2022年12月7日水曜日

大祭司の前での審問(転)

イエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(マルコ14:62)

    ダニエル書七章のメシヤに関する預言をそのまま御自身にあてたのであるから、その解釈は祭司らにはもっとも明瞭である。イエスは度々これと同じような言葉をもって弟子らに御再臨の予告をなさったが、ここでこれを言明されたのは特に面白い。大祭司は今審判者の位置に立って、イエスに死刑を宣している。が御再臨の時にはその位置が転倒して、イエスが審判の位置に立って彼らを審判し給うとの意味が言外に仄めかされてあることを彼らは気づかなかったらしい。罪の途に焦るときは大真理にぶつかっても耳に入らず目に見えない。

祈祷

神よ、私たちを罪の焦燥より、救い給え。たとい自ら真理たる能わずとも、これに直面したる時、これを見ることを得る余裕を与え給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著341頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 以下はクレッツマンの『聖書の黙想』の昨日の続きである。

    最後に、いくらか重要な意味が持てそうな訴えを用意しているように見える二人の男が現われた。彼らはイエスの言葉を引き合いに出した。それはイエスの伝道生活の初めの頃のことで、その時、イエスは自身の体を意味する「この宮」をこわして、三日の中に建てて見せると公言してユダヤ人に挑んだというのである。しかし、この男たちはみじめにも、イエスがエルサレムの聖なる宮を破壊するように嚇したとか、命じたとかいう非難に、言葉をしめし合わせることに失敗した。

    イエスは大祭司から返答を要求された時でさえも、気高く、汚れない沈黙をじっと守られて、このつじつまの合わないたどたどしい偽証に応じらたので、議会の議長は全く絶望して、憤りのあまり、イエスに厳かな誓いをたてさせ、次の質問に答えるように命じた。

「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか」

    これはまた問題が別であった。この場合、沈黙を守ることは問いを否定するに等しかった。すばやく、しかも、はっきりとイエスは断言された。

「わたしはそれである」。

    私たちの救いが、すべてかけられている真理を、このように厳かに証してくださったことに対して、神に感謝しなければならない。ところで、主は更に意味深い言葉を加えて次のように語られた。ーー神の議会の議事が遂行されなければならない以上、今は、あなたがたの裁きに従っているが、やがて、私自身の裁きの前にあなたがたが立つことになる時が来るだろう。その時、私は「力ある方の右の座に着き天の雲に乗って来る」と。

    これはごまかしてかたづけてしまう訳にはゆかないことだった。主の敵たちは口にあらわせない恐怖に包まれて、生きている者と死んだ者の裁きについて語られたこれらの言葉が成就されるのを見るだろう。この言葉を神の冒瀆と呼び、主を死罪に値すると断じて、不当にも憤った大祭司や他の議員たちのものものしい様子は空しいものだったのである。私たちは、これに続く次のような場面を、むしろ知りたくない気持ちだ。)

0 件のコメント:

コメントを投稿