2024年1月4日木曜日

ツィンツェンドルフ伯(中)

ツィンツェンドルフ伯
 大変な惨事をよそに、このようなブログを投稿していることをお詫び申し上げます。かつて、東日本大震災を目の当たりにして、その当時投稿していたブログ記事3/11日を思わず断念し、その代わりに一日先の3/12日に下記のブログを書いたたことを思い出しました。 https://stryasheep.blogspot.com/2011/03/blog-post_12.html 

被災地で苦難に遭われているご家族の上に、一時も早い復興とお慰めが主から与えられますようにと、お祈り申し上げます。

 さて、昨日、お知らせしましたもう一つの新しい発見についてお書きしたいのですが、その前に次のことを是非触れねばなりません。それはツィンツェンドルフ伯爵の領地であったヘルンフートという町の実態についてであります。海老沢さんは、昭和十年(1935年)即ち今からおよそ百年近い前になりますが、「教会中心の町」(同書16頁からの引用)と題して語っています。(※)

教会中心の町

さて、最初の家が建てられてから町の設計に従って次の十年間に、ヘルンフートの町は建設された。(ヘルンフートという語には二つの意味があって、一つは「主の護り」を意味し他は「主の番兵」のような意味をもって用いられた。従ってそれは、常に主のお護りの下にあり、また人は常に主の番兵として警戒しているべきであるという意味合いをもって、ヘルンフートと名づけられたようである)

先ず会堂の建てられた広場を中心として、道路は四方に設けられた。それは全く文字通りに教会中心の町であった。現在でも町の人々の職業は、ミッション博物館、出版社、病院など、ほとんど皆伝道に関係を持っている。伝道事業を離れてこの町の人々の生活はないと言ってよい。普通のドイツ人でさえ知らぬほどの、人口わずか千六百の小さい町が、過去二百年間に男女三千人以上の宣教師を海外伝道に派遣し、現在なお二百六十人が海外に伝道している。従って町内の各戸は、ほとんど皆、宣教師と縁故のない家はないくらいであって、二十ヶ国の言葉がこの町で話されると言われている。そのはずである、この町にある伝道学校には二十数名の男女青年が、海外伝道に赴く準備をしているが、彼らは皆世界各国の宣教師の子女である、私は一夕彼らの会に招かれて懇談したが、彼らの生国を聞いて、皆世界の各方面より来ていることに驚いたのであった。

東南ドイツの片田舎、ヘルンフートの町外れ、チエツコスロバキヤの国境をめぐる山脈を遥か彼方に眺めて、今は広々と開拓せられた高原がある。その中央の小さな丘の上に望楼が立てられている、それが即ちフートベルグである。ここに昇って四方を見渡せば、これが世界教化の一大運動を巻き起こした一円の地、彼方には右にツィンツェンドルフ伯が祖母の下に育てられていたヘンネルスドルフの城址を眺め、やや左にツィンツェンドルフ伯の住まれた屋敷もほの見える。丘の裾にあたっては、モラビアン・ミッション一団の者の永久の憩いを示す墓地があって、ツィンツェンドルフ伯を始め、クリスチャン・ダビッドの墓標は、昔の美しい信仰生活を偲ばしめている。その墓地まで家族別でなく男女別であること、その墓石は政治家のも平民のも全く同型であることをもっても、この一団の心の態度が読まれるであろう。

 ヘルンフートという小さなドイツの町は、相互扶助の精神をもって町が形成されたのですが、それはツィンツェンドルフ伯を始め、クリスチャン・ダビッドなどが、主から与えられた志に従って形成された町であることがわかるのでないでしょうか。

 元日の午後起った能登半島地震は、またもや地震の恐ろしさを私たちに訴えてやまないものがあります。そんな被害にどう対処して行けば良いか漠然と考えていましたが、今朝の東京新聞の『本音のコラム』欄で、三木義一さんが「何の予兆か、お正月」と題して書かれていたことにハッとさせられました。それは地震の予知は難しいが、「被災された能登の人々は明日の我々でもあるのだ。能登の人々が、一刻も早く平凡な日常を取り戻せるように公的援助を惜しんではならない。そのために、僕らは税金を国や自治体に預けているのだから!」と書いておられました。いつもは必ずと言っていいほど、最後は駄洒落で閉じながら、やんわりと日本社会に警告を与えられる、元青学の学長さんが、租税法の専門家であるだけに、その提言には首肯せざるを得ないものがありました。本来「ヘルンフート」とは何の関係もない、三百年前の異国ドイツの話ですが、敢えて付け加えさせていただきました。

※私はこの海老澤さんの著書はちょうど日本が「いくさごろ(1935、6年)」というふうに侵略戦争に向かっていく時に、この本を書かれたのは、せめてものの抵抗の働きの一つではなかったかと思いました。その本の冒頭で海外進出は「戦争」「貿易」「海外宣教」と三つあるが、その中で最初の二つと海外宣教の違いに言及して「全く利害の問題をはなれ、利権獲得の企てなしに、与えるは受けるより幸いであるとして、神を与えキリストを与え、価なしに福音を与え、最後に自己を与えようというのが、海外伝道の精神であった」と書いておられました。

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(新約聖書 マルコの福音書16章15〜16節)

2024年1月3日水曜日

ツィンツェンドルフ伯(上)

 新年おめでとうございます。
新年早々嬉しいことがありました。実に小さなことなのですが、私はなぜか「ツィンツェンドルフ伯」のことが気がかりになっていたのです。

 そうしたら新年に入り、ご夫妻からLINEを通して、一通のメールが送られて来ました。そのメールにはみことばと併せて、ツィンツェンドルフ伯のことばが紹介されていたのです。それがその方のご許可を得て、今日上記のように転載させていただいたものです。ただここにはN.L.チンゼンドルフと書かれていました。ひょっとして私が知っているツィンツェンドルフ伯のことでないかも知れない。そして、私にはこんなに平易なことばで語られるのがツィンツェンドルフ伯なら、是非もっとそのことも確かめてみたいと思わされたのです。

 もう30年以上前でしょうか、教会に出席していた頃、古本で一冊の本を見つけました。その内容はツィンツェンドルフ伯の住んでいたヘルンフートの美しい村のならわしを記したものだったと記憶します。そのならわしとは夜回りが、「今は夜の何時か」と聞いて回るという内容だったと思います。「夜回り」と言えば、冬の寒い夜空を仰ぎながら、拍子木を叩いて「火の用心、御用心。戸締り用心、御用心。」と各家々を尋ね回ることしか経験していなかったのですが、この村では、キリスト者がいつも主の「再臨」を待ち焦がれていて、「今は夜の何時か」と問うて参るという、いかにも簡素な中にも、質朴な人々の日々の生業(なりわい)が記されていて大変好ましかったのを覚えているのです。その本は今日まで私の手元にあっては、その癖いつも何処かへ潜り込んで見えなくなってしまう不思議な本で、つい数日前にも確かこの目で見たものでした。

 それが年の初めの話として出て来たので大変びっくりし、第一、「チンゼンドルフ」なのか「ツィンツェンドルフ」なのか、はたして同一人物か知るためにもその本(実は児童向きの本ですが)がどうしても見たくなって、探すのですが、見つからないのです。雲隠れした状態でした。もう何回となく、書棚を隅から隅まで探すのですが、見つかりません。普段、そのような本を置く場所でないところまで探しても一向に埒(らち)が明かないのです。

 ところが意外なところに、その本ではないが、その児童書では物足りない、もっと詳しく書いた本が欲しいと思って、これは多分教会を出て集会に移ってから数年後、今から10数年前にやはり古本で見つけた『海外伝道物語 モラビアン兄弟団の事蹟』(海老澤亮著 基督教出版社刊行 昭和10年)が全く埃(ホコリ)を被(かぶ)った状態で出て来たのです。私ははやる心を抑えながら、その本を読み進めていき、また同時にネットでツィンツェンドルフ伯の姓名を詳しく調べたところ、まさに、Nicolaus Ludwig von ZinzendorfでN.L.チンゼンドルフは私が呼び慣れている「ツィンツェンドルフ伯」その人であることがわかりました。

 それだけでなく、不思議なことに二つの新しいことを気づかされたのです。今朝はそのうちの一つをご紹介したいと思います。私には尊敬するひと回り上の最年長のいとこで、今も健在で元気に過ごしている人がいます。ある意味で私の人生は、これは少しオーバーな表現になりますが、このいとこの姿を見て進路設計をして来たと言っても過言でありません。そのいとこが、私がキリストを信じたおり、そのお宅でたまたまそのことが話題になり、彼は私の狭量な信仰熱心の姿を戒める思いだったのでしょう。「キリスト教の宣教は下心があってのもので、そこへ行くと、仏教は何でも受け入れる、キリスト教より仏教の方がいいのじゃないか」と言われたのです。爾来、私は彼の言う「下心」説に納得できないまま、今日に至りました。

 ところが、この出て来た海老澤亮著の『海外伝道物語 モラビアン兄弟団の事蹟』の本をまだ頁を繰ることも間もないところに次のように記されていたのです。(同書3〜4頁)

当時はまだ海外伝道に志す者が極めて少なかった。新教において殊にそうであった。
羅馬教では既にその企てがあった。コロンバスはスペインから出て西巡で印度に往こうとし、バスコ・ダ・ガマという人はポルトガルから出て、東巡りで彼処に往こうとした。そして法王は彼らの発見したほどの土地は、みなその支配権のうちにあるものと考えた。

当時彼らの良心はそれらの土地がその所の住民のものであると考えるほどに鋭敏ではなかった。唯その住民が野蛮であるから、之を文化に導かねばならないとは考えた。それで法王は(今でもバチカン宮殿に残って居るといわれるが)一つの地図に、北極から南極まで、大西洋を境に直線を引いて、その西をスペインに、その東をポルトガルに与えると宣言した。唯条件はその発見する国々の住民に福音を伝えることであった。

これは随分乱暴な伝道方針であった。従って福音の使者が、度々侵略主義の手先と解されたのも無理はない。そしてそのような印象がつい最近まで世界の各国に言い伝えられたのは、真の宗教の使者にとって大変な迷惑であった。

 ここまでお読みいただければ、このくだりを読んだ私が心の中で快哉を叫んだ気持ちを分かっていただくのではないだろうか。年長のいとこが私の狭量な信仰を諭すために、私に痛打を浴びせかけたかに見える言葉は決していとこの誤解でなく、羅馬教、すなわちローマ・カトリック教のそのような伝道姿勢にあったのだと分かったからです。年長のいとこはローマ・カトリック教のことを言っていたのであって、それは私が信じた聖書に基づく信仰を理解してくれなかったことに起因するとは言え、あながちいとこの説は暴論ではないと思うことができたからです。積年のいとこに対する誤解が解けた思いで、いい新年を迎えられたなあーという思いでした。そしてそれだけでなく、私は年末、そのいとこのお嬢さん方(お顔も知らない間柄なのですが)と昨年の私のブログ『半可通の「柏木義円」紹介』が機縁で手紙をやり取りすることになりました。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/06/blog-post_13.html 
それだけでなく、昨年末のクリスマスの折り、このお嬢さんお二人が既に受洗しているキリスト者であることを初めて知ったのです。あれやこれやで意外な事実、しかも喜ばしい出来事に私は新年早々付き合わされております。

 明日はツィンツェンドルフ伯に関する、もう一つの大切な新しく発見したことをお伝えしたいです。

セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」(旧約聖書 イザヤ書21章11〜12節)

夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。(新約聖書 ローマ人への手紙13章12節)

2023年12月25日月曜日

MERRY CHRISTMAS

 今日は久しぶりに行きつけの歯医者さんに行きました。受付には美しい樅木をイメージした絵模様とともに、MERRY CHRISTMASの英文字が一際目立っていました。よく見ると、右側には、何やら英文が記されていました。大要次のような内容でした。

 悲しんだり怒ったりするのはやめましょう。微笑みと笑いに満たされましょう。だってサンタ・クロースがもうすぐやって来るんだから。世界中のすべての人がしあわせになるに違いありません。老いも若きもみんな同じ気持ちになれます。サンタ・クロースはすぐに来ます。

 まさしく、サンタさんのプレゼントを待ち焦がれ、ひとりのこどもは今まさにそのプレゼントを受けようとしています。満面に笑みを浮かべています。ちょうど今からほぼ40年前のワンシーンです。サンタに扮しているのは教会の牧師さんです。


 それからほぼ20年、上の写真は、幼稚園の会場を借りての、2005年子どもクリスマス会の写真です。子どもたちの前に立っているのはそれぞれ劇を演じた人々です。真ん中にヨセフ・マリヤ夫妻がいて、マリヤが赤ちゃんのイエス様を抱いています。そしてそのまわりに天使たちがいます。まさにクリスマスの再現です。照明が暗いのが残念ですが、みなさんが一体となってクリスマスを祝っています。


 そして、この写真が40年後の子どもクリスマス会、この23日に行なわれたクリスマス会の写真です。ZOOMでも見られるので、私はZOOMで参加し、家にいながら写真を撮りました。ちょうど、このときは子どもたちがハンドベルでクリスマスソングを披露していました。そのうち、やはり現場に行かなければと、急いで参加し、劇『舌切り雀』などを鑑賞し、主イエス様の御降誕の意味を味わうことができました。もちろん参加した人々はこどもだけでなく大人もふくめてプレゼントをもらってしあわせな気持ちに会場を散ずることができました。

 さて、クリスマスってどのように過ごせばいいのでしょう。スポルジョンは次のように語っています。大いに耳を傾け、主なる神様が、人類にくださった最大のプレゼント・イエス様をよりよく知りたいものです。

きょうベツレヘムに行き、驚く羊飼い、礼拝せる博士らとともに、ユダヤ人の王として生まれたまいしかたにお会いしようではないか。それは私たちが信仰により彼にあって富を求め、「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた」と歌い得るがためである。イエスは受肉されたエホバであり、われらの主、われらの神であり、さらにわれらの長兄であり友である。私たちは彼をあがめ、ほめたたえようではないか。

まず注意したいことは、彼が奇跡によって身ごもられたことであり他に例がない。すなわちおとめが身ごもって男の子を産んだというのである。最初の約束は「女のすえ」であり、男のすえではなかった。はじめに女が楽園喪失の罪を招いたため、今は女が楽園の回復者を迎え入れたのである。私たちの救い主は真に人であられたが、同時に神の御子であられた。聖なる幼な子の前にうやうやしく頭を下げようではないか。彼はその罪なきことによって、人間の喪失したいにしえの栄光を回復された。私たちは彼が私たちのうちに栄光の望みとなられるように祈ろうではないか。

また彼の両親がいやしき身分であったことを見落としてはならぬ。彼の母は「おとめ」と記されているのみで、女王とも女預言者とも、大金持ちの主婦であったとも記されてはいない。いかにも彼女の血管には王族の血が流れていた。また愚かな教育なき女でもなかった。なぜなら彼女は実に巧みに神をほめる歌を歌うことができたからである。しかし彼女の地位はなんとみすぼらしく、その婚約者はなんと貧しく、新しき王の誕生のための設備はなんと貧弱であったことか。

インマヌエルーー神は私たちの性格の中に、悲哀の中に、生涯の事業の中に、受くべき懲罰の中に、また私たちの墓の中に共にいまし、現在も私たちと共にいたもう。否、私たちは、復活に、昇天に、勝利に、そして輝かしき再臨において彼と共にいるのである。

(『朝ごとに』C.H.スポルジョン著360頁より引用)

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(新約聖書 ルカの福音書2章11節)

「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む、その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(新約聖書 マタイの福音書1章23節)

2023年12月21日木曜日

天と地と人を写す写真の力

 今日は久しぶりに都心に出た。もっとも11月の勤労感謝の祝日にはいとこと会食のため、杉並に出かけたのだが・・・。でも都心という意識はなかった。それに比べると、「京橋」は都心に違いない。コロナ前は都心を通っては、吉祥寺まで週一のペースで足繁く通っていたのだが、ここ三、四年すっかり足が遠のいていた。そのうちに80歳という節目もいつしか通り越してしまった。あれやこれやでいささか都心行きは不安であった。

 目的は、知人から左の写真展の案内をいただいたので、出かけることにした。ちょうど開催期間は、私の帰省時期と重なり、出かけるとしたら、最終日の今日しかなかった。午後出かけることにして、午前中は賀状作りに精を出し、のんびり過ごしていたが、最終日の終了時間が午後2時となっていることに途中で気づき、少々慌てた。行かないとなると、折角案内状をくださった方に申し訳ないという思いが先立った。昼食もそこそこに家を出たが、電車を乗り継いで1時半には京橋駅に着いた。知人もおられるはずだと思うが最初は気がつかなかった。それよりは一枚一枚の「写真」のすばらしさに魅せられた。

 目は口ほどに物を言う、と言うが、「写真」という媒体がこんなにも多くのことを伝えてくれるとは思いもしなかった。日頃、ブログで写真を載せているが、その写真はあくまでも私の場合「飾り」に過ぎない。ところがこの「中国大陸を行く」という写真展はそれぞれの写真が語りかけてくるのだ。全体重をかけられ、それをどうこちらが反応すれば良いか心を探られるのだ。「来て良かった」と思った。

 写真展には、私のような鑑賞者がいることは当然なのだが、最終日とあって、写真を出しておられるカメラマンの方々もおられることに少しずつ気づき始めた。そのうちに懐かしい知人もおられることがわかった。早速駆け寄り挨拶したが、互いに握手しただけで終わった。あとでわかったが、その時、私は帽子を被り、マスクをしているので、知人には私が誰だかわからなかったようだ。気づくや、彼の出品作品の前で写真を撮ったりし、お互いにコロナ以来の再会を喜び合った。そして共通の友人が朝一番でお見えになっていたことも知ることになった。このことも不思議であった。

 鑑賞し終わって、帰ろうとしたら、主催者の方であろうか、その知人に「折角だから、この写真集をあげたら」と言っておられるようだった。見るとすごく立派な写真集だった。私は「お金を」と言ったが、「まあ、いいから。どっちみち見ていただくのが目的なのだから。それよりも荷物になるが、いい?」というようなことを言われたが、私は遠慮せずその本をいただいて帰りの途に着いた。『秘境探訪(中国少数民族地帯を行く)』(藍健二郎著)がその本であった。

 その後、私はその本が大判(120頁)なので、バックにも入れられず、むき出し状態のまま抱えながらの移動となった。そして、都内に行くときの長年の習慣で、私の足は古本屋へと自然に向かっていた。さすがに神保町はやめにして、時間も遅いので、江東区の南砂町の行きつけの古本屋だけにしたが、本を持って店内に立ち、掘り出し物を探すのには若干気が引けた(万引きしたと思われはしないかと思い)。ところで掘り出し物はこれと言ってなかったが、コロナ前にすでに目にしていた本が未だにあることを確かめて、内心安心した。機会があれば買えるからと思ったからだ。さて時間も経ち、寒さが身に染みてきたので、その店を出て、家路を急ぐことにした。その代わりに、帰りの車中で、ゆっくりその待望の写真集を手にすることができた。

 そして、圧倒された。たとえば、昨日の我がブログの「初雪の我が思い」がいっぺんに吹き飛んでしまう思いがした。すでにして昨晩は北国の豪雪の様を知るにつれ、我が思いは甘いと感ぜざるを得なくされていたのだが、もっと根底的な驚きであった。すなわち、自然の雄大さ、雪を抱く峨々たる山脈の鋭峰が写真集で表現されていたからである。改めて創造主のみわざに目を見張らされた。

 さらに家に帰って落ち着いて鑑賞すると、今まで気づかなかったことに次々と目覚めさせられていく思いがした。写真集の帯には「卒寿の輝き」とあった。1930年生まれの藍さんのいのちをかけた写真集であることは次の帯文章でも伺える。

中国少数民族地帯と聞くと「神秘的」「未開の地」「経済が遅れている」と連想するのだろう それはそれで言えているかもしれない しかし、そこは別の意味で未知の世界であり、神秘的で、憧れの地なのだ 藍さんは80歳を超える年齢で四輪駆動車で普通の人たちがなかなか行かない秘境で合計7回、距離にして約二万キロもの旅を完成させた 藍さんの精神・意志・生き様はみんなにパワーを与えるに違いない!!!

 「老いて盛んなり」とは中々常人には及び難い境地だが、私はこの作品集を前にして、一方なぜか信仰者の歩みを同時に思うた。一つは以前ご紹介した「田藤清風」氏の生き様である。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/08/blog-post_29.html あと一つはモーセである。

こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。モーセが死んだときは120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。(旧約聖書 申命記34章5節〜7節)

初めに、神が天と地を創造した。(旧約聖書 創世記1章1節)

2023年12月20日水曜日

初雪の我が思い

初雪に 寒さものかは 千両
 二、三日故郷に帰っていた。月曜日の朝、気づいたら庭先に雪が舞い降りていた。いよいよ冬の到来である。帰り際、伊吹山はもちろんのこと、霊仙山(りょうぜんざん)など近くの山々もうっすらと雪化粧をしていたが、東海道線の彦根・関ヶ原間を東京方面に一歩、離れると雪は見られなかった。繁くこのあたりを旅する者には、今も不思議で、芭蕉に「おりおりに 伊吹を見ての 冬ごもり」の句があるほどである。寺田寅彦がそれにちなんだ名随筆を残している。地形と気流の妙なる組み合わせを明治時代の彦根測候所のデータをもとに分析した文章である。

 今回帰省したのは日曜日の近江八幡での礼拝に出席するためであった。礼拝は喜びの時であるし、すばらしいし、いつもその「賛美」やそこで読まれる「みことば」や「祈り」に大いに励まされる。そして、遠くから来て良かったと思わされる。ところが、そのあとが私にとっていつも苦痛になる。礼拝に続いて、福音集会というのがあり、そこで聖書のことばから示されたことを語るひとときがあるからである。普通それは「メッセージ」と言われているものなのだが、その当番に当たっていたからだ。私は、今年一年そのご奉仕に悩み続けてきた。そのメッセージが毎回、中々自分の思ったように、できないのだ。その日は近づく。時間は待ってくれない、どう語っていいか悩みに悩む。ただ座右には聖書があるから、ほんとうはそんなに困るはずがないのだが・・・。今回このご奉仕を終え、一年間のメッセージの機会はやっと終わった。今ホッとしている。

 そんな気持ちにはまだなっていず、日曜日のメッセージを、依然として、ああ語れば良かった、こう語れば良かったといつもながらの後悔をしていた月曜の朝、床から起きて見たのが、この雪景色であった。千両の赤や黄色の実はいつも冬の間、庭先を彩ってくれる。灯籠や石ばかりの庭で風情もあったものではない。小さい頃は、それでも梅もあり、つつじ、椿とそれなりに季節の移り変わりを感じさせてくれた。その庭に初雪が舞い降りていた。我が思いを包むかのように。残念ながら、覆い尽くすまでには至らなかったのだが・・・

 こちらに帰ってきて、自ら録音したものをもう一度聞き書きして、自己満足ではあるが、以前よりは「福音」をストレートに伝えられるようになってきているのを知って少し安心した。新しい年は、もっと聖書に親しもう、イエス様を心から愛し従おうと今思いを新たにしているところである。ちなみに近江八幡のメッセージの題名は「敬虔なる服従」で引用聖句は1ヨハネ2:15〜17で、結びの聖句は1テモテ3:16、4:7〜8であった。

 ところで、先ほど、一年前のブログ記事https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/12/blog-post_22.htmlを見て驚いた。意味の不鮮明な文字を冒頭に書いていたからである。「嫉妬に燃えた不仁慈らが見出すことの出来なかったイエスの死の尊さを、偏見のないこの異邦人は見出し得たのである」という文章であるが、これでは読者は何のことかわからないはずである。「祭司長」と書くべきところを「不仁慈」と書いていて(パソコンの変換ミスであろうが)一年間も乙に澄ましていたからである。一年後にこの誤植を見出すとは、過誤があるのが私の常であると思うが、改めて、いかにも我が人生を集約しているかの思いにもさせられている。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、主の御口が語られた。(旧約聖書 イザヤ書1:18〜20)

2023年12月1日金曜日

生きとし生けるものの願い

叢(くさむら)に イナゴ見つける のどかさよ
 あっという間に、師走に入った。熱い夏が長く、秋に入ったはいいが、例年よりははるかに短く、瞬く間に、北国の大雪情報に接する季節となった。月曜日(11/27)、川縁を散歩している時に、写真のいなごを見つけた。生きとし生けるものを発見すると何やら、ほっとする。「ああ、君もがんばっているんだね」と声をかけたくなる。

 そう言えば、昨今、古利根川には、川面に魚が飛び跳ねる姿をよく散見する。水鳥は鴨が「ピヨーピヨー」と声立てては、隊をなしながら、動き回っている。中には潜る連中もいる。いっぽう、鷺(さぎ)は悠然と立ち構えているようだが、あれは獲物を虎視眈々と狙っているのだろう。かと思うと「しらこばと」がこれみよがしに、川面をかすめては舞い上がり、優雅に飛び交っている。カラスも負けじとばかり、川中に入って行水をしている。我もまた、人の子として、この自然の豊かさを味わわせていただいている。

 こうしている最中にもウクライナで、パレスチナで戦争は絶えず、気候変動の影響は世界の最貧国を襲っていると言う。ひとときも安閑として過ごせぬ我が地球の姿を思う。それだけでなく、まわりには病で苦しんでいる同胞がたくさんおられる。いや我が健康体にも老いの衰えは隠しようがない。師走は、またクリスマスの季節でもある。2000年前に私たちの罪を贖(あがな)うために、神の子イエスが人となって地に降られたことを思う。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。・・・私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(新約聖書 ローマ人への手紙8章18節、22〜23節)

2023年11月28日火曜日

近況報告

冬間近 青緑朱 天地人(※) 
 40日間弱、ブログから遠ざかってしまった。イスラエルとハマスとの戦闘をどう考えていいのか、自分のうちで煩悶があり、結論の出ないまま、今に至っている。その間、実に様々な本に接した。読書体験としては近来にない多読になった。そこで考えたことをブログに書き留めたいとは思うのだが、それも気が進まずにいる。自分の理解力が追いつかず、もっと若い時にしっかり学んでいれば良かったのにと思うばかりである。

 けれども、思い切ってどんな本を読んだのか、思い出すままに書き留めてみる。先ずは、田中ひかるさんの『「毒婦」和歌山カレー事件20年目の真実』(ビジネス社)だった。田中ひかるさんの目を信じているだけに、私の偏見を改めて糾された思いがした。

 そのうちに袴田巌さんを巡る本を数冊読んだ。特に感銘を受けたのは『裁かれるのは我なり(袴田事件主任裁判官の39年目の真実)』(山平重樹著双葉社)と『袴田事件を裁いた男(無罪を確信しながらも死刑判決文を書いた元判事の転落と再生の43年)』(尾形誠規著朝日新聞出版)という二著だった。ある意味で対照的とも言えるこの二著はものごとを知ることのむつかしさ、人の姿の多面性を味わわされた。

 そして、とどのつまり『主よいつまでですか』(袴田巌著新教出版社)という獄中で書かれた文章を主体とする本に辿り着いた。袴田さんがどのようにして主イエス・キリストの救いを受け入れられているのかが知りたかったからである。(昨日の東京新聞朝刊にも、無罪へ「どこまでも勝つ戦い」と題する記事が掲載されていた。それにしても、どうしてこんなに冤罪が多いのか気になる。)

 一方、私は末盛千枝子さんの書かれた『「私」を受け容れて生きる(父と母の娘として)』(新潮社)を読む機会が与えられていた。不思議なことに、袴田さんも末盛さんもカトリック信仰の持ち主であった。その真実な生き方に共鳴し、共感するところがあったが、やはり私には今一歩両手をあげて喜べないところがあった。

 そうかと思うと、『嬉遊曲、鳴りやまず』(中丸美絵著 新潮社)という実に華麗な個性的な生き方を身につけて生涯を歩んだ斎藤秀雄も知ることになった。この方のバックボーンの一つにはやはりキリスト者の大きな影響があった。しかし、私にはこの方の歩みにもそのまま同調するわけにはいかなかった。

 それぞれ私たちは個々の人生を歩むのだから、私がこのように考えるのも当然と言えば当然と言えるのでないかと思う。そうした読書経験に、水をさすかのように起こっているのが、ウクライナとロシアの戦争を凌駕するかの勢いで、流れ込んで来て固唾を飲んで今も見守るしかないイスラエルとハマスの戦闘であった。

 こうとなってはもはや猶予はない。私は手当たり次第、以下の本などを渉猟せざるを得なくなった。『イスラエル』(臼杵陽著 岩波新書)『ライフ世界の大都市(3)』(タイムライフブックス)『物語 エルサレムの歴史(旧約聖書以前からパレスチナ和平まで)』(笈川博一著 中公新書)『地図で見るイスラエルハンドブック』(フレデリック・アンセル著鳥取絹子訳 原書房)『パレスチナを知るための60章』(臼杵陽・鈴木啓之編著 明石書店)。

 しかし、今もってイスラエルとハマスの戦闘の行く末を理解できないでいる。そんな私だが、今の世界、今の自分の姿を照射する確かなことばは以下に掲げる聖書のことば、これしかないと思っている。どのようにしてこのことばと現実に折り合いをつけるのか、多読の読書経験とともにこれからも考えていきたいと思っている。

※昨日、古利根川を散策していたら、鉄橋近くに、数人の方がそれぞれカメラを背に待ち構えておられた。そのうちに列車が右方向からあらわれた。東武野田線としては、いつも見慣れない朱色の車体であった。思わず私もiphoneで遠巻きながら仲間に加わった。「さて」と、その思いを俳句にと思ったが、絵心もなく意味のない駄句である。諒とせられたい。その後、迫田さんから「冬ぬくし」の季語を教えていただいた。したがって、「冬ぬくし 青緑朱 天地人」なら、少し「我が心」に近づいた?)

兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうしてイスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。(新約聖書 ローマ人への手紙11章25節〜29節)