2012年4月14日土曜日

生命を賭して

今日は生憎雨だったが、昨日は穏やかだった。線路際の今年のすみれ。
(この)チンデルの英訳聖書は実に立派な訳で、欽定訳聖書は凡てこのチンデル訳を基礎としてなされたのである。この二つの聖書を一頁でも比較してみると、いかに欽定訳聖書が、チンデル訳に負うところが多いのかがわかるのであるが、今ここでそれの出来ないのは残念である。所々言葉が変わっているくらいでほとんど同じところもある。そしてこのチンデル訳の特長は、出来るだけ単純なわかりやすい言葉をもって訳して、しかもその意味を適切に現わしているところにある。これ彼が聖書を平民の書として、牧師の専有より取り返さんとの祈りのあらわれである。元来聖書の原文は、平民のためにわかりよく書かれたものであるが、それをカトリックの牧師たちが貴族語のラテン語に祭り込んでしまったのである。またさきにも述べたごとくクォート版の方には序文と脚注がついていて、この註解をタンスル等は「有害な註解」と言ったそうであるが、その価値は今日誰でも認めるところである。またその序文には彼の信仰の正しさがあらわれている。今その数節を引用する。

我らが、神の律法が正しく説かれて、いかに心の底より、精神を尽し、力を尽して、神 を愛さねばならないか、また隣人を(しかり敵までも)愛さねばならないか、また神の命令はいかなることでもなし、禁じられたことはいかなることをもなしてはならないのを知るとき、我らの良心はむしろ神とその律法に対して怒りを抱くものである。生まれながらの人間は、律法が善でありまたそれを与え給うた神が義であることを、認めることはできない。人間の慧い理性も、意志も、堅く悪魔に捉えられている。キリストの血潮以外いかなるものも、この束縛より解き放つことはできない。

 チンデルは人間の罪がいかに根本的であるかをよく知っていた。隣人を愛し、神を信ずる力さえもなくなっている本当の人間の状態を、彼はよく知っていた。儀式や伝統や形式の宗教で満足し得る人は、真の深い罪の自覚がないからである。この深い罪を知るものは、ただ基督の十字架以外、それより解き放つもののないことを知るはずである。

憫れむべき良心が、基督のいたましい死がいかに有難いか、また彼の贖いといさおしを通して、いかに神の愛と憐れみが溢れているかを知る時、我らは再び愛することが出来るし、また神の律法が善であり、それを与え給うた神が義であることを認め、病人が健康を願うごとく、神の律法が満たされることを願うようになる。

 なんと深い言葉であろうか。人を愛することも、神を信ずることも出来ないまでに堕落したこの人間が、基督の十字架の愛の迫りに目を開かれて、はじめて他を愛することも出来るし、神を信ずることも出来るというのである。しかもそれのみでなく、自らの救いの問題を越えて神の律法の満たされることを、本質的自然的要求として願うようになるというのである。

 また彼がこの聖書を訳すのに、いかに謙虚な心をもって、誤りなく真実の福音を伝えんとしたかがこの序文にあらわれている。

基督にあって最も愛する兄弟姉妹のために、その信仰を起こし、慰め励まそうとしてこの新約聖書を訳した。もしも私より以上に語学に通じ、私よりもより深く聖書の意義、聖霊の意味を解する、より高い賜物を与えられている人があれば、私はその人にこの訳書を平和な霊をもって考え調べることを奨め、また願う者である。そしてもし彼らが、私の言葉の不適当な点、英語の不正確な点などがあるのを発見すれば、それを改めるのが彼らの義務であると考えるべきである。なぜなら、神の賜物は我らのみが受けて彼らには隠されているのでなく、神と基督の栄光のために、また基督のからだなる集会の信仰を増すために、彼らにも与えられているからである。

 かくチンデルは、誰かより以上の賜物を与えれている人にその改訳を願うとともに、彼自らも絶えず努力した。彼は死刑に処せられる時まで、この改訳の筆を棄てなかったのである。実にこの努力は聖霊の導きと、生命を棄てても母国民によりよく福音を伝えんとする押さえ切れない愛とがなかったならば、到底出来ないことである。最後に有名な聖書註解者ウェストコットが、このチンデル訳の聖書についていっている言葉を引用して、この章を終ることとする。

聖書翻訳において、彼が学者であったと同時に徹底せる信仰の人であったことがわかる。始めより終りまで、その文体において、解釈において、彼独特なものがある。チンデルの独創性は今日我らの聖書の独創性として多く遺っている。されど彼の精神が聖書全体を力づけている影響は、その言葉がそのまま遺っている以上永久的なものである。彼は信仰に溢れて努力した。彼の足らざるところに対しては、その成功の秘訣を後継者にのこしている。彼の功績の決定的なものは聖書を一般化したというところにある。学問的用語でなく、簡単な普通語において語っている。この功績は永遠に認められるべきである。

(『藤本正高著作集第三巻』〈ウイリヤム・チンデル伝—新約聖書を翻訳す〉458頁〜462頁から引用。All scripture is given by inspiration of God, and is profitable for doctrine, for reproof, for correction, for instruction in righteousness: That the man of God may be perfect, throughly furnished unto all good works. この聖句もチンデルによる英訳なのだろうか。チンデル訳聖書をお持ちの方に教えていただきたいところである。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」新約聖書 2テモテ3:16

2012年4月13日金曜日

英語訳聖書のパトロンは誰?

(それは)1529年の夏のことである。英国は長らく不和であったフランシス一世及びチャールズ五世と、平和回復の商議をカンブレ—に開くこととなった。その会議にトマス・モーアとタンステルも出席した。そしてこの会議で締結された条項の一つには、相互の国に流布を目的とする異端の書物の印刷を、互いに取り締まることというのがあった。これはチンデルの書が大陸で印刷されることを禁ずるために、特に提出されたのであった。

 これに成功したタンステルは、帰路わざわざ迂回してアントワープに立ち寄った。そこには当時チンデルがいて、英国に聖書を送り込む本拠地としていたからである。彼はここで聖書を買い占めれば、これを絶滅するのにより効果的であると考えた。それで彼はそこで出会った英国の商人パッキングトンに、もしここでチンデル訳の聖書を手に入れることができれば、いかなる代価を払ってもよいと言った。ところがこの商人は以前よりチンデルを尊敬していた人である。

 彼は「あるオランダ人がその聖書をたくさん持って売りたいと言っているのを知っています。もし御必要なら全部買い占めて参りましょう」と言った。監督はそれを聞いて非常に悦んで「それなら是非その全部を買い占めてくれ、代価はいくらでも出す」と言った。そこでパッキングトンは、早速チンデルを訪ねて「貴殿は非常に貧乏しておられますが、一つこの聖書を全部売りませんか、よい買い手がありますが」と言った。

 チンデルは不思議そうな顔をしていたが「その買い手は誰ですか」と尋ねた。「買い手はロンドンの監督タンスルです」と商人は答えた。「やあ、彼は私の聖書を焼くために買うのです」。「たしかにそうです」。そこでチンデルはしばらく考えていたが、微笑しながら「おお、それは嬉しいことです。私は全部売りましょう。それは二重の恩恵です。私は借金から救われ、全世界は神の言葉を焼くことに反対の叫びを挙げるでしょう。そして私はその余分の金でもっと勉強して今度はより立派な訳を出します」と言った。実直そのもののごときチンデルにも、かかるユーモラスな一面があったのである。

 タンステルは鬼の首でも取ったように悦んで、英国への何よりの土産としてその聖書全部を持ち帰った。そうしてパウロ十字街で、公衆の面前においてそれらの焚書を行なった。ところがそれによってチンデルの予想したごとく監督たちに対する国民の反感は増して、チンデル訳の聖書は益々有名になった。そして数年後には、より立派な版がどしどし英国に輸入された。そこでタンステルは非常に憤激してパッキングトンを呼んで詰問した。彼は「私はたしかにあの時に全部を買収したのですが、彼がなお原稿と原版を持っていて再版したのでしょう。何ならその原版を買収なさったらさらに効果がありましょう」と答えた。

 監督はただ苦笑するのみであったということである。その後仲間の一人であるコンスタンが捕えられて、「誰がチンデルに再版の資金を提供したか、それを告白せよ。そうすれば釈放する」と訊問された。そのとき彼は、「その資金を提供した人は、この世界中の誰でもなくロンドンの監督その人です」と答えたということである。

(『藤本正高著作集第三巻』454〜456頁より引用。文中チンデルとあるのは「ティンダル」監督とあるのは「主教」である。『言語変容の基礎的研究』寺田正義著の労作によると英国欽定訳聖書はその80パーセントが「ティンデル訳聖書」に即していると言うことだ。上記のエピソードは藤本氏が「ウイリヤム・チンデル伝」として昭和11年〈1936年 〉という日本が思想統制のもと大きく日中戦争へと舵を取りつつあった時に出版されたことも覚えるべきであろう。「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」新約聖書 マタイ10:16

2012年4月12日木曜日

わが師わが兄、沢崎堅造(下) 飯沼二郎


 蒙古語の勉強もはじめられた。いろいろの準備をされて、(昭和)19年5月、蒙古伝道者の李達古鐸氏とともに、深く蒙古人地帯に入り込んだ。「初めての蒙古地帯の伝道旅行、日本里にして約百里を、毎日徒歩しました。生涯初めての感謝と苦痛の旅行でした。文字通り、使徒時代の旅行です。二枚の下着をも持たずを実行しました。蒙古犬にやられましたが、幸い大丈夫でした。ゲートルがやられて、脚は助かりました。云うことの出来ない三週間の旅行でした。」と昭和19年6月6日奥田氏あて書簡に記されている。このときの旅行の詳細を記したものが「巴林伝道記」である。蒙古人ひとり一人にイエスの愛を伝えるべく、村から村へ、包から包へと困難な砂漠の旅をつづけていく二人の伝道者の雄々しい姿が、生々と私たちの胸に伝わってくる。汚い着物で態度も粗暴だが、何ともいえない心安さをもつ多くの蒙古人、ひとたび病気になれば、一切の医薬をもたず、ただ病臥するほかはない無知で貧困な多くの蒙古人、しかも貧困のなかに心から客人をもてなす多くの蒙古人に、沢崎さんは心からの愛情を注ぎ、一方、そのような現状になんら救いの手もさしのべずに、ひたすら安逸をむさぼっている喇嘛僧たちに、烈しい怒りを記しておられる。

 私は、とくに、次の一節を引用せずにはいられない。それは、沢崎さんが、偶然、お茶を馳走になった茶碗が、梅毒で鼻の落ちた貧しい若い蒙古人のものであったことを知ったときの感想である。「彼の茶碗を、こちらの習慣に従って洗いも濯ぎもしないで、そのまま汚れたままで使ったのである。併し私は感謝の心が湧いて来たので、私自身が喜んだ。私はこうした機会を計らずも与えられたのだ。願っても叶えられないことだ。伝道の旅に出たればこそ、この深い味わいを得たのである。私は独り草の上に仰向けにひっくり返った。大空は真っ青で、眼に染み込むようだった。私の眼は思わずもうるんだのであった。」これほどまでの無私の愛がありうるということは、私にとってほとんど奇蹟に近い。

 こうして、疲れ切って林西に帰りついた彼を待ち受けていたものは、愛児の死であった。次男新君は、沢崎さんの留守中、あの地方特有の猛烈な風にあてられて肺炎を起こし、必死の看病もかいもなく、彼の帰る前日、天に召された。ちょうど納棺式の最中で、皆が祈っているときだった。彼は黙って皆の中に入り、満語で祈りを捧げた。「蒙古伝道は余りに困難。しかも自分は余りに無力。自分をはげます為に此の子は召された。神の御旨は余りにくすしい。今、自分の心は感謝で一杯である」と(夫人の昭和20年6月奥田氏あて書簡による)。 その夜、沢崎さんは、愛児の遺骸の横に、その手を握って寝た。翌日林西の西山で火葬にした。その翌日、親子三人でその場所に行ってみられたが、「我々は皆、満州の土になるのだから」といって、骨は拾われなかった。後日、西山に墓標を立てた。沢崎さんはそれまでは毎朝、東山で祈っておられたが、以後四キロほどある西山まで、毎日、出かけて祈るようになった。このとき、つくられた詩がある。私は、近代日本の文学のなかで、これほど深く、キリスト・イエスにたいする愛と献身とをうたい上げたものを知らない。日本のクリスチャンが生み出した最高の文学の一つといっても、決して過言ではないであろう。

(『新の墓にて』324〜325頁、所収。昨日、43歳で召された主にある聖徒の葬儀があった。愛の満ちあふれる葬儀であった。本日の主題である沢崎堅造氏の年譜には「1945年8月3日退去命令により家族、大板上を去る。後に残った堅造は、ソ連の参戦により脱出不可能となり、最後がよく確認されないまま、間もなく殉教したとみられている」とある。38歳であった。「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」新約聖書 ヘブル11:4

2012年4月10日火曜日

わが師わが兄、沢崎堅造(上) 飯沼二郎


 林西は曠野の果ての町であった。はじめて満州家屋に住まれた。一家四人、荷物を土間に一杯おき、三畳位の「こう」の上に本棚とストーブをおくと、真っ直ぐに寝ようとしても、頭が土間に出てしまうので、足をまげて寝なければならないといった状態であった。林西教会では、毎日曜日、伝道説教の奉仕をされた。伝道説教というのは、毎日曜日、午前九時から二時間、教会の門戸を開け放して、大衆に信者が交替で説教するのであった。「礼拝はそのあと、夏でも冬でも十一時から始まってだいたい一時頃終る。」と夫人は記しておられる。「説教はないが毎週聖さん式があった。正面の机の上にパンというよりも白い丸いおせんべいのようなものと、ブドウ酒とがおいてあった。十一時になるとあつまってきた人が、誰がいうともなく、唱詩○○というと、みんながその賛美歌をうたい出す。そのうち誰かがお祈りする。また誰かが聖書をよむ。つづいて祈る人があり、唱詩という人がある。そのうち、田長老が立ってパンとブドウ酒をわけられる。また何人か祈りがつづき、賛美歌をうたい、自然に終りがくるのである。本当にみ霊にみちびかれた礼拝であった。『よくあんなにふかい祈りが次々できるものだ』と主人は感嘆していた。」

 「また毎週、家庭集会があった。(中略)家で集会をしたこともあったが、そのときは麻油の灯の蕊を五、六本皿のまわりに出し、あかりを明るくする。みんなそのまわりに顔をよせ、大きな活字の聖書をよみ、それについて語り、また祈るのである。それは何か使徒時代を思わせた。集う人達は使徒時代さながら、身分の高い者、権力のある者、教育のある者はなかった。しかし顔は生々としたよろこびにかがやいていた。家庭集会も司会者があるわけでなく、みたまに感じた者が祈り出して始まるのである。

 普段たずねてきて下さっても、『沢崎先生在家昵○』と、声をかけて入って来られると、挨拶などせず、すぐ祈りがはじまるのである。それが挨拶であった。カンの上で主人と話しておられるかと思うと、急に形を改めて祈りとなる。何と純粋な祈りの姿であろう。私はそういった祈りの姿に、どんなに不純な心を正されたことであろう。」

 沢崎さんは、林西でも相変わらず東の山へ祈りに行かれた。ときには望君をつれて行かれることもあった。帰ると食事をされ、午前中は聖書の勉強、午後はそれ以外の研究をされた。聖書の勉強はヘブル語、ギリシャ語の原語の意味をしらべ、その意味からみ言葉が何を語り給うかを考えるといったやり方であった。たとえば、イザヤ書三十五章などの「曠野」という言葉は「語る」という動詞から出ている。人の「語る」の聞えぬ曠野がどうして「語る」という言葉に通じるのか。曠野は人の声は聞えぬが、神の声を聞くところなのだ、そういった解釈をされた。・・・

(『新の墓にてーキリスト教詩文集ー』沢崎堅造著322頁以下から引用。
荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。〈イザヤ35:1〜3、5〜6、8〜10

2012年4月9日月曜日

新(あらた)の墓にて 沢崎堅造


 この静やかな心
 丘の上にて 
 青空に 陽は輝き
 牛群は 一瞬動かず
 天国の影

 わが児新(あらた)の墓は
 見はるかす丘の麓
 草畳み 海の如し
 一盛りの土塊
 木標細し

 牛の群 取巻き
 土を掻き 角をこする
 木標折れざるや
 されど我は心楽し

 昨日は 小羊の跡一面
 土塊は遂に無くなり
 或るは草地と化せん
 されど 我は楽し

 林西の西の山
 墓標は東に面す
 何か 東山の
 伊藤君の墓と向ひ合す心地

 旅に出でし時
 母に抱かれて 我を送りたりき
 我は顧みざりき
 そは基督の道をゆくものなれば

 最後の五分間
 東門の漸く見えしとき
 疲れし我は我を励したり
 知らず、 我が家には
 死にし児待てり

 白き棺を央にして
 人々は重なりて祈り居れり
 我は そと入りて
 祈りの中に感謝したり

 蒙古伝道—
 それは余りにも重々しき言葉
 小さき旅に
 小さき死が 供へられたり

 愚かなる父を励ますため
 この児は 死を以て
 再び帰へることなきよう
 我が脚に 釘打てり

 涙は湧かず
 ただ堅きものが
 胸も顔も蔽ひたり
 単り離れん

 あまりにも奇しき
 厳しき 神の御旨よ
 粛然として襟を正すのみ
 伝道とは 天国の業なり

 基督と共に
 基督の中に
 ああ基督に包まれて
 何処までも 何時にても
 何事が起きても 心安けし

 天国は 静かに近づき
 わが世に 垂れ交わる
 きよき、温き、心は充つ
 基督と聖徒とわが児はあり

 文は書けず
 書は読めず
 祈りも ただ黙するのみ
 僅に 基督の生命 湧き上る

 天国の便り
 これを想ひ これを述べん
 十字架は
 天国の窓なり

 「復活在我」
 「在基督裏 新造的人」
 木標の両面に
 風冷し

(『新の墓にて』沢崎堅造著未来社刊1967年270頁より引用。沢崎堅造と言っても知る人は少ないであろう。戦前京大人文科学研究所の嘱託のまま、単身蒙古伝道に献身し、敗戦直前に蒙古の大板上で消息を絶たれた方である。「在基督裏 新造的人」とは恐らく「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(2コリント5:17)であろう。)

2012年4月8日日曜日

ここにはおられません。よみがえられたのです。

使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。(新約聖書 ルカ24:11)

 我々にとって、ここは重要な場面です。最初のイースターの朝早く、弟子たちは戸を閉ざし、息をひそめていました。

 すると荒々しいノックの音がします。みんなは一瞬、息をのみました。—大祭司の捕縛隊ではないか? 主が十字架につけられたうえ、我々も同じ目に遭うというのか?

 ノックは一段と強くなりました。それから女の声が聞こえます。ひとりの弟子がそっと戸を開けます。よく知っている女の顔が、そこに並んでいました。興奮して女たちは叫びます。—「イエスのお墓が空です。御使いが、主は生きておられる、と言いました。」「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われた。」

 私はこの場面を想像します。ヨハネがばかにしたような笑いを浮かべて、「また女のおしゃべりだ」と言います。マタイは耳をふさいで、「そんなばか話で、我々の苦しみを茶化す気かい?」と言い、ペテロは立ち上がると、女を外へ締め出してしまいます。

 この知らせを耳にすると、知性は必ずそのような反応を示します。—「人がよみがえる! 大ボラもいいところだ。」

 こうして、かわいそうな女たちは戸の外に出されてしまいました。彼女らはうちのめされて、しょんぼりと立ち去ったでしょうか? 正直言って、クリスチャンは時に、人々が知性を根拠にメッセージを拒むと、萎縮し、狼狽することがあります。

 けれども—私は確信するが—女たちは笑ったことでしょう。「イエスさまが生きておられるのを本当に見たら、この人たち、びっくりするでしょうね。」彼女らの笑いは勝利を表しています。そして、イエスの弟子たる者はみな、ベンヤミン・シュモルクの詩のように、「義しき者の住み家には、/もう勝利の歌声が響きわたる・・・」と歌い、信じることができます。

 主よ! 盲目のこの世にあって、我らにいつも確信を与えてください。
                             アーメン

(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本紘訳4月11日より引用。ヴィルヘルム・ブッシュ氏は4月の全日をとおして復活の主についての聖書よりのメッセージを載せている。ルターは『イースター・ブック』〈新教出版社〉で次のように書いています。「(よみがえられた)主がまずマグダラのマリアに、つまり女性にあらわれたもうたということは深く考えるべき事柄です。・・・福音に耳を傾ける人間の典型が女性であるということは、大いなる慰めです。御言葉を聞いた女性たちのうちには、悪魔のすべての攻撃にびくともしない、御言葉からひきだされた大いなる力があったのです。・・・かの女たち自身は弱くても、かの女たちが聞いた御言葉は死と罪の縄目を断ち切る力をもっていました。」挿絵は同書所収より。)

2012年4月7日土曜日

正直な祈りができるよう、主よ、教えて下さい!

いつまでも寒さに震える毎日である。ここ一週間ほど、机に向かうこともなく、外出がちで、ブログとも縁がなくなってしまった。久しぶりに机に向かい過日の家庭集会の様子を録音から追体験させていただいた。メッセージをお願いした方は現役の大学の先生であり、証をお願いしたのは私が教会に導かれた頃、すでに私より先に主のところに導かれた方であるから、信仰の先輩に当る方であった。しかしこの方とは教会時代、二三年ご一緒しただけでそれ以上のことは存じ上げていなかった。

 その後、私が教会を出て集会に導かれて何年かして、風の便りに、この方も集会に導かれていることをお聞きしていた。年に夏などに御代田でお会いするぐらいでそれほど個人的にお交わりがなかった。ところが今年になって毎週ほど火曜の学び会でお会いするようになり、彼女の顔に喜びが顔にあふれているように私には思えてならずお証をお願いした。祈って下さり、今回のお証になった。

 再度お聞きして(4月5日当日お聞きしているので録音とは言え、二回目になる)この方の証のみことばに主の類いない愛を覚え涙させられた。

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。(新約聖書 エペソ2:14〜16)

 人間関係のうちでその最たるものは家族の関係であろう。ましてなさぬ仲の嫁と姑の間柄などどんなに立派な当人通しであろうともそこには何かと苦労が絶えないものである。しかし、上記のみことばはそのような関係をもたらす最大原因である私たちの「自我」というものをキリストが切開して下さったことが物の見事に描かれているからだ。これはイエス・キリストを信ずる者が一人の例外なく体験できるものである。そのことを彼女は証して下さった。

 一方、メッセージは「正直な祈り」という題で、正直な祈りを妨げる五つのことがらについて聖書から丹念に語られた。①自分でやらなければならないと思い込んでいる②神の前で間違いを言うことを恐れている③神の力を過小評価している④何かにこだわっていたり、問題を先送りすれば良いと思って祈らない怠慢⑤祈りが形骸化している。私たちが主の前に自分が罪人に過ぎない(たとえば、愛さなければならないと思うけれども愛することができない自分の本質)ことを素直に告白し、主の御わざを衷心より求めること。特に「主よ、祈りを教えて下さい」と絶えず祈り求め、主に対して形だけの祈りでなく、中味のある祈りとならなければならないと語って下さった。

 ひとつひとつ我が身に照らし合わせて自分がいかに不正直か、主との交わりを大切にしているか、問われた。そして同時に証された方の証が正直な祈りの積み重ねであることに瞠目させられた。メッセンジャーも証者もお互いに住む世界が違う。この場合は年齢も異なり、仕事も異なる。しかし驚いたことに証者のお孫さんとメッセンジャーのお子さんが仲がいい間柄ということをつい最近知ったのである。60名を越える人が集われた今回の家庭集会も主が私たち主に属する群れである教会の一人一人のたどたどしい祈りに答えてくださる方であることを証明して下さった。

さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」(新約聖書 ルカ11:1)