昨日は東京・赤坂の病院に入院中のYさんを家内と一緒にお見舞いした。火曜日にもお見舞いしたが、そのおり、また「(お見舞いに)来てね!」と言われていた。重篤だと聞き、気になったので時間も遅かったが思い切って訪ねた。Yさんは7月1日に入院されたばかりだから半月余り経ったところだ。ところが当初から治療は難しく、痛みを抑えるペインクリニックを専ら受けているということだった。また病気の進行が早く予断を許さない状況にある、とも言う。
彼女は昨年12月に近江八幡の「喜びの集い(聖書を中心とした交わり)」に出席し、私の滋賀の家にも泊まっていき、短期間ではあるが私たち夫婦とお互いに親しい交わりを与えられた。もともとは3、40年来のつきあいではある。また、互いに教会活動・集会生活を通して辛酸を分け合ってきた間柄でもある。けれども、彼女と私が親しさを覚えるようになったのはそんなに古いことではない。何年か前に、私の「みことば」のメッセージを聞いて、彼女が近づいてきて「やっと、○○さんがわかった。教会のときの○○さんは私たちとは別の人だったと思っていたが、今日のは良かったよ」と笑顔で声をかけられた。以来、互いに心が通い合うようになったのを覚えている。
昨日のYさんは、鼻に酸素を送られ、黄疸症状が続く、体力的に厳しい状態にあった。私の送る「みことば」のメールももはや今は読めず、お嬢さんに代読してもらっていると言われた。しかし彼女は多弁であった。「自分の肝臓はお医者さんによると雲が取り巻いているそうよ、今朝与えられたみ言葉の通りじゃない?」と嬉々として話すのだった。
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。(新約聖書 ヘブル12:1)
そして今は一児に恵まれ家庭を持っている娘さん夫妻に話したことを私たちにも分かち与えようとされるのだった。「あなたがた(娘さん夫妻)は、いろいろあったけれど、きよい神様の前に正直に出て、自分のわがまま罪・咎をはっきり言い表して神様との平和をいただき、罪から離れて生きるのよ、またもし他の人にイエス様のことを証する機会があったら、自分たちの罪・咎も正直に話し、イエス様の罪の赦しを話したほうが良いよ」と勧めたのだということだった。それだけでなく「主人が・・・してくれたのよ」とやさしい主にある兄弟であるご主人の態度をさりげなく伝えられるのだった。三年ほど前の娘さんご夫妻の結婚を初め三人のお子さん方の養育のためにともに骨をおられたご主人の労をねぎらうかのように。
今彼女の眼中にあるのは、ただ主イエス様の救いの恵みに対する感謝だけだった。家族がより真実に生きて行って欲しい、家族だけでなく親族・友人も主イエス様に頼るものとなってほしいという願いが私たちに切々と伝わってくる。お証を聞きながら私たちもともに感謝の思いで泣いた。彼女の澄んだ瞳は罪よりの贖い主であるイエス様を一人でも多くの人に体験してほしいと、自分の体の苦痛は二の次であることを語っていた。
それでも、昨日のその時間はたまたま姪御さんが付き添っておられたが、「今日初めて笑顔を見せてくれたんですよ、今日は一日笑顔がなかった。」と言われた。辛い闘病生活であることが察せられたが、私たちとの交わりがそんなに彼女を喜ばせたのかと知ってうれしかった。その彼女の笑顔を撮るべく、何度もシャッターを切った。
彼女は病院にお見舞いにくるすべての人に、私は今イエス様のカプセルの中にいて(死の恐怖から守られている)、何の心配も要らない、私だけが先に天国に行ってごめんね、という証を続けている。祈りをともにして地上で交わりを続けている彼女が忠実な主の証人であることを主イエス様に感謝したい。
だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。(新約聖書 黙示7:15)
(のうぜんかつらも様々な色があるようだ。家人に我が家ののうぜんかつらの存在を教えられ、青空を背景に撮影した。「青空に のうぜんかつら ピンクにて 咲き染め友の 優しき瞳」)
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