2018年9月8日土曜日

優先席の妙(下)

玄関上部(黒塗りは戦争中に強制的に塗らされた外壁)

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。(使徒17・26)

 熱海でその方とお別れしての長旅のネット検索で、この女性宣教師は東北のその地では有名人で、1976年に召されたが、2012年に彼女の85年の生涯が本となって公刊されていることを、知った。いずれその本『みちのくの道の先』を読みたいと思っている。

 しかし、関西の家に帰ったのは午後8時ごろになった。暗い中、玄関の惨状と庇が落ちている現場を確認した。昼間のあの不思議な感謝に満ちた出会いにもかかわらず、再び現実に帰って気が重くなった。早速、知り合いの大工さんに電話を入れ、対応をお願いした。

 翌朝(9月6日)テレビでまさかの北海道の震災を知る。早速、札幌の知人にお見舞いの打電をした。段々、様子が明らかになるにつれ、北海道全域が大変な惨状に見舞われていることを知った。そう言えば昨日ご一緒したご婦人のお嬢さんは函館にいらっしゃると聞いたばかりである。さぞかし、その方も不思議な車中の出会いや同窓会の楽しい思い出の中で今では娘さんの安否を思い心を痛めておられるのだろうと想像した。

 その函館は実母が生前、さんざん私にその地名を聞かせた都市である。実母は私の父と再婚する前、関西から函館の近くの森町に嫁いだからであった。そして先夫が戦死したため、北海道から引き上げ、今の私の家を建てたのであった。考えてみると玄関のガラスはそれ以来、無傷で戦時中も問題なく、今回の台風の結果78年ぶりに壊れたことになる。これまた不思議な巡り合わせである。

 テレビはこれまでは関西における台風21号の惨状を報道していたが、6日からは北海道の震災に重点を移さざるを得なくなっており、死者のニュースに全国民が心を痛めている。かつて、2011年の3月11日の東日本の震災の時は「泉あるところⅢ(現在のOpen Windows 私訳)」を展開していたが、さすがにこの時はブログを更新する気になれなかった。そんなことをしている暇があったら現地の苦悩を思えと神様から問われている思いがしたからである。

 今回は東日本大震災ほどの壊滅的な影響をなさそうであるが、夏以来頻発に起こる災害が身辺に例外なく襲ってくることへの教訓は大きなものがある。台風の被害は周辺の家で私の家だけであった。東風をもろに受けて必死になってガラス戸は耐えたことだろう。しかし、詮方なかった。これは運が悪かったからであろうか。

 生けるまことの神様はすべてのことをご存知で事を起こされている。誰もが未来のことはわからない。しかし創造主である神様は私たち一人一人に「わたしを知りなさい」と「雨が降っても、雨が降らなくとも」一人一人に教えておられることを忘れないようにしたい。主なる神様は私たち一人一人に「優先席」を用意なさっているのである。それこそ、弱った者、気落ちした者に対する「優先席」である。いやそれだけでない。素敵な出会いを演出してくださる席でもある。

 最後に冒頭のみことばの次の言葉を写しておく。これはほぼ2000年前パウロがギリシヤのアテネで人々に語った一節である。

これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

2018年9月7日金曜日

優先席の妙(中)

ふるさとの玄関引き戸(左側半分がガラスが台風のため破損)
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103・1〜2)

 東京から熱海まで快速アクティーの所要時間は1時間半ほどである。そのようにして優先席でたまたま相席になった私たちはとうとうその全時間を一緒に過ごすこととなった。双方とも最初は全くそのようにお話をしてお交わりする意志はなかったと思う。お互いに全く素性も何もわからない同士であり、まして異性同士であるから当然と言えば当然だ。

 ところが、豈図らんや、意外なところから双方の話が噛み合い始めたのである。そもそもそのご婦人は熱海での大学の同窓会出席のため、東北から上京され東京を経由しアクティに乗られた。私は故郷の家が台風で大変な目にあっているので、関西へと帰る旅路であった。家の管理がままならぬことをその理由をふくめて語っていた。それは私たち夫婦が結婚する時、両親に反対されたため、中々故郷に帰る機会が縁遠くなってしまい、とうとう両親も他界し今やこの歳になったのだと話していた。

 そのご婦人はなぜ私たちの両親が結婚に反対したかを聞きたがられた。私は正直にありのままを話した。それは私たちが仏教徒の家に産まれながら、主イエスを信じてしまったことに端を発し、家にキリスト教を持ち込むなと言う反対であった、と説明した。

 ところが、そのご婦人はそのことをきっかけに御自身が日曜学校に通ったことや、幼稚園も、小学校も中学校も宣教師が設立した学校に通ったことを思い出されたようだった。戦後間もなく、アメリカからお見えになったその女性宣教師は学校、医療事業、酪農とキリスト教精神に基づく活動を行ない、母が家は仏教であるが、仏教では精神性が養えない、どうしてもキリスト教が必要と考え、自分だけでなく兄妹四人全員が同じコースを歩まされたと言われた。

 その頃は一日の朝の始まり、また食事のとき、また寝るときと四六時中、神様への「祈りの生活」があり、毎日感謝し、一日の終わりは反省の時であった。あのような生活はもう今ではすっかりなくなってしまっている。あの精神性は母が行かせてくれなかったら不可能であった。そして、そう言えば、自分は三人の子供を全部公立に進ませた。母のようなことは考えなかったのだなと感慨深げに述懐された。

 私はお聞きしながら、その女性宣教師の生き方に瞑目させられ、さぞかし「あなたはその宣教師に愛されたでしょうね」と申し上げると、「そうじゃないのですよ。私はしょっちゅう叱られていたのです。もっとも私は兄たちと違って落ち着きがなかったからです。」と恥じらいながらも話してくださった。その学校は少人数教育で十人足らずだという。私は勝手に『二十四の瞳』を思い出しながら、その方の幼き頃を想像して聞くことに熱中した。

 そう言えば、私は今も余技にお習字をやっていますが、その宣教師の建てられたミッションの学校での教育の賜物なんですねと改めてその宣教師との出会いを感謝された。私は本来はその席でゆっくり昼飯を食べるつもりでいたが、とうとうあきらめ、そのご婦人から聞かされる話に魅了されっぱなしであった。熱海でお別れする時、お互いに氏名を交換しあった。私の名前をいい覚えやすい名前ですねと言ってくださった。私にもそのご婦人の名前はそれに劣らず覚えやすかった。でも私は口に出さず、心にお名前を銘記した。その方は1949年生まれ、私は1943年生まれであった。

 関西へ暗い気持ちで長時間列車を乗り継いでの「青春十八切符」を使用しての帰省は最初気が重かった。でも、こんな素晴らしい出会いがあるのはきっと何か意味があるのだと思った。

2018年9月6日木曜日

優先席の妙(上)

ある結婚式の受付
目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神が備えてくださったものは、みなそうである。(1コリント2・9)

久しぶりに、18切符を使った。ちょうど折悪く、当初予定の日は台風21号の西日本上陸とぶつかってしまい、一日延期した。延期せざるを得なかったその日の夕方、故郷から電話があった。胸騒ぎがした。案の定、家が台風襲撃をもろに受けたようだ。庇(ひさし)は飛ばされ、玄関の引き戸はガラスが割れた、という連絡であった。

 「取るものも取り敢えず帰る」とはこのことだ。もはや18切符などを使っている余裕はない。新幹線ならものの二、三時間で故郷に帰れる。しかし在来線は運転見込みがないという情報だった。散々迷った挙句、結局折角購入した18切符で昼ごろ出発した。東京11時37分発熱海行きアクティがその最初の電車であった。こういう場合、いつも優先席を利用することにしている。ところが生憎その席は外人観光客が座っていた。日本人なら気を利かして譲ってくれるのにと思いながら諦め、別の席に座った。その時、列車を待つ間に私の後ろに一人の年配のご婦人がいたことに気づいていたが、彼女は席がなくつり革につかまっていた。ところが何駅か通過する内に外人が降りるのが見えた。

 私はすかさず、優先席に移動し、つり革にすがっていたご婦人に私のその席を勧め譲った。ところがしばらくして、そのご婦人ものこのこ優先席にやって来て、私の隣に座った。ちなみにこの優先席は座席が二つ切りである。いつもは家内と旅をするので大抵家内とその優先席を利用している。その席に見知らぬとは言え、先ほど席をお譲りしたばかりのそのご婦人が隣に来られたのである。この優先席は車両の隅にあり余り目立たない場所にあるのでこっそり食事をするのに打ってつけの席である。昼時であり、中々食事を取る時間がない時死角とも言える優先席は格好の席なのだ。彼女がどのような算段をして来たのか、今思い出したが手荷物が多く優先席はそれを置くのに便利なようにつくられているので何となく優先席に移って来られたようだった。

 さて、この方と隣り合わせになったのは以上のような次第であるが、そこには主なる神のすぐれたご計画があったのである。その委細は明日に譲る。

2018年7月7日土曜日

父と子

カルミア 仙台駅頭にて(5.27)

人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。(1ペテロ1・17)

 東京新聞の夕刊に『この道 小松政夫』と題して自叙伝が連載されている。その第四回目は「釣り」という題で小松氏が幼い時お父さんに一緒に連れて行ってもらった思い出話が書かれている。そこに次のような数節がある。

 河口近くの鉄橋の橋げたが父の釣りポイントでした。橋には砂利と線路があるだけで、手すりも何もない。風がビュービュー吹いている。父はゲートルと地下足袋をはき荷物を持ってひょいひょい先へ行く。私は「怖い、怖い」と腹ばいになっていると、父は「おまえは遅いからうちの子じゃない」と言って、どんどん離れていく。「はよこんかーい(早く来いよ」と叫ばれても動けない。すると父がびゅーっと全速力で戻ってきた。「ああ、くらさるる(なぐられる)」と覚悟したら、父は私をぱっと脇に抱えて近くの橋げたにぽーんと飛び降りました。その上を電車がギュワーンと走り抜けていく。汽笛も鳴らさない。父は震えながら「こん(この)バカが」と言いました。

 私は人一人しか渡れない一本橋を渡るのが怖くって、先に渡った友達と一緒に遊べなかった記憶がある。今でも苦手である。小松氏は私よりは腹が据わっていらっしゃるようだから、そんな一本橋は難なく渡られると思うが・・・。それにしても父親について述べておられるくだりは一つ一つ父親の厳しい姿と愛を見いだすことができる。小学生の頃だったか、父と一緒に船に乗って琵琶湖を航行したことがある。湖が荒れ、今にも転覆しそうな勢いであった。私の小さい心は縮み上がっていた。そこへ行くと父は酒を飲んでいたせいもあるが、「もっと揺れよ、もっと揺れよ」と楽しんでいた。そんな父がうらめしかったが、彼我の違いを感じた時でもあった。父がどうあるべきか小松氏の自叙伝を通して多く教えられる。

 さて、そんなことを思っていたら、冒頭のみことばについて笹尾鉄三郎氏の講義録(『笹尾鉄三郎全集第4巻264頁)を読む機会があった。彼は述べる。

人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら」、神はこの民はイスラエルなのだから、こればかりの罪は大目に見、これは異邦人だから遠慮なく罰するというようなことはなさらない。罪であればどこまでも憎み、信者、未信者にかかわらず、悔い改めて血潮※を受けたかどうかにおいて、それぞれの行いに従って報いをなされる義しき神である。※引用者注 イエス・キリストが十字架上で私たち罪人の身代わりに死なれ流された血潮、いのちを意味することば。
 「父」とは大変自分に近いもので、愛の方面から言えば実になれなれしいが、彼は私どもの畏るべきお方である。だから、一方に非常に恵みを感じ、一方では非常に畏敬戦慄を生じるものである。この二者は単に衝突しないというだけではなく、この畏れと安息とは常に伴うのである。だからもし一方に偏している者は、どちらに偏しているのであっても、両者とも救いを全うするものではない。

 まさしく至言である。それにしても鉄橋上でいのちを落としそうになった小松政夫氏のいのちを救ったお父さんの愛は父なる神様のひながたではないか。

あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。(出エジプト19・4)

2018年7月6日金曜日

蜜の一滴であろうとはつゆ知らず

谷口幸三郎 展 『こどもの絵』 西荻・数寄和
わたしは傷つけ、またいやす(申命記32・39)

 みなさん、恩寵があなた方とともにありますように! アァメン。私は、いま、あなた方の目の前から連れ去られて囚われの身になっているので、あなた方の徳をすすめて信仰や聖潔をさらに築き上げるために、あなた方を守るよう、神から課せられた私の務めを果たすことができない。だが、私の魂が父親らしい心遣いをもってあなた方の魂の永遠の幸福を願い求めていることは、みなさまにもお判りであろう。私は、以前と同じように、いまもう一度、セニルとヘルモンの山頂からあなた方を見守るとともに、さらにいまは、「獅子のほら穴、ひょうの山」(雅歌4・8)から見守って、あなた方が無事に目指す港へつくよう心から願っている。

 あなた方のことを思うたびに私は神に感謝している。私は荒野で獅子の歯にくわえられている時でさえ、神が溢れるほどの信仰と愛とをもって、あなた方に授けたもうた救い主キリストの恩寵と憐憫と知識と、御子のうちに父なる神をさらに深く知り親しもうとしているあなた方の飢えと渇きとを見て嬉しく思っている。あなた方の心の優しさ、罪に対する恐れおののき、そして神の前でも人々の前でも真面目で聖い態度を持っていることなども私にとって大きな慰めである。「あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです」(1テサロニケ2・20)

 私は獅子の屍から採った蜜の一滴を、ここに封じて、あなた方におくる(士師記14・5〜8)。私もそれをなめて、たいへん元気づいた。(試練は、はじめて出会った時には、サムソンに向かってほえかかった獅子のようなものだが、それに打ち勝ってから、もう一度見直すと、その中にみつばちの巣があるのに気づく。)

ペリシテ人たちには私の言う意味はわかるまい。それは、そもそもの初めから、今でもなお、私の魂に対する神のわざに関することであって、あなた方にもお判りのように、私は幾度も打ち倒されてはまた起き上がったのである。というのは、神が私を傷つけ給い、そしてその御手で私を癒し給うたからである。聖書の中のイザヤ書第38章19節には「父は子らにあなたのまことについて知らせます」と書かれている。しかり、このゆえに、私はシナイで長い間横たわり(レビ記4・10〜11)焔と雲と暗黒とをみて、「我が世にあらん限りはエホバを畏れ、そのなし給える奇しきみわざを子孫に語り伝え」たいものだと思った(詩篇78・3〜5)。

(『罪人らの首長に恩寵溢る(キリストにおける神の広大な御恵みが、その貧しいしもべジョン・バンヤンに与えられた短い物語)』バンヤン著小野武雄訳 新教出版社1951年版13〜14頁より引用。一部新改訳版の聖書に変えたところがあり、また文中の「試練」は原文は「誘惑」だが、あえて昨日の柳田氏にならって「試練」に置き換えた。これはバンヤンが入獄中執筆したもので、その冒頭の箇所である。1666年にイギリスで発行された。名誉革命の2年前である。青字の部分を柳田氏は『ペテロの手紙の研究』の末尾の方で、「苦難」について説明するために引用されていたので掲載してみた。)

2018年7月5日木曜日

苦難の意味

谷口幸三郎 展 『こどもの絵』 西荻・数寄和

あなたがたが召されたのは、実に(苦しみを受け、しかもそれを耐え忍ぶようにと)そのためです。(1ペテロ2・21)

 苦難は、いつもわたしたちを、なにかの形で、意地悪く、死の前に立たせる。この意味で、苦難とは、わたしたちが、生のただ中で、意地悪く押しつけられる、なんらかの死の体験である、と言えよう。「意地悪く」というのは、苦難においてわたしたちに語りかけてくるのは、いつも悪魔だからである。悪魔は、苦難において、わたしたちの生の唯中になんらかの問の形で死の恐怖を持ち込む。そして、わたしたちをまごつかせた末、まんまとこの恐怖のとりことすることによって、わたしたちに信仰の確信を放棄させ、わたしたち自身を進んで死の支配に委ねさせるように仕向ける。

 たとえば、わたしが病床で、肉体の耐えがたい苦痛をとおして、「あなたの罪は本当に赦されているのか」と問いかけられる場合、この問いは、否定の答を期待しているのである。だから、悪魔のいじわるな問なのである。そこでわたしが、かりに深刻な表情で、「いや、わたしの罪は本当に赦されてはいない」と答えれば、それこそ悪魔の思うつぼにはまったことになる。

 こう答えた瞬間に、わたしの肉体の耐え難い苦痛は、文字通り、わたしの犯した罪に対する神の怒りの火となって、わたしの上に降りかかってきて、わたしを責めさいなみ、のろわれた絶望感と、孤独感とに突き落としてしまう。この時、わたしはもはや信仰の確信を放棄してしまっている。わたしの全生涯をかけた信仰の努力は、水泡に帰してしまい、わたしは敗残者として死につかなければならない。この唯一つの失答によって、いっさいは終わりを告げる。

 けれども、この場合、わたしが真実に、キリストにあって病苦を耐え忍んでいるとすれば、わたしはかならず、悪魔のいじわるな問にさからって、こう答えるにちがいない。「そうだ、キリストはこのわたしの罪のために死んでくださったのだから、わたしの罪は本当に赦されているのだ。今、わたしがもっともみじめな者に見える、この死の苦しみのただ中でさえ、真実に、完全に、赦されているのだ。悪魔よ、キリストが御父の御旨に従って、お前が彼に押しつけた死の苦しみを従順に耐え忍ばれたように、わたしもキリストの御足の跡に従って、今お前が押しつける同じ苦しみを、従順に耐え忍ぶ。それは、キリストとともに死人の中からよみがえるためである」。

 こう答えた瞬間、わたしは、無数の天使の軍勢の吹きならす勝利のらっぱと、さんびとほまれの歌とに、かこまれているのに気がつく。死の苦しみを乗り越えて、わたしの信仰は、疲れ果てた魂の中に生き生きとよみがえり、天からの喜びにみたされて、いよいよ高揚する。キリストの血が、わたしを死の支配からあがない出したことを、いよいよ固く確信する。わたしの外なる人は、死の床にあえぎ苦しんでいるが、内なる人は、復活の大気を呼吸している。わたしは悪魔の試練に打ち勝った。勝利の喜びは、全身全霊に浸透し、わたしを救った神への感謝は、高まるばかりである。神の守り、キリストの臨在、インマヌエル、契約の民であることの確信は、死の苦しみを貫いて、いよいよ固くされる。

(『ペテロの手紙の研究』柳田友信著 1960年 聖書図書刊行会発行 209頁より引用。引用者はかつて柳田友信氏から日本文化史だったか、ルツ記だったかの講義を受けたことがある。それは1980年前後だと記憶するが、その時の氏の熱弁ぶりは今も鮮やかに思い出すことができる。確か、着物姿で現れ、風呂敷包みにたっぷり本を忍ばせておられたように思う。最近縁あってこの書物を熟読・再読しているが、柳田氏の信仰が紙面から飛び出さんばかりの勢いをもって迫ってくる。それでいて引用文献も豊富正確でキリスト者必読の文献の一つであると思う。)

2018年7月4日水曜日

紫陽花のひとりごと



わたしに聞け。・・・胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。(イザヤ46・2)

 すっかり暑い夏になってしまいましたね。連日のサッカーフィーバーも日本チームの善戦による惜しい敗戦の挙句あっけなく幕を閉じましたね。さて、今日は10日ほど前に私が見聞きしたことをお話ししましょう。
 その日、私は店主の方がとっておきのお客様にと花瓶に活けられたのです。もちろん、私とて畑でのびのびと羽根を伸ばして生きている方が良いに決まっています。そこで人知れず枯れていくのが私の使命ですから。でも、この時は切られながらも何となく待ち構えている僥倖に心がときめいたのです。
 その日、室内にお客さんが六人入ってこられました。皆さん、立席のテーブルに誰がどこに座るかお互いに譲り合いながら、庭の緑滴る木々に一同で見とれておられ、部屋の隅にある私に目を留めておられなかったようです。かえってそれは私にとって好都合でした。皆さんのお話をゆっくりお聞きできたからです。
 こういう席に立ち会うのはもちろん私はこれが最初で最後になりましたが、私にとって幸いでした。この六人の方の語らいが自然に進んでいる中で、30年以上前の両者の共通の知人の話になったからです。

「Kさんには大変お世話になり、一緒に学年を持ちました。その縁で結婚式※にも招待されました」
「ヘー、結婚式には私たちもまだ当時7ヶ月だったこの子を連れて出席しましたよ」
「すると、あの結婚式にいらっしゃったのですか。確か新郎の恩師が中野孝次さんで、のちに『清貧の思想』を著されましたよね。」
「そうです。私たちはKさんご夫妻が結婚されるにあたりキューピット役だったんですよ。それから、私たちの結婚式では逆にKさんに司会をしていただいた間柄なんです」
「そうですか、不思議ですね。(私はお二方とお会いするのが随分と遅れたので内心心配していたのですが、それこそもう随分前からお互いに結ばれていたのですね)」

 こんなふうに話が弾むなんて珍しいと皆さんが思われたのでしょう。その後、六人の方々の間でさらに親しみの感情が増し加わり、室内の空気がより濃密になりました。私の肌にもそれが何だかじかに伝わってきた思いでした。宴も終わり、ほっとした皆さん方が私のそばで写真をお互いに撮られました。それはそれはいい晩でしたよ。私はその晩花瓶から出されましたが、神様の摂理を思いどこにいようとも、神様にお従いすることが私たち被造物にとって最大の幸せだと思ったことです。

※家に帰って探してみたら、当日の結婚式の資料が『御列席者御芳名 1986.11.22 於 日比谷松本楼』として私のファイルに大事にしまわれており、当日の出席者の名前とプロフィールが紹介されていた。ちなみに差し障りのないところで前述の中野孝次氏の紹介文は「作家。元国学院大学ドイツ語教授。同山岳部部長。新郎を始め山岳部の者が公私とも、本当にお世話になった先生」とある。もちろん私たちのプロフィールももそこに載せられていた。