2016年3月6日日曜日

私たちの保証

私自身が彼の保証人となります(創世記43・9) 

そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。(ヘブル7・22)

 ユダは父にベニヤミンを無事にエジプトから連れ帰ることを約束しました。彼はこのことを完全に約束しました。彼は言いました。「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。」(創世記43・9)そして父はユダが言ったようにすることを信じた。そのようにしてユダはベニヤミンの保証人になった。

 主イエス様は私たちの保証人です。主は私たちを無事に父の家に連れて行き、私たちの父とするために約束されます。主は私たちが主の栄光ある御前におらせることを約束してくださいます。私たちは主の御手のうちにあり、主の御手から神様は私たちを受け入れて下さいます。

 それでは、もし神が主を信頼しておられたのなら、あなたもまた主を信頼しないのでしょうか。どうしてですか。イエス様を信頼することをためらうのですか。あなたを天国に無事に連れて行くと誰か他の者が約束できるのでしょうか。

 ベニヤミンは恐らくエジプトからカナンにまで自力で行く道を見つけたかもしれません。けれどもあなたは、決して、決して自分で地上から天国へ行く道を見つけることは出来ないでしょう。そして主イエス様以外誰も決してあなたをそこへ連れて行くことはできないのです。

 ベニヤミンは兄が約束を守ることができるとは全く確信が持てませんでした。ユダは一人の人間に過ぎませんし、エジプトで殺されたかも知れないのです。ところがあなたは主イエス様が約束を守られると確信できるのです。なぜなら主は人であり神であるからです。それともあなたは神が約束を破られるとでも思うのですか。主が、信仰ある救い主が約束を破られるのですか。天地は過ぎ去ります。しかし主のことばは過ぎ去りません。ですから今主を信じなさい。そして主を信頼することを捨てて忠実な主の愛を決して不当にあつかわないでください。

しかし、未だに高い聖なるところからあの声が嘆願しているのです。 
主の一人の弱い子どもがこの地上で彷徨い歩いているのです。
未だに一人の飢え渇ける魂がきよさを分かってほしいと求めているのです。
救い主の愛ある心は全能の祈りの潮を注いでおられます
そうです。めいめいの身請けされた者が喜びと平安の己が家を獲得するまで
語られたことのない祝福の泉は決して決してやむことはないでしょう。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-6-our-surety/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97230です

第2章 光彩(12)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
 1860年、ハヴァガル氏は15年間のウオーセスターのニコラス教会の奉仕を終えて、シャレーシルの小さな田舎の教区に移った。これは主に彼自身の健康上の理由であった。彼が教区に来て影響が出た最初の改善の一つは日曜郵便の廃止であった。これはフランシスがいつも多くのキリスト者が自分たちの責任を認識していないと鋭く感じていた疑問であった。「どんな仕事の慣習も、」と彼女は亡くなる前に簡潔に書いた。「郵便配達をふくんではいけない。そのことに気づかないのは正しくない。」
 ほぼこのころ彼女はついに自分がどうであったかを言うことができた。すなわち彼女は「大変な長年の期間自らをしばりつけた疑いとほとんど絶望のうんざりした拘束に負けてしまっていた。私は以前と同じ罪と誘惑を持っているが、以前よりももっとそれらに反抗しようとはしていない。それはしばしばむつかしい仕事のようである。しかし、私がなぜ救われていると知ることができなかったかということに反して、今ではキリストがもし皆のために死なれたのなら、なぜ私が救われないのかと言うことは出来ない。・・・キリストの死はまことに私の確信であり、私は一つの新しいことがらの甘さをじっくり味わっているのだ」) 

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