2009年11月16日月曜日

尽きることのない泉 カウマン夫人


 士師記1章には珍しい物語がしるされています。アクサは父から贈り物として土地をもらいました。彼女が自分の新しい地所を調べてみると、驚いたことに、井戸が一つもないことがわかりました。それは不毛の荒地だったのです。
 アクサは父に会って話したいと申し送りました。父は彼女を呼んで尋ねました。
 「あなたは何を望むのか」。
 彼女の答えははっきりしていました。
 「あなたは私に南の地を下さったのですから、泉をも下さい」。
 彼女の願いはすぐに聞き届けられました。カレブは彼女に「上の泉と下の泉」を与えました。
 この惜しげもなく与えられた贈り物は、彼女の期待をはるかに越えたものでした。土地はこれらの泉のおかげで、実り豊かな肥沃な土地となることでしょう。その時、彼女が早くから人生の最大の教訓の一つ(もし祝福を享受しようとするなら、それをわかたなければならないという教訓)を学んでいたことが明らかになりました。他の人々もこれらの泉から飲んでかわきをいやす機会を持つべきです。彼女は、「さあ、水のある所に来て、大いに飲んで下さい」と言って隣人たちを招きました。

 聖書の記者は、次のようなすばらしいあかしの言葉を記録に残しています、「主が彼らを導いて、さばくをとおらせたとき、彼らは、かわいたことがなかった。主はかわいた地を泉に変わらせ、淵から飲むように豊かに彼らに飲ませられた」。彼らが荒野や砂漠を歩いている時、主は彼らの杯を満たされました。小さなため池からではなく、限りない大海から満たされたのです。あなたは地の深い所からわき出る泉を飲み尽すことはできません。彼らは「彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない」。主はこの地上のすべての数えきれない人々のために、尽きることのない供給を用意しておられるのです。

 アクサは、かわいた不毛の土地で満足してしまっていたかもしれません。しかし、彼女が「わたしに贈り物をください」と言うことのできる信仰を持っていたことは、彼女にとってどんなによかったことでしょう。 このような泉なしには、人生はなんと実を結ばないものとなってしまうことでしょう。祭りの終わりの大事な日に、イエスは言われました。

「『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである」(ヨハネ7・37~39)

更にイエスは、

「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちに至る水が、わきあがるであろう」と言われました(ヨハネ4・14)

 泉―決してかわいたり濁ったりすることのない泉―これほど単純に、力強く、聖霊を象徴しているものはありません。その澄みきった水源から、地中の隠れた水脈を通して、いのちの水がほとばしり出ています。それは下方へ流れて行くのでなく、上方に上って行き、そして流れ出します。

 ダビデは、「わがもろもろの泉はあなたのうちにある」と言いました。そのすべての泉を神のうちに見いだしている魂は、決してその供給がとだえたり変化したりすることを知りません。私たちには上の泉も下の泉も必要です。生活の最高の領域においても、また最低のレベルにおいても、私たちは同様に神の御霊を必要としているのです。

 ある東洋の隊商が、砂漠の中で、水の欠乏に悩んだことがありました。彼らがよく知っている泉はみなかれ果て、オアシスにも水がなかったのです。彼らは焼けつくような昼ののち、日の沈む一時間前に休息しました。水の欠乏のために死にそうでした。いつもの井戸を尋ねましたが、むだでした。井戸はみなかれていたのです。だれの顔にもろうばいの色があり、だれの心にも失望の色がありました。その時、突然、ひとりの老人が隊長に近づき、こう提案しました。隊長が花嫁へのプレゼントとして家に持ち帰ろうとしている二匹の美しい雄じかを砂漠に放ってはどうですかと。雄じかの鋭い嗅覚は、もし水があるとすれば、きっとそれを探り当てることでしょう。その二匹の雄じかは、かわきのために舌を出し、苦しさのために胸を波打たせていました。しかし、キャンプの端に連れて行かれると、頭をもたげ、空気を吸い込みました。それから、誤りのない本能で、矢のようにまっすぐに、風のように速く、砂漠を横切って走り出したのです。馬に乗った人々がそのすぐあとに従いました。一、二時間すると、彼らは、「水が見つかった」という喜ばしい知らせをもって、急いで引き返して来ました。そしてキャンプの全員は、喜びの叫びをあげながら、新しく発見された泉の所に移動したのでした。

 神と神の満たし―生ける泉から飲むことをかわき求めている人々は、次のお約束が文字どおり真実であることを見いだすことでしょう、「貧しい者と乏しい者とは水を求めても、水がなく、その舌がかわいて焼けているとき、主なるわたしは彼らに答える、・・・わたしは裸の山に川を開き、谷の中に泉をいだし、・・・かわいた地を水の源とする」(イザヤ41・17、18)
 おいでなさい、かわいている人よ、あなたの必要の杯を携えて、神の無限の供給を受けるためにおいでなさい。おいでなさい。そして飲みなさい。そうです、豊かに飲みなさい。

 その泉は決してかれることがない
 たとい幾百万の人々がかわきをいやしても、
 その泉は決してかれることがない
 更に幾百万の人々が飲むためにまた来ても。

(文章は『一握りの穂』カウマン著松代幸太郎訳66~69頁引用。写真は昨日の浅間サンラインから遠望した八ヶ岳連山)

0 件のコメント:

コメントを投稿