弥生月 友に見せたし 桜花※ |
あなたを守る方は、まどろむこともない。(詩篇121・3)
私は信頼して恐れることはない。(イザヤ12・2)
あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。(詩篇91・5)
主はあなたを暗やみの時間をとおしてずっと守られます。あなたを傷つけ失望さえさせるすべてのものから守られます。主はあなたを守られます。ただあなたの守り手であるお方がどなたかを考えなさい。すべてをなすことができ、すべてを見ることができる全能の神が主なのです。
あなたはなぜそのような守り手と一緒にいながら恐れる必要があるのでしょう。「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」(詩篇91・11)を知ることはすばらしいことです。しかし神ご自身が私たちを守ってくださると考えることははるかにすばらしい大きなことです。
まるで主が私たちがそのことに大変確信を持ち、永遠にこれ以上恐れるのを弁解させないことを望んでおらるかのように、主は実に三度以上も「あなたを守る方は、まどろむこともない。」(3節)「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(4節)「主は、あなたを守る方。」(5節)と言われる。主はこれ以上何を言うことができるでしょうか。
あなたはなぜそのような守り手と一緒にいながら恐れる必要があるのでしょう。「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」(詩篇91・11)を知ることはすばらしいことです。しかし神ご自身が私たちを守ってくださると考えることははるかにすばらしい大きなことです。
まるで主が私たちがそのことに大変確信を持ち、永遠にこれ以上恐れるのを弁解させないことを望んでおらるかのように、主は実に三度以上も「あなたを守る方は、まどろむこともない。」(3節)「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(4節)「主は、あなたを守る方。」(5節)と言われる。主はこれ以上何を言うことができるでしょうか。
主は暗やみで語られる。あなたは主の顔を見ることができないが、
かつて必要とされた天使たちよりも多くの、
あわれみ、赦し、愛、そして恵みを、
かつて必要とされた天使たちよりも多くの、
あわれみ、赦し、愛、そして恵みを、
安全で聖なる安らぎのある多くの住まいについて語られる。
あなたは主とともに永遠にいて、完全にそしていつも祝福をいただく。
主があなたに暗やみで語られることを、
孤独な夜の時をとおしてのささやきを、
孤独な夜の時をとおしてのささやきを、
あなたは栄光ある讃美といつまでも続く光のうちに語るのだ。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/march-5-a-sure-keeper/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97229です。
第2章 光彩(11)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
恐らく、必要とされたことがらは聖書を間違わずに読み上げることであり、聖書と讃美歌を覚えることに全力をささげることであったろう。私たちはこういう初歩的で秩序だった日々において前例のない訓練は俄然困難なものと考えるべきであった。しかしこの若い教師は自らに言っている。「私は死に物狂いで困難な仕事をした。私の受け持ったクラスは当時日曜学校で最悪のクラスだったから。14年過ぎて唯一の小さい少数のものが希望となった」しかし、この体験が完遂された時、確実にフランシス自身のこども時代は過ぎ去った。
※繰り返した脳梗塞のため自力では行動できなくなって久しい友と出会ってもうかれこれ二年弱が経過する。昨年の今頃も友を訪ねた際に、この早咲きの桜並木を遠望し、近寄ってこのような写真を撮った記憶がある。しかしアングルは昨年とは違うと思う。友は私に披露した。「宮古、港では碇〈いかり〉は要らぬ。情け一筋船つなぐ。」と。三陸音頭(?)のセリフのようだ。そして私は「碇」ならぬ「怒り」を無視される主の愛を改めて紹介した。「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください」ミカ7・18〜19。友の顔面に喜悦が走った。二人のアングルは一致した! )
第2章 光彩(11)The Life Story of F.R.Havergal by Jennie Chappellより
恐らく、必要とされたことがらは聖書を間違わずに読み上げることであり、聖書と讃美歌を覚えることに全力をささげることであったろう。私たちはこういう初歩的で秩序だった日々において前例のない訓練は俄然困難なものと考えるべきであった。しかしこの若い教師は自らに言っている。「私は死に物狂いで困難な仕事をした。私の受け持ったクラスは当時日曜学校で最悪のクラスだったから。14年過ぎて唯一の小さい少数のものが希望となった」しかし、この体験が完遂された時、確実にフランシス自身のこども時代は過ぎ去った。
※繰り返した脳梗塞のため自力では行動できなくなって久しい友と出会ってもうかれこれ二年弱が経過する。昨年の今頃も友を訪ねた際に、この早咲きの桜並木を遠望し、近寄ってこのような写真を撮った記憶がある。しかしアングルは昨年とは違うと思う。友は私に披露した。「宮古、港では碇〈いかり〉は要らぬ。情け一筋船つなぐ。」と。三陸音頭(?)のセリフのようだ。そして私は「碇」ならぬ「怒り」を無視される主の愛を改めて紹介した。「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください」ミカ7・18〜19。友の顔面に喜悦が走った。二人のアングルは一致した! )
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