2024年1月21日日曜日

朋あり遠方より来たる


  先週の金曜日、上京して来た大学の友人と会うので、新宿ワシントンホテルに出かけた。11年前にもその友人をふくめ、四人で信州を旅したことがある(※1)。その時はほぼ半世紀ぶりの再会だったから、懐かしかったが、今回は会うこと自身にはそんなに前回ほどの新鮮さは覚えていなかった。ただその友人がここ二、三年にかけて年賀状に「吉田さんに渡したい本がある」と書き始め、昨年からその本がかつて教わりはしなかったが、大学の先生であった白杉さんの著作だと言って来た。内心、「絶対主義論」などの歴史関係の本なら是非拝見したいものだと思っていた。
※1https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/05/blog-post_25.html

 それにしてもこちらも手土産を用意しなければならないと思うのだが、あまりこれと言ったものも思いつかないまま、和菓子を少しと、本ブログで展開している私の「証」(※2)をプリントアウトしたものなど数編を用意して、約束の時間、12時に間に合うようにと家を出た。あらかじめホテルの位置はネットで確かめて家を出たはずだった。
※2 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/03/1969312.html

 ところが新宿駅に久しぶりに降りてみて、西口、東口もわからず、人波の中を歩き始めなければならなかった。しかも目の前には巨大な建造物が次々に立ち現れるが、一体そのビルが何というビルか名前がわからない。たちまち「東京はこわい」と思わざるを得なかった。何日か前に、谷口幸三郎氏の個展鑑賞の折には「東京はすごい」と感嘆していたばかりの私だったのに。

 結局辿り着くのに2、30分ほど要し、約束の時間を7、8分過ぎてしまった。お互いに会うなり、双方の口から思わず出て来たのは、期せずして「田舎者だから」という言葉だった。彼は山口県の防府から大学のワンゲルの同窓会に出席するため上京したのであったが、首都圏の一角とは言え、今や映画『翔んで埼玉』の一つである春日部市から新宿に降り立ったのが私だったからである。

 あちらこちら彷徨ったおかげで、ホテルを見つけるまで都庁舎を目の前にした徒歩行となった。東京都庁の巨大な建物を見上げては、都知事の持つ巨大な権力をも同時に覚えざるを得なかった。そうして自己弁解するが如く、思わず口をついて出て来たのは「田舎者だから」という言葉だった。

 同じく「田舎者」だと告白して憚らない友人は、山口から後生大事に携えてきた二冊の本を私に差し出した。大学を出て57年経つが、その友人曰く「あなたは私にこの本を譲れ」と当時言ったが、その時自分は断り、譲らなかった。そして、今日まで書棚に置いていた。しかしこの近年「私の書棚より、あなたにお譲りした方が、あなたも喜ぶだろう」と思って、上京ついでに持参したということだった。そんな事を彼に強いていたとは、すっかり忘れていた(※3)。

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/04/blog-post_16.html

 たちまち二人は60年近い前の互いの交友状態に戻り、現代日本の世相を語り合わざるを得なかった。話はもっぱら彼が中心で、私はむしろ聞き役だった。あとで、某代議士の秘書生活を20年弱過ごしてきた彼に「裏金疑惑」に関する考えを聞くべきだったと思ったが、時すでに遅しであった。ネットや携帯でのメールのやりとりよりも、自分はこのような一対一の人間同士の会話こそ大切だと思っていると、今も迂遠な読書人生活を続けている彼は、「田舎者」と自称しつつ、地方での責任ある「名望家」の政治に信頼を置いているのではないだろうかと思わされた。

 が、別れ際、「何よりも吉田さんが元気でよかった」と言った。その彼の気持ちは二冊の本を譲る彼の思いであったことに今にして思い至る。いい友を与えられていたのだと改めて思わされた。二冊の本とは、一つが『価値の理論』(1955年刊行)、二つが『独占理論と地代法則』(1963年刊行)で、いずれもミネルヴァ書房から出された、当時52歳の若さで亡くなった白杉庄一郎博士のかつての名著であった。そして、これらの本ならすでに在学中に苦労して手にしており、その後、用済みで処分し、今は、私の書棚からはいち早く姿を消した過去の本であった。だから、それらの二著は決して私の期待していたものではなかったが、彼のその友情を記念すべき本なので、ありがたく受け取って帰って来た。

滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。(旧約聖書 箴言18章24節)

鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(旧約聖書 箴言27章17節)

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(新約聖書 ヨハネの福音書15章13節)

2024年1月15日月曜日

冬本番

烈風に 頭(かしら)揃える 鴨の群れ
 80数羽の鴨が一団となって北風をものともせず、「ピヒョーピヒョー」と、あの特徴ある喊声のもと移動する姿は偉観である。北風は、この画面で言うと左から右方向になるし、同時に水の流れは左(上流側)から右(下流側)なので、二つの流れに逆らっての一同による「進軍(?)」である。堤上には、寒風吹き荒ぶ中、散歩する人も余り見かけなかった。空は青く、日は照っているものの、川岸は容赦なく吹きつける風にさらされるばかりであったからであろう。その余りにもの、風の強さ・冷たさに、こちらも、早々に、尻尾を巻いて退散せざるを得なかった。辛うじて彼らの動きをカメラに数枚収めるのがやっとだった。それに比べて、鴨をはじめとして、このようにして越冬する小鳥・野鳥の雄々しさには改めて感服する。

 さて、この鴨の生態に関する聖書の言葉は何かないかと探したが、なかった。その代わり、次のようなみことばを見つけた。「いなごには王はないが、みな隊を組んで出て行く」(旧約聖書 箴言30章27節)そしてそれに関連するみことばを探索したら、次のようなみことばに思い当たった。

シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者はわななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。・・・主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行なう者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。・・・しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。(旧約聖書 ヨエル書2章1節、11節、32節) 

 鴨の一隊が「ピヒョーピヒョー」の喊声のもと一糸乱れずつき従って行く姿は今も目に鮮やかである。我もまた、主の声を聞き分ける者でありたい。

2024年1月13日土曜日

生きんがためのたたかい

こあかげら 枯れ木つついて 脇目なし 
 今日は思わぬ拾い物をした。それにしても、寒さしきりのこの日、古利根川はさしずめ野鳥たちの天下の感がした。いつも居場所を占領している鴨やカイツブリの縄張りは、上流から飛来した「ゆりかもめ」の八羽ほどに川中にしっかりと場所を占められ、別の川縁へと移動していた。一方、堤上では鳩やむくどりや雀たちが餌採取に余念がなかった。人は、と見ると、寒さも寒しなのだろう、釣り人は四名を数えるのみであった。

 ところが、いつもの散歩コースも、終わりに差し掛かった時、同行者が目敏く、道端の潅木の枯れ木に留まって盛んに動いている一羽の鳥の存在に気づいた。最初、私はどうせ雀じゃないかと高を括っていた。同行者はそれでも執拗にそばに近寄って手招きするのだった。近づいてみると中々動きの早い、小鳥であった。私たちが近づいたからと言って、逃げるでもない。しかし、この鳥は枯れ木をただつつくばかりで、それも下から上へと、下がってはまた上へ上がるなど足繁くその運動を繰り返し、動きに余念がない。こちらはその姿態を、iPhoneでとらえるべく懸命に追った。その写真の中の一枚が冒頭の写真である。

 なりは小さいが、木ばかりつついている。あとで知ったのだが、キツツキの一種だった。そしてその実際を目の当たりにできたのは幸いだった。そう言えば、二年ほど前に「ルリビタキ」をやはり岸辺の繁みのうちに望見できたことがあった。この時は、その余りにもの羽毛の美しさを目のあたりにして、儲け物をした思いがした。それ以来だ。

 それにしても、家に帰って、その鳥を調べるに際して我が唇から「アカゲラ」と言う呼び名が勝手に出て来たのには驚いた。手許の『野鳥観察図鑑』の、何と「アカゲラ」の隣に「こあかげら」が載っていて、まさしくそうだったからだ。

 日々厳しい寒さの中で川のうちにある豊かな糧を求めて小鳥たちは今日も餌を求めて集まってきては、飛び交い、あるいは泳いでいる。その上、川内には気づかないだけで、これまたたくさんの魚が餌を求めて泳いでいるのだ。左の写真は、川内にいる「ゆりかもめ」を撮影しようとして近づいたところ、岸辺にたむろしていた鴨が慌てて一斉に飛び散って行ったところである。

 まさに「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるはなし。」だ。悠久な自然界はかくしてとうとうと流れ来る。

 それにしても、震災のため集落全体が移動しなければ生活できないという今の能登半島の人々の実態は、小鳥たちの生態から見たらどのように映るのだろうか。大きな自然界の一コマと言っていていいのだろうか。人間には鳥と違って、それを解決する手段が神様からゆだねられている。

 年初来、東京新聞の『本音のコラム』の有識者の諸氏の言葉はそのような言葉で満ちている。「人間が起こす戦争は人間が防ぐこともできる。防げる戦争への準備でなく、防げない天災への対策にこそ税金は使うべきなのだ」(前川喜平1/7)「最低限の随行人数で現地の悲鳴を最大限受け止めてきてよね、首相なら。」(斎藤美奈子1/10)「防災を国政の柱の一つにする政府がほしい」(三木義一1/11)そして、『時代を読む』欄(1/7)では宇野重規氏が当番論者で最後に「人の命の重みと安全、そして人と人とが支え合うべきことを痛感させられた念頭に当たって、闇を突き進む決意をしたい」と述べている。それぞれ含蓄のある言葉だ。

 週刊新潮1/18号の『夏裘冬扇』で片山杜秀氏が過去の日本歴史における大地震の年代とその間隔、またその時代における被害とそれに対応した王朝の態度を振り返りながら、「もしも似たペースなら、南海トラフのX年も占える。北陸の現実を見よ!国土強靭化とは何だったのでしょう。」と無策であってはいけないと憂慮を示していた。

空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。(旧約聖書 エレミヤ書8章7節)

2024年1月11日木曜日

幸三郎さんの作品の鑑賞

冬寒に 人の暖(談)見つ 兄弟
 東京はやはりすごいところだ。漱石の「三四郎」の中に、三四郎が熊本の母からの便りに辟易しながらもありがたがっているふうなのだが、夜遅くまで返事を書いている場面がある。その終わりに「東京はあまりおもしろい所ではない」と書いた、とあった。作品中の中頃の場面だから、その後三四郎がどう思ったかわからない。

 このように書いてみたのは、昨日谷口幸三郎氏の「家族の風景」と題する個展(※)に出かけたことによる。同氏の作品はそのアトリエを知っているし、自転車で走れば、10数分のところにある。だからいとも簡単にその作品に接することができる。ところが、「個展」となると別だ。東京に限る。何しろ東京は人が集まる。だから、個展は個展でも同時に人が集まり互いに交わる世界を提供してくれるやはり不思議な空間なのである。それは東京ならでは得られない。だから、悔しいが東京はすごい。※https://sukiwa.net/

 この個展で私はいとこの義妹夫妻と一緒に鑑賞した。展覧会というのは中々楽しいものだ。作品もさることながら、鑑賞者お一人お一人の気持ちが、その展覧会場の空気を支配するからである。私が行った時は、3、4組の方がお見えになっており、どなたも作品を鑑賞する喜びに満たされておられたように見えた。作者である幸三郎さんも、夫人である晶子さんと一緒に接待に応じておられた。思わず、「三四郎」の中で丹青会の展覧会に原口の作品を美禰子に誘われて三四郎が出かけて行く展覧会場での場面を想起した。互いに見知らぬ者同士が作者を知って(慕って)集まってくる独特の空間を漱石ならではの筆致で描写している(同書294頁以下)。

 初めて幸三郎さんの個展に接したのは、もうかれこれ30年ほど前にはなろうか。お茶の水画廊が最初だった。その頃初めて幸三郎さんとは主にある兄弟(主イエス様を信ずる信仰を通して神の子どうしである兄弟)として知り合いにになったばかりであった。いとこや職場の同僚を誘って行ったこともある。その画廊が閉じられ、この近年は西荻の「数寄和」が中心である。ところが、西荻はいとこや我が長男も住まい、知人も何人か住んでおられるところだ。これは私にとって東京ではあるが不思議な特別なところである。

 冒頭掲げたのは会場の絵では唯一写実的なデッサン絵と言っていいのだろうか、ジャンルを知らないが、私が最も気に入った作品である。鉛筆というべきか、細かい線描に幸三郎さんの繊細な神経がうかがわれ嬉しくなった。いや羨ましくなった。モデルは二人の息子さん、幸平さん、遼平さんである。確か1999年と表示があったから、四半世紀前の作品である。


 何年か前から幸三郎さんは絵以外に陶器の作品に手を伸ばされるようになった。それは立教女学院短大の先生や附属天使園のお仕事をなさった頃と並行しているのだろうか。絵とはまた肌合いの違った暖かい感触を持った作品の数々である。ライフラインを寸断され、水、電気に事欠き生命の危機にさらされている能登半島の震災被災者の方々が一日も早く平常の生活に復帰でき、能登半島の様々な文化遺産を維持され、このような空間をゆとりを持って味わわれる日が来るようにと祈らざるを得ない。

「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから、実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を行ってその後影を見送った。(『三四郎』303頁、「野々宮」は確か寺田寅彦がモデルだったと記憶しているが・・・)
 我が漱石は中々の絵画愛好家でなかったのでなかろうか。さしずめ、私は作者の気韻を下記のみことばだと思った。読者はいかが読み取られるだろうか?

安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。(新約聖書 ヘブル人への手紙4章9〜10節)

2024年1月9日火曜日

我がパソコン人生

鴨の群れ 一つに成りて 冬越ゆる
   昨年末、ノートパソコンが壊れた。人生最後のパソコンと死ぬまで、これで終われれば良いと密かに期するところがあった。早速、主治医ならぬ、我がパソコンのエキスパート・保護者の支援を仰いだ。長男、次男、三男のそれぞれ頼もしい面々である。遠くパリにいる次男もLINEで意見してくれた。最後の頼みの綱は、普段仕事で使い切っているであろう三男であったが、敢なくも、「駄目だ」と宣告された。万事休すである。

 私のパソコンはこれで五代目である。一番最初は長女が1996、7年ごろ誕生祝いにプレゼントしてくれたiMacであった。我が家庭にiMacが運び込まれた時は、かつてのテレビ時代の黎明期を思わせる喜びぶりだった。私は、ひょんなことに1967年商業高校での初任の時、会計や商業法規や商品という科目とともに英文タイプの科目を持たせられた。それまでこのような前頭葉を使わず側頭葉をのみ働かせるタイプ打ちは良くないと主張していた「数学者岡潔」の信奉者であり、専門学校ならともかく、高校教育がやるべきでないと考えていて気の進まぬ授業であった。しかし、教師である限り、そんなことは言っておれぬ、やむを得ず、自らも練習に励んだ。その後、1970年代、80年代とワープロは事務機の主流の一つとなった。こうしたお陰で、私は同年輩のアナログ世代を尻目にデジタル社会に一早く雄飛する準備が出来ていた。

 残念ながらそのiMacは3、4年で使えなくなった。同時に職場ではどうしてもWindowsが主であったので、苦労したが、次男の勧めもあり、ソニーのVAIOを購入し、定年までこの機種で過ごした。ところが、この頃であろうか、今度は次女がMack Book Airをプレゼントしてくれた。Windowsのバージョン変更の動きもあり、この久しぶりのMacで潜り抜けることができた。しかし、この機種も数年足らずで充電機能が働かずダウンしてしまった。再び次女が今度はMac Bookを買ってくれた。これが年末使えなくなった、私にとって五代目のパソコンになる。かれこれ都合7、8年ほど使ったのだろうか。

Mac二台に久米律子さんのGrace3
 こうして我がパソコン人生は終焉を迎えつつある。今、打っているパソコンはやはりMacだがデスクトップ型であり、私のパソコン人生にとっての初代にあたるiMac以来のデスクトップ型である。これはこれで三男の深い配慮で使わせていただいている。だから、これをカウントするなら、六代目となる。ノートパソコンの使い勝手はないが、部屋の衣替えをして初代のIMacの位置に設置した。

 Net社会にいち早く馴染まされたのは、長男であり、次々、五人の子供たちは、その後に続き、Net社会に捕まえられ、泳ぎ切っている。遠くパリに20年の長きを数える滞在が許されているのも、まあ言うなればNet社会、グローバル社会の特徴であろう。一人、我が連れ合いはNet社会に乗り損ね、今もアナログ社会を満喫しており、家族にあって大切なその証人となっていてくれる。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。(旧約聖書 伝道者3章1〜2節)

2024年1月7日日曜日

メモリアル・トレインの「暖」

北風に 記念トレイン 暖運ぶ
 昨年の11月、東武野田線の古利根川の鉄橋の側で、何人かの人たちがカメラを向け、待ち構えていた。どんな電車が来るのかと思っていたら、朱色の車体の電車だった。青い空や常緑樹の緑などを背景に色鮮やかな印象が残った。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/11/blog-post.htmlその電車に今朝は偶然乗り合わせた。傘寿を過ぎたと言うのに、年甲斐もなく、興奮して手ぐすね引いて、iphoneで4枚ほど撮った。

 乗ってみて驚いた。車内には、かつての東武電車の車体などが、霊験あらたかの如く、写真となって、いつもは広告板と利用されているところに、所狭しと何枚も一斉に展示されていたからだ。左に掲げたのは、その意義を述べた文章の一つである。乗車時間は春日部・岩槻間のわずか10分足らずだったが、その電車はメモリアルトレインで後尾車両のお尻に当たるところに「東武鉄道杯少年野球大会」と銘打っていた。始めて昨年、人々が写真を撮りに集まって来る理由がわかった。東武鉄道が、車両開発を記念して、いつもはその路線では走っていない車両をこうして走らせているのだ、と。

 こうして着いた岩槻駅駅前のワッツコミセンのお借りしている多目的ルームで、今年初の礼拝を持った。いつもどおり、賛美と聖書の朗読と祈りを、示された者がするという自由なスタイルである。事前の打ち合わせは一切ない。一年52週、愚直に各人が御霊に示されたまま参加している。牧師のいない私たちの集会は、まさにここ数日連載したモラビアン兄弟団が志向した「ユニクス・フラトルム(兄弟の教会)」である。

 その最後にささげられた、聖書朗読の箇所と祈りには嬉しくさせられ、主の御名を崇めざるを得なかった。それは昨晩、家庭で輪読し、そのことについて書かれているF.B.マイヤーの「きょうの力」を読んだ以下の霊想に通ずるものがあったからである。

私たちが神によりたのまないのは、神を知らないからです。もしも、神の神たることを知ったならば、どうして神によりたのまないことがありましょうか。人はよく自分の信仰の小さいことを嘆きます。その原因は神を知ることの少なさにあります。あるいは私たちは神については知っているかもしれません。けれども、神ご自身を知らないのではありませんか。人々が神について語っていることは多く聞きます。けれども、自分自身で、直接に、人格的に、神ご自身を知らないのです。

神を知る材料は至る所にあります。自然にも、聖書にも、また諸聖徒の模範にも。そして、何よりも、「自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう」という、主ご自身の論理を突きつめて考えてください(マタイ7・9、10)。ちょっと知っただけでは、友人を知ることはできません。神はなおさらです。もっとゆっくり、もっと深く、もっと親しく、顔をあわせて、神ご自身を知りましょう。

 このようにF.B.マイヤーが書き記した(『きょうの力』328頁)のは、下段にお示しする聖句だった。そして、先ほどの最後の方というのは、お年を召してから、主の救いにあずかられた元国鉄マンであったが、その方が読まれたのも同じ聖句をふくんだものであった。顧みると、礼拝に参加するために、寒風の中「暖を運ぶトレイン」に乗車した私は、礼拝においては、その元国鉄マンの方の祈りに励まされ、心の中に「暖」をいただいたと言える。記念にその聖句を記す。

御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね呼び求める者をお見捨てになりませんでした。(旧約聖書 詩篇9篇10節)

2024年1月6日土曜日

ツィンツェンドルフ伯爵(補遺編)

白鳩と 小春日和を 分かち合う
「ツィンツェンドルフ伯」と題して過去三日間、長々と書いてきましたが、モラビアン・ミッションの成り立ちについて、海老澤氏がそのヘルンフートの故地を訪ねて、帰国後書かれたレポートをこの機会に転写します。(『海外伝道物語』5〜12頁より※。)

神の国のために

 今しもデンマークの国中、歓喜にあふれて、会堂の鐘は鳴り響くのであった。

 それは若いスエーデンの王チャールズ第十二世の凶暴な手より逃れ、彼の軍隊はデンマークから撤退して平和が回復されたからである。

 デ・デアムの聖歌の声はすべての会堂から洩れてくる。この日デンマーク王フレデリック第四世は、深い感激をもって会堂から出てきた。彼の心の中に、不思議にも、神の恵みを、この本国の臣民ばかりでなく、海外の属領、そこには白人を牧する牧者もなく、ましてや異邦人の魂に心を用うる何者もまだおらない所の海外に、福音の伝うべき責任のあることを、ささやいてやまぬものがあった。彼はすぐに宮廷牧師を召してその心中を打ち明けた。

 先ず最初に宣教師をインドへ送らなければならぬ。「それはデンマーク国家のための事業でなくして、神の国のためであらねばならぬ」と彼は言い、宮廷牧師にその宣教師の推薦を命ぜられた。

 宮廷牧師は考えてもみたが、どうもデンマーク人中にその適任者の心当たりがなかった。それで当時ドイツにおいて、キリストのために特殊な献身の覚悟をなした一団の者を率いて、ドイツルーテル教会に新生命をそそぎつつあったスピネルという人に手紙を認めたのであった。

 その一団とは世に「敬虔派」と呼ばるるところのものであり、敬虔派とは、神の聖言(みことば)を研究し、そのごとく生活せんとする主意によって結成された一団であった。そこでスピネルはその一団の中から、特に青年チーゲンバルグを選んで、海外伝道の準備のために、彼をハレ大学へ送った。

 当時ハレ大学にはオーガスト・ヘルマン・フランケがおった。彼は教授であると共に、一大孤児院の創立者であり、貴族の子弟を収容する学校の校長であり、その大学、その町で、有数な人物であった。彼は海外伝道の熱心家であって、その頃支那伝道のことをしきりに考えていたのである。

 前途有望の青年チーゲンバルグは、フランケ教授の下に、異邦人の使徒となるべき準備をなした。

 そしてその親友ブルツチャツと二人は、1705年10月に、コペンハーゲンへ往って、フレデリック第四世に謁見した。その後インドへ出かけて往き、この王および英国の友人らの後援の下に、インドに新教のミッションを開設したのである。

 これは、我がモラビアン教派の運動の先駆と言ってよい、これからツィンツェンドルフ伯爵の活躍する舞台が展開してくるからである。
           ☆
 10年の後、休養のため、インドの宣教師チーゲンバルグがドイツに帰国した。彼はインド人の信者二人を同伴して帰った。そしてその一人は将来伝道する目的で、教育を受くることとなった。

 ハレにおけるフランケ教授の家で、この珍しい宣教師に逢い、その話を聞いた者の中に、熱信な青年貴族、我がツィンツェンドルフ伯爵がおったのである。伯爵は当時同大学に学び、その学生間に、すでに「芥種(からしだね)の会」というのを組織していた。その会の目的はユダヤ人を始めすべての異邦人を教化するというのにあった。そのような心がけで、今海外から戻った宣教師の話を聞きその生きた証し人たるインド人を見て、伯爵はどのように激励されたであろうか。若い貴族の信仰の血は燃えた。

 そして伯爵はその親友の一人、フレデリック・ホン・ワッテビルと契って、何れの時か、神様が選び給う宣教師を用いて、他の何人も伝道しない地方に、福音を伝えるミッションを開始しようと決心していた。少年は成人した。神は時至って彼らにその働き手を与え給うのであった。

兄弟教会の人々

 三十年戦争によって打撃を受けて離散したユニクス・フラトルム(兄弟の教会)の残党が、その頃まだ、モラビヤの地方に彷徨(さまよ)うて、その信仰と実行を継続していた、彼方此方にその尊い信仰と伝統とを持っている家々があったが、次から次とこれを訪ねまわっていた一人の篤志家があった。その名をクリスチャン・ダビッドと呼ぶ。

 彼はかつてローマ・カトリック教の熱心家で、ほとんど狂熱的であったが、のち漸くその良心に不安を覚え、信仰の自由を求めて彼方此方を流浪していた。ローマ・カトリック教会の圧制の下に、聖書を読もうとしても、秘密にして持っていなければならず、その上、信仰上の光を求めても誰一人導いてくれる者のない当時において、ダビッドは自身の宗教経験から、かかる人々の助け手となっていた。彼らの間には、何とかして自由の天地に信仰を楽しみ、良心の満足する宗教生活をしてみたいという熱望が、自然に湧いてきたのも無理のないことである。

ツィンツェンドルフ伯爵の保護

 「ツィンツェンドルフ伯爵の領地内にその安住の地が求められよう」というニュースは、彼ら同信の友には、実に神様からの恵みの音づれと響いた。当時ツィンツェンドルフ伯爵はすでに二十二歳の青年で漸く丁年に達して、伯爵と同様に神の国の事業に熱心な美しい夫人と、結婚するばかりになっていた頃であった。斯くてモラビアンの一小団、大人五人小児五人の一行が、身に一物も持たずに、夜陰に乗じて、住み慣れた今のチエコスロバキヤの地方を逃れ出て、ダビッドに導かれつつ、約束の地を目ざし、寂しい森の中を辿って、旅を続けた。ただ信仰自由の境地が、南ドイツの彼方に見出されるであろうという望みをもって・・・

 彼らは、斯くてサクソニーの一小邑ヘンネルスドルフへ辿り着いた。そこには伯爵の祖母の住み家があって、伯爵の幼年時代を過ごした村である。そこで伯爵の家庭教師はこの亡命客の一行を熱心に親切に世話してくれたのであった。 

 彼は、一行に、今のラバウとチッタウとの間の道路に沿った地をあてがった。それは一行の中の二人が鍛冶屋の経験をもっているので、この地方の道路が悪いために、車の輪が多く破損するから、この辺に落ちついたならば、仕事にありつき得るであろうという予想からであったという。

 彼はまた一行が木を伐って家を建つべき地点までも指し示してくれた。そこでダビッドはその斧を木の根に打ち込みながら、感謝と感激とにあふれて
   「まことや雀はやどりを得
        燕(つばくらめ)はその雛(ひな)を入るる巣を得たり」
と歌いつつ、働いたということである。それは1722年の6月17日のことであったと、その地点に建てられた記念碑に刻まれてある。

 ツィンツェンドルフ伯爵の教師は、この森の中に、泉を中心として、一つの広場を設け、市街を建設すべき考案を描いていた。けれどもそうするうちに冬が来て、ただ漸く淋しい森の中の路傍に、最初の一軒ができただけであった(この最初の家はその後火を失して半ば焼けたが、残された材木をもって、ツィンツェンドルフ伯爵の肖像を納める額縁が造られ、私も記念のためにその小さいのを一つ求めて帰った)。

 ある日のたそがれ時であった。若い夫人と馬車を駆って、その家路についたツィンツェンドルフ伯爵は、森の木立の間から、洩れ来る光に目をとめた。馭者に聞いて見ると、あれが信仰のために遁れて来た人たちの家であるという、伯爵は馬車から下りてその家を訪づれ、親しく歓迎の意を表せられた。伯爵がまことに愛と信仰とに満ちた好個のキリスト者であったことは、こうしたことによっても窺われる。

 彼の領地に定住することとなったのであるから、事実上彼の家臣である。けれども伯爵が彼らと共に跪(ひざまず)いて、彼らとその家とを祝福するよう神に祈られた時、主従の関係などというものは少しも感ぜられなかった、これがヘルンフートの小邑の始めであり、モラビアン・ミッションの起源をなす出来事であった。

ツィンツェンドルフ伯爵の指導

 その後もツィンツェンドルフ伯爵は、ただに保護者であったばかりでなく、その信仰、人格において終わりまで一団の指導者であった。彼は自ら毎回司会をして多くの歌を歌わせ、礼拝を守る習慣をつくった。また最初より兄弟主義をもって一団を律し、単純質朴をもって教会の風とした。今もなお婦人は教会に出席する時は、必ずレースの白頭巾をかぶり男女席を別にしている。昔は婦人たちが皆同じ質素な制服を着ていたというが、今は服装は色々である、そしてそのキャップを結ぶリボンの色によって、寡婦は白、夫人は緑、娘はピンク、少女は紅というように区別されている。後に宣教師を海外に派遣するようになった時には、その伝道地を、他の教団の手をつけぬ最も困難な地方、西インド、グリーンランド、ラプラドル、北米土人、南ア、ヒマラヤなどを選んだ。また伯爵自身西インドまで伝道視察に赴かれた記録をも見出されるのである。

 伯爵はまた教会のためにその領土中半径三マイルの一円の山地を与え、永くミッション事業を継続せしめた。従来その収入をもって伝道事業上に多くの便宜を得ていたが、大戦以後はサクソン州庁に貸与しているその土地から得るところは極めて少なく、ために事業上頗る困難を感じているという。それにしてもかかる篤信の領主の下に、一団の特殊な信仰団体が発展し来たって、全世界の伝道を企てつつあるのみならず、その感化はアングロ・サクソンの伝道熱心に点火し、殊にウェスレーを通じて全世界一千万の会員を有するメソジスト教会の運動を巻き起こさしめたことは驚くべき感化力と言わねばならぬ。

※ 以上、「モラビアン・ミッションの起源」と題する海老澤氏の論考でした。なお、同書は国会図書館内でデジタル化されています。全文は74頁の小冊子ですので、すぐ読めると思います。興味のある方はそちらの方もご覧になられてみてはいかがでしょうか。参考のためにサイトを記入しておきます。 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000646738

彼(ノア)は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ、むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。(旧約聖書 創世記8章8〜12節)