2010年1月20日水曜日

結婚式メッセージ(下) ゴットホルド・ベック


 私たちが毎日本当に喜ぶことができ、たとえ苦しみや悩みあるいは病気の状態においても喜ぶことができ、たとえ死ななければならないとしても喜ぶことができるようになるには一体どうしたらいいのでしょうか。

 この問いに対する答えは一言で言うと、「悔い改めて、信じなさい。」ということになります。つまり「悔い改め」と「信仰」こそが、問題解決の鍵のようなものです。

  すなわち、先ず第一に自分のわがまま、自分が盲目であったことをすなおに認め、今まで、生けるまことの神なしに自分の力で生きてきたところに問題があったこ とを告白する必要があります。次に、イエス様が自分の罪の問題を解決してくださった事実を、理解しようとするのでなく、わかろうと努力することでもなく、そのまま、ただ信ずることで す。イエス・キリストの死は、われわれのわがままに対する聖なるお方のさばきでした。イエス様の犠牲の死に対してイエス様に感謝し、自分の人生をイエス様に 明け渡す者は、決して後悔しません。

 主なる神から離れた者としてイエス様に祈り、自分のわがままを告白し、イエス様の贖いのみわざを感 謝する者は救われます。すなわち、その人は永遠のいのちを持ち、死後さばかれることはありません。イエス・キリストの死こそが、われわれ一人一人がどれほ ど愛されているかを示しています。愛するお二人の選んだみことばは強調していますね。すなわち、

神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

  そして主の愛の表れとはイエス様です。ですから、私たちは「愛」ということばのかわりに「イエス様」ということばを置き換えることができ、また「神」とい うことばの代わりに「愛」ということばを置き換えることができます。

 愛のうちにいるとは一体何を意味するのでしょうか?

主イエス様に愛されている幸せ を、大いに喜び味わいなさい、ということです。

愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

 主なる神に愛されているということは最大の幸せです。主の測り知れない愛のうちに置かれている、いつも主の愛に守られていることは、何という幸せでありましょうか。

  今まで私たちは永遠なる事実をあらわす証について考えて参りました。すなわち、神は愛です。神は昔自分の愛を明らかにされただけではなく、主は将来自分の 愛を示すようになるだけでなく、主なる神は、今日、今この瞬間、愛そのものです。これこそまことの救いの提供でもあります。すなわち

神の愛を受けなさい。
神の愛を味わいなさい。
自分のものにしなさい。
主なる神の与えたいと思っておられるものを受けなさい。
罪の赦し、神との平和、永遠のいのちを受けなさい。

  大切なことは、キリスト教という宗教に入ることや教会員になることや洗礼でもなければ、私たちがより良い人間になるための努力でもなく、私たちが主なる神の愛を 経験すること、すなわち、私たちが罪と債務を担う罪人としてイエス様のみもとに行き、罪を赦していただくことです。人間が必要としているものは単なる道徳 でもないし、単なる教えでもありません。人間の求めているのは理解されること、愛されることです。

 愛するお二人の選ばれたことばの中に前に言いましたように二種類の証しがふくまれています。すなわち、永遠なる事実をあらわす証し、そしてもう一つは何であるかと言いますと、次のことであります。

 自分の経験をあらわす証であります。すなわち、私たちは私たちに対する神の愛を知り、また信じています。本当の意味で、知ることと信ずることとは大切です。愛するN兄弟また愛するM姉妹も告白することができる。「私たちはわれわれに対する神の愛を知り、また信じています。すなわち、私たちは勉強した、そして理解するようになった、ピンと来るようになったのではない。あるいは、私たちはキリスト教という宗教に入ったのでもない。私たちは知るようになったのです。」

 どうしてでしょうか。それは決して研究した結果ではありません。主なる神の働きの結果です。すなわち主なる神の啓示の結果です。

 長い間、イエス・キリストを信ずる人を迫害した男は次のように書いたのです。

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。※1

 このパウロは、長い間、確かにイエス様を憎んだのです。イエス様を信ずる者をいのちがけで迫害しました。いかなる人も彼を間違った道から引き戻すように納得させることはできなかったのです。けれど彼は世界一の伝道者になってしまったのです。イエス様に仕えるようになったのです。イエス様を心から愛するようになったのです。どうしてでしょうか。

 彼の説明は、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子キリストと、言うようになったのです。生けるまことの神は、人間のかたちを取り、この世に来てくださった。生けるまことの神は、私が受けるべき罰をご自身の身に受けてくださった。生けるまことの神は、愛のあらわれとして自分自身をささげてくださった。この愛そのものは、パウロを圧倒しました。この愛は、彼の人生を根底から変えてしまったのです。この愛は、彼に迫り、すべてを放棄し、犠牲にし、この愛を宣べ伝えることを要求したのです。彼は、愛なる神を体験的に知るようになり、そして主なる神の愛を知るようになって信ずるようになったのです。

 愛するN兄弟も愛するM姉妹も主の愛を知るようになったから、信ずるようになりました。けれど、それは決して自分の努力の結果ではない。主の啓示の結果であり、主の恵みのあらわれです。M姉妹はその名前の通り、主の恵みにあずかるようになった。主なる神が人間の心の目を開くこととは素晴らしい贈り物であり、そして信ずることも主の贈り物である、と聖書ははっきり言っています。

 愛するN兄弟と愛するM姉妹は、一体何を知るようになり、何を信ずるようになったのでしょうか、自分に対する主の愛です。主の愛のあらわれであるイエス様です。ロマ書の中で書かれています。

私たちすべてのために、(私たち二人のために)ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子と一緒にすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。※2

 どうしてイエス様がわれわれの罪を贖うために十字架でご自身のいのちを投げ出してくださるほどわれわれを愛してくださったのでしょうか。これはわれわれに理解できないことです。しかし、私たちはこの事実を信ずることができ、体験することができ、そしてこの事実のために、感謝することができるのです。主イエス様の愛は昨日も今日もとこしえに変わりません。主なる神の約束は次のようなものです。

私たちは真実でなくても、主イエスは常に真実である。主イエスにはご自身を否むことができないからである。※3

もう一つ

「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」、とあなたをあわれむ主は仰せられる。※4

 愛する二人の選ばれたことばをもう一度最後にお読みします。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。

 唯一の生けるまことの神に愛されている幸いを大いに喜び、味わいなさい。どれほど愛されているか一瞬たりとも忘れてはなりません。

(昨年の12月23日の結婚式のメッセージを引用者の責任でまとめたもので、一部ベック氏の表現を変えたところがあります。今日の写真は畏友Tさんの提供なるものです。※引用聖句箇所はそれぞれ1〔ガラテヤ1・12〕、2〔ローマ8・32〕、3〔2テモテ2・13〕、4〔イザヤ54・10〕である。)

2010年1月18日月曜日

結婚式メッセージ(中) ゴットホルド・ベック


 聖書は、神が愛を製造するとか、神は愛を贈るとか、言っていません。主なる神ご自身が愛そのものです。主なる神は、われわれ人間に、単にわたしはあなたがたを愛すると保証をお与えになっただけでなく、主なる神は、その愛を明らかにしてくださった。ご自身を明らかにしてくださったのであります。すなわち、次のように書いてあります。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(ヨハネ第一の手紙3章16節)

 私たちは、体験的に知るようになったのです。主なる神は愛そのものです。
 神の敵である悪魔はこれだけは絶対に認めたくないのであります。悪魔は自分のことだけしか考えようとしない。悪魔は要求するものであり、人間を束縛し、その結果、人間は縛られてしまいます。主なる神は人間から何も要求なさらないし、人間を自由にしようと望んでおられます。

 一人の方は自分の経験したことについていろいろなことを話してくださったのですが、結論として次のように言いました。わたくしたちの家(うち)は愛のない家(うち)です。これは悪魔の仕業です。聖書は次のように言っています。

誰もみな自分自身のことを求めるだけで、イエス・キリストのことを求めてはいない、不法がはびこるので多くの人々の愛は冷たくなります。

 愛が冷たくなってしまったのは否定できない事実です。そのために多くの現代人は冷たい存在となり、孤独な存在になってしまったのです。一番恐ろしい病気は孤独病なのではないでしょうか。相互理解、すなわち愛が欠如しているために、今日の主な病気はやっぱり孤独病です。多くの人は失望し相互間で愛された経験を持たない者になってしまいます。

 確かに世界中で「愛」ということばほど良く知られていることばはないでしょう。けれど、その反面、まことの愛ほど、まれなものもないのではないでしょうか。

 ある80歳になったおじいちゃんは私に告白して、また尋ねたのです。

 私はひどいものでした。
 女性は人間ではない。
 物に過ぎない。
 家内を大切にしようと思ったことがない。

 私は救われ得るのでしょうか。

 何と多くの人々は愛された経験がない、大切にされた覚えがない。悲劇的なのではないでしょうか。人間皆が求めるものは愛であり、信頼であり、相互理解です。ですから、人間が一つになることは、主なる神の啓示された愛以外の何ものによっても可能ではありません。必要としているのはイエス様です。なぜならば、イエス・キリストこそが主なる神が明らかにされた愛そのものだからです。お二人の選ばれたことばの中で書いていますね。

神は愛です。

 聖書を一度も読んだことのない人々さえもこのみことばを知っているかもしれない。そしてまことの神を知らないすべての人々は、神は愛であるから、私のわがままや失敗や債務や罪をすべて赦してくれるだろうと考えています。けれども、これはとんでもない考え方です。恐ろしい過ちです。贖いなく、さばきなくして、罪を赦すような神は本当の神ではなく、それは単なる想像や偶像に過ぎません。

 30年前でしょうかね、八王子の初めてのドイツのケーキの作り方を家内が教えたのですが、そのとき初めてだったのですが、ある婦人はみんなの前に次のように尋ねたのです。「私は神様がただ一人しかいないとか、それともたくさんいるのか知りたい。なぜなら、私はそれをどうしても知るべきであるからです。」

 彼女は結局心の支えを必要であるとわかったから、こういうふうに言えたのではないでしょうか。もちろん、これは本当に大切な問いです。主なる神はただ一人なのか、それともたくさんいるのか、この問いに対して宗教も科学も哲学も何の答えも与えられません。ただ主なる神のみことばである聖書だけが真理は何であるかを明らかにできるのです。

 すなわち、まことの神はただ一人しかいらっしゃいません。そしてこの方とは聖なるお方です。このまことの神は罪を罰することをせず、好い加減にするようなことなどおできにならない。人間のわがままは死をもって支払わなければなりません。これこそ、まことの神のご判断です。

 イエス様は本当なら私たちが担わなければならなかった罰をご自身の上に担ってくださり十字架で死んでくださったのです。したがってイエス様の死は私たち一人一人の罪の結果です。私たちのわがままのゆえにイエス様は死ななければならなかったのです。

 しかし、ただおひとり罪なきお方、すなわちイエス様の身代わりの死は、全人類の債務を贖うのに十分でした。イエス・キリストの復活は、贖いのみわざが成就されたことを意味しています。人間は自分の救いのために何もすることができないし、もちろん何もする必要がない、人間が自分の力ですることは、すべて例外なくまことの救いが成就されるための妨げに過ぎません。

 愛するお二人の結婚式がきっかけとなって、私たちが次の問いについて深く考えることこそ私たちの祈りです。すなわち、私たちの罪と債務はいかにすれば赦され得るのでしょうか。私たちの人生は本当の意味と内容を持つことができるのでしょうか。(続く)

(※ピリピ2・21、マタイ24・12)

2010年1月15日金曜日

結婚式メッセージ(上) ゴットホルド・ベック


私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。(新約聖書1ヨハネ4・16)

 今日、このようにして愛するN兄弟と愛するM姉妹の結婚をお祝いすることができるのは喜びです。結婚とはイエス様によって導かれた、という確信を、またお互いに愛があるという、確信を、持つようになったからです。そのための証しなのではないでしょうか。お二人の切なる願いは主イエス様をまだご存じない方々が、主なる神との和解を受け、イエス様の提供されている赦しを受け取り、主なる神との平和を自分のものとされ永遠のいのちを持っていると確信を持つまで、まことの救いを与えられるお方を切に求めていただきたい(ということ)。これこそが、お二人の切なる願いです。すなわち、今日の結婚(式)の目的とは一つの儀式よりも二人の信ずるようになったイエス様を紹介するための集いです。

 お二人は口をそろえて言えます。すなわち、イエス様は何でもできるお方であるから、私たちはこの主に頼ろうと決めた、と。

 イエス・キリストのない人生は無価値であり、無意味です。なぜならばイエス・キリストのみが永遠のいのちをお与えになり、本当の満足を与えられるお方であり、すべての問題を解決する力を持つお方であるからです。

 今日は本当に喜びの集いです。なぜならば、「イエス様が導いてくださった」と、結婚する、愛するお二人は告白することができるからです。お二人が勝手に考えたり、決めたりすることよりも、すべてを支配したもう主なる神ご自身が恵んでくださった、導いてくださったからであります。
 
 また今日はイエス様の忠実さをほめたたえるお祝いでもあります。イエス様はN兄弟とまたM姉妹に「わたしは決してあなたがたを離れず、あなたがたを捨てない」と約束してくださったのですから。お二人は本気になってイエス様の約束を信じ、すべてをゆだねることができたから、イエス様はご自分の約束を守ってくださり二人を導いてくださったのです。お二人の願いとは自分の人生において最優先されるべきであるのはイエス様です、と。二人の選んだことばをもう一回読みましょうか。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。

 結婚とは人間の幸せのためであるべきです。人間は幸せになりたいのであり、なぜならば、もし幸せにならなければ、すべては面白くない、意味のないものとなってしまうからです。聖書は良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主から恵みをいただく※、と書いてあります。良い妻を見つけたN兄弟はしあわせを見つけた。主からM姉妹をいただいたからです。お二人の選ばれたことばについてちょっと一緒に考えてみたいと思います。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

とあります。

 このお二人の選ばれたことばは愛するお二人の将来のご一緒に歩む人生にとっての大切な指標となるに違いない。選ばれたことばの中に二種類の証しが含まれています。第一番目、お二人の経験をあらわす証しであり、それから第二番目に永遠なる事実をあらわす証しです。

 お二人の経験をあらわす証とは初代教会の告白でもあります。すなわち私たちは私たちに対する主なる神の愛を知り、また信じています。だからこそ、私たちは心のよりどころ、また、よろこびを持つ者となった。
 それから、永遠なる事実をあらわす証とは、神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。動かすことのできない事実とは、すなわち、唯一の存在する、まことの主なる神は愛に満ちたお方である、ということです。そして愛のうちにいる者は主なる神のうちにおり、そして主もその人のうちにおられるという事実も、永遠なる事実であり、ことばで言い表すことのできないすばらしい宝物です。

 万物の造り主である神は生きておられる。これは被造物であるちっぽけな人間が信じても信じなくても事実です。聖書を通して主なる神は自分自身を明らかにし、啓示してくださったのです。つまり黙示録1・8を見ると

神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 人間は決して偶然の産物ではありません。常にいます、永遠なる神は、私たちをお造りになったのです。そして、すべての背後に支配者なる神は、はっきりとした目的をもって、人間一人一人の最善を考えておられ、導いてくださるのです。偶然は一つも有りません。確かに造り主なる神の偉大さを理解できる人間はいません。私たちの理解できる神は神ではなく人間らしいものになります。したがって主なる神の導きも同じように全く理解できないものです。理解できる人間は一人もいません。しかし主なる神は愛そのものであると聖書は言っています。これはもっとも素晴らしい事実です。(続く)
※箴言18・22

(文章は昨年の12月23日の結婚式のメッセージの聞き書きです。写真は新婦Mさんの友人の方の撮影になるものです。)

2010年1月5日火曜日

謹賀新年


 今年は新年第一日を長野県の御代田で迎えました。近くまで中仙道が入って来ているところです。滋賀の実家も、中仙道の街道沿いに位置しています。40年前に結婚したおり、新婚旅行の行き先地はなぜか信州にしました。けれどその時にはこうして中仙道の宿場小田井の近くで新年を迎えるなんて想像もしていませんでした。現在の地に縁ができたのはただ「福音」ゆえです。実は年末の次男の結婚式も御代田で行なわせていただきました。

 さて、新年第一日は午前は6名の方が聖書からメッセージを取り次ぐ元旦集会が行なわれました。また午後は毎年恒例になっている「新春喜びのコンサート」が持たれました。また夜は夜でもう一度聖書のメッセージを聞く集会があり、そのあと洗礼式がありました。3名の方が洗礼の恵みにあずかられました。3名の方はそれぞれ日頃は接することのない方々ですが、いずれも既知の方で喜びをともにしました。

 それらの各集会の中で、ここでは午後の喜びのコンサートのごく一部を紹介しておきます。コンサートですからバイオリン独奏、合唱、独唱など音楽の演奏が盛りだくさんあるのは当然ですが、その他聖書からのメッセージ、証しもなされました。

 メッセージはイエス様のご人格7つが紹介されました。その一つに「わたしは、よみがえりです。いのちです。」(ヨハネ11・25)がありました。そしてお二人のお証がありました。そのうちのお一人は、つい一月前に42歳の御主人を亡くしたばかりの35歳の未亡人の方のものでした。まさしく上記の聖書のみことばどおりに御主人が主イエス様を信ずる信仰を通して天国で永遠に生きておられることを確信する証しでした。

 小さなお子さんが二人遺されました。お子さん方もまた天国のお父様と会うことを楽しみにしておられるということでした。「私は今平安な思いに包まれています」とは人知を超えた「神の愛」を体験なさった方のお証しでした。その方が話を終え、壇を降りられた後、司会者の方はしばし涙され、静まり返った会場は主イエス様が与えて下さる永遠のいのちのすばらしさに浸ったことでした。

 考えてみると、私の母もまた44歳の若さで亡くなっているのです。後に夫と一人子である私を遺して。その母はイエス様のよみがえりのいのちを知らないままで召されたのですが・・。(でも、私の今の確信は彼女が人知れず流した涙を必ず全知全能の主は受け入れて天国に入れてくださったという思いです。)

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7・10)

 若くして未亡人になられた方も召された御主人も結婚当時イエス様をお知りではありませんでした。むしろ奥様は主イエス様の愛を退け、生みの家庭からも逃亡しておられたということです。その彼らが様々な人生の蹉跌の中で出会い、結婚に導かれ、育児の中で主イエス様の愛に立ち返られ救われなさったのです。一年前に不意に襲って来た御主人の癌発病も死も、辛い経験でしたが、主の愛から来ている故に耐えられたのであります。

イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13・7)

 夜の最後の集会で司会をなさった方はこの感動を伝えて、神の御計画は生まれる前から、死の向こうまで、即ち天国まであることを教えられた、と言われました。私もまたこうしてこの地で新年を迎えたことも深い主の御計画のうちにあることを覚えました。「めでたさも 中くらいなり おらが春」(小林一茶)「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」」(一休)とは古人の(主のよみがえりを知らない方の)歌です。

 最後に新年に与えられたみことばと駄句をご紹介します。

あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。(詩篇65・9、11)

「亡き母の 思い運び 中仙道」
「天国を 指し示しあぶら 豊かに」

(写真は元旦の御代田の朝です。生憎、曇り空でした。関東には雪がありませんが、山国信州は雪積もる新年でした。)

2009年12月31日木曜日

Se son rose, fioriranno.


 あわただしかった一年、それが凝縮されたかのような12月になった。

 年末、12月23日次男が結婚に導かれた。多くの人々の祝福と祈りをいただいた結婚式だった。式では双方で6人余の方から祝辞をいただいたが、その中のお一人が標題のイタリヤのことわざ(もしそれが薔薇ならば咲くだろう)を紹介してくださった。

 ところが、それで終わると思いきや、その方は思わず次のように言って祝辞を閉じられた。信夫さんの「信」とは信ずることでしょう、恵さんは「恵み」です、これは何か偶然とは思えません、お二人の結婚の宣誓を聞いていて、そう思わざるを得ませんでした、お二人が末永くお幸せでありますようにお祈りします、と。

 次男の名前が小説『塩狩峠』の主人公にちなんだ名前であることは、以前紹介させていただいた。ところが、新婦の恵さんはお祖父様を通して、幼き時から、目に見えない神様に仕える信仰を体得したということだった。ご来賓の祝辞はその「信夫」と「恵」という両者の名前が切っても切れない関係にあることを慧眼にも見抜かれてのご挨拶であったように思う。ところがこの両者の関係を物の見事に作品化している文章に一昨日出会った。マルチン・ルターの「ガラテヤ大講解」の以下の文章である。直接には「(彼らは)キリストの福音を歪めようとした」(ガラテヤ1・7)の註解ではあるが・・・。

 律法の義が支配するならば、恵みの義は支配できない。反対に、恵みの義が支配すれば律法の義は支配できない。一方が他方に譲らなければならない。神がキリストのゆえに罪をゆるしてくださることを信じることができなければ、あなたはどのようにして、律法の行ないかあなた自身の行ないによってゆるしてくださることを信じるのか。このように、恵みの教えはどのようにしても、律法の教えと両立できない。律法の教えが全く否定され、取りのけられて、恵みの教えが確立すべきなのである。

 ルターのこれらのことばに若干の注釈をつけ加えさせていただくならば、「恵み」とは神が私たちのわがまま(=罪)のためにご自分の独り子イエス・キリストを十字架にかけられた事実を指している。本来私たちが罰せられるべきなのに、その身代わりとしてイエス・キリストが罰せられた、だから「恵み」であるのだ。この「恵み」は、このイエス・キリストの恵みを「信仰」をもって受け入れる者をとおして体得される。「律法」の教えとは、これに反して、このイエス・キリストの十字架は無用・無意味とし、自分の力、徳行で神の前に十分正しくなれるという考えである。 ルターは、この「律法」の教えがいかに強力に人を支配しているかに言及しながら、さらに次のように続ける。

 こうして、恵みと信仰の義が放棄され、律法と行ないの、いまひとつの義が高められ、守られることになる。だがキリストは彼に属する者ともども、弱くあり、福音は愚かな説教である。逆に、この世とその君、悪魔は強力であり、さらに肉(=キリストを認めない、生まれながらの人間のこと。引用者註)の知恵はよりよい外見をもつ。だが、悪魔がその手下とともに、欲するものを打ち立てることができないことは、われわれの慰めである。彼は何人かの人を撹乱することはできるが、キリストの福音を覆すことはできない。真理は危険にさらされることはあるが、滅びることはない。攻められることはあるが、征服されることはない。なぜなら「主のことばは永遠に存続する」(1ペテロ1:25)からである。

 律法と行ないを確立するよう教えることは非常に小さいことのように見えるが、それは、人間の理解力が理解できる以上の害をもたらす。それは恵みの認識をあいまいにするばかりでなく、キリストをそのすべてのいつくしみともども取り除いてしまい、パウロがここで言っているように、福音全体を歪めてしまう。このような大きな悪の原因はわれわれの肉であって、それは罪の中に沈んでいるから、行ないによる以外に、そこから出るほかの手段を見ることがない。こうしてわれわれの肉は律法の義のうちに生き、自らの行ないに信頼を寄せようとする。だから、信仰や恵みの教えについては全くか、ほとんど知らない。だがそれなしでは、平穏な良心を得ることは不可能である。(『ルター著作集第2集11巻』1985年刊行、84~85頁から引用)

 二人が恵みの認識をあいまいにするのでなく、福音に全幅の信頼(信仰)を抱いて結婚生活をスタートしてもらいたいと思う。それが、主イエス様の恵みをまだご存じないご来賓の方をして、咄嗟のうちに思わず言わしめた祝辞の本意ではなかっただろうか。

 式後のあわただしい一週の間に、両人は沖縄に出かけ、さらには一昨日は病臥中の私どもの祖母を滋賀に訪ねた。また昨日は新婦のお祖父様ご夫妻を千葉のお宅、西荻の私の従兄宅などを訪ね、夜は長男主催の家族全員が集合する会食会に出席できた。そして今朝、新婚生活の拠点となるパリの家へと旅立った。恐らく今頃は疲れでぐったり来ていることだろう。しかし、そこには心地良い主のあわれみと守りがあることと信ずる。

 寄り添うて 恵みと信仰 百合の花

 最後に愛する兄が結婚式の冒頭で読み上げられた聖句と二人が結婚のために導かれた聖句を掲げておく。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103・2)

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。(1ヨハネ4・16)

2009年12月4日金曜日

クリスマスと涙 クララ


 クリスマスと言う夜のかげに、いかばかり多くの涙が注がれたことでしょう。サタンのしえたげに泣く人類の涙、み心込めて創造された父なる神の憂いの御涙から生まれたその夜!

 天使のみ告げに服従し、神のみ手に身を委ねしよりのマリヤが恥と苦しみの涙、ヨセフが彼女のただならぬを知れる時の苦痛の涙、主が天の宝座を捨て罪ののろいにある肉体に、限りなきご不自由とご苦難の生活に移り給うその夜よ! 揺籃の上に指す十字架の閃きよ!

 罪の犠牲に定められ給いしこの君のご誕生を見て、のどかな喜びをしておられるでしょうか。死に定められた小羊を見てさえ、わたしたちがあわれみの心は動くではありませんか。なおさら、愆(とが)なき神の御ひとり子が犠牲の御門出に涙なきものがあるでしょうか?

 天の万軍は恐れかしこみ、賛美の声を涙にうるおしたことでしょう。地の万象は涙の露に夜をうるおしたことでしょう。ああ、クリスマスの夜! われらが罪の生みしこの夜! 神のご愛の現れしこの夜よ! さりながら、罪のあがなわれんため、唯一の道なるこの夜よ!

 恐れをもって感謝し おののきをもって喜び
 聖き聖名に感謝せん

1 愛はこの世にくだって来られた
  かわいた土から若木のように
  われらが慕うべき美しさもない
  これぞわが主のみ姿である
   愛はこの世にくだって来られた
   かわいた土から若木のように

2 主は侮られて人に捨てられ悲しみの人で病を知っていた
  かくもなやめるわが愛の主を
  ああわれさえも彼を尊ばなかった

3 われわれのとがのために傷つけられ
  われわれの不義のために砕かれた
  迷い迷って背けるものの不義を
  主は彼の上におかれた

4 暴虐なさばきによって取り去られ
  生けるものの地から絶たれたのだと
  よろこび給う神のみ旨は
  彼の手によって栄え行く

5 ああ死に至るまで魂を注ぎ出し
  とがある者と共に数えられ多くの人の罪を負い
  とがある者のためにとりなしをした

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネ3・16)

(文章は聖書を除いて、『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著の12月1日の項から編集引用。写真は古利根川の鴨二羽。「鴨二羽と 眺めし川面(かわも) 天の雲」)

2009年12月2日水曜日

病床にあった妻の夫への手紙(2)


 いつの間にか、師走に入ってしまった。私たちの親しんできた、あの遠い昔の異国の一女性の果断なく続く病との闘いは、その後どうなったであろうか。

 前回お載せした彼女のその後を、簡単にスケッチしてみよう。「彼女はまた新たに、専門医の診断を受けねばならなかった。」のだ。しかしその間も彼女を愛する人々の祈りは続いていた。彼女はその事を感謝する便りを夫に次のように記している。

 (ジュネーヴにて、1930年11月11日)
・・・それから皆さまがわたくしのために、お祈り下さったのでございます。このやうな啓示の対象となるために、わたくしのやうに苦しむといふことは、苦しみ甲斐のあることではございませんでせうか。わたくしの心は感謝で一杯でございます。もしまた神様のためにお仕事が出来るやうになりましたら、それを大きな愛をもってすると、お誓ひいたします。

 そして今一度ローザンヌに引き返された。そして同じように病と闘っている友人の手紙を引用しながら彼女は夫に次のように認める。

(ローザンヌにて、1930年11月14日)
・・・ピエチンスカ夫人はその手紙の一つの中で、大体次のやうなことを書いて居ります。「すぐに今のこの瞬間をこえたところを眺めようとするわたくし共の想像力を用心しませう。そしてこの想像力が神様の御心の先回りをしないやうに、今のこの祝福を神様に感謝することで満足しませう。」・・・本たうにさうでございます。どうぞ神様が力をお与え下さって、神様がお送りになるものは良いものであれ、苦しいものであれ、それが御心である限りは受け容れることが出来ますやうに。その秘訣は絶えず祈って神様に近く身をよせて、事情が良くなったからと言って、すぐ簡単にやめてはならないといふことだと存じます。苦しい時に神様に向かって呼ぶことは、比較的やさしうございます。それは自然なことでございます。けれども、すべてが具合よくいってをります時には、怠惰がすぐに訪れます。・・・・

 その後も病状は一進一退する。ある時には外出できた。それはニフェネジュの街角だった。家族連れの子どもたちを見、ロンドンの夫のもとに残してきたわが子を思い出し、涙を人知れず流す。母親ならではの悲しみだ。こうして彼女の品性は大いに練り清められてゆく。それとともに、意外や彼女の健康は日一日と確実なものになっていった。ジュネーブから来た専門医が、驚嘆してそれを保証する。この間、夫への手紙は11月10日、20日、22日、24日、26日、30日と認められている。メールもない時代、かえって手紙を通してゆったりとした人々の愛の交流があった。その良き時代をはるかに想い出させられる、というものだ。今から79年前の今日認められた彼女の手紙を載せよう。

(ジュネーヴにて、1930年12月2日)
・・・さうでございます。わたくし共のお祈りは聞き届けられたと申してよいのでございます。わたくし共には救いが与えられた―しかも、わたくし共自身もお医者さま方も二月前には本たうに予期していなかったやうな、大きな救いが与えられたと申してよいのでございます。G先生のところへ参ります前に、わたくしはベッドの前でひざまづきました。そして帰りました時にも、またさういたしました。

勿論、「すっかり癒りました。すっかり決定的に癒りました」と、あなたに申し上げられましたら、本たうによろしうございましたでせう。けれども今の状態はわたくし共の信仰生活にとりましては、それよりも多分ずっと尊いのでございます。

それはパウロの場合と同じやうに、「肉体の刺」ではないでございませうか。そしてわたくし共もパウロのように、「汝の恩寵(めぐみ)われに足れり」と言ふことを学ばねばならぬのではございませんでせうか。また活動をはじめるかも知れないかういう病気の源を、自分は相かはらず身中(みのうち)に持っている、しかもやはり神様は自分を支へて強くして下さる―このやうに考えますことは、良いこと、また素晴らしいことでさへございます。

・・・そして身中(みのうち)に持って居りますこの危険物は、わたくしを絶えず目覚ませておくのではございませんでせうか。また、自分が日毎に、いえ、一瞬毎に、圧し迫られて、神様の方へ向けられるやうに感じるのではございませんでせうか。わたくしを(人間的に申しまして)破滅させかねないものから、その御恵みだけが日々護って下さる(さうわたくしは心の底から信じます)あの神様の方へ、自分が向けられるやうに、感じるのではございませんでせうか。

もし急にすっかり癒るやうなことになりましたら、わたくしは神様に溢れるやうな感謝でお礼申したことではございませうが、また次第にそのことをすっかり忘れてしまったかも知れません。今のやうな状態なのでわたくしはそれを忘れないのでございます。このこと、おわかりになっていただけますでせうか。さうでございます。神様はわたくし共に大きな救いをお与え下さったのでございます。この救いは体をすっかり癒していただきましたよりも、多分そのままで、ずっと大きな救ひでございます。

どうぞわたくしのためにお祈り下さった皆さまに、皆さまのお祈りは聞かれた、聞きとどけられたと、おっしゃって下さいませ。二月前の死の怖れの後で、仕事をまた始め、また子供たちのところへ帰って育てることが多分出来る、といふ可能性を眼の前に見るとは、何といふ救ひでございませう。いいえ、すべてあれで良かったのでございます。すべては良いのでございます。きっとあなたも、わたくしに賛成して下さることと存じます。

私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。・・・このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(新約聖書 2コリント12・7~9)

(明日は寒くなるらしい。二三日前の拙宅のオキザリス。朝日を浴びているところを撮影した。)