2010年7月2日金曜日

われもまた囚人なり


 何日か前、ベックさんが茨城の地のある刑務所で刑に服している一人の中国人を尋ねられて豊かな交わりを持たれたと聞いた。その内容がどんなものであったのかは知らないが、以下のスポルジョンの話を読んで、新たな感慨を抱かされた。

 あなたが心の中を見る時、自分を責めるもの以外に何も見ないならば、またあなたが生活を見る時、そこにあるいっさいが神の怒りに値することを見るならば、あなたは希望への途上にあるのです。囚人服を着た囚人として、首にロープを巻いたまま、神の御前に来なさい。その時にこそ、あなたは救われるのです。罪のほか自分自身のものは何も持っていないことを告白する時、自分が死に値し、永遠に捨てられるに値していることを認める時、無限のあわれみに富みたもう神は、キリスト・イエスにある信仰を通して、あなたを生かされるのです。

 ずっと前のこと、ある王子がスペインのガレー船をたずねました。そのガレー船には、たくさんの囚人が閉じ込められて、鎖でオールに縛りつけられていました。ほとんど終身刑であったと思います。王子がりっぱな人でしたので、スペインの王は、王子にこう告げました。「あなたがガレー船をたずねたなら、そこの囚人の中から、任意に選び出した囚人を自由の身にしてよろしい。」

 王子は、囚人を選び出すためにガレー船の中に入って行きました。ひとりの囚人に「どうしてここへ来たのか」とたずねました。彼は、ある人が自分の品性について偽証をたてたためだと答えました。「おお、そうか」と言って、王子は通り過ぎて行きました。

 次に、別の囚人に同じ質問をしました。彼は、「私は確かに悪いことをしました。でも、この船に閉じ込められるようなひどいことはしていません」と答えました。「おお、そうか」と王子は言って、また通り過ぎて行きました。王子は同じ質問を続けましたが、囚人たちは皆良い者ばかりであることがわかりました。皆、まちがって刑に処せられたというのです。

 最後に王子はひとりの囚人に聞きました。その囚人は答えました。「なぜ私がここへ来たかとお尋ねになるんですか。お恥ずかしいことですが、私は十分にそれに値する者です。私は有罪です。夢にも、無罪だなどとは言えません。このように、オールに縛りつけられたまま死んでも、十分その罰を受ける価値があるんです。実際私は、自分の生命がこうして保たれているのは恵みだと思います。」王子は立ち止まって言いました。「あなたのような悪者が罪のない多くの人たちの中に置かれているのはかわいそうだ。自由の身にしてあげよう。」

 あなたはこの物語を聞いて、ほほえましく思われるでしょう。しかし、なお喜んでいただきたいのです。主イエス・キリストは、だれかを自由にするために、今、ここに来ておられるのです。彼は今、だれかの罪を赦すために、ここに来ておられるのです。あなたが罪を持っていないなら、あなたは赦しを受けることはないでしょう。あなたがた善良な人々は、自分の罪のうちに死ぬでしょう。しかし、おお、罪人であるあなたが、神の御手の下にへりくだっているあなたが、自分を義とする人たちの中に混じっているのを、主はあわれみたもうのです。ですから、今、ただちに来なさい。そして、あなたを救い主にゆだね、その尊い御血によって、永遠にいのちを得てください。栄光がとこしえにキリスト・イエスにあらんことを。アーメン。

イエスは(これを聞いて)言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(新約聖書 マタイ9:12~13)

(スポルジョンの文章は『主につく者はだれか』松代幸太郎訳36~38頁より引用した。写真は先週中野駅前をぶらついたときに見た、植え込みにあったアジサイの花。各地でさまざまなアジサイが目につく。)

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