日光駅二階貴賓室シャンデリア |
忠実な聖徒たちのこの賛美の詩歌は、突然ヨハネの口から出てきました。それは、私たちが彼の御名を告白することであり、彼の贖いに対して私たちに負い目があることを告白することです。このようにして彼を告白することは、彼を拒絶したこの世から私たちを分離させます。このことはまた私たちを彼へと結合し、私たちを彼の弟子また証とします。
「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル13・15)
彼の御名を告白することと主を賛美することは、聖徒たちの最も卓越した働きです。ここで描写されているものは、主イエスと教会との間の親密な関係ではなく、むしろ裁き人としての彼の栄光ですが、それにもかかわらず、主を真に賛美する声を上げないわけにはいきません。この理由により、私たちは裁きを恐れません。私たちは、彼が「 私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放」ってくださったことを、知っています。
彼は「私たちを愛し」てくださいます! そうです。彼は私たちを愛されます。原文では、「愛する」は現在形であり、これは彼が今わたしたちを愛しておられることを意味します。「解き放ち」は、原文では過去形であり、これは彼が私たちを罪から解放してくださったことを意味します。
彼が今私たちを愛しておられることを、私たちはどのようにして知るのでしょうか? 私たちがそれを知るのは、彼がご自身の血によって私たちの罪を洗い清めてくださったからです。彼の現在の愛は、彼の過去の働き、すなわち血を流し、罪を洗い清めてくださったことによって量られます。私たちはみな、このようにして量られなければなりません! 他のいかなる方法も信頼できません! あなたの移り変わる感覚や経験を用いて、主の愛を量ってはいけません! 彼は今私たちを愛しておられます。それは、過去彼がご自身の尊い血を流され、私たちの罪を洗い清めてくださったという理由にほかなりません。
だれが、主の尊い血の価値をすべて知り尽くすことができるでしょうか? 私たちは、いつもこのことを覚えておかなければなりません。もし人が「役に立たない者」や「実を結ばない者」となるなら、それは彼が「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れ」たからです(2ペテロ1・8〜9)。私たちが救われた時に得た恵みを覚えることは、私たちを主イエス・キリストを知る知識において成長させます。
私たちが持っているものはただ罪だけであるというこのことを、どうか主が私たちに認識させてくださいますように。しかしながら、彼は私たちを愛し、私たちを清めてくださいました。過去の洗い清めと、現在の絶え間のない愛のゆえに、神に感謝します! 私たちは主に感謝します。なぜなら、彼は愛してくださるからです。なぜなら、彼はご自身の血を流されたからです。なぜなら、彼は私たちを愛し、ご自身の血を流すまでに至ったからです!
私たちが彼の愛を見ることができるのは、彼がご自身の血を流して、私たちの罪を洗い清めてくださったことを通してだけでなく、彼が「私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった」からでもあります。
(『啓示録を黙想する』ウオッチマン・ニー全集第4巻36〜38頁より。聖句の引用に当たっては原著と異なり新改訳聖書にあわせた。なおウオッチマン・ニーは「黙示録」は「啓示録」であって、啓示であるゆえに無視すべき本ではない。心を開いて神のみことばを直裁に受けとり、吟味すべきだと勧めている。彼24、5歳の作品?)