2010年7月29日木曜日

向日葵の「君」、忘れじ


 また、一人、大切な人を天に送った。Yさんだ。63歳であった。彼女は東京・赤坂見附の病院に7月1日に入院されたが、25日間の入院生活の末、この日曜日、すなわち25日の朝、天国へと旅立たれたからである。入院された時は、すでに、病患は深く、すい臓から肝臓に癌が広がり、手のつけられない状態にあった。それゆえ、ご家族もご本人も皆それぞれ覚悟の上での入院生活であった。

 三日目には「私はここから天国へ旅立ちます!」と言われたそうだが、Yさんも人の子、自らが誰よりも先に行かねばならない不条理さに涙された時もあったろう。一週間ほどし、思い立ってみことばを中心とするエミー・カーマイケルやオズワルド・チェンバーズの書いている小文をメールで送った。すぐに返事が来た。

「ありがとうございます。もしよろしかったら続いて送っていただけますか? 涙が出ます。励まされます。」とあった。彼女の気持ちがストレートに伝わってきた。そして私自身、大いに励まされた。彼女がみことばを食べて強められていることを知ったからである。

 しかし、今振り返ると、圧倒的な主イエス様の愛に生かされていた彼女は私たち一人一人の救いを求めながらも、大急ぎで天国への階段をあっという間に駆け上って行った感がする。一度10数名の方とお見舞いに行ったときなど、「この道はみんなも通る道よ、私だけが先に行ってしまってごめんね。順番に来てね。最後でいいから。」と明るくユーモラスに病床で語り、みんなに「ありがとう」「ありがとう」と繰り返し・繰り返し語られたことばが、今も私の耳朶を離れず心地よく残っている。

 以前にも書いたように、私たち夫婦にとっては、彼女が昏睡状態に入る二日前、(それはちょうど召される一週間前になったが)語ってくれた、証は忘れることができない。秋田の田舎から上京し、若い時に、ご主人と出会われたが、その時は神様を知られなかった。結婚され、お子さんを育てられる中で、求めて主イエス様の救いに預かられたのだろう。その当初から私たちとは同じ信仰を分かち合う間柄であった。今から30数年前のことである。

 その時、自らが神を知らない時に、神の戒めを無視して生きていた生活を具体的に話してくださった。そして、罪の悔い改めとイエス様の身代わりの死を感謝して受けとめることが、どんなに家族が祝福される源になることかを涙をもって証してくださった。もとより彼女は完全な人間でない、むしろ様々な失敗を経験したであろう(と、思う)。しかし、その都度、彼女は悔い改め、主の祝福を抱かれてきたことがよく理解できたのだ。聞かされる私たちはただひたすら主イエス様を恐れるのみで畏れさえ抱いた。

すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。(新約聖書 ヘブル12:14)

 人間は自らが聖くなれるわけでは決してない。ただひたすら聖くしてくださる、イエス様の十字架上で流された血潮を信ずる信仰を通してのみ可能である。そのことを自分で十分体験していた人であった。

 昨日の葬儀には200人近い方が遠く秋田や四国、それに栃木や千葉・東京からもというように関東各地から集まってこられた。それは「病気のお見舞いよりも私の葬儀に来て欲しい」と言う、彼女のたっての願いの実現であった。目立たない彼女であったが、彼女を通して福音を聞かされていた人が一人や二人でなく、たくさんおられたことを後で教えられる。

 聖書に基づく葬儀はYさんのためにあるのではない、ましてやYさんの徳を讃えるものでもない。彼女は私たちより一足先に天の御国に召されたのだから、そのことに何の心配も要らない、むしろ羨ましいくらいだからである。だから葬儀は残された私たちもまたどのようであれば、天の御国に凱旋できるかということを一人一人が聖書を通して悟らされるためにある。

 葬儀の式次第の中の賛美(日々の歌「180番」、「136番」)や、聖書箇所は10日前に病床の彼女があらかじめ決めていたものであり、メッセージはベック兄に、特別賛美は藤井奈生子姉にと依頼されており、その通りに実現した。葬儀の終わりには長女の方、喪主であるご主人からそれぞれご挨拶があったが、真摯なものであり、心洗われる清々しいものであった。お二人の素朴な清い信仰は会葬者の胸を打ったにちがいない。以下に掲げる聖書のことばは彼女の指定したものである。

主よ。あなたの恵みは天にあり、
あなたの真実は雲にまで及びます。
あなたの義は高くそびえる山のようで、
あなたのさばきは深い海のようです。
あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。
神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。
人の子らは御翼の陰に身を避けます。
彼らはあなたの家の豊かさを
心ゆくまで飲むでしょう。
あなたの楽しみの流れを、
あなたは彼らに飲ませなさいます。
いのちの泉はあなたにあり、                 
私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。(詩篇三六・五~九)

 「ああ、いい人は皆、先に天に行ってしまうのね。」 家内がいつになく淋しく独語した。同感である。

(写真は葬儀で飾られた八基の花のうちの一つ。彼女は「ひまわり」「ゆり」「ラン」「ラベンダー」が好きだということだった。実は今から10日程前に高校の卒業生の同窓会で二十年振りに教え子のE君に出会い、同君が花屋さんであることを思い出した。これはちょうどいいと思い、早速お願いすることにした。交渉してみると、さすがに「ラベンダー」は無理だということであった。その彼がこちらの注文に応じて、様々な工夫を凝らして良心的に提供してくれた作品である。彼の腕が用いられたことを主に感謝する。「向日葵の 仰ぎし光 君もまた イエス様見て 駆け上りしや」 「教え子の 背に見る自信 我もまた 晴れ晴れしきか 向日葵まぶし」 )

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