはわかります。

 それは忍耐服従の仕事でございます。昨日F先生が説教しておいでの時に、突然わたくしには、この外面的には怠惰であった長い幾月かの間に、神様がわたくしにお求めになってゐた実際的な仕事に気付きました。

 その第一は、信仰生活によって―殊にお祈りとこれまで習慣にして来たよりはもっと烈しく聖書を読むことによって、自分の魂を養ふこと。第二は執成しのお祈りと文通によって、他の人々に働きかけること。
 
 これはみな、ロンドンで外面的には活動的な生活を送ってゐたころには、ごくごく表面的にしか専心出来なかったことでございます。どうぞ神様がお助け下さいまして、このプログラムを実現出来ますやうに。

(ローザンヌにて 1930年11月8日)
 信頼服従―この二つのことを、わたくしは学びたいと思ってゐます。神様が今この試練によって教えようと思召しておいでになるのは、この二つのことと存じます。どうぞ神様が力をお与へ下さいまして、このむづかしい課題が学べますやうに。

 それが自分にも出来ると思はれる時もございますけれども、翌日になりますと、また最初から始めなくてはなりません。懸念と落胆が、また襲って来るのでございます。このやうな浮き沈みがありますのも、やはり然るべき理由があってのことと、わたくしは考えてをります。

 それはわたくしに信実と忍耐と強いお祈りと神様のお助けを求めることを、教えるためではございませんでせうか。わたくしは進めば進むほど、眼を上に向けるように努めてをります。そして、自分の生命(いのち)はお医者さま方の手の中にあるのではないといふ考へが―この考へは真理と存じますけれども―自分を支配してくれるやうに努めてをります。

 G先生その他の先生方は皆、神様の道具にすぎないのでございます。死であれ生であれ、わたくしの身に起りますことは、ただただ神様の御意(こころ)のみでございます。このやうに考えますと、わたくしは本当に安らかになります。この考へが、どうぞ身内(みうち)で動揺いたしませんやうに。

(文章の訳文は「その故は神知り給ふ」の35~38頁より引用。写真は昨日お伺いした日立のFさん宅の生垣で見かけた、ウインターコスモス。コスモスが散る頃、入れ替わりに咲くらしい。)

私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。(新約聖書 ローマ14・7~9)

2009年11月1日日曜日

彼は英雄ではなかった、彼は基督者であった(下)


 ウォルムスの議会に呼ばれて、著書の意見の改更如何を問われし時、その第一日において彼は意気はなはだあがらなかった。そして一日の猶予を乞うた。人たる彼の面目がここに躍如としている。しかし祈祷の一夜は明けて、キリストが彼の全心を占領した。

 彼は二時間にわたりて、自己の立場を擁護した。彼は言うた、彼の著書の文は半ば自己のもの、半ば聖書より出でしものである。自己のものには人間の弱点が伴っている。思慮浅き怒りや、人間の暗愚や、その他取り消し得べき種々の弱点が交じっている。しかしながら健全なる真理と聖書とに根拠を置くものに至りては、彼は一毫(いちごう)もこれを変改することは出来ぬと。

「聖書の証言か、または平明公正なる論議かによりて我を駁(ばく)せよ、しからずば余は改言する能(あた)わず。良心に背けることをなすは安全にあらず、かつ軽率なり。ここに我あり。我はこの外に出づる能わず。神よ我を助け給え!」と、これ彼の結尾の語であった。

 実に静粛と温雅と謙遜とを兼ね有する聖き勇気よりの語であった。げに奥ゆかしき態度であった。生まれながらの豪勇は彼の持たぬところであった。彼は弱き人の子であった。ゆえに信仰に確(かた)く立つ時において、清き勇気が彼に加えられたのであった。彼は天性の英雄として我らに遠く立つ人ではない。基督者として我らに近く立つ人である。我らの友である。兄弟である。同士である。

 彼は完全なる人ではなかった。彼の粗野なる言動は、時として人の感情を害した。彼はまた重大なる過誤をなした。農民が一揆を起こせし時の如き、彼は些かの同情を持たざりしのみか、諸侯に向かって叛乱せる農民を速やかに殺せと申し送った。農民の頼むに足らざるを学びて、憤怒と失望とが彼を駆ってこの残酷なる言葉を発せしめたのである。

 また彼は、改革者を庇保する某貴族の不義の結婚を公認せしことさえあった。のち彼はこれを取り消したりと雖も、不義の結婚そのものは既に行なわれてしまった。駟馬も及ばず※とはこのことである。彼が聖書を引き来たってこの悪事を弁護したのは、いかに当時の事情を参酌しても、明々白々なる罪過であった。

 頭髪を剃られしサムソンのはなはだ弱かりしが如く、彼の心境にイエスの住まざる時において、彼は全く弱き普通人であった。その憤怒と、その失望と、その過誤と、その煩悶とをもってして、彼はどこまでも英雄児ではなかった。彼はどこまでも我らの仲間の一人であった。しかし信仰に立ちては、彼は全世界を敵となし得る人であった。そのウォルムスに行くにあたって、友人リンクに書き送りたる以下の語は、這般の消息を洩らして余りある。

余は知りかつ信ず、主イエス・キリストの今なお生きて支配し給うことを。この知恵と確信とに余は頼るのである。ゆえに一万の法王と雖も恐れない。何となれば余と共に在る者は世に在る者よりも大であるからである。

 あたかもこれイスラエル国の預言者エリシャを捕えんとして、スリヤの大兵が押しよせし時、エリシャが怖がるる僕に向かって「懼るるなかれ、我らと共にある者は彼らと共にある者よりも多し」と答えしと好一対である。「もし神われらを守らば誰か我らに敵せんや」とのパウロの実験の声が、また彼ルーテルにもあった。ゆえに弱き彼が強くなり得たのである。これ彼が単なる一基督者として、英雄以上の大事を成就し得し所以であった。

 ゆえに余はまたルーテルに向かって「兄弟ルーテルよ」と呼びかけたいのである。そして彼の肩に我が手をかけたいのである。彼の手をもって彼の手を握りたいのである。畏敬する我がルーテルよ。されどまた慕わしき兄弟ルーテルよ、愛すべき我が友ルーテルよ。願わくは来たって汝が信仰の秘密を我に語り、我が小なる生涯をして汝の大生涯に倣うものとならしめよ。

 以上の文章は昨日に引き続き、『畔上賢造著作集』1940年刊行第7巻「改革者ルター」より引用せしもの。上記文章中の※は漢和辞典によると「しばもおよばず」と読み、論語中の言葉で「一度口に出したことは世に早く伝わり、四頭だての馬車でも追いつけない」「ことばをつつしまねばならないこと」の意味。

 ウォルムス国会ならぬ、先の臨時国会では鳩山首相が自分の言葉でしゃべることが出来たことを自賛していた。一方初めての経験で大変疲れたとも言っている。500年前ルターはそれこそ全神経を使って国会に出たことであろう。彼弱くありとも一夜の祈祷の後、イエス内にありて強うされたとは、畔上氏の言であった。古来キリスト者は英雄ではない。しかし内にあるイエス様が語らしめ給うのである。イエス様の愛弟子ヨハネは語る。

子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。(新約聖書 1ヨハネ4・4)

(今日の写真は四葉のクローバー二葉。散歩途中偶然家内が見つけたもの。)