2022年12月20日火曜日

十字架(6)百人隊長 付ヨハネの証言

イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。(マルコ15・39)

 嫉妬に燃えた祭司長らが見出すことの出来なかったイエスの死の尊さを、偏見のないこの異邦人は見出し得たのである。この百人隊長はイエスが自ら神の子だと承認したことが祭司長らに罪と認められた顛末を聞いていたであろう。

 さすれば今眼前に見せつけられた神々しいイエスの死を見て、思わず『実に神の子だと叫んだ』のであろう。単純な軍人の心はかえって真相を直感し信仰に入りやすいものと見えて、カペナウムの百人隊長(マタイ伝8・5〜13 )はその『篤き信仰』をイエスに賞賛され、カイザリヤの百人隊長(使徒行伝10章)コルネリオは「『ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた』人であって、ついにペテロからバプテスマを受けた。

 彼らは異邦人の信者の初穂と言ってもよいであろう。パウロが異邦人の使徒となる前にイエスは既に異邦人を引きつけておられた。

祈祷
主よ、私たちの目より偏見を取り除いてください。私たちの目より罪の色眼鏡を取り除いてください。而して御姿をどまるのままに拝することができますように。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著354頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌205https://www.youtube.com/watch?v=9Ln7301-b70 

クレッツマンは昨日に引き続き、この個所について次のように語る。

 この聖なる記者、マルコは、イエスの死が百人隊長にどんな影響を及ぼしたかを、ここで、忘れずに語っている。この百人隊長は十字架の下に立っていたが、法廷での裁判にも、おそらく同席しただろうし、多分、園でイエスが捕えられるところまで目撃した者だったに違いない。確かに、彼が見たり、聞いたりしたことは彼に悔い改めをもたらすに十分なものだった。その胸の中を彼は率直に隠さず現わして、イエスこそ正しい人であり、神の子であると告白した。実に素晴らしい悔い改め、驚くべき告白ではないか。私たちは一人のぶこつな兵卒の口から、十字架の上で死んだおかたの、人となった神としての姿について、最初に公然と語られた証の言葉を聞くのだ。

一方、David Smithの『The Days of His Flesh』は全福音書を手掛かりに主イエス様の死に至るまでの一部始終を次のように描写する。私としては転写するだに、顔を背けたくなることの連続だが、まさにこれこそ『The Days』であり、日高氏の名訳『受肉者耶蘇』の真骨頂と言える。

21 百人隊長の証言

 イエスの死と起こった事実とが傍観者、殊に兵卒の指揮を司っていた百人隊長をして驚駭と畏怖とに撃たれしめた。彼はプレトリアムの審問の当時傍に在ったと思われる。ピラトが繰り返してその無罪を主張するのを聞き、また神の子なりとのイエスの宣言に彼が狼狽したのを目撃していた。これらの連想が今この恐ろしい時機にことごとく心に回転して来て、彼は『 この方はまことに神の子であった』〈ルカ23・47、マタイ27・54、マルコ15・39〉と叫んだ。イエスに対しては何らの悪感を抱かず、ただ好奇心から十字架の刑を見んとしてカルバリに集まって来た群衆もまた深く感激した。地震に脅迫せられ、威風に打たれた彼らはその胸を撃ちつつそこを出て市内へ思い思いに退散した。

22 脛を折る

 イエスが息を引き取られたのは三時であって、日は安息日の夕へと傾いて行った。ローマの習慣によれば、慈悲に囚徒の死期を早める場合の他は通常血の流失と飢餓とに従って静かに死ぬか、あるいは野獣や猛禽の餌を漁ってこれを寸断するかに任せておくのが普通であった。しかしユダヤの律法〈申命記21・23〉では夜を徹して十字架に掛けるを禁じ、特にイエスの場合は翌日が過ぎ越しの祝いの安息日に相当するのでなおこれを許すことが出来なかった。故にピラトは有司の要求によって三人の罪人を急に殺すべきを命じ、日の暮れざるうちに十字架より取り卸せと命じた。兵卒は重い木槌をもって撲殺するいわゆる『介錯の一撃』を加えた。彼らは二人の盗賊にはこの野蛮な手術を施したが、イエスの順に及んですでに事切れておられるのを見て手を控えた。しかしその中の一人で、伝説ではロンギナスという兵卒は、イエスが実際死なれたかどうかを確かめるためにその脇腹に槍を刺した。しかるに不思議な事実が起こった。すなわち槍を抜くと同時に血と水とが迸り出たのであった。

23 血と水

 聖ヨハネのみがこの事件を叙述しているのであって、彼には全く不可思議に考えられたに相違はない。実際には自ら目撃した彼にして始めて斯く厳粛に確言することを得るのであった。しかしこれは決して受け取り難いことではない。医学上から福音記者の証言を確かなりと認め得られるのである。而して我らの恩寵溢れる主の死と、その苦難の深刻なりし所以を幾分悟るに一道の光明を与える現象であった。イエスは文字のままに心臓破裂ーーすなわち『心の苦悶に心臓の破裂を来たす』ーーをもって死なれたのであった。イエスの天父より捨てられ給うたその恐るべき時節に、心臓は、悲痛と共に破裂するばかりに膨張した。而して血は『その膨大した心臓中に迸入して、同時に溢血症に普通見る如く二様の状態に分離したり、すなわち(一)血餅すなわち赤色凝塊と(二)水様血漿の二様となれり』。その膨張した心臓を下より刺したるがため『血の凝塊と水様血漿に分離したる内在物溢れ出てあたかも「ただちに血と水が出て来た」との福音の記事に報ずる適切なる状態を呈せるものなり』〈以上は医学博士ウイリアム、ストラウド並びにジェイ・ワイ・シンプソン医科大学教授の説〉)

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