2012年9月5日水曜日

なにがたいせつか?

このところ、生家で日夜過ごしている。近くの小川には何匹ものオイカワが群れをなして上り下りする。こどもが小川に入りさかなを掬いあげようとしている。一緒に入って掬いあげたい。いつ帰っても今ごろ決まってこのさかなを見ることができる。清流なのだろう。

他郷にいる身として、帽子をやや目深にかぶり、素知らぬふりをしながら、惣菜の買い物に出かける。故郷の風情は40数年の間にすっかり変わったかの如く映る。しかし、故郷の人々はそこに今もいる。

数十歩前に近くの年少の友がいるのに気づいた。近寄り、帽子を目深にしたまま、「こんにちは」とあいさつする。先方は一瞬誰かといぶかる。しかし、次の瞬間「ひろっちゃん?」と満面笑みを浮かべて私を認めてくださった。

五つぐらい歳下であろうか。「お元気で(なによりで)」と言ってくださった。私は微笑むばかりで、曖昧な感情を残しつつその場を立ち去った。胸の中はキューっとしめつけられるようで、心の中に何か切ないものを感じさせられた。

「あなたは、どうして福音を伝えようとしないのですか」と問われる思いがしたからである。

ベックさんの「すぐに起こるはずのこと」をこの地で読んでいる。そこに以下のことが書いてあった。

イエス様を信じる私たちにとっては、来たるべき真っ暗な裁きの日を前にして、何よりも二つのことが大切となります。それはまず、まだ救われていない人々のために絶え間なく祈ること、そしてそれらの人々をイエス様のみもとに連れてくるために、愛の労苦をすることです。(同書第二巻216ページ)

この故郷にいるたくさんの義理のきょうだい、またいとこ、友人に、主の愛を伝えていない。話しても馬鹿にされると自己保身の思いがあるからだろう。こんな惨めな者に主はとりなしの祈りを勧めていてくださる。ああ! その後に愛の労苦が続くのだ!

「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」(詩篇2・12)

2012年9月4日火曜日

ノシメマダラメイガ

九月になり、やっとあの凄まじい暑さを逃れ出たような気がする。八月の初旬のことだったろうか。物置に小さな蛾が跋扈し、飛んでいるのを娘が見つけた。

原因はいただいた餅米の袋からであることがわかった。それから四、五日かかっただろうか、連日その幼虫との戦いが始まった。猛暑の中で異常に繁殖したようである。

およそ15キロの餅米を物置きの暗所から引き出すや、十数匹の蛾が飛び出して行く。捕まえようと思うが中々すばしこい。捕虫率は三割程度か。しかし、それは端緒に過ぎなかった。実におびただしい芋虫が餅米内に繁殖していたのである。

新聞紙を引いて次から次へと餅米を並べたが、芋虫はあっちこっちに潜んでいる。それにしても穀粒の多さよ。まるで60億の全人類を見ているような錯覚に捉えられた。

しかも芋虫は光を避けて暗きを目指して万里を物ともせず尺取り虫よろしく、うず高く積まれた餅米から、這い出て、一匹、また一匹と床を進んで行く。労せずして芋虫を拾い上げることができた。可哀想だが、用意した水桶に投げ込む。第一回は200匹は優に超えたであろう。

夫婦二人してじっと餅米を見据え、いかなる動きも見過ごさじと上から見ている。半分はどちらが多く見つけるかという競争心にとらわれている。

こんな案配で四、五日も過ごしたのでこの芋虫の生態に詳しくなった。この芋虫はさらに蛹となり、脱皮して「ノシメマダラメイガ」となる御仁であった。蛹は餅米を10粒平均自らの食糧として薄い粘り気のある糸でうまく巻きつけている。彼らがまず餅米の美味しい部分を食べるのだ。当然、糞が出る。これがまた凄まじい。一面茶褐色の糞が散乱しているのだ。結局人間様はその彼らが絞り取った残りを食べる算段だ。

粒を食べようとした人類も素晴らしいが、その粒の養分をもって私たちにとっては敵筋にあたる「ノシメマダラメイガ」も養われていたのだ。小さな一粒の中にふくまれる養分は創造主である神が全被造物のために備えられたものだ。

時ならぬ猛暑は普段気づくことのなかった生物の営みを私に教える実物教育の場となった。芋虫はその後何匹私たちが引き上げたかは読者のご想像にまかせる。しかし、私たちは私たちの一挙手一投足も主なる神様にはすでにお見通しなのだと観念せざるを得なかった。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(2歴代誌16・9)

2012年9月3日月曜日

広大無辺な主の愛

100人目の名前がどうしても夫婦して出て来なかった。先日拙宅で家庭集会が行われ、いったいどんな方がお見えになったか思い出し、書き出した時のことである。

当日は前もって暑さが予想されていた。一方人々がたくさん集まって来られることもわかっていた。会場を変えることも考えていた。しかし、家庭の良さがある。祈るしかなかった。「暑さを和らげてください!」と。

この祈りは答えられたかに見えた。確かに朝から激しく照りつける太陽に立ちはだかるかのように雲が次々現れたからである。いつもは34℃を示していた温度計もやや遠慮気味に32℃に手をのばすかのようであり、それ以上には上昇しなかった。

ところが始まりの2時が近づく頃には人々の出足が思ったより早く、三台のクーラーはあってなきがごとくになり、人々の熱気はたちまちのうちに部屋を蒸し風呂状態にしてしまった。

後日、遅れて参加し洗面所に身を忍ばせることの出来た方が、「大混雑」と表した混雑ぶりであった。しかし、いったん、集会が始まり、賛美がなされた時の皆さんの精神の高揚ぶりには脱帽させられた。このような混雑に萎えていたのは司会をさせていただいた当主の私だけであったからである。

ベック兄のメッセージとこの日は久しぶりに一人のご婦人の証が加わった。以後も熱気のムンムンする中に、みことばは静かに語られて行った。主のご臨在は私たちの外面的な混乱にもかかわらず、変わることがなかった。

一日経ち、夫婦して感謝のうちに集会を振り返っているうちに主の新たな愛を覚えた。

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友達や近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15:4〜7)

私たちの主はこんなやさしい心をお持ちの方である。必死に名前を書き上げていっても、どうしても九十九人の方のお名前しか思い出せなかった。ひょっとすると百人目の方がおられたのかもわからない。私たち夫婦がもし見落としていたとしても、主は決して見落とされない。

2012年8月17日金曜日

主に愛されているひとびとへの祈り(下)

彼女たちは主がラザロをいやすことがおできになることを知っていました。聖書のすこしあとの部分で、彼女たちはつぎのように言っています。

マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11・21)

マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11・32)

マルタとマリヤは、まったくおなじことを祈ったのです。「主よ。あなたにはすべてがおできになります」。彼女たちは、イエス様がラザロを愛しておられることを確信していましたから、「主は、どんなまちがいもなさらない」ことをもよく知っていたのでした。私たちもまた、このような信頼をもっていなければなりません。

私たちは、私たちの祈りに対して「主がなにをなすべきか、どのように行動すべきか、また、どのようにこたえるべきか」を、主に命令する権利をもっていません。私たちの主は生きておられるおかたですから、主はかならず私たちの祈りにこたえてくださいます。これはうたがいのない事実です。

しかし私たちは、あまりにもちかくしか見えず、視野もせまく、頑迷で頑固です。ですから私たちは、主がなにを予定しておられるか、どのように働こうとなさっておられるか、まったくわからないのです。ですから私たちは、理解できようができまいが、すべてをみこころとして単純に受け入れなければなりません。主がなさることは、いつも私たちに最善のことであり、それをとおして主の御名があがめられます。ですから私たちは主にたいして「まったく服従しながら」祈るというたいどをとらなければなりません。

私の友人のひとりは、いつもつぎのように言っています。

「主は、私がほしいものではなく、私が必要とするものをくださいます」。

つまり私たちは、いつでも必要なものはかならずあたえられるのです。「たしかに私は、必要なものをあたえられている」ということを、しずかに考えてみてください。

私たちはみな多くの苦しみ、重荷を必要とします。さもなければ私たちは夢の世界に生きるようになり、決して「祈る」ことをしなくなるでしょう。そして私たちは、祈らなければ主との交わりをもつことができず、主のたすけも、救いも、解放も経験することができません。

マリヤとマルタは、ほんとうにこまっていました。彼女たちはどうしたらいいのかわかりませんでしたが、ただひとつただしいことをしました。彼女たちは、イエス様に使いをおくったのです。イエス様は彼女たちがこまっていることを聞かれました。そしてイエス様がそのことを聞いてくださった以上、それは解決されたのとおなじことでした。イエス様はそれを解決することがおできになるおかたです。あなたに苦しみや困難がせまりあなたを圧迫したとき、どうかイエス様のところへ行き、イエス様に祈ってください。

私たちは、どのように祈ればよいのでしょうか。
1 深い苦しみのなかから
2 こころをひとつにあわせて
3.主をあおぎ見ながら
4 極度に緊急で
5 こころから服従しながら

あなたの愛するひとびとを、主のところにつれて行ってください。
そのひとびとを主の御手にゆだねましょう。
主は最善をなしてくださいます。主はご栄光を現わしてくださいます。
(『絶えず祈れ(下)』ゴットホルド・ベック著76頁から抜粋引用。)

2012年8月16日木曜日

主に愛されているひとびとへの祈り(上)

こころから服従しながら

 マリヤとマルタは、主に「こころから服従しながら」祈ったのでした。彼女たちは「私たちの兄弟のラザロをどうしてもいやしてください」という願いをもって、イエス様のみもとに使いをおくったのではありませんでした。もちろん彼女たちは、イエス様にはそれがおできになるだろうと期待していました。しかし彼女たちは、次のように言っただけでした。

「主よ。ごらんください。あなたが愛しておられる者が病気です」

と。ここでは「主よ」ということばがたいせつです。このことばによって、彼女たちの主への「服従」が証しされています。

マリヤとマルタは兄弟のラザロをいやすことを、主に命令したりはしませんでした。彼女たちは、どのような代価をはらってでもラザロがいやされてほしいとは望まなかったのです。彼女たちはつぎのように言いました。

「主よ。あなたが愛しておられる者が、いま病気です。私たちはかれをあなたの御手にゆだねます。あなたのお好きなように、みこころのとおりになさってください」と。

これとまったくおなじことを、私たちもまたしなければなりません。私たちが重荷を負い、配慮している愛するひとびとを、イエス様の御手にゆだねなければなりません。イエス様の御手にゆだねられたひとの悩みは、すべて解決されます。私たちが主にすべてをゆだねたとき、ほんとうの安心と平安をいただくことができます。

主は行動してくださいます。私たちは愛するひとびとについていろいろとこころをくばりますが、それ以上に、主ご自身がかれらのために最善をつくして配慮してくださいます。

私たちは主に、私たちの悩みをうちあけます。それから私たちは、すべてを主におゆだねします。これこそ、マリヤとマルタのたいどだったのです。それは信仰と信頼のたいど、「こころから服従した」たいどでした。

(『絶えず祈れ(下)』ゴットホルド・ベック著76頁から抜粋引用。)

2012年8月15日水曜日

聖書は聡明によりません!

聖書という本は、言葉だけではありません、文字だけではありません、紙に印刷されただけのものではありません。聖書は一つの本ですが、その基本的性質から言うと、それは霊です。ですから、この本を読もうとする人は、霊を用いてでなければ触れるべきではありません。霊を用いてでなければ読むべきではありません。

わたしたちがここで言っている霊とは、再生(BORN AGAIN)した人が持っている霊です。わたしは便宜上それを「再生の霊」と呼びます。この霊はどの人もみな持っているというわけではありません。ですから聖書はどの人も読むことができるわけではありません。ただこの霊を持っている人だけが、聖書を読むことができるのです。この霊を持っていない人は読むことができません。この霊は神を礼拝するために用いるものであり、聖書を読むためのものです。人にこの霊がなければ、神を認識するすべがありません。また聖書を読むすべもありません。

あなたはあるいはクリスチャン・ホームに育ったかもしれません。あなたが再生(BORN AGAIN)する前を思い返すなら、聖書を多く読んだかもしれませんが、少しも意味がわからなかったことでしょう。聖書の中の歴史はみな知っています、物語もみな記憶しています。しかし少しもわかりませんでした。このようなことは少しも不思議ではありません。神の言葉は霊ですから、もし霊を用いるのでないなら、この本を読むすべがないのです。

それでは、人はどのような時に聖書がわかるようになるのでしょうか? 人は主を受け入れたその日から、聖書がわかるようになります。その日以来、聖書は彼にとって一冊の新しい本になります。その日以来、彼は理解し始めます。彼はこの一冊の書を大事な宝物とします。しばらくは、まだわからないことも多いでしょうが、しかし全体的に見てそれを喜んで読みます。毎日毎日読み、毎年毎年読みます。読まないと飢えを感じるようであり、損でもするかのようです。

人がこのように聖書を読み、そして神の言葉がわかるというのは、どうしてでしょうか? それはその人が再生(BORN AGAIN)したからです。それは「御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハネ3・6)だからです。わたしたちは次の三つの聖句を一つにするといいでしょう。

「神は霊です・・・」(ヨハネ4・24)
「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり・・・」(ヨハネ6・63)
「御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハネ3・6)

聖書の言葉は霊です。人が再生(BORN AGAIN)する時に得るいのちも霊です。ですから彼は霊の人です。読むのは霊の言葉です。聖書は霊の人の上ではじめて光を放ち始め、はじめて効用を開始します。人はどんなに聡明であり、どんなに多く読んだとしても、もし彼に再生がなかったとしたら、この一冊の本は彼の上では何が何やらよくわからないものです。再生された人は教養が非常に乏しくても、聖書を読む力は再生されていない大学教授も比べものになりません。

一人は再生の霊を持ち、一人は再生の霊を持っていないからです。聖書は聡明によりませんし、研究によりません。天賦の才能があれば理解できる、というものではありません。神の言葉は霊ですから、再生の霊の人だけが理解できるのです。聖書の根は霊に属するものです。聖書の本質は霊に属するものです。ですから再生の霊がないとしたら、その人はどうしてもこの本を理解しません。この書は彼には一冊の封じられた書となります。

(昨日に引き続き『聖書を読む道』から引用。この本の邦訳は1990年日本福音書房から刊行されている。なお、同書の英訳はサイトで自由に閲覧できる。引用にあたって一部表現を変えたところがある。)

2012年8月14日火曜日

The Way to Read the Bible

人は神の前で、聖書をよくよく読まなければなりませんが、それには二つの基本的条件があります。一つは、読む人がまず正しくなければなりません。そして、その人は必ず訓練されなければなりません。さらにもう一つ、その方法が正しくなければなりません。何百年も前から、特に宗教改革の時以来、教会の中には、聖書を読むことに関して、比較的良い本が何十種となくあります。これらの本はみな相当よいものです。ただし、どの本にも一つの基本的な欠点があります。それはほかでもない聖書を読む方法にだけ注意して聖書を読む人には注意していないことです。それはちょうど、これらの方法によって聖書を読みさえすれば、だれでもよく読むことができる、というようなものです。ところが多くの人はこれらの方法によって聖書を読んでも、実はよく読むことができないのです。どうしてでしょうか?

それは彼らが、自分がどんな人であるかを忘れているからです。聖書を読むことは方法だけの問題ではありません。さらに、その人がどうであるかの問題でもあるのです。ある人は聖書をよく読むことができます。それは彼らが神の前で学びのある人であるからです。さらに方法が正しくあれば、よく読むのです。もし彼らの方法を人に伝えて、彼らの人となりを伝えるのでないとしたら、結果は多くの人の人となりは正しくありません。ですから彼らの方法を使って聖書を読んだとしても、やはりよく読むことができないのです。

このことは非常に重要です。すなわち聖書を読むには方法が正しいだけでなく、人もまた必ず正しくなければなりません。人が正しく、さらに正当な方法を用いてはじめて、聖書を読むことができるのです。聖書を読む方法が重要なことは間違いありません。良い方法でなかったら、確かによく読めません。しかし、どうしてもまず、わたしたちという人が造り変えられてこそ、はじめて聖書を読むことができるのです。ある一群れの人たちに一つの誤りがあります。彼らはごく少数の人しか聖書を読むことができないと思っています。またもう一群れの人たちは別の誤りをしています。彼らはだれでもみな聖書を読むことができるのだと思っています。

実はこの両方の考え方はどちらも間違いです。ごく少数の人しか聖書を読むことができないのではありません。また、だれでもみな聖書を読むことができるのでもありません。ただある種類の人たちだけが聖書を読むことができるのです。わたしたちはこの種類の人とならなければなりません。そうすればよくよく聖書を読むことができるでしょう。わたしたちは必ず人が先であり、方法は後であることを見なければなりません。人が駄目なら、方法も効果がありません。人が良ければ、あらゆる良い方法がみな用いられます。ある人は方法を重視します。わたしたちも方法を重視します。しかし、わたしたちは決して方法を前面に置きません。方法は第一ではありません。人が第一です。人さえ正しくあれば、その上でわたしたちは聖書を読む幾つかの最もよい方法をすべて持ってきて用いるでしょう。
(『聖書を読む道』ウオッチマン・ニー著の冒頭の文章より抜粋引用。詩篇119篇は聖書が聖書を読む人にとってどんな意味を持つか語り尽くしてやまない。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」詩篇119・105はその代表のひとつであろう。果たして、私たちは聖書を読むにふさわしい者であろうか。)