2009年11月19日木曜日

結婚とは


 人ありて、男・女として互いに結婚に導かれることは大きな幸せと考える。しかし、果たしてそれは無条件で幸福を保障するものだろうか。私はそうとは思わない。何しろわがままだらけの男と女であるからである。以下に紹介するのはほぼ20年前に書かれた、ある方の文章である。

 私たちが出合ったのは、四年前の十月、私が二十歳で彼女は十九のときだった。 私はそのころ、自動車免許取得の為、埼玉県新座市にある合宿制の教習所にいた。そこは、障害者が自立をする上で第一関門となる移動という事を解決する為の教習所であった。私の目的もそれと同様に自立をし、社会の中で自分を試したいと思い、まずは車ということにしたのだった。私にとってそれは、至極当然のことであって、人間が人間として社会につながる手掛かりを、得ようとしていたのである。

 かくして私は、「○○」自動車教習所で、合宿生活をすることになった。免許取得まで一月というのが私の予定であったが、思うように捗らずに、暦は九月から十月になっていた。そこで一日一時間の教習を二時間にしてもらい、自分が車を動かしているんだという感覚を身に付けようと、もがいていた。

 十月に入って、また何人が教習生が増えた。その中に、とても考え深げな目をして、物事を率直に話す少女がいた。歳は私と同じ位だろうが、その姿から、そういう印象を受けたのであった。又、同時に私は、不安や悲しみの中にいる本当の彼女を見ることが出来た。何故なら彼女は自分自身さえも否定するような、そんな物悲しい顔をしていたからである。それはまるで、自分の気持ちを押し隠し、全く別の人間を演じる俳優の姿に似ていた。

 実は私も数年前まで、もう一人の自分を持っていた。弱い自分を決して人には見せまいとして虚像をつくり上げ、それを自分以外の人に印象付けさせた。ところが、いつしか虚像が一人歩きを始め、周りに虚像だけしかいなくなってしまって、本当の自分は、私の中で寂しく微笑むだけだった。

 彼女の場合の虚像は、自分というものを、全く否定するものであった。そんな彼女を見ているうちに、私は微力ながら、力になってあげたいと思うようになった。

 そこから、すべてが始まったのである。

 それから私達は、いろんな話をした。お互いの生き方についてとかいうような、青年の主張ばりの、話から、道端に咲いている小さな花の話までといったふうに、二人の会話は、無制限に広がる感じだった。私達は、よく教習所の周りを散歩をした。あの辺りは、畑や緑に囲まれていて、その光景は、私の生まれ育ったところに似ていた。そんな話を、焼き芋をかじりながらしたりしたものだ。

 彼女はとても感受性が、豊からしく、又、それを言葉にする表現力も、かねそなえているようだった。いつしか私は、そんな彼女に、逆になぐさめられる様になっていた。 実は私は、彼女と出合う前の一月間、全くといっていい程、人と話をしていなかった。それは自分と全く違う考えの人達の中で過した一月間だった。つまり、かなり保守的な障害者の集団だったということだ。今にして思えば、貴重な経験をさせてもらったと思えるが。その時は、そんなことを思えるはずもなく、「四面楚歌」という状況だった。 そんな私を知ってか知らずか、彼女は、私を見た第一印象を、後日、「寂しそうな影の見える人」と言っている。それを聞いた時、私は苦笑いをしてしまった。二人が同じ時期に同じ印象を、お互いに受けたということは、ひじょうに運命的な出合いを感じる。神の、「おまえらを一人にしておいたら危なっかしくて、見ちゃおれん、お前らは二人で一人前なんじゃ」と言う声が聞こえたような、そんな気がする。

 私が、その言葉を、そのまま受け入れようと決心したのは、教習所を出てからである。それまでの私は彼女に対して女性として見るよりも、人間として見ていたのだった。人間○○○○○の成長に少しでも、役に立てればと思い、私の数少ない経験の中から、数えられるものがあれば、教えたい。そういう思いで、接していた。ずいぶん自信過剰で傲慢な奴と思われたかもしれないが。もっとも今まで、女性に縁遠かった私にとって、女性としての見方自体が、なかったのかもしれないが、・・・・・

 そして二人の間には、やすらぎと思いやりが生まれ、いつしか、互いの中に住んだ。 今、結婚を前にして、四年の月日を思うとき、決して、どちらか一方が先導し続けて来た道程ではなかったように思う。全く、助け合いそのものの道程であり、だからこそお互いをよく知り合えたのだと思う。これからの結婚生活においても、私達は、そうでありたいと思っている。結婚生活というものは、二人で築き上げていくものであって、どちらかが、つくろったのでは、砂上の楼閣の如しだと思うのである。だから私達は、いつでも話し合っていたいと願っている。そして、歳をとって、お爺ちゃん、お婆ちゃんになった時、のんびりと縁側に座って、昔話をしてみたい。

 そんなことを思っている私に、又、神が言われた。「あなたがたは、もはや二人ではない、一人である」と。

 ほぼ20年ぶりにこの文章を読み、夫婦の間のいたわりについて深く考えさせられた。そしてこのいたわりは主のみことばに従いつづけるときに初めて可能だと思うのである。イエス様の結婚に関するみことばの原点を記す。

パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(新約聖書マタイ19・3~6)

(写真は一昨日の古利根川の夕景。飛翔するは鴨である。河岸にたむろする鴨はなかなかカメラに納まってくれない。近づくとこのように一斉に飛び立つ。)

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