私たちが信仰と経験によって生きるにしても死ぬにしても自分が主のものであることを悟れば悟るほど、私たちは益々すすんで主がご自身のものになさることをするようになるでしょう。そして益々私たちは主がまさしく最善のことをなさり 、まさにその大部分を用意されていることに確信を抱くでしょう。
願わくは、神のもとで神が与えられている権利である、この力と安らぎをますます知ることができますように。「 私はあなたのもの。どうか私をお救いください。」(詩篇119・94)「主は、救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。」(ゼパニヤ3・17)
あなたはあなたのものでないのです。
主に対してあなたはあなたのいのち、あなたの愛のすべてを負っているのです。
主に対してあなたはあなたのいのち、あなたの愛のすべてを負っているのです。
あなたは主のほまれをあらわすことができますように、
天上でさらなるあらゆる讃美であるお方に。
天上でさらなるあらゆる讃美であるお方に。
毎日毎時間を、あらゆる賜物、あらゆる力を 主にのみおささげなさい。
主はあなたをご自身のものとされたのです。
主はあなたをご自身のものとされたのです。
主よ、私たちに教えて下さい。
私たちがあなたに対して、持っているもの、
また私たちの存在そのものをどのようにおささげしていいかを。
私たちがあなたに対して、持っているもの、
また私たちの存在そのものをどのようにおささげしていいかを。
救い主なるお方、私たちが生きている間、
全面的にただあなたのものであることをお認めください。
私たちの召しが高きものでありますように、
あなたにお仕えし、栄光を帰することができますように。
私たちのものはもはや何もありません。
ただあなたのもの、とこしえに、あなただけのものです。
全面的にただあなたのものであることをお認めください。
私たちの召しが高きものでありますように、
あなたにお仕えし、栄光を帰することができますように。
私たちのものはもはや何もありません。
ただあなたのもの、とこしえに、あなただけのものです。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-2-not-your-own/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97226です。
第2章 光彩(8)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
以下はWomen who have worked and won by J.Chappellの104頁からの訳である。
この決意とともに彼女の美声をもはや「福音を歌う」以外のいかなる目的にも決して用いないと言う解決もまた可能となったのだ。〈彼女の「美声」は豊かな才能に恵まれたフランシスの賜物の中の一つに過ぎなかったのだが。〉フランシスは書いている。「あなたの声が主のためでない限り、あなたは主のためのすべてとはなっていないのだ。主のためにすべてなのか、それとも主に対して部分的なのか。どっちですか。あなたが主人とも主ともお呼びびしている方にお答えなさい」
主にお仕えする上ではっきりしないものはたとえどんなものであっても、多かれ少なかれ反対側に属するに違いないという見解を取ったフランシスにとり、世俗的な音楽はすべてタブーとなった。「穏やかな聖歌」であっても満足しないように見えた。歳をとるにつれ彼女はほとんど聖書のことばだけをもっぱら歌うと言う原則を採用した。彼女は一人の熱心な若い友人の信仰を喜びをもって賞賛さえした。それはその友人が幾分疑いながら世俗的な音楽会に参加することに同意してしまったその晩ひどい風邪に見舞われたのは神様が喜ばれない直接的な証拠なのではないかと考えたからであった。)
第2章 光彩(8)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
以下はWomen who have worked and won by J.Chappellの104頁からの訳である。
この決意とともに彼女の美声をもはや「福音を歌う」以外のいかなる目的にも決して用いないと言う解決もまた可能となったのだ。〈彼女の「美声」は豊かな才能に恵まれたフランシスの賜物の中の一つに過ぎなかったのだが。〉フランシスは書いている。「あなたの声が主のためでない限り、あなたは主のためのすべてとはなっていないのだ。主のためにすべてなのか、それとも主に対して部分的なのか。どっちですか。あなたが主人とも主ともお呼びびしている方にお答えなさい」
主にお仕えする上ではっきりしないものはたとえどんなものであっても、多かれ少なかれ反対側に属するに違いないという見解を取ったフランシスにとり、世俗的な音楽はすべてタブーとなった。「穏やかな聖歌」であっても満足しないように見えた。歳をとるにつれ彼女はほとんど聖書のことばだけをもっぱら歌うと言う原則を採用した。彼女は一人の熱心な若い友人の信仰を喜びをもって賞賛さえした。それはその友人が幾分疑いながら世俗的な音楽会に参加することに同意してしまったその晩ひどい風邪に見舞われたのは神様が喜ばれない直接的な証拠なのではないかと考えたからであった。)
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