2016年3月7日月曜日

結び目

堀川 名古屋市内※

私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。(雅歌6・3)

 信者が「私はあなたのもの」と言うのは単なるこだまに過ぎません。信仰が与えるきよさ、本然の声に近づくことにより受けたものです。そう、「あなたは私のもの」と言われることのこだまに過ぎないのです。それは権能あるお方の音楽の応答として聞こえてくるものです。御霊が備えられている心がそこにはあるからです。

 この天にある音楽の記録は決していかなる地上の岩にも起源はありません。神様が御子の霊を私たちの心に遣わしてくださり、私たちが「アバ、父よ」(ガラテヤ4・6)と叫ぶときだけなのです。油注がれてはいたがまだ正式に冠を授けられていない王がアマサイに会いに出かけて行き、御霊が彼に臨んで「ダビデよ。私たちはあなたの味方」(1歴代誌12・18)と言った時だったのです。

 だから、こだまの喜びのうちにある声を聞き逃してはなりません。耳を傾けなさい。そうすれば高きところから祭司としてとりなしをしておられる隠れた高きお方の声を聞き落とすことはないでしょう。「彼らはあなたのものだからです。わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。」(ヨハネ17・9〜10)

その時あなたの貧しい愛情を持ち出しなさい、そしてこの試みによって
隠された深みは見抜かれます、
あなたはあなたが主を一番愛していることを知っています
それは主のあなたに対する大きな愛の弱々しいこだまにすぎません
しかし、主の耳にはそれぞれの記録はやさしく記され、
そのハーモニーは真実に聞こえているのです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-7-the-tie-that-binds/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97231です。

第2章 光彩(13)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 しかし、間もなく私たちは彼女が「たくさんの罪からなる怒りをともなう昔の困難な道に逆戻りした」ことを知る。「私が思うに」とフランシスは彼女の自伝の中で自らの内面生活を語る。「私のすべての悩みと疎外感の根っこにあった大きな問題は私が今も自分自身を神様に無条件に明け渡していないことにあり、このことが解決されない限り、私には平安は訪れないであろうということだ。私はそう確信している。私には悔い改めるべきことがあまりにもたくさんあるのだ。世間の友だちの意見を何よりも恐れること、そして世を愛すること、それに引き換え、何と天的な願い、愛においては冷やかであるかということだ」

 ※「神います 啓示の結び 連なりて 古え乗せて 堀川流る」日曜日、新しく知己を得た友人に昼食場所を案内されて歩いているうちにこの川の橋を渡った。思わずカメラに納めた。私の名古屋のイメージになかった場所だ。幼い時、象を見に、東山動物園に連れられて行ったこともある。何を隠そう、坂田昌一氏に師事しようとばかりに臨んだ大学受験で一敗地にまみれることになる初陣の地でもあった。そんな名古屋にこの歳になって一年に一回は訪れるようになっている。主のご計画は計り知れない。) 

2016年3月6日日曜日

私たちの保証

私自身が彼の保証人となります(創世記43・9) 

そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。(ヘブル7・22)

 ユダは父にベニヤミンを無事にエジプトから連れ帰ることを約束しました。彼はこのことを完全に約束しました。彼は言いました。「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。」(創世記43・9)そして父はユダが言ったようにすることを信じた。そのようにしてユダはベニヤミンの保証人になった。

 主イエス様は私たちの保証人です。主は私たちを無事に父の家に連れて行き、私たちの父とするために約束されます。主は私たちが主の栄光ある御前におらせることを約束してくださいます。私たちは主の御手のうちにあり、主の御手から神様は私たちを受け入れて下さいます。

 それでは、もし神が主を信頼しておられたのなら、あなたもまた主を信頼しないのでしょうか。どうしてですか。イエス様を信頼することをためらうのですか。あなたを天国に無事に連れて行くと誰か他の者が約束できるのでしょうか。

 ベニヤミンは恐らくエジプトからカナンにまで自力で行く道を見つけたかもしれません。けれどもあなたは、決して、決して自分で地上から天国へ行く道を見つけることは出来ないでしょう。そして主イエス様以外誰も決してあなたをそこへ連れて行くことはできないのです。

 ベニヤミンは兄が約束を守ることができるとは全く確信が持てませんでした。ユダは一人の人間に過ぎませんし、エジプトで殺されたかも知れないのです。ところがあなたは主イエス様が約束を守られると確信できるのです。なぜなら主は人であり神であるからです。それともあなたは神が約束を破られるとでも思うのですか。主が、信仰ある救い主が約束を破られるのですか。天地は過ぎ去ります。しかし主のことばは過ぎ去りません。ですから今主を信じなさい。そして主を信頼することを捨てて忠実な主の愛を決して不当にあつかわないでください。

しかし、未だに高い聖なるところからあの声が嘆願しているのです。 
主の一人の弱い子どもがこの地上で彷徨い歩いているのです。
未だに一人の飢え渇ける魂がきよさを分かってほしいと求めているのです。
救い主の愛ある心は全能の祈りの潮を注いでおられます
そうです。めいめいの身請けされた者が喜びと平安の己が家を獲得するまで
語られたことのない祝福の泉は決して決してやむことはないでしょう。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-6-our-surety/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97230です

第2章 光彩(12)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 1860年、ハヴァガル氏は15年間のウオーセスターのニコラス教会の奉仕を終えて、シャレーシルの小さな田舎の教区に移った。これは主に彼自身の健康上の理由であった。彼が教区に来て影響が出た最初の改善の一つは日曜郵便の廃止であった。これはフランシスがいつも多くのキリスト者が自分たちの責任を認識していないと鋭く感じていた疑問であった。「どんな仕事の慣習も、」と彼女は亡くなる前に簡潔に書いた。「郵便配達をふくんではいけない。そのことに気づかないのは正しくない。」
 ほぼこのころ彼女はついに自分がどうであったかを言うことができた。すなわち彼女は「大変な長年の期間自らをしばりつけた疑いとほとんど絶望のうんざりした拘束に負けてしまっていた。私は以前と同じ罪と誘惑を持っているが、以前よりももっとそれらに反抗しようとはしていない。それはしばしばむつかしい仕事のようである。しかし、私がなぜ救われていると知ることができなかったかということに反して、今ではキリストがもし皆のために死なれたのなら、なぜ私が救われないのかと言うことは出来ない。・・・キリストの死はまことに私の確信であり、私は一つの新しいことがらの甘さをじっくり味わっているのだ」) 

2016年3月5日土曜日

確かな守り手

弥生月 友に見せたし 桜花※

あなたを守る方は、まどろむこともない。(詩篇121・3)
私は信頼して恐れることはない。(イザヤ12・2)
あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。(詩篇91・5)
 
 主はあなたを暗やみの時間をとおしてずっと守られます。あなたを傷つけ失望さえさせるすべてのものから守られます。主はあなたを守られます。ただあなたの守り手であるお方がどなたかを考えなさい。すべてをなすことができ、すべてを見ることができる全能の神が主なのです。

 あなたはなぜそのような守り手と一緒にいながら恐れる必要があるのでしょう。「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」(詩篇91・11)を知ることはすばらしいことです。しかし神ご自身が私たちを守ってくださると考えることははるかにすばらしい大きなことです。

 まるで主が私たちがそのことに大変確信を持ち、永遠にこれ以上恐れるのを弁解させないことを望んでおらるかのように、主は実に三度以上も「あなたを守る方は、まどろむこともない。」(3節)「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(4節)「主は、あなたを守る方。」(5節)と言われる。主はこれ以上何を言うことができるでしょうか。
 
主は暗やみで語られる。あなたは主の顔を見ることができないが、
かつて必要とされた天使たちよりも多くの、
あわれみ、赦し、愛、そして恵みを、
安全で聖なる安らぎのある多くの住まいについて語られる。

あなたは主とともに永遠にいて、完全にそしていつも祝福をいただく。
主があなたに暗やみで語られることを、
孤独な夜の時をとおしてのささやきを、
あなたは栄光ある讃美といつまでも続く光のうちに語るのだ。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-5-a-sure-keeper/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97229です。
第2章 光彩(11)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 恐らく、必要とされたことがらは聖書を間違わずに読み上げることであり、聖書と讃美歌を覚えることに全力をささげることであったろう。私たちはこういう初歩的で秩序だった日々において前例のない訓練は俄然困難なものと考えるべきであった。しかしこの若い教師は自らに言っている。「私は死に物狂いで困難な仕事をした。私の受け持ったクラスは当時日曜学校で最悪のクラスだったから。14年過ぎて唯一の小さい少数のものが希望となった」しかし、この体験が完遂された時、確実にフランシス自身のこども時代は過ぎ去った。

 ※繰り返した脳梗塞のため自力では行動できなくなって久しい友と出会ってもうかれこれ二年弱が経過する。昨年の今頃も友を訪ねた際に、この早咲きの桜並木を遠望し、近寄ってこのような写真を撮った記憶がある。しかしアングルは昨年とは違うと思う。友は私に披露した。「宮古、港では碇〈いかり〉は要らぬ。情け一筋船つなぐ。」と。三陸音頭(?)のセリフのようだ。そして私は「碇」ならぬ「怒り」を無視される主の愛を改めて紹介した。「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください」ミカ7・18〜19。友の顔面に喜悦が走った。二人のアングルは一致した! )

2016年3月4日金曜日

つき従うことの重要性

空の青 蕾描けり 古利根の 川面にたむろ 水鳥繁く※

ユダの人々はヨルダン川からエルサレムまで、自分たちの王につき従って行った。(2サムエル20・2)

 王様ご自身は王であることを隠して少数の忠実な従者と一緒に歩かれたが、従者たちの多くが帰ってしまい、もはやそれ以上歩かなかったということからすれば、より適切に言えば、来ることがつき従うことになるということは当たり前のことではないと言える。

 しかし、主の側からは、怒りや非難のことばは一語もなく、ただ主のやさしいくちびるから洩れ出た、限りない心の思いがあっただけである。 「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」(ヨハネ6・67)

 今日、私たちの耳にこの声を鳴り響かせましょう。もっとも真実な心からする忠誠と奉仕をさせまいとする誘惑の瞬間だけでなく、日ごとの仕事の全時間を通しても。 私たちのあまりにも安易な休息から積極的な進軍へ進ませ、遠く離れて従って行くのでなく主のあとにすぐ従って行き、私たちが「ダビデよ。私たちはあなたの味方。」という祝福された確信を、より大胆にまた高潔に「エッサイの子よ。私たちはあなたとともにいる。」(1歴代誌12・18)と言えますように。

あなたを信頼し、あなたのもとに憩います、
ああ親愛なる我が救い主、祝福された贖主。
地上に友なく、兄弟もなし、我が弱さ、我が欠乏、
我が悲しみを知る者は一人として。
私はあなたに呼ばわります、すべてをご存知のあなたに。
ああ親愛なる我が救い主、祝福された贖主、
あなたを信頼し、あなたのもとに憩います。 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-4-cleaving/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97228です

第2章 光彩(10)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 もちろん私たちの目下の素描の主題は一人の熱心な日曜学校の教師にあった。フランシスは彼女の日曜学校の生徒について日記のようなものをつけていた。彼女が大層愛した子どもたちについてであったが、日付が1846年から1860年に置かれているように、彼女が最初から、すなわち9歳から10歳の時にその教師としての立場をかなり責任あるものとして受け取っていたことをあらわしているものであろう。この年頃にあって幼い生徒を導こうとする人々の中で継続的に増進させる成果をおさめていたとは信じられないようにも思えるが、別の例では、近隣における小さな村々で、かなり早い年齢のもとで、その年ごろのよく訓練されたこども、特に聖職者の娘たちが教え始めていることが言及されていた。

 ※久しぶりに古利根川の土手を歩いた。様々な水鳥が足繁く川を行き交う。桜並木の中でこの一木だけが赤い蕾を見せていた。「水鳥に つき従いて 川歩む」) 

2016年3月3日木曜日

私たちの思いを越えて

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。(1ペテロ3・18)

 もし私たちが私たちを大層愛してくれた人が死に向かって恐ろしい苦痛にあるのを振り返った時、私はいかなる心がどのようにそれに耐えるかをほんとうに知らない。もし私たちが、引き延ばされた苦痛は私たちの代わりに耐えられたもので、私たちを愛する以外にはこの世には何物もないがために耐えられたとはっきり知っていたとしても、やはりわからない。

 けれども、これに対して、私たちがその死にゆく人にひどい態度を取り、あらゆることをなし、今や取り返しがつかないほど、彼を悲しませ、彼の愛をほんの少しも顧みず、生来の愛情さえも取り戻せず、遠巻きに見ており、敵対する側に立ち、そしてそれから主のゆっくりとした痛みの恐ろしい詳細が語られ、いいえ私たちに示されたのだという知識がつけ加えられたら。いいでしょうか、もしあなたができるというのなら、私たちの良心の呵責を考えてごらんなさい。私にはとても出来ません。

 悲しみと感謝の重荷が押しつぶすことになるでしょう。そして、もしなおも私たちがその貧しくも時機を逸した感謝の思いを示す何らかの可能性がある方法があったとしても、私たちの鈍い愛をあらわすしかないのなら、いかなる犠牲をはらっても何一つ数えあげることはできないでしょう。

 唯一思うことは私たちは別の時間の安らぎを決して知ることがないのだということです。しかし、私たちの主がこうむられた苦難は、力と慰めと平安をもたらすというのが、主の苦難を思い出す不思議な力の不可欠な要素です。

 なぜならバンヤンは言っています。「主は主の悲しみによって私たちに安らぎをくださった」主にとっての死の苦痛は私たちにとってまさしく芳醇ないのちの泉なのであります。

 結局、いかに言葉の贅を尽くしてもあなたの心には力も真実もなく言葉が落ちていくように見えるのでしょうか。あなたにとって、そのことは何でもないのですか。それとも何もないよりはもう少しあるのですか。このことは全部真実だということをあなたが知らないということでなく、あなたの心が冷たく、あなたの理解力が機械的で、そしてあなたの信仰が無力化されているということを物語っているのでしょうか。

 感情は事実を変えないことを神様に感謝しなさい。神様はすべての他の罪はもちろんのこと、この罪に満ちた心の冷たさのためにも苦しまれたのです。神は苦しまれました。正しい方が不正のためにです。 私たちがこんなふうにして主の大きな愛に報いる時私たちは全く不正ではないでしょうか。

 
我が主よ、あなたは私のこのことを覚えていらっしゃいますか
私の愛はこれほど貧しく、冷たいのです。
おお、もし私があなたをもっと愛しさえしていたら

でもあなたは赦してくださった。注がせてください
あなたのために私のいのちの最上のぶどう酒を、私の心の最上の金を
(私の持っているものはすべて価値がありません) 


大変な恥に変えてあなたが私に話かけ、私の名前を呼んでくださったとは
主はこんなふうにおっしゃる、私はあなたを忘れない、と。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-3-beyond-our-imagination/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97227です。今日の箇所も難解をきわめました。訳には自信がありません。

 最近二冊のハヴァガルに関する邦訳の本の存在を知りました。一冊は『人生のかぎ』V・レイモンド・エドマン著舟喜信訳いのちのことば社、もう一冊は『賛美歌・聖歌ものがたり』大塚野百合著創元社です。前者は私の書棚に眠っていましたが、今まで気がつきませんでした。後者は図書館で借りました。後者は比較的手に入れやすい本です。関心のある方はお読みになることをお勧めします。なお以下の伝記はこれまでどおり、Jennie Chappellの筆による四人の女性の生き方にちなんだ作品で、ハヴァガルに関するものの続き物の訳です。この個所も残念ながらわかりにくい文章となってしまっている。

第2章 光彩(9)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 フランシス・ハヴァガルは外見上ははちきれんばかりに元気いっぱだったが、ほんとうは健康に恵まれていなかったふうに思われる。彼女の風貌が伝えた喜びと輝きの印象についての記事を読んでからだと、彼女がある晩、ガラスの中に映った顔が紅潮していたことから、空想することに病的に喜びのスリルを味わっていたことを知るのは不思議なことである。恐らく当時彼女はそのようなものを求めるとりこになっていたのだろう。
 19世紀の強力な常識は「1850年代」の弱い感傷主義を打ち負かしてしまった。今やフランシスのような善良なキリスト者少女は主に仕えるにあたり少しでも役に立つため長い寿命を見込むことに喜びを感じたものだが、半世紀前の宗教上の文学や思想は早世や一日も早く至福の時に至ることをすぐれて魅力的だと説明していた。) 

2016年3月2日水曜日

もはやあなたのものではない


あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(1コリント6・19〜20)

 私たちが信仰と経験によって生きるにしても死ぬにしても自分が主のものであることを悟れば悟るほど、私たちは益々すすんで主がご自身のものになさることをするようになるでしょう。そして益々私たちは主がまさしく最善のことをなさり 、まさにその大部分を用意されていることに確信を抱くでしょう。

 願わくは、神のもとで神が与えられている権利である、この力と安らぎをますます知ることができますように。「 私はあなたのもの。どうか私をお救いください。」(詩篇119・94)「主は、救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。」(ゼパニヤ3・17)
 
あなたはあなたのものでないのです。
主に対してあなたはあなたのいのち、あなたの愛のすべてを負っているのです。 
あなたは主のほまれをあらわすことができますように、
天上でさらなるあらゆる讃美であるお方に。 
毎日毎時間を、あらゆる賜物、あらゆる力を 主にのみおささげなさい。
主はあなたをご自身のものとされたのです。
 
主よ、私たちに教えて下さい。
私たちがあなたに対して、持っているもの、
また私たちの存在そのものをどのようにおささげしていいかを。
 
救い主なるお方、私たちが生きている間、
全面的にただあなたのものであることをお認めください。
私たちの召しが高きものでありますように、
あなたにお仕えし、栄光を帰することができますように。
私たちのものはもはや何もありません。
ただあなたのもの、とこしえに、あなただけのものです。 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-2-not-your-own/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97226です。

第2章 光彩(8)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 以下はWomen who have worked and won by J.Chappellの104頁からの訳である。
 この決意とともに彼女の美声をもはや「福音を歌う」以外のいかなる目的にも決して用いないと言う解決もまた可能となったのだ。〈彼女の「美声」は豊かな才能に恵まれたフランシスの賜物の中の一つに過ぎなかったのだが。〉フランシスは書いている。「あなたの声が主のためでない限り、あなたは主のためのすべてとはなっていないのだ。主のためにすべてなのか、それとも主に対して部分的なのか。どっちですか。あなたが主人とも主ともお呼びびしている方にお答えなさい」
 主にお仕えする上ではっきりしないものはたとえどんなものであっても、多かれ少なかれ反対側に属するに違いないという見解を取ったフランシスにとり、世俗的な音楽はすべてタブーとなった。「穏やかな聖歌」であっても満足しないように見えた。歳をとるにつれ彼女はほとんど聖書のことばだけをもっぱら歌うと言う原則を採用した。彼女は一人の熱心な若い友人の信仰を喜びをもって賞賛さえした。それはその友人が幾分疑いながら世俗的な音楽会に参加することに同意してしまったその晩ひどい風邪に見舞われたのは神様が喜ばれない直接的な証拠なのではないかと考えたからであった。) 

2016年3月1日火曜日

機会をとこしえに逃さないで!

これこそ、実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。(ルカ11・42)
 
あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。(使徒4・29)
 
 私が学校を出てからちょうど一夏訪問している間に、私とほぼ同年代の少女たちが一クラスで私のところに数回やって来ては、一時間歌を歌っては帰って行くときがありました。それはほんとうに愉しいときでした。その少女たちは喜んで賛美歌を歌っていました。彼女たちは私が時間や表現について言わねばならなかったことや歌詞についてはさらに恥ずかしくなる危険をおかしながらなす感想に対しても少なからず最大の注意をもってことごとく聞いてくれたのです。

 時々私は後で大通りを降りて行く彼らと一緒になりました。そのうちの何人かに会う時はいつも笑みをもって接し、互いにやさしいことばを何度となく交わしたのです。そのことばで、少女たちが私を大層気にいっているように見えました。数年して私は少女たちの一人のベッドのそばに座っていました。彼女は心も頭脳もどちらも少女たちの中ではもっとも賜物を与えられていた少女でした。

 彼女は長期間にわたる深刻な患いをとおして私が味わったよりもはるかに明確な光の中に不思議な方法で導かれ、二つ以上の道で、さらには私がかつて経験したことよりもはるかに輝かしいキリストの証人となりました。

 彼女は私にこのような歌唱クラスにいた時、自分がどんなに悲しそうにそして一心にイエス様を求めていたかを話してくれました。それなのに私は全く何も知らなかったのです。なぜなら私は尋ねられもしなかったし、少女は少女で恥ずかしさのあまり最初話しもできなかったからです。

 けれども彼女はこの時私にもっと多くのことを話したのです。そしてどのことばも私にとっては心の痛みでした。どれだけあの夏の夕べ大通りを、私が彼女に救い主について話してくれるのを待ち焦がれてゆっくり歩いていたものか。来る週も来る週も私がちょっとばかり彼女を助けるために手を伸ばして、自分に神様の平安のメッセージの一言葉でも言ってくれるかどれだけ期待していたかと言うのです。それなのに私はすばらしい賛美歌とその曲について愉しい一般的な感想を話していたばかりなのです。私は一切福音を伝えることをしなかったのです。

 そして彼女は数ヶ月間、私が思うには数年、光と喜びなしに過ごしたのです。その喜びと光は彼女の人生に私が伝えることができる特権であったのにです。

 神様は他の手段を選ばれました。神様がキリストに与えなさった魂は人間の働きが不真実であったからといって捨てられないのです。しかし彼女は言いました。そしてそのことばはしばしば私の耳に、私が機会を逸するように試みられるたびに鳴り響くのです。「ああ、フランシスさん、私はあなたのものだったはずなんですよ(あなたから福音を聞かせていただくはずだったのですよ)!」

あなたのものは主の贖われた者に喜びと栄誉をもたらす 
来たるべき主と王の戴冠式のための宝石です
あなたは主の喜びを分け合う喜びを捨てるのですか 
ひとことばのためにすべてを、
それとも
イエス様があまりにも大変なようにみえてあなたはあえてそれができないのですか

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-1-opportunities-gone-forever/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97225です。

第2章 光彩(7)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 この生きた、しかし語られることのない福音、この全人格をとおして輝く喜ぶ心の「良きおとずれ」はあらゆる説教よりももっとも力あるものです。けれどもフランシス・ハヴァガルは他の人々の前で自らの信仰告白を言い表わし、人々に直接訴えることをはっきり言い表わすことだと強く信じていたので、後年自分がこういう印象深いアイルランドの若い少女たちにもっと自由に話さなかったことを非常に悲しみをもって遺憾に思ったのだ。

 私はここまで訳して不思議な思いに満たされている。と言うのは、今日のハヴァガルのテキストとこの伝記は出典が全く別のものでそれぞれの順序に従って私が自由に訳してきたのに、今日の箇所がぴったりと重なり合っているからだ。まさに神業としか言いようがない。詩篇139・1〜2そのままの思いがする。

 このことはハヴァガルが決して忘れることの出来ない教訓となった。これ以後、彼女はたとえ数分間の間でも仕事であろうと娯楽であろうと話す機会がある人々には、神様の前にいる魂の救いと状態について数語の簡潔なことばで話さずに立ち去ることがないように努力するようになった。)