2009年11月2日月曜日

病床にあった妻の夫への手紙(1)


 以下は「泉あるところ」(http://livingwaterinchrist.cocolog-nifty.com/blog/)で紹介させていただいてきた「100年ほど前の異国の一女性の証し」の続編である。タイトルを変え、引き続いて紹介させていただく。この本の翻訳は井上良雄氏によるものだが、手紙の文体が旧かなを用いていて、「良妻賢母」というかつての日本の女性像にぴったりの表現になっている。井上氏はこれを敗戦前夜灯火管制の続く中でなしたそうだ。読めば読むほど味が出てくる思いを個人的に感じているので、あえて旧かなの原文にした。

 (ローザンヌにて 1930年11月3日)
 体の具合は引き続き素晴らしくよろしうございます。これがたとへ一時的のものでございましても、本たうに楽しうございます。ここ数年来とは申せぬまでも、ここ数ヶ月来、自分がこんなに生活力に溢れているのを感じたことはございません。その証拠には消化が大へんよろしうございますし、長い間、疲れもせずに外に立ってゐられます。疲れを感じないということは、本たうに素敵でございます。

 けれども、わたくしが本たうに泣きたいほどに焦れている仕事、恋い慕ってゐる仕事、郷愁を感じている仕事―それはロンドンでの仕事でございます。このこと、おわかりいただけると存じます。自家(うち)や子供たちや、そこにあるわたくしの大事ないろいろのものへの憧れ―そのことは何も申し上げません。 ・・・・けれどもわたくしは、自分が前よりも落着いて安らかになったとは申せます。やはり寂しい時はございます。

 けれどかうして外面的には何もせずにゐる間にも、神様がこれまでわたくしからお求めになったのよりは、ずっと大きな仕事をお望みになってゐることが、御恵みによってわたくしにはわかります。

 それは忍耐服従の仕事でございます。昨日F先生が説教しておいでの時に、突然わたくしには、この外面的には怠惰であった長い幾月かの間に、神様がわたくしにお求めになってゐた実際的な仕事に気付きました。

 その第一は、信仰生活によって―殊にお祈りとこれまで習慣にして来たよりはもっと烈しく聖書を読むことによって、自分の魂を養ふこと。第二は執成しのお祈りと文通によって、他の人々に働きかけること。
 
 これはみな、ロンドンで外面的には活動的な生活を送ってゐたころには、ごくごく表面的にしか専心出来なかったことでございます。どうぞ神様がお助け下さいまして、このプログラムを実現出来ますやうに。

(ローザンヌにて 1930年11月8日)
 信頼服従―この二つのことを、わたくしは学びたいと思ってゐます。神様が今この試練によって教えようと思召しておいでになるのは、この二つのことと存じます。どうぞ神様が力をお与へ下さいまして、このむづかしい課題が学べますやうに。

 それが自分にも出来ると思はれる時もございますけれども、翌日になりますと、また最初から始めなくてはなりません。懸念と落胆が、また襲って来るのでございます。このやうな浮き沈みがありますのも、やはり然るべき理由があってのことと、わたくしは考えてをります。

 それはわたくしに信実と忍耐と強いお祈りと神様のお助けを求めることを、教えるためではございませんでせうか。わたくしは進めば進むほど、眼を上に向けるように努めてをります。そして、自分の生命(いのち)はお医者さま方の手の中にあるのではないといふ考へが―この考へは真理と存じますけれども―自分を支配してくれるやうに努めてをります。

 G先生その他の先生方は皆、神様の道具にすぎないのでございます。死であれ生であれ、わたくしの身に起りますことは、ただただ神様の御意(こころ)のみでございます。このやうに考えますと、わたくしは本当に安らかになります。この考へが、どうぞ身内(みうち)で動揺いたしませんやうに。

(文章の訳文は「その故は神知り給ふ」の35~38頁より引用。写真は昨日お伺いした日立のFさん宅の生垣で見かけた、ウインターコスモス。コスモスが散る頃、入れ替わりに咲くらしい。)

私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。(新約聖書 ローマ14・7~9)

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